「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は、夜。月の頃はさらなり。……」(枕草子)
「枕草子」のような文章は、これまでは、国語という教科の中の古典の勉強として、受験勉強の一部のようなものと考えられていました。しかし、これは、受験勉強としてではなく文化の勉強として行われていくものです。
日本の古典の代表的な作品は、文系の人だけが勉強すればいいのではなく、日本人であれば、理系の人も含めて誰でも、日本文化の共通の教養として味わい身につけていくものです。
そのようなことを、本質教育、実力教育、創造教育、文化教育という形で述べていきたいと思います。
現在、勉強というものは、単線的にとらえられています。
小学1年生で習う漢字の書き取りや算数の四則計算という初歩の教育の発展した延長に、難度の高い受験勉強があるように思われています。
しかし、勉強の本質は、もっと複線的、多面的、重層的なものです。その重層性は、本質教育、実力教育、創造教育、文化教育という言葉で表されます。
それを樹木になぞらえると、本質教育が幹や枝、実力教育が葉、創造教育が花、そして文化教育が実と言ってもよいでしょう。根の部分は、教育の前提になる体力や健康で、それを支えるのが周囲の安定した平和な環境です。
■本質教育
本質教育とは、勉強の基礎です。かつて読み書き算盤と呼ばれていたような、その後の教育の土台を作る国語と算数の教育です。
現在、この本質教育が、ひとつの危機に陥っています。かつての日本は、国民の経済格差が最も少ない国のひとつでした。しかし今、経済格差の拡大に伴う形で、教育の格差が広がっています。
PISAの推移を見ると、昔は、点数の分布の傾斜が緩やかで、成績の低い子でも他国に比べればそれほど低くはないという状態でした。今は、低い子は途上国の低い子よりも低いという状態になっています。
教育の現場では、少学校低学年で先生の言うことを聞けない子が増えているようです。先生の指示ができないということは、教育の前提が失われているということです。これは、先生の指導の力量の問題ではありません。ある集団に、言うことを聞けない人が何パーセントかを超えていると、その集団はもう誰によってもコントロールできないようになります。
最近は、このように先生の指示がよく聞けない子を、学習障害などというレッテルを貼って済ませている面がありますが、これは障害ではなく教育の失敗としてとらえる必要があります。
この本質教育の土台は、学校ではなく家庭にあります。家庭の教育が失敗しているのです。
しかし、それを単に親のせいにすることはできません。家庭での教育は、どの家庭でも多かれ少なかれ欠点を持っています。それは、親がたったひとりで試行錯誤の中で子育てをしなければならないからです。
(つづく)
もともと人間が持っている能力には、大きな差はありません。誰でも、やればできるようになるし、やらなければできるようにはなりません。そういう単純なものが勉強です。
しかし、学校で先生が同じようにみんなに教えていて、できる子とできない子の差がだんだん出てくるのはどうしてなのでしょうか。
それは、決して生まれつきの差なのではなく、ただ家庭での生活習慣の差が積み重なった結果なのです。
例えば、小学校低中学年で、国語と算数のドリルを毎日しっかりやっているが読書の時間があまりとれない子と、勉強はあまりしないが読書だけはよくしているという子がいた場合、今の時点での成績は、勉強をしている子の方がいいはずですが、数年たつと、それが逆転してしまうことが多いのです。
それは、なぜかというと、小学生の間のドリルの勉強のようなものは、頭の表面を使っているだけだからです。
勉強の内容が、「日本でいちばん長い川は? 信濃川」というような条件反射的なものですから、やれば誰でもできるようになりますが、それができたからといって、頭の内面がよくなるわけではありません。
それは、国語の漢字書き取りでも、算数の計算問題でも、同じです。やればできるようになるが、やらなければできないということなので、一見大きな差がつくように見えますが、その差は表面的な差です。
これに対して、読書の量というのは、目に見える差としては出てきません。勉強の差は表面的なのですぐに出てきますが、読書の差は内面的なので、差としてはすぐには出てこないのです。
しかし、その分、読書によって子供の頭の内側は構造化が進んでいきます。それがわかるのは、子供が高学年になり、難しい勉強に取り組むようになってからです。
また、今は英語ブームで、小学校低学年や幼児から英語の勉強に取り組んでいる子がかなりいます。
そころが、低学年での英語の勉強は、ほとんど意味がないばかりか、かえって日本語力の成長の阻害要因になることが多いのです。
特に、熱心に英語をやりすぎた子ほど、肝心の日本語の発達が遅れます。そして、今の大学入試の英語は、半分以上国語力の試験ですから、小さいころ英語を勉強しすぎた子ほど、英語ができなくなるという結果になることもあるのです。
もうひとつは、暗く真面目に勉強している子と、明るく楽しく勉強している子の違いです。
時どき叱られたり注意されたりしながら熱心に勉強している子と、たまにふざけすぎることもあるが楽しく明るく勉強している子と、勉強の内容の定着度がどちらが高いかと言えば、明るく楽しく時にはふざけて勉強している子の方です。
それは、なぜかというと、人間の頭脳は、暗い記憶は薄れ、明るい記憶は残るという仕組みを持っているからです。勉強は、何しろ明るく楽しくやるのがいいのです。
以上のような家庭の生活習慣は、すぐには変わりません。しかし、このような習慣の違いが、子供たちの学力の差を生み出していくのです。
今、言葉の森では、寺子屋オンエアという企画を行っていますが、将来、寺子屋オンエアの先生は、自分の家庭で楽しく子育てをした経験のある年配者が、自分の経験を生かしてそれぞれの家庭の学習をアドバイスするようなものにしていく予定です。
そして、日本中に、よい家庭学習の習慣を広げていきたいと思っています。