これからの勉強の環境はどうなっていくかというと、通学でも通信でもない第三の学習スタイルが出てきます。
それは、ICT(Information and Communication Technology 情報通信技術)による教育です。わかりやすく言えば、パソコン(スマホなども含む)とインターネットを利用した教育です。
現在のICT教育の多くは、まだ従来の通学型の授業と教材をそのままネットで配信するようなものとして考えられています。
しかし、ICT教育の本来の授業の場は、家庭です。反転授業(家庭で学習をし、学校はその学習内容を発表したり交流したりする場となる形の教育)の普及に伴って、家庭での学習をいかにうまく組み立てていくかということが、今後のICT教育の成否を握るようになります。
家庭での学習を進めるいちばんの動機は、人間の関わりです。単なる優れた授業や優れた教材が、子供たちを勉強に向かわせるのではありません。
もし、優れた授業と教材だけで熱心になる子供がいたら、それは人間よりもむしろ機械に近い子供と言っていいでしょう。人間は、他の人間との関わりによって意欲を持つのです。
しかし、パソコンとインターネットの利用は、もともとは勉強の効率化ということで考えられてきました。
パソコンとインターネットを利用するときに、人間との関わりが必要だとなると、それは昔のパソコンやインターネットのない時代の一斉授業よりも能率の悪いものになる可能性があります。
そこで、勉強の仕方そのものの変革が必要になるのです。
しかし、今のICT教育は、勉強の仕方そのものは従来のままで、パソコンとインターネットを中心に、人間はできるだけ介在しない低コストの教育を目指しています。
その方向は、面白い授業、面白い教材のほかに、試験、競争、順位付け、賞罰を活用することです。
もちろん、多少の競争や賞罰はあってもよいのです。それは、人間どうしのコミュニケーションの一種として行われるのであれば全く問題ありません。
しかし、今広がりつつあるICT教育は、競争や賞罰以外の動機付けを見出していないようなのです。
なぜかというと、今のICT教育の根底にある教育観は、優れた教材と競争と賞罰の結果、優れた子が優れた教育を受けられるようになればいいというところにとどまっているからです。
日本の江戸時代の寺子屋における教育観は、すべての子供が同じように優れた教育を受けられるというものでした。
その根本には、人間にはもともと大きな差はないのだから、だれでも勉強の仕方次第に同じように優れた人間になれるという人間観がありました。
これからのICT教育は、この江戸時代の教育観と結びついた形で行われる必要があります。
そのためには、勉強の仕方そのものを、従来の「教える教育」から「教えない教育」に変えていくことが必要になります。
教育における人間との関わりを、教えるための人間と教わるための人間の関わりとして考えれば、ICT教育は、従来の黒板での一斉授業よりも能率の悪いものになるかもしれません。
そうではなく、教えない教育の中で人間どうしの関わりを実現していくことが、これからの新しい日本的なICT教育の学習スタイルになっていくのです。
インターネットとタブレットを利用した勉強法が広がっています。
もちろん、言葉の森でも、インターネットとパソコンを使った勉強を進めています。
しかし、今のICT教育(Information and Communication Technology。情報通信技術)には、どこか軽佻浮薄な感じがあるのです。
教育の対象は子供です。子供にとっては、パソコンとインターネットが生かせる分野もありますが、それ以上にこれまで長年の蓄積がある紙ベース、鉛筆ベース、生身の人間ベースで勉強した方がよい分野も多いのです。
パソコンとインターネットの利点は、既にいろいろ言われているので、ここではその問題点を述べたいと思います。
何でもかんでもICT教育に任せるのではなく、その長所と短所を見極めて、本当に必要な分野だけに集中して利用することが大事だと思うからです。
パソコンとインターネットの問題点の第一は、手書きの感覚を忘れてしまうことです。
その手書きは、「ちょっと図を書いてみる」というような意味の手書きです。
見通しのつかない問題を考えるとき、人間はまず手を動かして考えます。答えのある勉強なら、手を動かさなくても、思い出せるかどうかで勝負はつきますが、答えのない分野は、まず試行錯誤をしてみないと先に進めないことが多いのです。
言葉の森がパソコンとインターネットを本格的に利用しだしたのは、1996年ですから、まだそういうことをする人が周囲にほとんどいなかった時代です。
このころに、小学1年生から、手書き文字変換のソフトを使って、マックのクラッシクという超古いパソコンで作文を書く指導をしていたのです。
通学教室では、ローマ字を習う小4からは原則としてパソコン書きとしていたので、このころ勉強した生徒たちは、パソコンのブラインドタッチが楽にできるようなり、社会人になってからいろいろ得をしたようです。
そのパソコン中心の環境を、手書き中心の環境に戻したのは、作文を書く前に構成図を書くようにしたからです。
作文は、小学校低中学年のときは、書きたいものがそのまま作文になるので、特に構成図を書く必要はありません。
しかし、学年が上がるにつれて、書きたいものと書けるものとの差が出てきます。それは、学年が上がると、考えながら書くようになるので、書き進むにつれて書きたい内容が変化してくることもからです。
そういう考える作業は、手書きで構成図を書かなければなかなか進みません。構成図というものでなくてもよいのですが、何しろ、ちょっと試しに書いてみるというようなことがないと、頭の中で考えていることが出てこないのです。
頭で考えてそのまま文章に表せるのは、そのことについてすっかりわかっていることだけです。
だから、簡単な文章を書く場合は、手で何かを書いてみるというようなことは特に必要ありませんが、まだ自分がよく考えていない新しいことを考えるといは、手書きであれこれ書いてみることが必要になるのです。
手書きで書けば、二次元の平面を生かした自由な散らし書きができます。また、文字だけでなく、矢印や図や絵もその手書きの延長で入れられます。更に、パソコンで入力するときのような漢字変換のわずらわしさがありません。
今のパソコンは、手書き文字認識機能も備わっていますが、まだ人間が紙にペンで書くときの操作性には追いつきません。
これが、パソコンで勉強するときのひとつの弱点になっています。
第二の問題点は、もっと本質的なものです。
パソコンは、デジタル信号で情報を蓄積しているので、コピーやペーストが簡単にできます。それが利点でもあるのですが、同時にそれが教育においては大きな弱点になるのです。
なぜかというと、人間は、物事を把握するときに、その物事の本質だけを把握するのではありません。その本質が載っている媒体と一緒に、媒体と本質を不可分の全体として把握することが多いのです。
わかりやすい例で言えば、何かを覚えるときです。紙に書いてあるもので覚えた場合は、「あの本棚のあの辺にあった本で、そのどの部分に書いてあったようだ」ということまで覚えるともなしに覚えています。だから、勉強がはかどるのです。
情報通信機器の情報として覚えた場合は、そういうことはありません。一見楽しく覚えられる工夫をしてあるように見えますが、実は、それは表面的な楽しさであることが多いのです。
今のパソコンやスマホなどの弱点の第三は、一覧性のなさです。画面が小さいので、広く並べて俯瞰する、つまり大きく眺めるということができません。
これがもしパソコンではなく、実際の机の上にカードを並べるような手作業の仕事であれば、机の大きさいっぱいに情報を並べることができます。机が狭ければ板を付け足すこともできます。
人間の目は、画面をスクロールして見るようにはできていません。全体を一瞥して全体の感じをまずつかみ、それから細部を見るというふうにできています。
この一覧性は、将来は技術的な工夫でパソコンやスマホやそのほかの機器でできるようになると思いますが、今のところ、たくさんのものを広げて眺めるという作業はパソコンには不向きな分野です。
以上のように、ITC教育には、大きな弱点として、(1)手書きの感覚が生かせない、(2)形や場所という実感が残らない、(3)一覧性に乏しい、という問題があります。
この問題点を、実際の「触れられる世界」と結びつけてカバーしていくことが、これからの必要になると思います。