昔は、ただでくれるものなら、要らなくてももらっておくという発想をする方が普通でした。
しかし、今は、要らないものなら、ただでも、お金をもらっても要らないという人が増えています。
物の価値がどんどんなくなり、物でないものの価値が大きくなってきたのです。
要らないものなら、もらいたくないという考えのもとになっているものは、自分らしい生活スタイルで生きていきたいという価値観です。
つまり、物よりも、形のない文化の方が、人間の価値観の基準になりつつあるのです。
これは、教育の世界でも起こっています。
今は、優れた教材が低価格で豊富に手に入るようになっています。
しかし、だから、今の子供の方が昔の教材の乏しかった時代の子供たちよりも賢くなっているかというとそういうことはありません。
物としての教材がいくら豊富でも、それをどう使うかという文化が伴わなければ、豊富な物はその豊富さゆえにかえって学ぶことの邪魔にさえなるのです。
勉強のコツは、1冊を繰り返して完璧に仕上げることです。同じものを同じようにやることが、退屈ではあっても勉強の王道です。
しかし、教材が豊富な環境にいると、1冊をそこそこに仕上げたら、すぐに次の新しい教材に取り組むという人が多いのです。
その結果、どの教材も8割か9割しかできないことになり、その子はいつまでたっても学力が向上しないのです。
これから、物はますます低価格化が進みます。低価格化が進行するものは、ごく少数の大企業の寡占化の状態に陥ります。それは、競争によって活性化する市場ではなく、ひとつの安定した公企業の提供するインフラのようになっていきます。
松下幸之助が述べていた水道哲学の社会、つまり、水道のように物が安価に大量に行き渡る社会になっていくのです。
一方、文化は高価格化が進行します。人間が関わる個性的なものは、物の値段とは桁が違う形で高価格が進みます。
例えば、かつての茶道の文化の中では、一つの茶道具が現在の価格で数億円、数十億円で取引されていたものもありました。文化というものは、必需性の希薄なものです。
お茶、お花、俳句、ゴルフ、サッカーなど、今の世界で文化として確立し、一定の経済規模のあるものも、その文化が全くなかった状態から立ち上げるとすれば、参加者を募るだけでも難しいと思います。
それは、その文化が、人間の必要性に根ざしていない個性的、文化的なものだからです。
このような時代には、教育の内容も、その重点が物から文化へと移っていきます。
物の教育とは、実力をつけるための教育で、MOOCなどに見られるように安価で優れた教材が豊富に出てくるので、誰もがその教材を利用して最高の教育を受けられる環境を手に入れます。
しかし、人間はブロイラーではないので、優れた教材を豊富に与えられてもそれにすぐに取り組めるわけではありません。
物の教育を習得するためには、意欲づけや、その子に応じた取り組み方の手順や、うまくいかなかったときのフォローなど、個性的な対応という文化的なものが必要になってきます。
文化の教育とは、その物の教育の受け方のノウハウと、その教育によって実力をつけたあとの個性と創造の教育です。
言葉の森では、今、この教育の「物」的側面より、「文化」的側面を生かす教育の方法を考えています。
それは、具体的には、これまでの作文指導に寺子屋オンエアの仕組みを組み合わせたようなものになる予定です。
昔、「数学は暗記だ!」という本がありました。和田秀樹さんの本です。
そして、「数学は暗記科目である」という本もありました。渡部由輝さんの本です。
http://www.amazon.co.jp/dp/4562014792
渡部さんは、「小学校からの東大入試戦略―突破力としての数学学習法」という本も出しています。
http://www.amazon.co.jp/dp/4876477841
これらの本は、そのタイトルから受ける印象とは違ってきわめて深い内容を含んでいます。小中高生に必要な数学力は、基本的に解き方の知識なのです。
数学が暗記だという証拠に、数学者の岡潔さんの数学の勉強法は、普段は全然勉強をせず、試験の直前に全部丸暗記することだったそうです。それで間に合ったのです。
そして、岡さん自身は、自分の考えた問題だけは何ヶ月も、あるいは何年もそのことばかりを考えていたそうです。
考えるとは、そういうことで、受験の数学の難問を考えるというのは、考えるうちには入らないのです。
しかし、数学は暗記だと言われても、どう暗記すればいいのか多くの人は戸惑うと思います。
その方法は、できなかった問題を、解法を見ながら繰り返し解いて、その解法を丸ごと自然に覚えてしまうことです。
そうすると、その記憶が頭の中で成熟して、ほかの問題も解けるようになるのです。
数学や英語は、かけた時間に比例してできるようになると言われていますが、それは、結局繰り返した回数に比例しているということです。
本多静六さんは、数学で赤点を取り落第したあと発奮し、それから数学の問題集を解法ごと暗記したそうです。
すると、卒業するころには、数学の天才と呼ばれるようになり、数学の先生から、「もう数学の勉強はしなくてもいい」とさえ言われたそうです。
何か、漫画のような話ですが本当です。
落第するほど苦手だった数学が、暗記する方法に変えたら、そのやり方に慣れて、いつの間にか天才になってしまったのです。
だから、数学は、暗記だというよりも、慣れだと言ってもいいと思います。
何度も繰り返しているうちに、その解き方に慣れてくるのが数学です。
ところが、慣れていないうちは、いくら詳しく説明されても、説明を聞けば聞くほど難しくてわからないような気がしてくるのです。
数学と同じように、国語も慣れです。それは、難しい文章を読むことに慣れるということです。
読書好きな子供はたくさんいますが、難しい本が好きという子はあまりいません。読書量が多いわりに国語の力が今ひとつという場合は、読書の質が易しいものばかりであるのが原因です。
とは言っても、子供の興味とは別に難しい本を読ませようとすると、まず第一に読書の量が減ります。そして第二に、読書が苦手になってくるのです。
そこで考えたのが、低学年からの問題集読書です。
これは、読書のかわりに問題集を読むのではありません。読書は読書として楽しく読んでいくのですが、その楽しい読書と並行して、勉強として難しい文章を読む練習をしていくのです。
そんな難しい文章を読ませて、読むことが嫌いにならないかと心配する人もると思いますが、嫌いになるのは、その場で理解させて、その場でわからせようとするからです。
最初から理解したり深い読み方をしたりする必要はありません。最初は、慣れているだけでいいのです。
小中高でやる勉強は、もともと誰にでもできるものです。それを、受験で差をつけるために、わざとわかりにくい問題として出されたり、うっかり間違えやすい問題として出されたりするので、まるで難しいように思わされているのです。
算数も国語も他の勉強も、慣れれば誰でもできるようになります。それは、人間の能力にもともと内在している力、言わば本能のようなものです。
江戸時代の寺子屋は、教える先生が優れていたから成功したのではありません。優れた先生ももちろん多かったと思いますが、寺子屋教育は先生の指導力に依存しない教育法だったからうまく行っていたのです。
そして、寺子屋教育が、当時の世界の教育の最先端を行っていたのは、日本の文化の中に、勉強はやれば誰でもできるようになるものだという勉強観と人間観があったからです。
寺子屋の勉強の基本は、音読、暗唱、習字など、何度も反復するものでした。早くできる子と、遅くできる子の差はあったと思いますが、できる子が10回やればできるようになることを、できない子は20回やれば、できる子と同じようにできるようになります。だから、できるできないの差は本質的な差ではないという勉強観が社会全体の中にありました。
10回も20回も、人生の長い時間の中では大した違いではありません。結局、どの子も同じようにできるようになるというのが、江戸時代の教育でした。
受験のために差をつけるような勉強をする必要がないという点で、江戸時代は、勉強の本来の姿を体現していたのです。
言葉の森は、これから寺子屋オンエアで広げていきたいと思っています。
そして、その寺子屋オンエアを森林プロジェクトの教室でも行えるようにしたいと思っています。