勉強とは、もともと難しいものではありません。誰でも、多少の早い遅い、得意不得意の違いはあっても、同じようにできるようになるものです。それが、今の教育でそうなっていないのは、先生が、先生のペースで教え、先生のペースでテストをするからです。先生のペースに合わせられる子は成績がよく、合わせられない子は成績が悪くなります。
問題は、子供が学ぶのではなく、先生が教えることが教育の中心になっているところにあります。だから、逆に、先生のペースより先に進みたいと思っている子も、先生のペースに合わせざるを得ません。つまり、優れた子を作り出すことができず、劣った子を作り出さざるを得ないのが、現代の「教える教育」なのです。
言葉の森では、このような「教える教育」ではなく、自学自習形式の寺子屋教育を実力をつけるための本質的な教育として進めていきたいと思っています。また、それと並行して、これまで行ってきた作文を中心とした創造的な教育を更に進めていきます。本質的な教育と、創造的な教育をセットで教えていくがこれからの展望です。
創造的な教育の中身は、構成作文、プレゼン作文発表、森リン採点、小中学生の問題集読書と親子の対話、高校生以上の難読、幼児期からの対話式作文教育などです。
そして、寺子屋教育に参加する生徒が、自然との触れ合いや友達との触れ合いの中で成長するように、自然合宿教室も企画していきたいと思っています。また、通学の寺子屋教室に時間的距離的に参加しにくい子のために、googleハングアウトとskypeで、自宅でできる寺子屋オンエアの体制を用意していきたいと思っています。
この作文創造教育、自学自習寺子屋教育、自然合宿教育、自宅オンエア教育を総合して、これからは、言葉の森の教育と呼んでいくようになると思います。
自学自習の教育とは、1冊の基本となる参考書又は問題集を、音読、暗唱、反復によって百パーセント自分のものにするという勉強です。国語であれば読書と問題集読書、算数数学であれば1冊の問題集を解法ごと自分のものにする勉強、英語であれば1冊の教科書の暗唱と暗写です。こういう勉強で、国語・算数数学・英語の基本的な実力はつきます。
ただし、現在の受験勉強は、実力の勝負ではなく、差をつける競争に勝つための勝負ですから、受験期には独自に1年間集中して受験に対応した勉強に取り組む必要があります。しかし、受験勉強を前倒しして取り組む必要はありません。むしろ、前倒しによって、遊び、読書、じっくり取り組む勉強などの時間がとれなくなるマイナスの方が大きいのです。そして、そのつけは、かなりあとになってからやってきます。
しかし、受験期の1年間の集中的な勉強を自分の工夫で取り組めるのは、高校3年生の年齢になってからです。小学6年生や中学3年生のうちは、自分の工夫で受験勉強に取り組むことはまずできないので、受験のプロの家庭教師に頼むか、それが無理なら父母が志望校の過去問を分析して取り組むという勉強法になります。
しかし、これからは、そういう受験勉強自体が旧時代のものになっていくと思います。
受験勉強が旧時代の勉強だと思うようになったのは、日本の最高学府と呼ばれる大学を卒業して社会の重要なはずの役職についている人たちが、あまりものを考える力がないらしいということを、何度も見てきたからです。若い人ほどそういう傾向が強いというのは、現在の受験勉強が、本質を忘れた小手先のアクロバット的なものになっているからではないかと思います。
さて、言葉の森では、この、作文、自習、合宿、オンエアの教育をノウハウ化して、将来、森林プロジェクトや直営の教室で全国に広げていきたいと思っています。
更に、この日本的な教育の方法を、日本語、日本文化の教育とセットにして、世界に広げていきたいと思っています。
このようにして、旧社会での教育を担いつつ、これからの新社会の教育を準備していきたいと思っているのです。
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現代は、時代の変わり目です。かつての貴族階級が武士階級に取って代わられたような、あるいは、武士階級が市民階級に取って代わられたような、大きな時代的変化があったときと同じ状況にあります。なぜなら、社会の基礎となるシステムがあちこちで行き詰まりを見せているからです。今は、旧社会から新社会への大きな変化が起きる前夜だと言ってもよいでしょう。
旧社会は、これから来るさまざまな荒波の中で、次々に崩れていくでしょう。その崩壊の前兆が、今起きているさまざまな混乱だとも言えます。経済破綻、暴動や戦争、パンデミック、自然災害など、人類が直面しているいくつもの困難と入れ替わるように、新社会への芽が今あちこちで生まれています。それは、例えば、保江邦夫さん、木内鶴彦さん、木村秋則さん、安保徹さん、秋山佳胤(よしたね)さんなどの本に表れている世界です。
では、このような新旧の入れ替わりの社会の中で、私たちはどのような行動を取っていけばよいのでしょうか。
それは、旧社会での弱肉強食の競争に勝つ一方で、新社会の競争ではなく創造の、互いに与え合う社会の準備をすることです。
言葉の森は、その新社会への取組を教育の場で行っていきたいと思っています。
しかし、新社会に向けての取り組みは、現代の社会ではまだ形にはなりにくいものです。だから、当面は、今の社会の必要性に対応した取り組みをしていく必要があります。
今の社会への対応の特徴をひとことで言えば、デフレへの対応です。あらゆるものが低価格化に向かう中で、品質を下げたり、どこかにしわ寄せを向けたりする低価格ではなく、本質的な低価格を目指すことがデフレへの対応策です。
本質的というのは、従来のものよりも低価格であるだけでなく、高品質だというものでなければなりません。それは、今生まれている木村さんの農業であったり、安保さんの提唱する医療であったりするものです。
それを、教育の場で行うものが寺子屋教育です。
寺子屋教育というと、多くの人は、少人数の手間暇をかけた親身な教育のように考えていると思います。確かに、そういう一面もあったでしょう。しかし、寺子屋教育の本質は、どちらかと言えば、それとは正反対のものです。
先生1人に生徒多数で、先生はのんびり自分の好きな本を読んでいるような状態の中で、子供がのびのびと自学自習を進めていくような教育が、寺子屋教育の姿でした。その中で、生徒と先生が生涯のつながりを持つような関係が成立していたのです。
寺子屋では、朝7時から午後2時ごろまで毎日6、7時間、小1から小6までの無学年制で、教室によっては50人から100人の生徒が1人又は少数の先生のもとで勉強をしていました。
しかも、この寺子屋は、一般庶民の子に開放された大衆的な教育で、この教育が当時の日本人の識字率70~80パーセントという世界でも類を見ない成果を生み出していました。
そして、この寺子屋の中で、子供たちはのびのびと笑顔で学んだり遊んだりいたずらをしたりして過ごしていたのです。その明るい教室の様子は、当時の浮世絵に数多く表されています。
これと対極的なのが、その当時のヨーロッパの教育で、お金持ちの子弟だけを集め、教師がムチを持って教えこむ厳しい教育でした。これも、当時の絵画の中に子供たちの教育の様子として描写されています。
現代の世界の教育は、日本の寺子屋教育ではなく、このヨーロッパの教育の延長にあります。
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子供が勉強をしていて何か聞いてきたとき、すぐに教えてしまう親や先生が多いと思います。
それが、知識的なことであれば、それでもいいのです。むしろ、気軽に質問できるという雰囲気が大事なので、聞かれたらすぐに教えてあげるというのは全く問題ありません。
しかし、理屈を理解しなければならないときは、教えることがかえって子供の理解を浅くすることがあります。特に、算数や数学の場合は、教えてあげると、わかった気になる分、真の理解が遅れます。
だから、質問があったときは、自分なりに考えさせることが大事です。できれば、その理解の助けになる部分を示してあげることですが、それが難しいときは、何しろ本人に自分で考えさせることが大事です。
自分で考えた結果、やはりわからなかったとしても、長い時間考えたあとに教えてもらうと、すぐに教えてもらうよりも理解が定着します。
勉強というものは、もともとわかるようにできています。
受験のための勉強では、点数に差をつけるためにわかりにくい問題が出されていますが、その場合でも答えを説明してもらえれば誰でもすぐにわかるようになっています。
しかし、わかるためには、本人がその問題と答えに納得がいくまでじっくりと向き合うことが大事です。じっくり向き合う方法は、その問題と解法を何度も繰り返し解くことです。
国語の場合、精読とは繰り返し読むことでした。算数数学の場合も、深い理解は、できなかったところを繰り返し解くことで得られます。
ところが、子供たちの今の勉強の状況を見ると、学習塾などで行われている勉強の多くは、先生が教えることで成り立っています。
先生に教えてもらい、わかった気になると、子供たちは自分の力でその問題を繰り返し解くということをしなくなります。そのために、教えてもらっても、時間がたつと同じ問題を間違えるという結果になることが多いのです。
今の学習塾や通信教材などの勉強は、教育サービスという形で行われています。
子供たちが楽に取り組めるようにわかりやすく教え、しかも、勉強に飽きないように次々と目先の変わった教材を提供します。
同じものを何度も繰り返すことが勉強の基本なのに、すぐに教えてすぐに別の問題をやらせるという勉強のさせ方をしているところが多いのです。
学習塾での勉強の教え方は、以前は一斉指導が中心でしたが、次第に個別指導が重視されるようになってきました。また、学校での勉強の教え方も、少人数学級や複数担任制などで、より個別対応に近くなってきています。
しかし、一斉指導であっても、個別指導であっても、先生が教えるという姿勢が前面に出ているかぎり、子供たちは受け身の勉強になり、その結果かえって学力が定着しなくなるのです。
江戸時代の寺子屋は、早朝から昼過ぎまで、無学年制で、多数の生徒が、1人又は少数の先生のもとで勉強をしていました。
これが、もし教える勉強が中心であったならば、子供たちはすぐに退屈し、先生は教えることに忙殺されていたでしょう。
そうならなかったのは、子供たちが自分で取り組む繰り返しの課題を自習形式で続け、先生は必要に応じてそれに助言するという形の勉強をしていたからです。
その根底にあるのは、勉強はもともとできるようになっているもので、その方法は繰り返すことだという教育観でした。
寺子屋教育の本質は、少人数の親密な教育というのではなく、教えない教育だったのです。
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言葉の森の生徒の保護者から、受験対策として、200字程度の記述試験への対応方法を尋ねられることがあります。言葉の森では、受験作文小論文の対策を行っていますが、その目安の字数は大体400字以上です。200字ぐらいの記述は、教室でわざわざ教えるよりも、家庭で勉強した方がずっと密度の濃い能率のよいやり方ができるので、その方法を説明しています。
それは、次のような方法です。
教材は、全国の昨年の国語の入試問題です。志望校の問題だけではなく全国の問題です。また、市販の問題集や、塾や予備校の問題集や、天声人語のような新聞コラムでもありません。昨年の入試問題が、最もよい教材なのです。
字数は、制限の枠までびっしり書くのが目標です。実力のある子は、例えば、200字の記述といった場合、最後のマスに句点が来るような書き方をします。
スピードは、できるだけ早くが目標です。だから、原則として消しゴムは使いません。頭の中で文を考えて一気に書き上げるというような書き方を目指します。
そのために、字数に合わせた文の数の目安を知っておく必要があります。1文の平均を50字と考えると、200字の文章でしたら4文(3文から5文)が目安となります。その4文を頭の中で検討をつけ、一気に書き上げるのです。
元になる文章は、必ず線を引いて読むようにします。腺は、鉛筆又はシャーペンで、自分なりにわかったところ、面白いと思ったところに引いていきます。大事なところに引くというのではありません。読み返すときに、自分の線を引いた箇所が目印になるので、必要な箇所を探しやすくなるのです。
書き方で大事なことは、対比をはっきりさせて書くということです。「それは、Aである」「私は、Aだと思う」と書くのではなく、できるだけ、「それは、確かにBもあるがAである」「私は、BではなくAだと思う」のように考えて書くのです。
書き方で大事なもうひとつのことは、易しい言葉よりも難しい言葉、具体的な言葉よりも抽象的な言葉を使った方が、レベルの高い文章になるということです。
読点の打ち方は、こちらの記事を参考にしてください。
↓
家庭で教える作文8 読点の打ち方 ( https://www.mori7.com/as/802.html )
ただし、読点の打ち方のルールどおりに打って、読点が多くなりすぎると思われるときは、1文に1点から2点ということが目安になります。
これらのことを念頭に置いて、1日1回記述の練習をしていきます。
書いた文章は、お父さん又はお母さんが見てあげます。この場合、元の文章との内容の照合は不要です。そこまでやろうとすると、親の多忙が理由でできなくなるからです。書き慣れることが大事ですから、誤字がないかどうかだけに注意して、基本的には書いたことそのものを褒めてあげるだけでいいのです。
もしアドバイスをする余裕があれば、子供の使っていない抽象的な語彙を教えてあげることです。例えば、子供の書いた記述の文章の中で、「いろいろなものがあることは」などと書いてあれば、「『多様性は』という言葉があるよ」と教えてあげることです。
また、幼稚な言葉づかいがあれば、それも、より大人らしい表現に直してあげます。子供は、ときどき、「そうじゃなくて」とか、「そうしちゃったので」などという話し言葉風の言葉を文章に書くことがあります。
抽象的な語彙、大人らしい語彙は、ふだんの問題集読書で気長につけておくことです。
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言葉の森で年に数回行っている全国学力テスト(模試)は、平均点が60点前後になるように作られています。これは、模試という性格上、受験の合否を測定するために、点数の差がつくように作られているからです。
学校などで行われるテストは、到達度を見るためのテストなので、百点を取るのが普通です。学校でのテストだけしか受けていなかった子が、模試を受けてその点数の低さに驚くことはよくあります。
しかし、模試で見る受験用の学力は、受験期に本気になって取り組めばすぐに成績の上がるものです。そのテスト用の勉強をすれば誰でもすぐにできるようになりますが、そのテスト用の勉強をしていなければ、どんなに実力があってもできないことが多いのです。
模試のテストの正確は、クイズやパズルに似ています。初めて見るクイズをすぐに解ける人はまずいません。そういうものでは、クイズにならないからです。ところが、いったんその答えを教えてもらうと、次回からはすぐに解けます。答え方がわかれば何ということもない問題でも、最初は解けないのが普通なのです。
全国学力テストの成績が悪くてがっかりしている子がいたら、お父さん、お母さんの方でそういう事情を教えてあげるようにしてください。
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アジアやアフリカのほとんどの国々が、欧米列強の植民地になる中で、なぜ日本だけが、欧米の文化を吸収し、ある意味で欧米よりも優れた文化を作り出し、自立した国家となれたのでしょうか。
そこには、二つの要因があったように思います。
一つは、漢字を使った翻訳によって、欧米文化が持っていた科学技術の概念を日本語化したことです。他の国々では、新しい概念を表意文字によって自国の言語の中に取り込むことができなかったので、欧米の言語をそのまま使わざるを得ませんでした。
もう一つは、その日本語化された新しい概念である言語を、まるごと理解するという学習法が成立していたからだと思います。
日本の教育における素読という方法は、個々の説明を理屈で理解し、それを積み上げて全体を理解するという方法ではありません。何よりもまず全体をまるごと自分のものにして、そのあとに生活の実践の中で、あるいは自分の成長に応じて個々の理解を深めるという方法でした。
だから、欧米の学問もまた、理屈による理解はもちろんありましたが、それとともに翻訳された漢語を通してまるごと自分のものにするという方法で習得することによって、短期間のうちに広範に自国の文化に取り込むことができたのです。
翻って今の教育を見てみると、欧米流の、理屈で理解して、それをテストによって検証するという分析主義的な教育方法が主流となっています。
説明によって理解させ、それをテストするという方法だから、すぐに理解できる子となかなか理解できない子の差が生まれ、それができる子とできない子の差になっているのです。
昔の寺子屋方式の学習のように、必要な全体をまるごと自分のものにするという方法が基本になれば、習得の早い遅いはあるにしても、すべての子供が必要な学力を達成できるようになると思います。
先日、算数・数学に関する本を読んでいて、少し気になる記事がありました。
それは、分数の割り算をひっくり返してかけると作業的に覚えるだけでなく、その理屈を理解することが数学の学力をつけるもとになるという内容の記事でした。
物事を本質から理解することは大事です。
しかし、世の中には、内燃機関の仕組みを知らないでも自動車が運転でき、プログラミング言語を知らないでもパソコンを動かせるように、理屈を知らずに活用しているものがたくさんあります。
理屈を理解するのは、その分野で新しいことを創造するときには必要ですが、何がその分野になるのかは人によって違います。
大事なことは、あるひとつの分野で、理屈による理解を確立しておくことであって、すべての分野で理屈による理解を前提とすることではありません。
勉強の基本は、まずまるごと自分のものにすることです。その勉強のある分野を更に発展させるときに、その理屈を深めていけばいいのです。
今のように、さまざまな教科がその単元ごとに授業という形で理屈によって説明され、その理解度を評価するためにテストがあるという勉強法は、かえって、人間の自然に反した面があるのではないかと思います。
人間の本来の自然の学習法は、「習うより慣れよ」です。慣れてできるようになってから、その子の個性に応じて理屈を深めていく勉強をしていくというのが自然の順序なのだと思います。
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競争の勝ち負けにこだわり、勝つことだけを目的とする子よりも、勝ち負けを楽しむという子が増えているような気がします。
競争には、勝者と敗者がありますが、勝者の勝ったよろこびは、それほど長続きしません。一方、敗者の負けた悔しさは、かなり長い期間続きます。
これが、競争というもののマイナス面です。このマイナス面があるからこそ、競争が科学や技術を発展させてきたとも言えます。
しかし、競争が激しかったのは、競争する分野が狭く限られていたからです。
これからの時代は、人間の個性に合わせて、競争の場も、生活の場も、もっと広がっていきます。すると、その中で、競争するよりも、競争のない場で創造する方が楽しいと考える子も生まれてきます。
ダーウィンが述べた適者生存と競争による淘汰の理論は、現実の限られた一面しか表していません。それよりも、むしろ、今西錦司が述べたような棲み分けの理論の方が、自然の本来の姿をよく表しているように思えます。
人間には、一人ひとりそれぞれの使命があります。決して、単なる駒でも歯車でもなく、その人でなければできないことをするという使命を持っているのです。
その使命に気づくためには、子供時代に好きなことに没頭する時間が必要です。
好きなことは、人によってさまざまに異なります。中には、勉強が好きでたまらないという子もいるでしょう。また、ゲームが好きでたまらないという子もいるでしょう。
しかし、勉強が好きとか、ゲームが好きとかいう「好きなこと」は、ほかのもっと多様な世界を知らないために、勘違いした好みとして考えられていることも多いのです。
子供時代に多様な経験をさせて、その子の本当に興味のある分野を発掘してあげることも、大人の役割だと思います。
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●創造性を育てる教育
これからの教育の要になるものは、創造性を育てる教育です。創造性を育てる教育とは、オリンピックで金メダルを取るような教育ではなく、あまり適切なたとえではないかもしれませんが、ノーベル賞を取るような教育です。つまり、一定の分野で他人よりも優れていることが大事なのではなく、ほかの人のしていないことや見つけていないことを、発明したり発見したりすることが、最も大事な人間の創造的な能力です。
この創造性を育てる教育をどのようにして行うかというと、それは第一に、幼児期からの親子の対話と自然との触れ合いによってです。
第二は、作文の発表会のような形を通して、創造することが社会の評価の中心となるような文化的風土を作っていくことです。
第三は、高校生の後半から大学生にかけて、抽象的な語彙を含む難解な古典の読書と思索を、青年期の必須な教養として育てていいくことです。
創造性が社会に貢献するものであるためにも、人間と人間との対話が必要です。ベーコンは、「読むことは人間を豊かにし、書くことは人間を正確にし、話し合うことは人間を役立つものにさせる」と言いました。
この読書と作文と対話のバランスの上に、創造性を育てることを教育のいちばんの目的として進めていく必要があるのです。
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