もともと人間が持っている能力には、大きな差はありません。誰でも、やればできるようになるし、やらなければできるようにはなりません。そういう単純なものが勉強です。
しかし、学校で先生が同じようにみんなに教えていて、できる子とできない子の差がだんだん出てくるのはどうしてなのでしょうか。
それは、決して生まれつきの差なのではなく、ただ家庭での生活習慣の差が積み重なった結果なのです。
例えば、小学校低中学年で、国語と算数のドリルを毎日しっかりやっているが読書の時間があまりとれない子と、勉強はあまりしないが読書だけはよくしているという子がいた場合、今の時点での成績は、勉強をしている子の方がいいはずですが、数年たつと、それが逆転してしまうことが多いのです。
それは、なぜかというと、小学生の間のドリルの勉強のようなものは、頭の表面を使っているだけだからです。
勉強の内容が、「日本でいちばん長い川は? 信濃川」というような条件反射的なものですから、やれば誰でもできるようになりますが、それができたからといって、頭の内面がよくなるわけではありません。
それは、国語の漢字書き取りでも、算数の計算問題でも、同じです。やればできるようになるが、やらなければできないということなので、一見大きな差がつくように見えますが、その差は表面的な差です。
これに対して、読書の量というのは、目に見える差としては出てきません。勉強の差は表面的なのですぐに出てきますが、読書の差は内面的なので、差としてはすぐには出てこないのです。
しかし、その分、読書によって子供の頭の内側は構造化が進んでいきます。それがわかるのは、子供が高学年になり、難しい勉強に取り組むようになってからです。
また、今は英語ブームで、小学校低学年や幼児から英語の勉強に取り組んでいる子がかなりいます。
そころが、低学年での英語の勉強は、ほとんど意味がないばかりか、かえって日本語力の成長の阻害要因になることが多いのです。
特に、熱心に英語をやりすぎた子ほど、肝心の日本語の発達が遅れます。そして、今の大学入試の英語は、半分以上国語力の試験ですから、小さいころ英語を勉強しすぎた子ほど、英語ができなくなるという結果になることもあるのです。
もうひとつは、暗く真面目に勉強している子と、明るく楽しく勉強している子の違いです。
時どき叱られたり注意されたりしながら熱心に勉強している子と、たまにふざけすぎることもあるが楽しく明るく勉強している子と、勉強の内容の定着度がどちらが高いかと言えば、明るく楽しく時にはふざけて勉強している子の方です。
それは、なぜかというと、人間の頭脳は、暗い記憶は薄れ、明るい記憶は残るという仕組みを持っているからです。勉強は、何しろ明るく楽しくやるのがいいのです。
以上のような家庭の生活習慣は、すぐには変わりません。しかし、このような習慣の違いが、子供たちの学力の差を生み出していくのです。
今、言葉の森では、寺子屋オンエアという企画を行っていますが、将来、寺子屋オンエアの先生は、自分の家庭で楽しく子育てをした経験のある年配者が、自分の経験を生かしてそれぞれの家庭の学習をアドバイスするようなものにしていく予定です。
そして、日本中に、よい家庭学習の習慣を広げていきたいと思っています。
言葉の森では、子供たちの家庭での自学自習の助けになるように、手に入りやすい市販の教材を利用した自習検定試験を進めています。
また、この自習検定とは別に、寺子屋オンエアという形で、子供たちの家庭での勉強をモニターできる仕組みを作っています。
勉強力をつけるするコツは、同じ教材を同じように繰り返して毎日勉強することです。ところが、この「同じこと」を「毎日」というのが、なかなか実行できません。
多くの人は、いろいろな教材に次々に取り組み、曜日によって習い事が違うので勉強の中身もそのつど異なるような勉強をしがちです。そのため、時間がかかるわりに実力がつかない勉強スタイルの子供たちが増えています。
豊かな社会では、「物」から「事」に重点が移っていきます。勉強に関しても、物としての教材は、もう既に優れたものがふんだんにあります。しかし、それからの教材を使って、どう勉強するかという勉強の仕方、つまり「事」がまだ不十分なまま勉強している子が多いのです。
自習検定というものは、一種の「物」です。毎月定期的に試験があるといっても、その試験に取り組むための家庭学習をどう続けるかという「事」が対応していなければ、試験という「物」は活用できません。
しかし、現在、寺子屋オンエアという形で、勉強の仕方である「事」を教える仕組みができるようになりました。
今後は、毎日の家庭学習の仕方を教えるとともに、自習検定という形で家庭学習の目標を作るというシステムができるでしょう。