言葉の森では、これまで受験生で国語の力をつけたい人に、入試問題集読書をすすめてきました。
もちろん、この入試問題集読書をするだけでは、それがそのまま国語の成績に結びつくわけではありません。(もちろんそういう場合もありますが)
入試問題集読書で読む力をつけておくと、国語問題の解き方のコツを理解したときに、成績の上がる度合いが大きくなるのです。
国語問題の解き方がわかれば、誰でも成績は上がります。しかし、その上がる度合いは、その生徒の読む力の範囲までです。
そして、その読む力は、難しい文章を繰り返し読むことによってついてくるのです。
ところで、入試問題集読書の難点は、受験学年になるまでは読めない漢字があることです。中学入試でしたら、小6で習う漢字まで読めないと読み進めることができません。
ほとんどの人は、読めない漢字や意味のわからない言葉が次々に出てくると、読んで理解しようという気持ちがなくなってしまうのです。
そこで、今取り組もうとしているのは、入試問題集読書ではなく、通常の国語問題集読書です。
入試問題集読書と国語問題集読書の違いと長所、短所は次のようになります。
◎入試問題集読書の長所
・最新の時事的な問題意識を反映した長文が多い
・読める長文の量が多い
△入試問題集読書の短所
・問題が難解で悪問もある(正解が怪しいものもある、解答が載っていないものもある)
・量が多いので反復が不十分になる
・ページ数が多く重く値段も比較的高い
・難文、難読漢字が多く、高学年にならないと取り組めない
・読解力の勉強になるが、語彙文法記述などには直接は取り組まない
入試問題集読書のちょうど反対の長所と短所を持つのが国語問題集読書です。
◎国語問題集読書の長所
・練られた問題が多く解答が参考になる
・薄いので反復ができる
・軽く扱いやすい、値段も比較的安い
・低学年から学年に応じてできる
・読解力の勉強以外に、語彙文法記述も直接に取り組める
△国語問題集読書の短所
・新しい時事的な長文が少ない
この国語問題集読書を取り組むと言っても、家庭ではなかなかできません。
というのは、ほとんどのお母さんは、注意するのは得意ですが、褒めることが苦手だからです。また、すぐに成果を上げようとするので、気長に続けることができないからです。
国語の力は、音読や読書のような単純なことを毎日ずっと続けていって、成果のことなど忘れたときに、ふと国語力がついていたことに気がつくという力の付き方をします。
そこで、この新しい国語問題集読書を寺子屋オンエアの中で取り組むことにしました。
その寺子屋オンエアも、今新しいシステムを作っているところで、これからは、より手軽に、しかもより低価格で利用できるようする予定です。
近々、国語問題集読書とセットにした寺子屋オンエアの長期間の無料体験学習を実施する予定です。対象は、言葉の森の小1から中3の生徒です。ただし、受験生は時間がとれないと思うので、受験が済んでから参加していただく方がよいと思います。
これからの教育を考える場合に大事なことは、人間をどう見るかということです。
これまでの教育は、人間を性能のよい歯車として見ていました。それは、決して否定的な意味ではありません。
社会という機構が正確に動き、その社会の発展がみんなの幸福に結びつくためには、一つひとつの歯車もやはり正確に動く必要があったからです。
そしてまた、性能のよい歯車になることは、その当人にとっても利益をもたらしました。
よい歯車と認められれば、その性能に見合った高収入を約束されたからです。
性能のよさとは、端的に成績のよさで表されます。国語数学英語理科社会という主要5教科の成績がよいことが、その人間の性能のよさとほぼ一致していると見られていました。
その結果、歯車の性能の客観的な指標として、学歴というものが重視されるようになりました。
やがて、勉強の目標自体が学歴になり、その学歴を手に入れるための受験勉強が目標になりました。
そして、勉強の目標から学問が次第に消え去り、その代わり、答えに早く近づく技術が勉強の中身になっていきました。答えに早く近づく技術を習得することが勉強そのものだと思われるようになったのです。
ところが、受験勉強として習得された技術は、ゲームの技術の習得と似ていて、現実の生活にはあまり役に立ちません。
昔、受験勉強がまだ学問と比較的結びついていた時期には、受験勉強はその人の成長にもプラスになりました。しかし、受験勉強が技術化するにつれて、勉強の技術は現実生活の技術とは関係の薄いものになっていったのです。
これからやってくるのは、創造性を必要とする現実生活です。
誰もが自分の創造性を発揮し、それによってその人自身が幸福を感じるとともに、社会全体がその創造性によって豊かになっていくという世界がこれから生まれてきます。
そのときに必要なのは、人間を歯車として見ることではなく、創造する種子として見る見方です。
ちょうど、ドングリの実を、コマ作りの材料として見るのではなく、将来のドングリの木々やドングリの林の可能性として見るような見方が、これからの人間の見方にも必要となってくるのです。
ドングリの例で言えば当然のように思えることが、これまでの人間の見方においては当然ではありませんでした。むしろ、これまでの人間の見方は、その人間が「歯車として使えるか使えないか」ということが中心になっていました。
では、人間を、歯車ではなく種子として見たとき、教育はどう変わっていくのでしょうか。(つづく)