本日、午前11時から、言葉の森の夏合宿が始まりました。
1回目の参加者は、小3から小5の男女計9名。このあと、2回目、3回目があります。
最初は、ログハウスの中を探検に。
ログハウス前の芝生の上で昼ごはん(サンジェルマンのパン)を食べました。
そのときに、みんなのペンネームを決めました。
あやぴ、ちーちゃん、きったー、はる、つっつー、めえちゃん、ゆうゆう、ながのけん、ふうちゃん。
それから、歩いて教室に戻り、途中暑いのでアイスを買いました。
教室に帰ったらプール。
屋上に設置した直径360m、深さ60cmのプールでシュノーケルの練習をしました。
プールの中には、6個のスイカが浮いていましたが、みんながよろこんで遊んでいるうちに、次々とヒビ割れに(笑)。
そのうちに、ペットボトルの空き瓶で作った水鉄砲で大騒ぎ。
ひとしきり遊んだあと、スイカ割りをしました。
人のスイカに水をかけて、「水スイカだ」と喜んでいる子がいました。
その後、教室に入り、着替えてから、勉強と読書。
みんな、驚くほど真面目に勉強や読書をしていました。
勉強が終わったら、夕食のカレーライスの準備。
みんな、ちょっと切りにくいナイフで一生懸命手伝ってくれました。
今回は、お肉の入っていない健康カレー。
ジャガイモ、たまねぎ、ニンジンのほかに、えのき、しめじ、ホタテ、ナス、トマト、タコと具だくさんの鍋に、バーモント中辛をたっぷり入れてぐつぐつと。
カレーが煮えるまでの間に、翌日のバーベキューの材料を買いに。
それでもまだ時間があるので、ついでにお風呂の王様に。
お風呂に行くと、男の子2人がすぐ、「先生、カギ持ってて。自分で持ってるとなくすから」「だめ」「えー」というやりとりがあって、そのうちのひとりがやはり、カギを紛失(笑)。
でも、何とか見つかりセーフでした。
教室に帰ると、カレーが大量にできていました。
机を並べて会議室風にカレーを食べたあと、一休みしてまた勉強と読書。
みんな、本当に真面目によくやっています。
教室には、ペット犬ゆめがいますが、そのゆめが大人気。ゆめは迷惑そうにみんなに抱かれていました。
オカメインコのバノと、文鳥のサクも登場。大人気と言いたいところですが、すぐ手から飛んでしまうので、あまり人気がありませんでした。
そのあと、午後8時半から、翌日の車の中の出し物の俳句の練習をしました。
みんな、意外とうまくできて大笑い。
9時に教室の中にテントを張って就寝。
とは言っても、まだ喋っている男の子が数人。
そのうち、おとなしくなると思いますが。
ビデオをところどころで撮ってきたので、あとで参加者の保護者限定でアップする予定です。
言葉の森の音読の学習は、音読というものがブームになる何年も前から行われていました。
当時、音読を勉強に取り入れているようなところは、学校でも塾でも全くと言っていいほどなく、そのために音読の意義を生徒や保護者に説明すること自体が大変でした。
その後、音読がブームになり、いろいろなところで音読の勉強をするようになりましたが、なぜ音読が役に立つかということはよくわかっていないようです。
そのため、音読の方法についても大きな誤解があります。
先日保護者の方から聞いたことですが、「学校の宿題の音読で、一言一句間違えないように正確に読む」ということを言われているということでした。
言葉の森の音読は、これとは正反対です。「読み方がどんなに下手でも、間違っていても、やる気なさそうに読んでも、小さい声で読んでも、一切注意せず、いつも、『読むのが上手になってきたね』と褒める」という方法です。
正確に読むことを要求され、正しく読むように注意されて音読している子は、音読が苦手になります。だから、音読の勉強自体を親の前ですることを嫌がるようになります。だから、結局、音読という勉強が続かなくなるのです。
どんなに間違った読み方や下手な読み方をしても、いつも、『読むのが上手になってきたね』と褒められている子は、音読が上手になります。不思議なことですが、褒めていれば自然に上手になり、注意していればその反対に自然に下手になっていくのです。
なぜ注意がいけないかというと、そこには、音読以前の問題があるからなのです。
音読の仕方が下手で注意される子は、音読が下手なのではありません。音読以前の日本語の力が不足しているのです。その日本語の力は、日本語の生活習慣の中で自然に育ってきたものです。勉強ができないのではなく、勉強以前の日本語力が不足しているのです。
大人は、つい表面しか見ないので、下手な音読という表面を直せば、中身もすぐ直るように考えがちですが、そうではありません。表面をいくら直しても、中身は直りません。だから、一度注意したことを、二度も三度も注意するようになります。すると、ほとんどの場合、二度目か三度目あたりから注意ではなく叱責になってくるのです。
子供も、動物も、楽しいことが大好きです。それが、生命の本来の姿です。苦しいことに耐えることが好きだという感覚は、もっと大きくなり、何かに挑戦するようになってから自然に出てくるものです。
楽しいことは、言われなくても自然にするようになり、苦しいことは何度も言われてやっとしぶしぶするようになります。そんな苦しい勉強を、親も子も苦虫をかみつぶしたように続けている家庭が多いのです。
子供が小学校2年生のころまでは、親の言うことをよく聞きます。それは、親の言うことを聞かなければ、食べていけないからです。小さい子は、親の言うことが世界のほとんどすべてですから、本能的に親の言うことを素直に聞くのです。親の言っていることが正しいから聞くのではなく、子供が小さいから親の言うことを聞いているのです。
その時期に、子供が本当は嫌がっていることを無理にやらせつづけていると、やがて子供が自立できる年齢になったときに、親に反発するようになります。だから、例えば、小学校低学年のときに注意されながら音読を続けていた子は、学年が上がり、中学年や高学年になると、どんなに言っても親の前での音読をしないようになります。
逆に、低学年のときに、どんな下手な読み方をしても褒められていた子は、中学年や高学年になっても音読を嫌がりません。だから、結局学年が上がるにつれて、何も注意していないのに、音読が上手になっていくのです。
よく、先生に、「もっと注意してください」と言われる保護者の方がいます。注意することの中には、注意すればすぐに直ることと、注意してもなかなか直らないことがあります。
注意してすぐに直ることは、直るだけの能力が伴っていることです。例えば、句読点の付け方などは、大人であればわずか数分で理解してできるようになります。しかし、小学生には、何度も言ってやっと理解できるような難しい勉強です。
音読や読書や作文という勉強は、その表面の勉強の背後に、もっと大きな日本語の生活習慣があります。だから、勉強の基本は、注意することではなく、いつも明るく褒めて、その一方で、毎日の音読と対話と読書を続けていくことなのです。