小学1年生の勉強で大事なことは、勉強の仕方です。何を勉強するかということよりも、どう勉強するかということが、その後の学力の伸びを左右していきます。
この記事は、
「小学1年生の勉強の仕方が、その後の勉強のスタイルを作る」の続きです。
前の記事で書いたのは、第一に、楽しくやることでした。第二に、自主的にやることでした。
第三に、子供の自主性を育てるためには、勉強の分量を多くしないこと、早く終わったからといって勉強の追加をしないことです。
集中力がない子の多くは、勉強のしすぎという状態になっています。親から見てちょうどいいと思うぐらいの分量は、子供にとっては多すぎるものです。しかし、子供は反発するほどの基準が自分の中にないので、親に言われたことは一応そのまま素直に受け止めます。その結果が、集中力のなさとして出てくるのです。
第四に、例外は作らないことです。勉強は、人間が成長するために欠かせないものですから、雨の日も、風の日も、土曜も、日曜も、旅行に出かけたときも、やると決めたことは、分量は少なくしたとしても毎日欠かさずにやっていくことです。
この毎日欠かさずにやる習慣をつけるためにも、親が関与する面はできるだけ少なくしておくことが大事なのです。
例えば、問題集の丸つけなども、親がやるのではなく、子供が自分でやるほうがいいのです。親がいなければできない勉強だと、親の都合でやらない日が出てくることもあるからです。
第五に、子供の学力をつけるいちばんの勉強は、実は、読書と対話と経験です。
漢字のドリルや計算のドリルは、いかにも勉強らしい感じがしますが、そういうドリルをやるのは、一応学校の勉強が普通にできるようになるためです。それ以上のものはありません。小学生の勉強は、どの教科も一応できているだけで十分なのです。人よりよくできるとか、毎回百点を取るとか、何学年も先取りするとかいうことにこだわる必要はありません。
それよりも、読書と対話と経験で、自分なりに考える力と語彙の力と実際の体験を身につけておくことがその子の将来の本当の学力になるのです。
言葉の森の作文も同じです。
小学校低学年は、楽しく書くことが大事で、上手に書くことを目的にするものではありません。子供は素直なので、上手に書かせようと思えば、すぐに上手に書くようになります。しかし、そういう上手さには無理があります。低学年のころに上手に書きすぎた子は、勉強が長続きしないのです。
大事なことは、作文を毎週書くという勉強をきっかけにして、音読や対話や経験の習慣を作ることです。しかも、それらの習慣は楽しくなければ本当の力にはなりません。音読や対話や経験を楽しい習慣にするためには、親がいつもよいところを見て褒めてあげることなのです。
▼関連記事:「国語力、読書力がつく小1の作文」
https://www.mori7.com/za2021d21.php
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小学1年生で勉強することなど、たかが知れています。どの教材でも誰が教えても、大差ないものです。ですから、市販の教材でも通信の教材でも自由に選んで、身近なお母さんが教える形で十分に勉強できるのです。
しかし、大事なのは、このときの勉強の仕方です。勉強の中身そのものは誰でもできる(できなければならない)基本的なものなので、どういう教材をどう教えてもできるようになります。しかし、そのときの勉強の仕方は、実は千差万別なのです。
そして、このときの勉強の仕方が、その後の子供の勉強の仕方の土台になります。だから、この時期は、何をやるかとか何を身につけるかということよりも、どうやるかということが大事になってくるのです。
では、どうやればよいのでしょうか。
まず第一に大事なことは、明るく楽しくやることです。少学校低学年は、苦しい勉強をする時期ではありません。苦しい勉強の方がやりがいが出てくるのは、もっとずっとあとになってからです。小学1年生のときは、できるだけ楽にできるように、少しでも子供が困っていることがあったら、どんどん手助けしてあげることです。
これは、作文でも同じです。低学年の子に、無理に自分の力で書かせる必要はありまぜん。楽に書かせることが大事で、そのためにはいくらでも助け舟を出してあげることです。
しかし第二に、自分のペースで自主的にやる勉強スタイルを作ることです。そのためには、何をいつどういう順序でやるかということを、一つの流れとして作り、子供が自分の意思でその流れに乗るようにすることです。
よく、お母さんが、「次は、これ。それが終わったら、今度はこれ」と指示するような勉強の仕方をしている家庭が多いのですが、それでは、やらされる勉強になってしまいます。勉強の開始は、親が指示しないと始められないこともありますが、どういう順序でやっていくかということは、子供が自主的にやるような仕組みを作っておくことです。
(つづく)
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森リン大賞とは、パソコンでテキスト入力された清書で、森リン点が最も高かった作品に与えられる賞です。
感想文の清書の場合、要約の部分が多くなると森リン点が高くなるので、要約ではなく自分の言葉で書いたものが対象になります。
今回は、12月も森リン大賞(学年別)の中から、80点だった小5のあんみつさんの作文です。
体験実例の面白さ、調べた話や聞いた話による構成の立体感、結びの一般化された感想など、バランスのよい文章になっています。また、表現の多様性は、よく本を読んでいるからだと思います。
表現の多様性とは、例えば、次のようなところです。
====
「ケーキは、あっさりしていて甘さ控えめのものでなく、甘くて濃厚なものでないと美味しくない。」
というのが母の言い分だ。
====
この内容を伝えるだけなら、「『ケーキは甘い方がおいしい』と母は言った」というようにも書けますが、同じ内容をより多様な表現として書けるところが語彙力のあるところです。
読書が大事だというのは、このように表現を工夫することができるからです。また、表現を工夫できる人は、それだけものの見方についても微妙な陰影がわかるようになるのです。
=======================
楽しく、そして美味しく
あんみつ
「わあ。美味しそう。」
しゃぶしゃぶの肉を見た私の口から、自然にこんな言葉が出てきた。それと同時に、よだれが垂れそうになったので、私は急いで口を閉じた。この前、自宅でしゃぶしゃぶをした。その時にしゃぶしゃぶ用の鍋を出したのだが、その鍋の持ち手には、ある絵が書いてあった。本当は、2羽の鶴と1輪の梅の花が描かれていたのだが、私は、その絵をまるでウルトラマンに出てくるバルタン星人のような絵だと解釈してしまったのだ。確かに、今思えば日本の鍋にバルタン星人が描かれているわけがない。それでも、おもしろい発想ができる子供の内に面白い発想を存分にして、面白い思い出を沢山作っていきたい。
肝心のしゃぶしゃぶの味はどうだったのかというと、本当に美味しくて最高だった。だから、私の気持ちは最高潮になった。母方の祖母と祖父がお歳暮として送ってきてくれた近江牛と、父がスーパーで買った国産黒毛和牛の両方を食べた。近江牛は、まだ3歳にもなっていない若い牛だったため、まるでチョコレートのように口の中でとろけていくような柔らかさと美味しさが合った。霜降りだったのに、ちっとも脂っこく感じなかった。そんな近江牛に対し、黒毛和牛は、弾力のある赤身の美味しさがあった。赤身なのに、ちっとも固くならなかった。脂身と赤身の両方を食べたことによって、栄養もバランス良く取れたと思う。また、心身ともに満足出来た。しゃぶしゃぶは少し忙しかったけれど、楽しい夕食になった。
私は、しゃぶしゃぶについて少し調べてみた。しゃぶしゃぶが生まれたのは昭和27年で、案外最近のことだ。牛肉専門店として営業していた「スエヒロ」というお店の先代店主が考案した。私は、しゃぶしゃぶは中国やモンゴルなどの大陸から伝わってきたものだと思っていたが、実は日本で生まれたものだったのだという新事実を知った。しゃぶしゃぶは、脂を落とすというところがヘルシー好きの日本人らしさを表している。私は、日本人として、日本人が考案したしゃぶしゃぶが世界に広まっていったことに誇りを感じる。
私は、母に最近美味しい物を食べた時のことについて聞いてみた。母は、少し前に食べたケーキが美味しかったという。そのケーキは、他のケーキ屋のケーキよりもクリームが甘くて濃厚だったそうだ。
「ケーキは、あっさりしていて甘さ控えめのものでなく、甘くて濃厚なものでないと美味しくない。」
というのが母の言い分だ。
私は、味覚は個人的なものであって、どんな人でも自分の舌以外は使えないと思う。確かに、美味しい、まずい、というだいたいの合意は成立するかもしれない。しかし、それはあくまでその人が感じる味、というだけの話であって、他人が全く同じように感じる保証はどこにもないのだ。そのことを表す諺に、「蓼食う虫も好き好き」が挙げられる。これは、人の好き嫌いは様々で、自分の好みと比べて一概には判断できないということだ。私は、全くその通りだと分かった。食事を楽しく始め、自然に食欲をそそられるような、楽しく、そして美味しい食事をこれからも続けていきたい。
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頭のよさが関係ある勉強というと、算数数学を挙げる人が多いと思いますが、算数数学は練習の仕方で成績がよくなるので、後天的な努力型の勉強です。もちろん努力には時間がかかりますが、やれば誰でもできるようになります。
では、もっと頭のよさに関係がある勉強は何かというと、それは国語力なのです。その国語力の中でも、小学生の場合は作文力が、中学生の場合は語彙力や読解力が、頭のよさに関係が深いというイギリスの心理学者の調査結果が出ています。
国語は、特に勉強をしなくても誰でもある程度はできるので、それほど差のつく勉強だとは思えないと思います。確かに、日常の話題のような易しい語彙だけで済ませられる国語の問題は、できる子もできない子もほとんど差がつきません。
作文でも同じです。身近な生活作文を書く範囲では、国語の得意な子も苦手な子も、同じようにそれなりの文章を書けるのです。
差がつくのは、抽象的な語彙が出てくる読解や作文の課題になったときです。そのときに、本当の学力のある子とない子の差が出てきます。そして、その差は、学年が上がるにつれてますます広がっていくのです。
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さきほど、投稿しましたCPです。
投降した文章の付け加えします。
はじめまして。○○大学に推薦で合格した高3生です。
自分は物理の研究分野のため○○大院に行かなければなりません。
そのためはTOEFLが必要で、それには国語力も必要です。
自分は中学LVの参考書すら少し難しくなると全く解説すら意味不明です。もちろん先生に聞いても意味不明です。
今の実力は今年のセンターが英語75%(国語担当の先生という事ですが、一応英語の実力も載せました。ちなみに、推薦ですので2次の英語力はありません。センター英語も速読できても国語力で解説が意味不明ことがよくあります。)
国語は偏差値20未満29点で、漢字しか正解せず、読解の小問の正解部分は全てまぐれです。センターLVは4~6行読んだだけでもう読めなくなります。(特に評論)
勿論、先に読み進めて見れば分かる事もあるというのが国語の文章らしいのでそうしますが、やっぱり無理です。
いままで、こうやって勉強方法の記載されたHPを沢山見てきましたが、様々な方法や理由が記載された中で、ここの方法と管理者様が一番頼れそうです。
ですので、こんな国語のアホにも助け舟をお願いします。
専門の物理なら、東大でも普通に取れそうですが、文系のせいで、国語のせいで今までの全人生を棒に振ってきたようなものです。
ですから、自分にあったプランをお願い致します。
なぜなら、ここの記事は読みましたが、それでも自分のLV(高3なのに中学すら読めないバカアホ)に合った方法を考える事が出来ないからです。
何卒宜しくお願い致します。
追記
自分は発達障害であり、国語学習に(特に理解力に)問題があります。
そのことで、健常者に合う方法が通用しないのかもしれません。
そこで、聞きたい事は、
失礼は承知していますが、
この通信教育の過去の受講生の中で、発達障害児でも飛躍的に伸びた実例があるのかということです。
このHPに記載された方法や理由は他サイトと違って、色々と本質的で安心できそうにも思います。
しかし、私のような発達障害者には障害者なりの方法があり(数理力の過度の欠如による学習障害等。ググればすぐに出てきます。)、ここの方法が自分に合うかの判断をしたいです。
失礼ながら、比喩的に言えば、
(今までどこのサイトにも実績がないので)、その意味で前例がないから、ここに書かれている(どんなサイトにもあるたまたま色々やったら出来るようになった人たちのサイトに記載された勉強方法のみの学問的本質を突かないやり方の天下り的な羅列)優れた方法も障害者には存在しない方法と等価になり得るからです。
本当に失礼な事を書いてしまい申し訳ありません。
しかし、今まで探したサイトの中で一番信用できそうなものここであるので、ここの自分の国語を委ねるためにも、自分の文章を読めないという、長年のコンプレックスを克服するためにも、どうかご回答お願い致します。障害だからといって不可能で終わらせるわけにはいきません。
研究のためには、受験のためのものであるが、物理の思考力とは関係がなく(日常生活には使えるけど)、研究の数理的処理には使わない国語を今の時代の日本という国、いや、全世界は全員にまんべんなく出来て当たり前だと突きつけ、関門に用意してくるので、どうしても国語力を上げる必要があるのです。
最後に、長文になってしまい誠に申し訳ございません。
それと同時に、長文を読んで頂きありがとうございました。
コメント拝見しました。
文章読解の障害(読書障害)というのは、たまに聞きます。意外とそのこと悩んでいる方も多いのではないかと思います。
こちらでは、読書障害用のプログラムはありませんが、次のようなケースがよくあるようです。
それは、
・子供のときは読書障害で、先生にも親にも理解されず、自分でもわからず悩んだ。
・しかし、大人になるにつれて、自然に治っていた。
というケースです。
人間には、人によってさまざまな長所や短所があります。
その対応の仕方は、二つあると思います。
(1)苦手なことでも繰り返しているうちに慣れる。
(2)苦手なことは前面に出さず得意なことを前面に出すように工夫して生きていく。
「慣れる」ということについては、自分の気に入った説明文の音読暗唱がいいと思います。
内容を理解するということを考えず、何しろ繰り返し音読して暗唱できるようにするということです。
暗唱の仕方は、下記のページを参考にしてください。
http://www.mori7.net/mori/mori/annsyou.html" target="_blank">
http://www.mori7.net/mori/mori/annsyou.html
毎日10分を目安に続けていけば、l1か月で1000字の暗唱ができます。
それを1000字で終わらせずに、本で言うなら10ページから30ページを全部暗唱することを目標にやっていくといいと思います。(30ページの暗唱だと30分かかるので、毎日の練習はその一部を10分ぐらいかけてやっていくようにするといいです。)
これが、読書障害の治し方というのではありません。
しかし、慣れるということで言えば、同じものを繰り返し音読するのがいちばんいいので、できればやってみるといいと思います。
返信遅れて申し訳ございません。
また、いくつか質問があります。
ここで言っている読書障害とは各年齢層の平均と比較して内容理解力の欠如が見られる事例のことでしょうか?
自分は国語に関する障害は情緒障害で、感覚的な内容をつかみとれません。もちろん、感覚で現代文は読めないという事実を(理解はしていなくても)とりあえず知っています。
最小レベルの国語力で文章を考え始めるという極限を考える時、ある程度の言語感覚能力が必要ということはないのでしょうか?
自分が他の健常者と比較して思う事は、
まず、言語感覚という(すくなくとも我々障害者には)「公理」であるツールを用いて、しかも使用方法を理解した上で、それらを初めの小学校の低いレベルに適用して、国語の世界に入り、そこから読解力向上の為の努力を始める事ができると考えています。
それは我々にとっては「公理」という存在である「言語感覚」を用いて、そこから切り抜けていけるのであり、自分たちは小学年のレベルからストップしたままという考えがあります。
国語の本質は内容理解力であることは様々な文献から知り、ここではより深い考察がありました。
しかし、その内容理解云々は感覚的な情報処理の延長線上にあるのではないかと思っています。
一方で、スラスラ暗唱が初めの一歩という記述があり、それこそ内容を頭に入れやすくするための手段でそこに、言語の感覚的理解のためのプログラムが埋め込まれていると考えるべきでしょうか?そして、そのような事を繰り返した結果、読書障害が改善されたという事でしょうか?ここで、(脳科学的なものなのかどうか分からないが、多分そうであると思う)情報の認識という観点から考えるとすると、
数理情報も文章情報も同じ「情報」という事物ではありますが、本質が全く違う事は今はだれでも知っています。さらに、文章的情報にも、感覚的成分と論証的成分が含まれているのも確かな事だと思います。
ただ、(1)この文章的情報の認識に関しては、感覚成分が情報認識の基礎であるということはないのでしょうか?つまり、先ほどの小学年レベルの話。
また、(2)情報の論理性(特に、普通の評論文)とは感覚的事実によって保証されるのではないのでしょうか?
(2)に関しては(内容理解ができるできない云々ではなく)純粋に文章内容に関してですが、特に哲学的文章については情緒的な感覚的な理解、文化的な感覚的な理解に基づく文章、つまり、ただ論理を追うという事ではなく、感覚認知能力による感覚的成分の処理も論理情報の処理の一環であり、論理と感覚は切っても切れない存在なのではないでしょうか?そして、このような状況下で私たちは(今の議論の上では)感覚的情報の理解力がないために困っているということではないのでしょうか?
だからと言って、数理情報に基づく専門書の理解にも論文の作成・添削(教授には添削能力も要るらしい。私にこのことをやるのが、博士課程修了後の10年後に可能か分かりませんが。)には関係ないとは思っていませんし、後に述べるように数理情報作成の際も結局、文構成の点から問題が生じてしまいます。
さらに、文章構成力には文章に関する作業全てに関係する感覚的構成要素の一部も入っていないとも思わないので、論文作成には感覚的情報の掌握力も必要不可欠であり、その掌握方法を知りたいです。
(内容がかなり抽象的になってしまい申し訳ないですが、)勿論、このような事を机上の思考のみで議論しても、頭に入れるための作業という「認識過程」は「実行」により評価されるものなので、現時点で議論の結末を求めるのは無駄なのかのしれません。
ただ、その「言語感覚」という観点からの説明は(自分の見た文献の中では)なく、自分のような人間にとっての真に適切な方法は一体何か?と途方に暮れ、何一つ実行せずに挫折する可能性もあります。もちろん、同じ文を何度も繰り返し読むという事については、気概の問題かもしれません。実際、以下のサイトには成績向上事例があります。
ただ、彼らが障害者であるかはわかりませんし、(ただそのような気(系けい?)は少なからずあるでしょう)これが遠回りの方法かもしれないです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=282760
ほかにも、何回も読めば分かるという記述ばかりが見られ、「だから、お前らは結局わかるやつだったんだよ」とウンザリするときもあります。
ただ、このサイトではこの事に加えより詳しい考察(自分がここの指導理念を正しく理解できている自信はありませんが)とそれを元にした正しい添削をしてくださるという特典があり、最終的にここに頼る事に致しました。そして、「言語感覚」とは何かということも聞きたいです。
勿論、ここで結局「(おおざっぱに言って)読むことでしか読解力が得られない」という結論がでても、(家計の都合によっては)ここのお世話になるかもしれません。
すこし、話が変わりますが、ここのプログラムは大学生が4年間もできますか?
また、アパートとなると近隣に大学生のやるべき事でない事が伝わるので、指導に関しては恐縮ですが電話応対ではなく、メール通知でお願いできますでしょうか?
今は親のPCを使用していますが、入学後に自分用のPCを購入するつもりですので、
そこでやりたいと考えてます。
以上が質問と意見表明になりますが、今自分は部活誌(化学部)で大学物理の教科書の高校生用の翻訳でコラムとして載せようと、(こんな国語力、文章構成力の自分が)文書を書いています(先述の数理的情報作成)。これは自分から立候補したものですが、理論内容でなく文章構成、接続詞など言語使用に関して色々と指摘され、頑張って訂正しているところです。
そのことについても、ここの投稿に関しても相手に伝わる文章が書けているか自信はありませんし、自分はこういう流れで書きたかったのに細かい部分の訂正に関する言語的制約のため構成がうまくいかなかったため、必要な文章を盛り込めていない、また、重複した質問を返答してしまう可能性もありますが、そこはなるべく改善するよう努力を致しますので、そのときはまたご回答をお願い致します。
読書障害と、感覚的なことが読み取れない障害とは、分けて考えるとよいと思います。
読書障害が年齢とともに治ったという例は多いのではないかと思います。それは時間をかけた慣れによってだと思います。
だから、その障害の克服を意識的に取り組むとすれば、音読の反復と暗唱が有効な方法だと思います。
ただし、暗唱と言っても、それほど気楽にできるものではありません。例えば、30ページの文章を音読する場合、読むだけで30分かかります。その文章を100字ずつ区切って毎日10分から15分間暗唱して、最終的に全文を暗唱できるようになるには、1年半以上かかります。
しかし、そういう方向さえ決めておけば、それが最も効果のある方法だと思います。
一方、感覚的なことが読み取れないという問題は、また別の問題です。
理屈の理解はできるが、相手の心の中を推測することができないという場合、それは物語文の読解ができないという形で表れますが、国語力の問題ではありません。
感覚的な読み取りができない原因のひとつは、幼児期に機械的な音声(テレビとかCDとか)に触れすぎたせいだと考えられていますが、まだ確かなことはわかっていません。
感覚読み取り障害の場合は、その苦手分野が表面に出ないような工夫をして自分の人生を切り開いていくということになります。
人間は誰でも得意な分野と苦手な分野があります。
若い時期は、苦手を克服することに力を入れていくべきだと思いますが、ある年齢から上になったら、得意を生かすことに力をいくのが能率のよい生き方になります。
大学生の時期は、自分の将来の仕事を決める時期です。
この時期に、自分がどういう仕事をして生きていくかを考えるのですが、それには、自分にどういう得意分野があるかをいろいろ試してみることです。
大学時代は、勉強の時期というよりも、勉強以外のものも含めた挑戦の時期です。
その挑戦の一つとして、言葉の森の作文を受講するのは、よいことだと思います。
今のままの文章だとかなり読みにくいので、これから練習をしていく必要はあります。
ただし、その場合、電話指導は必要です。大学生でも社会人でも同じように勉強していきます。
しかし、その文章力の練習と、感覚的なことが読み取れないという問題の克服は別のことです。
感覚の問題の方は、それを前面に出さないような工夫をして生きる方法を見つけていくことです。
そういう工夫ができれば、むしろそれが自分の得意分野になると思います。
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毎日わずか2、3分、同じ文章を音読して半年間もすると、いつの間にか語彙力がついてくるから、読解力も表現力もついてきます。
ところが、多くの人は、あるときふと思い立って集中的に難しい勉強に取り組んで、しばらくすると飽きてしまいます。
雨だれではなく、どっと夕立が降るような勉強です。夕立はさわやかですが、もちろん岩は岩のまま変わりません。
では、雨だれのような勉強をどうさせるかというと、それはやはり、雨だれのように毎日優しく同じ勉強をさせる大人が必要になるのです。
子供は自動機械ではないので、一度ボタンを押したらそのままずっと続ける、というようなことはまずありません。
気が散りやすく、飽きやすく、脱線しやすいからこそ、人間らしい創造性があるのです。
その飽きっぽさを是認した上で、毎日同じように同じことをさせるのが家庭学習のいちばんの要です。
寺子屋オンエアの勉強は、この雨だれのような勉強なのです
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今の経済体制は、行き詰まりを見せています。まだ、これまでのストックがあるので、その行き詰まりは目に見える形として現れてはいませんが、破綻は水面下で進行しています。
その原因は、おおまかに言えば、世界中の生産力が世界中の消費力を上回るようになったためです。つまり、需要の減少が、供給の減少につながり、供給の減少が収入の減少につながり、それがまた需要の減少につながるという負のサイクルが生まれているのです。
資本主義の発展期には、この正反対のサイクルが存在していました。需要が伸びるために供給が伸び、供給の伸びに比例して収入が伸び、それが再び需要に投入され、生活は日増しに豊かになっていったのです。
発展期の社会では、消費に回らずに貯蓄に回された分は、新しい供給を生み出すための投資になっていました。しかし、そこには次々に生み出される供給をすぐに吸収できる貪欲な需要があったのです。
現在の資本主義の行き詰まりを解消する方法として考えられている一つは、戦争経済です。もう一つは、地球規模のインフラ整備です。しかし、どちらも一時的な対症療法でしかありません。
物やサービスの生産については、もはや人類の生産力は、人類の消費力を大きく超えているのです。
したがって今後、経済の行き詰まりが表面化するときは、株価の暴落、バブルの崩壊、倒産、失業、リストラという経済の急収縮が一気に現れます。もともと実際の需要のないところに生まれていた余剰の供給は、その余剰の分だけ消滅するのです。
こういう将来の社会の変動を予測する人の中には、既に田舎で自給自足の生活を始めている人もいます。国も会社も年金も給与もあてにならないとしたら、自分の生活は自分の手で守らなければならないからです
しかし、農業を中心とした自給自足の社会は、当面の経済破綻については防波堤の役割を果たしますが、それがそのまま未来の社会の雛形になるわけではありません。自給自足というのは、結局、破綻に対する避難の方法にすぎないのです。
新しい社会の基盤は、物やサービスの生産を超えた、新しい原理に根差している必要があります。その原理こそが、人間の持つ創造性です。
工業として生産される物、商業として提供されるサービスのいずれもが、社会全体の需要に対する過剰な供給力を秘めています。新しいものや新しいサービスが登場するたびに、小さな活況は生まれますが、それはもはや資本主義全体の活性化に結びつようなものではなくなっています。
消費の拡大は、一時的に経済の拡大につながりますが、それはもはや恒常的に供給の拡大を必要するものではなくなり、じきに再び供給過剰の世界が繰り返されるのです。
これに対して、新しく生まれる経済の原理が創造です。創造は、需要とも供給とも次元を異にする人間生活の原理です。それは、ある面では需要であり、ある面では供給でもあるのですが、単なる量的な需要や供給ではありません。需要としては無限の需要であり、供給としては対応する需要を必ずしも必要としない自足した供給なのです。
新しい経済の原理は、この創造を軸として形成されます。その創造の核となるものが人間です。
未来の社会を論じる人の中には、人工知能のような新しい物や技術の生産が人間社会を切り開くと考える人もいます。しかし、これまでの需要と供給という社会の枠の中にいる限り、物やサービスの生産は、永続的な発展の動因にはならないのです。
創造を軸とした新しい社会を、今の社会になぞらえて描くとすれば、それは、企業を中心に生産者と消費者が同心円を描く社会ではなく、子供を中心にその子供たちを育てる人々が同心円を描く社会です。
なぜなら、人間の中でも特に子供たちの成長こそが創造の源泉であり、創造を原理とする社会では、その子供たちを育てることが社会全体の関心になるからです。
農耕社会では、土地を開墾し農作物を育て、それらを収穫するまでの時間が投資の時間でした。工業社会では、工場を建て人を雇い原材料を仕入れ、それらを生産し販売するまでの時間が投資の時間でした。
創造社会が完成に向かうと、もはや投資という考え方自体もなくなるのですが、今の工業社会の延長にある間は、投資という仕組みが一時的に必要です。創造社会では、子供たちが成長するまでの時間と、その間の教育や文化が投資の内容となるのです。
経済の破綻から避難する場としての自給自足経済は、自給自足に留まるかぎり避難の場でしかありません。その経済の中心に、子供たちの創造的な成長を位置づけることによって初めて、新しい社会の原理となるのです。
子供たちに創造的な教育を行う際の最初の前提となるものが、本質的な教育です。
これまでの教育は、受験を目的とした教育でしたから、子供たちの間に差をつけるための教育を行っていました。その結果、できる子には無駄な知識を教えることによって創造性を枯渇させ、できない子には自信を失わせることによって創造性を枯渇させていました。
人間には、本来、できるできないという差を超えた、創造する力が誰にもあります。その創造性を育てる前提となるものが、すべての子供に必要な知識や技能を身につけさせる本質的な教育です。
それは、かつて江戸時代に、読み書き算盤の教育と言われていたような寺子屋的な教育によって、地域と家庭の中で行われていくものです。(これが今、「寺子屋オンエア」として行おうとしているもので、その機構を「森林プロジェクト」として提供していきたいと思っています。)
この本質教育の基盤の上に、創造教育が行われる必要があります。
創造とは、創造する知識や技能という底辺の広さに、創造性という高さを掛けたものとして表されます。
これからの社会では、特に膨大な知識をいかに速く広く身につけるかということが底辺の広さを決定します。その知識の底辺を広げる教育の一つが、暗唱教育です。そして、創造性の高さを引き上げる教育の一つが、作文教育です。(これが今、言葉の森が作文教育として行おうとしているものです。)
作文教育は、また、子供たちの教育を地域全体の関心とする媒体ともなります。
例えば、江戸時代の寺子屋教育における席書きのように、地域においてプレゼン作文発表会のようなイベントが定期的に行われれば、子供たちの関心も、地域の大人たちの関心も、子供たちの成長を点数による成績ではなく個性による創造として見る方向に向かいます。
こうして、社会全体が、子供たちの成長を軸とした創造の価値を評価する方向に向かっていくのです。
このような社会を作る最短距離にある国が日本です。そして、日本で作られた創造教育の仕組みは、そのまま世界に広がる可能性を持っています。更に、それは教育の仕組みに留まらず、それぞれの国で新しい社会の仕組みとして広がっていくのです。
なぜなら、創造教育は、学校と先生によって作られるものではなく、家庭と地域社会によって作られるものだからです。その形態がたまたま学校的な場所や先生的な人を必要としたとしても、それは従来の学校や先生とは異なる新しい社会の学校や先生です。
子供たちの成長を中心として同心円を描いて広がる社会が、これからの資本主義を超えた新しい創造社会なのです。
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言葉の森の作文指導は、小学校低学年のときは楽しく書くのが基本です。間違いを直すことばかりに熱心な指導では、確かに間違いは直りますが、それよりもすぐに書くことが嫌いになってしまいます。
間違いは、作文の中で直すのではなく、読む力をつける中で直すのです。
一年生で会話をカギカッコで書くことと改行することができない子がいたとします。この子に、カギカッコと改行を教えて、次回から直るということはまずありません。何度も何度も同じことを教えても、それができるまでに何ヶ月もかかるのが普通です。
なぜかというと、普段の日常会話で、会話にカギカッコがついていたり、改行されたりしていることはないからです。あったら、漫画です。
会話のカギカッコと改行は、本の中で現れます。本を読んでいる子は、自然に、会話はカギカッコがついていて改行されていることを見ています。そういう読書の蓄積がある子は、もし会話のカギカッコと改行ができていないときも、一度説明するだけで次回からはすぐに正しく書くことができるのです。
言葉の森の作文指導は、低学年のころは楽しい作文ですが、高学年になると考える作文になります。
低学年のころの楽しい作文の経験があるからこそ、高学年の考える作文も同じように楽しく取り組めるのです。
考えるというのは、抽象的に考えるということです。
例えば、意見について理由を書くというときに、理由が書けずに実例を書いてしまう生徒がかなりいます。自分の経験したことに結びつけて書くことはできるのですが、誰にも共通する一般的な理由として書くという抽象的な思考ができないのです。
この考える力、思考力も、読む力から来ています。
子供たちが読む本は、物語文がほとんどです。物語文は、ストーリーという事実中心に書かれているので、わかりやすく誰でも読めます。
これに対して、説明文や意見文は、ストーリーがありません。その代わりに、物事の因果関係などの抽象的な構造が文章の骨格になっています。こういう文章を読むことによって、作文を書くときも抽象的な構造のある作文が書けるのです。
ところが、子供たちが楽しく読める説明文は、あまりありません。身近なところでは、小学生新聞に載っているコラムなどが読みやすい説明文ですが、こういう文章が本として出されることはほとんどありません。
そこで、おすすめするのが、国語の入試問題集です。入試問題集の問題文の中には、読みにくい悪文もありますが、概して内容的に優れたものが多いからです。また、内容に興味を持った問題文であれば、出典を参考にしてもとの本を読むこともできます。
しかし、この問題集読書は、家庭ではなかなかできません。形だけやっているように見えても、ただ眺めているような読み方をしている子が多いのです。
言葉の森では、寺子屋オンエアなどで、この問題集読書にこれから力を入れていきたいと思っています。
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