経済がリセットされるとき、新しく生まれる三つのトレンド。
カタカナ語を使わずに言うと、経済の行き詰まりがいったん終焉を迎え初期化されるとき、新しく生まれる三つの社会的精神的傾向。かえってややこしい(笑)。
その三つのトレンドのうちの一つが、自前主義、つまり生活の基本はできるだけ自分たちでやろうということです。
これまでは、物やサービスを買うという形で、あるいは行政のサービスを受けるという形で、他人任せにすることが一般的でした。
しかし、これからは、生活に密着したものは、自分たちの家庭や地域の中で、自前でやっていこうという動きが出てきます。そして、その範囲は、生活の周囲から次第に広がっていきます。
二つ目が、本質志向です。
自分たちでやるから、自然に本質的なものを志向するようになります。
農業でも、商品化して人に売るときは、曲がったキュウリではだめで、何しろ見た目のよさが重要になります。しかし、自前で作るときは、曲がっていようが虫が食っていようが気にせずに、何しろ安全なものを作るようになります。
これが、農業に限らず、あらゆる分野で起こります。
その本質志向の普及を加速させるのが、インターネットによる情報交換です。
三つ目が、起業精神です。
自前主義、本質志向なら、自分の得意な分野で社会に貢献しようという人が次々と出てきます。
そして、世界の大きな流れは、大企業になればなるほどますます人件費を削る方向に進みます。なぜなら、工業時代の物を売る仕事は、サービスという「物」を売る仕事も含めて、既に供給が過剰になっているからです。
まだ途上国には膨大な需要があるという人もいますが、人間の求める需要は人間の自然の数に応じてしか増えませんが、機械の作る供給は機械的にいくらでも増やせます。だから、膨大な需要もすぐに供給で埋め尽くされるのです。
そこには当然環境の問題も出てきますが、環境保護もまた新しい需要として、新しい供給によって埋められていきます。
こうして、これまでの大衆消費社会はそのまま残りますが、それはもはや社会の後景に退き、それに代わって、各人が各人の好みに応じて生産する社会が生まれてきます。
やがてそのミニ生産の中から、突出したものが出てくると、それが「道」の文化として確立するようになります。
この「道」の文化は、高度化するにつれて、広い裾野を形成するようになります。こうして、日本発の新しい文化的経済が生まれるのです。
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これから来るのは、創造の時代です。創造の時代というのは、世の中で、創造にこそ価値があると多くの人が考える社会です。
今の社会でも、もちろん創造には価値があると言われています。しかし、今の社会では、創造以外のものが、大きな価値を持つかのように流通していて、その割合の方がずっと大きいので、多くの人は生活の必要から、その創造以外のものを中心に自分の生活や人生を考えていかざるを得ないのです。
ところが、たぶんこれから、政治や経済の変動の中で、非創造的なものは居場所を失っていきます。それらは、もともとなくても済むものか、あるいは必要なものであるならば、人間ではなく機械に代替していくものだからです。
しかし、そのことによって、これまでその非創造的なものに依拠して生活していた人が困るかというとそういうことはありません。この地球上の人間の生産力は、人間の消費力をはるかに上回っていて、ただそれがいままで現れていなかっただけだからです。
これまでの人間の関心は、衣食住の確保という安全や安心の面に過度に向けられていました。しかし、それらの安全が保障された社会では、人間の関心は自然に創造に向かいます。
しかし、創造は、単に気持ちを切り換えれば誰でもすぐにできるようになるというものではありません。価値ある創造力を育てるためには、それなりの方法や努力が必要になります。
新しい社会では、自分の創造性をどう育てるかということが、多くの人の関心の中心になってきます。
今、私たちがすることは、その創造の時代を準備することなのだと思います。
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国語力の本質は、その学年相当よりも難しい語彙や内容の盛り込まれた文章を読み取ることができ、また、そのような語彙を使って表現ができることです。
この難しい文章を読み取る力、つまり「難読力」というようなものは、読み慣れることによって身につきます。
よく難しい文章に出てくる語彙を逐一辞書で調べて、確実に理解しようとする人がいますが、そういう勉強法は長続きしません。
また、難しい語彙がいくつか出てくると、もうあきらめて読む気をなくしてしまう子も多いのですが、それではいつまでたっても難しい文章を読めるようにはなりません。
そこで、大事になるのは、とりあえず声に出して読んでみるということです。
声に出して読もうとすると、内容に理解できないところがあっても、一応最後まで読み通すことができます。
文章が理解できないというのは、決して百パーセント理解できないということなのではなく、書かれていることの数十パーセントが理解できないということです。
ですから、最後まで読み通すと、おぼろげながら文章の全体像がわかってきます。これが読み慣れるということです。
そして、この音読を、近くでお父さんやお母さんが聞くともなしに聞いているといいのです。
しっかり聞くと、つい注意したくなるので、お父さんやお母さんは新聞を読んだり家事をしたりしながら、聞くともなしに聞いているという感じで聞きます。
漢字の読み間違いなどは直してもいいのですが、「もっと大きい声で」とか、「もっと姿勢よく」とか、「もっとしっかり」などという、つい言いたくなるそれ以上の注意はしません。
子供が音読を終えたら、その読み方があまりうまくなくても、必ず褒めてあげます。その褒め方は、「難しいのをよく読めたね」というような簡単な言葉かけだけでいいのです。褒め続けていれば、音読は自然に上手になるからです。
次に、その音読された長文の中身について、お父さんやお母さんが自分の体験談をもとに似た話をしてあげます。その似た話は、勉強のような感じではなく楽しい雑談のような感じで話します。
子供は、音読をして一応全体像がぼんやりとわかったところに、身近な人の身近な似た話を聞くので、その難しい長文を自分なりに理解する手がかりをつかみます。
理解を確実にするためには、慣れることが必要ですから、その音読は一度で終わらせずに、日をおいて5回ぐらい読めるようにします。問題集で言えば、1冊を最後まで読んだらまた最初に戻り、繰り返す形で5回読むという読み方です。
繰り返して読むという練習をするときにも、音読は有効です。勉強に自覚を持てない学年のうちは、黙読で読むとすぐに眺めるだけの読み方になってしまうからです。
国語の苦手な子は、まず第一に、毎日の読書をする習慣をつけます。読書は、易しい本でかまいません。目標は、10ページ以上という楽なものでかまいません。何しろ毎日読む習慣をつけるということが大事です。
次に、問題集の問題文のような比較的難しい文章を音読し、その音読を身近なお父さんやお母さんとの対話で補強するようにします。
国語力は、国語の勉強によって身につくのではなく、生活の中で難しい文章を読み慣れることによって身につくのです。
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言葉の森では、小学校低学年から始めて高校生の終わりまで勉強を続ける生徒がよくいます。それらの生徒は、必ずしも大学入試で小論文を使うわけではありません。しかし、毎週長文を読み600字から1200字の文章を書くことが自分のためになるからと思って続けている生徒が多いのです。こういう長期間の指導をしている作文教室は、ほかにはないと思います。
作文の勉強というのは、実は、低中学年のころは誰でも簡単にできるのです。それは、表現する内容自体がやさしいからです。
しかし、そのやさしい段階でも、教材を与えられてすぐに作文を書けるという子はあまりいません。短文の穴埋めをするような練習はできますが、ひとまとまりの文章を書くのは、子供にとってもやはり負担が大きいからです。
これが、高学年になり説明文や意見文の課題になると、難しさは更にはっきりしてきます。教材の使い方をアドバイスする親や先生がいなければ、高度な作文はなかなか書けません。
言葉の森の作文指導が、ほかの通信教育の作文講座と違うところは、担当の先生がその生徒に応じて事前のアドバイスをするところです。生徒が内容を深く理解していれば、その理解に応じて更に高度な説明もできます。反対に、生徒の理解が十分でないと思えば、その不十分さに応じてよりわかりやすく説明することができます。
また、作文を書いている途中に、教室に電話をして書き方を聞くこともできます(実際には、そういうケースはあまりありませんが)。こういう人間の触れ合いのあるところが、言葉の森の指導の特徴です。
これからの教育は、この人間の関わりというものが更に重要になってきます。
最近では、ゲーム機のソフトで、漢字を覚えたり英単語を覚えたりするものも開発されています。もちろん、それはそれで楽しく利用してよいのですが、そういう勉強の仕方に熱中するのは最初のうちだけです。
人間が持続的に勉強に取り組むためには、やはりそこに人間との関わりが必要なのです。
通信の教材でも同じです。子供が自分の力でやれるようなものは、わかりやすい段階のものだけです。低中学年のころは、簡単にできますが、学年が上がり課題が難しくなり、子供が自分で物事を考えるようになると、教材だけでは作文の勉強は続けられなくなります。
だから、低学年のまだ簡単な課題のうちから、教材が送られてくるだけではなく、先生とのやりとりが毎週あるような勉強を進めていくのがよいのです。
受験期になると、中学3年生や高校3年生で、昔、言葉の森で小学生のとき受講していてその後いろいろな事情で続けられなくなった生徒が、「小論文の試験があるので、もう一度勉強をしたい」と連絡してくることがあります。
そのとき、多くの生徒が、「小学生のときに教えてもらった○○先生に」と、先生の名前を覚えていて連絡してくるのです。こういうことは、教材だけでの通信講座ではまずありません。
言葉の森では、これから、作文指導以外に、他の教科も寺子屋オンエアで指導していく予定ですが、それらもすべて先生と生徒の触れ合いを中心にした勉強として進めていきたいと考えています。
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物語文の文章を読んで、その内容について質問をすると、まるでその物語の中を生きてきたようにありありと答えられる子がいます。
そういう子は、物語文の読解問題でも、問題を見たあと、わざわざ元の問題文に戻る必要はありません。本の中で自分が経験したことですから、何を質問されても自分の経験を思い出すように答えられるのです。
物語文に没頭するような本の読み方をするためには、子供のときに、やはり没頭する読書をしている必要があります。
子供が没頭する読書は、大人の目から見れば、くだらない本に属するものが多いはずです。
しかし、誰もがすすめる有名な本を、薬でも飲むかのように律儀に読むよりも、面白くて止まらなくなるような本を飽きるまで読む方が、物語を味わう力がつくのです。
しかし、面白い本にただ熱中するだけでは、いつまでも易しい本を繰り返し読むことになります。
易しい面白い本に熱中するとともに、ちょっと難しい文章を毎日音読する練習をしていくといいのです。
これが、楽しい多読と、難しい精読という読書の両輪です。
そして、学年が上がるにつれて、読書は楽しい多読から、難しい精読に移っていくのです。
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言葉の森では、これまで学校の勉強とはあまり関係のない作文指導に30年間取り組んできました。
それは、学校の勉強は、受験勉強も含めて、既に答えのある勉強だから独学でも十分にできると考えていたからです。
そういうスタンスでありながら、その言葉の森の考え方に賛同して作文の勉強を続けてくれた人がたくさんいました。(うちの子2人も、小1から高3まで続けましたが。)
ところが、言葉の森の生徒には、全体に優秀な子が多いのですが、中に少数ですが学力的に問題のある子もいるということに前から気がついていました。
また、最近、小学校低中学年で、かえって頭が悪くなるような勉強の仕方をしている生徒が増えていることに気がつきはじめました。例えば、無意味な難問をやらせたり、勉強優先で読書が後回しだったり、低学年から英語の勉強をやらせていたり、という勉強の仕方です。
更に、中学生で、塾には通っているが、勉強の仕方がよくわかっていない生徒が結構いるということにも気がつくようになりました。
学校の教育力が低下していることは前から言われていましたが、最近では、学力の格差が大きくなり、できない子は更にできなくなるという傾向が表れています。
これまでの日本の教育の特徴は、格差の少ないことでしたが、2003年ごろから、PISAの成績で上位と下位の差が大きくなり、下位の子の成績は途上国並みに低いという状態が生まれるようになりました。
そこで、言葉の森が、創造性を育てる作文の指導をこれからも進めていくには、その創造性の土台となる本質的な学力を、日本中の子供たちを対象に育てていく必要があると考えたのです。
幸い、日本には、寺子屋教育という江戸時代の優れた自学自習法がありました。
また、勉強に必要な教材は、日本では既に多種多様に出ているので、それらの中から良いものを自由に選べるようになっていました。
更に、近年のインターネット・テクノロジーによって、オンラインで自宅にいながらにして学べる仕組みが作れるようになっていました。
そこで、寺子屋オンエアで、子供たちの本質的な学力を育てながら、そのオンエアシステムを将来の作文指導にも生かしていくという方向を考えました。
作文指導に生かすというのは、電話指導の代わりにオンエア指導をするとか、個別指導ではなくグループで交流できる指導をするとか、発表会をオンエアで行うとか、父母懇談会を行うとかいうようなことですが、可能性はほかにもいろいろあると思います。
本質的な学力について言えば、小中学生の勉強は、お金をかけたり人手をかけたりしなくても、勉強の仕方次第で短期間で誰でもできるようになるのです。
ところで、このICT(Information and Comunicaion Technology)教育の今の動向を見ると、ビジュアルでわかりやすい教材、ゲーム的な感覚を取り入れた楽しい学習、人気講師の優れた授業、限りなく無料に近いシステムで、資本力のあるところがその資本をバックに無人化したシステムを作る方向に進んでいます。そして、最終的には、世界で数社の寡占的な教育企業が生き残るような形になると思われます。今はまだそのずっと手前の段階なので、ICT教育の可能性だけが論じられている状態ですが。
ICT教育の普及の結果、教育の格差はなくなるかというと、確かに、格差は多少是正されると思いますが、企業化された教育の第一の目標は、優秀な子をよい大学やよい企業に紹介することになりますから、すべての生徒が本質的な教育を受けるという方向には進みにくいのです。
この一斉指導と、競争と、賞罰による意欲付けによって、能率よく指導し、優秀な子を優秀に育てることを第一の目標とするという教育観は、言葉の広い意味で西洋的な教育観です。日本の教育も今は、すっかりこの西洋的な教育観のもとで行われています。
そして、ICT教育における一斉指導は、個別化された一斉指導なので、同じ教材システムでできる子とできない子がいた場合、できない子は更にスモールステップの教材に取り組むような形になります。その結果、できないのは本人の意欲や努力の問題となり、勉強の仕方の問題として捉えられることはなくなるのです。
言葉の森がこれから行おうとしている寺子屋オンエアと、そのオンエアシステムを利用した作文教育は、世間で今言われているICT教育とは正反対のものとなると思います。
それは、教材という物を中心とした教育ではなく、勉強の仕方という事を中心とした教育だからです。
また、人手はかけないものの、機械に依拠した教育ではなく、先生と生徒と親の触れ合いに基づいた教育になるからです。
教育全般のオンエアによる指導と、作文指導自体のオンエア化が、これからの言葉の森の目指す方向です。
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言葉の森の作文指導の特徴は、高校生、大学生、社会人になっても通用する論説文の力をつけることを目標にしています。
しかし、小学校低中学年では、そういう文章はまだ書けないので、その前段階として、身近な生活作文を楽しく書く練習をしています。
小中学生の段階で上手な作文を書くことが目的ではありませんが、小学生のころは、楽しく書いていれば自然に上手な作品が生まれます。
そこで、自分なりによく書けたと思った作文は清書をして、新聞社やコンクールに投稿するようにすすめています。
小学校3、4年生は、子供たちが最も小学生らしいのびのびとした作文を書く時期です。この時期に、誰でも必ず年に何回かは傑作を書きます。
昨年(2014年)は、さまざまなコンクールに76名の人が入選しました。
入選は、子供たちに自信をつけます。どの子も、自分が入選したときの作文はよく覚えています。
よく書けたと思う作文があったら、家庭でお母さんができるだけコンクールなどに応募してくださるとよいと思います。
言葉の森の作文指導の特徴は、構成と表現をあらかじめて決めて書かせることです。
この書き方は、言葉の森が独自に開発したものですから、このように事前に書くことを指定した書き方を指導しているところはほかにないと思います。
この書き方をすると、不思議なことに、どんなに作文が苦手な子でも、すぐに書き出せるようになります。体験学習などで、初めて長く楽に書けたので、本人もお母さんも驚くということがよくあります。
また、指導の目標が決まっているので、先生は子供の作文のよいところを中心に褒めることができます。無理に褒めようと思わなくても、自然に褒めることができるようになるのです。
事前の指導がない作文を書かせると、ほとんどの子は、何をどう書いていいかわからないので途方にくれます。
また、先生は、事前指導がないと、子供が書いた作文をどう褒めていいかわからないので、つい直すところや注意するところが中心になります。
書き方がわからないまま、無理やり書かされて、やっと書いたと思ったら、次々に注意されるというのが、これまでの作文指導でした。だから、作文が苦手な子が増えていたのです。
言葉の森の作文指導では、誰でも自分のペースでしっかり書けます。だから、苦手な子もすぐに書きだすことができ、一方上手な子は更に上手な作文を書くことができるようになります。
苦手な子も、得意な子も、同じように勉強できるのが、言葉の森の構成と項目の事前指導を中心とした作文です。
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同じ教材を使っていても、同じ塾に行っていても、同じ先生に教わっていても、子供たちの成績は同じにはなりません。よくできる子とできない子の差は必ず出てきます。
では、その違いはどこから出てくるかというと、それは決して生まれつきの差ではなく、家庭学習を含めた家庭での育て方の差なのです。
しかし、その育て方というのは、なかなか伝えにくいものです。それは、典型的な例というものが、あまり身近にないからです。
その意味で、うまく子育てをした家庭の例は、これから子育てをするお父さんやお母さんの参考になります。
受験は、合否を競う競争という面が中心になりがちですが、同時に子供たちにバランスのよい学力をつけるひとつのきっかけとして取り組んでいくことができると思います。
この本の全体の内容は、それぞれ読んでいただくとして、言葉の森が普段述べていることと共通している点について、主な目次を紹介します。
1章の 3「子どもはとにかく褒めて褒めて褒め倒す」
9「母親の知的好奇心が子どもをつくる」
11「自分の読書は家事よりも優先させる」
3章の22「おもちゃは我慢させない、制限しない」
30「テレビなどの『画面』はなるべく見せない」
7章の55「何よりも読み・書き・そろばんから始める」
56「早期の英語教育は必要ない」
8章の62「お母さんの音読+解説で国語の成績は上がる」
褒めれば、子供は気分よく勉強するので、どんどんはかどります。注意をしたり直したりすれば、だんだん暗くなり勉強が進まなくなります。何しろ褒めることは、褒める方にとっても、褒められる方にとっても健康によいものです。
読書好きな子に育てるには、お母さんが子供の前で本を読んでいる姿を見せることです。「昔読んでいた」というのはだめで、「今もいつも本を読んでいる」というのが大事です。お母さんが、忙しくて本を読んでいる暇がないと言えば、子供も同じことを言うようになります。
テレビは、見る場合でも、1週間の予定を決めて見ることです。食事中は、必ずテレビは消しておきます。見たい人だけがヘッドホンをつけて、外部に音が流れないように見るのが理想です。特に幼児がいる家庭では、テレビはできるだけつけないことです。
小学校低中学年のころの勉強の基本は、第一が読書です。第二は算数が普通にできることです。英語は必要ありません。
国語読解力の中心は、難しい文章を読む力ですが、その難しい文章をどう読むかというと、繰り返し音読することと、その音読をもとに親子で対話をすることです。
その対話も、子供の話を聞くというよりも、お父さんやお母さんが自分の体験談を中心に似た話を楽しく話してあげることです。
親子の対話の際に大事なことは、子供の音読の仕方や説明の仕方を決して注意しないことと、脱線してもいいので何しろ楽しく話をすることです。
家庭で、そういう対話の習慣のあるうちは、まだあまりないと思います。しかし、今の家庭で親子で曲がりなりにも対話の習慣ができるようにしておけば、その子供が親になったとき、今度はもっとたやすく家庭での対話ができるようになります。
親子の対話は、二世代にわたって家庭の文化を作っていくという気長な気持ちで取り組んでいくといいと思います。
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