これから、人間の社会に大きな変化と波乱が起き、その後、新しい明るい社会が来るという話です。
今後、社会に起きる大きな変動としてほぼ確実なものは、経済の破局です。アメリカも、日本も、EUも、先進国の多くは財政的に破綻していますが、それが一私企業の破綻ではなく国家の破綻なので、あらゆる方策でその破綻が先延ばしされています。
その破綻が隠し切れなくなったとき、それに続く人心の不安や世情の混乱によって引き起こされる可能性の高いものが、戦争、パンデミック、自然災害などです。
この経済の破局とそれに続く社会や自然の混乱に対して、現在いくつかの対策が考えられています。
第一は、地球規模の世界的なインフラ開発によって、経済の破局を乗り切ろうという考えです。確かに、砂漠の緑化や海洋の開発は、人類に新しい経済のフロンティアをもたらすでしょう。しかし、それは、既に原理的に行き詰まっている工業型資本主義の延命策にすぎないのです。というのは、新しい開発は、古い開発にしばらくは取って代わることはできるでしょうが、やがてその新しい開発が行き詰まる時代が来るからです。
第二に、同じことは、BRICsの未来についても言えます。新興国の発展は、先進国の衰退に取って代わるように見えるかもしれませんが、それは先進国で既に行き詰まった社会を、あとからなぞっているのにすぎません。そして、先進国の行き詰まりは、さまざまな試行錯誤によって長期間かかりましたが、今度の新興国の行き詰まりは、急速に進みます。新興国は、追いつくのが早いのと同じように、行き詰まるのもまた早いのです。
第三に、これらの世界的な視野の対策とは異なり、個人の世界で、これからの破局の時代に備えるために、食料の生産や備蓄、信頼できる仲間作りなどに力を入れている人たちもいます。
確かに、今後食料危機のようなものも来るでしょう。預金封鎖になり、あると思っていた資産が吹き飛び、リストラの嵐が吹き荒れ、物価が高騰するような時代に、最も頼りになるものは、衣食住、特に食の確保だと多くの人が思うでしょう。
しかし、ここで考えておかなければならないことは、人類の生産力は、人類全体の需要を補って余りあるほどに豊かになっているはずだということです。今、飢餓に悩む地域の人々がいるのは、生産力の問題ではなく、政治力の問題です。
だから、もし日本で経済破局が起こったとしても、強力なリーダーシップを発揮できる政治が、「とりあえずこれまで動いていた経済の流れは、国家が1年間又は数年間無条件で保証する」と言えばいいのです。
経済の破局とは、結局信用の破局です。「ある」と思っていて、その「ある」ということを前提に回っていた経済の、最初の「ある」が「なかった」とわかることによって、信用に基づいた取引が急速に収縮するのが破局だからです。
だから、「あるはず」で回っていた経済なら、強力な政治力が、その「あるはず」を引き継いでいけばいいのです。もちろん無制限に引き継げるわけではありませんから、1年間又は数年間の猶予を設けて、その間に、「ない」世界から、「ある」世界に少しずつ社会全体で痛みを分かち合いながら移行していけばよいのです。
では、政治力が担保するその信用のもとは、何かと言えば、それはゴールドのような実物資産である必要はありません。最も信頼できる担保は、国民の未来への決意です。諸外国では、国民の決意のようなあいまいなものは、担保としての価値はないかもしれません。しかし、日本ではそれが最も頼りになる信用の基盤になるのです。
政治力が経済の流れを当面保証することができれば、国民の衣食住は、実は十分に確保されているのだということがわかるでしょう。一時的に食糧危機のような事態が現れることもあるかもしれませんが、それは、流通上の問題であって、決して量的な不足の問題ではありません。
だから、食べ物が確保され、信頼できる仲間がいるということは、もちろんよいことですが、それが未来の社会の土台になるわけではありません。それは、工業化が進展し資本主義が破綻するようになった以前の社会の理想像なのであって、未来の社会の理想像とは異なります。
では、以上のような対策ではない、真の対策とはどのようなものでしょうか。
経済の破綻と社会の行き詰まりは、「ある」はずのものが「なかった」とわかるように、これまで「価値がある」と思っていたものの「価値がなかった」とわかる過程です。今はまだそういうことに実感がわかない人が多いので、ここで具体的に何が価値ないものかと言っても空想的な話になるでしょう。しかし、この価値観の変化は、これからの社会の最も大きな変化の出発点となります。
何が価値ないものになるかということについては、まだ一致した考えはないでしょうが、何が価値あるものになるかということについては、大筋の合意が得られると思います。
これからの社会で、真に価値あることになるものは、「創造」です。創造以外の、単なる作業、ルーティンワーク、繰り返しの仕事など、人間の創造を必要としないものは、それがどれほど多くの人に求められているものであっても、いずれ機械やコンピュータに取って代わられるようになります。
また、現代の社会では、本質的な価値がないのに、それが生み出す価格によってあたかも価値があるかのように見えるものが溢れています。創造ということに照らしあわせて考えてみると、価格にとらわれないそれらの真の価値が自ずから明らかになってきます。
よく天国のような人間の理想の社会のイメージとして、人間が動物たちと一緒に楽しそうに木陰で休んでいるような光景がありますが、そういう天国は、誰でも数日間で飽きるでしょう。平和や安定や安逸は、それ自体が人間にとって価値あるものとはなりません。日曜日は、平日の仕事や学校があるから日曜日なのであって、毎日が日曜日になったら、ほとんどの人は、その休日を何か別の必要な時間で埋めていくようになると思います。
しかし、それを単なる作業のような時間で埋めるのではなく、創造の時間として埋めていくというのが人間社会の未来の姿です。
創造とは、人間によって生み出されるものです。だから、人間自体が創造的になることが必要です。その人間の創造の中心になる分野は、第一に子供たちの教育です。そして、そこから波及して大人たちの自己教育、そして大人たちの文化創造が、これからの社会の中心的な課題になっていきます。
今はまだ、教育というと、学校や学習塾で、面倒な勉強をいかに能率よくこなして成績を上げるかという小手先の工夫のようなものとして考えられがちですが、真の教育とは人間のあらゆる能力の開発です。
同じく、文化というものも、今はまだカルチャーセンターで絵を描いたり楽器を演奏したりするような余暇の過ごし方のひとつとして考えられていることが多いと思いますが、真の文化とは新しい人間活動の創造なのです。
これからは、かつてのカンブリア紀の進化の爆発のように、教育の可能性についての教育爆発のようなことが起きてくるでしょう。そして、それに続いて起こるものは、人間文化の可能性についての文化爆発です。(爆発などというと物騒ですが)
このように見てくると、これから起こる経済破綻や、それに続くさまざまな災害や騒乱は、旧時代が終わる大掃除であって、この大掃除をきっかけに、人間が真の価値に目覚め、その真の価値に基づいた新しい社会を作り上げる出発点になるのだと思います。
だから、今大事なことは、そのための未来に向けての行動をすることです。
これまでは、旧社会の批判がひとつの重要な課題となっていました。批判の必要性は、まだなくなったわけではありませんが、社会は、批判から実行へと重点を移しつつあります。
どういう明るい新しい社会を作るかという行動が、これから求められてくるのです。
寺子屋オンエアは、かなり密度の濃い勉強になりがちです。
というのも、最初の5分と最後の5分に先生との話があり、その間の30分から1時間は、先生や友達のいる中で自然に集中して勉強せざるを得ないからです。
また、その勉強の内容も、国語の場合は、比較的難しい文章を読み、それに対する感想を書き、あとで先生の質問に答えるというものですから、考えてみると結構ハードです。たぶん、ひとりでそこまでの勉強のできる子はいないと思います。
また、算数数学の勉強も、ただプリントの量をこなすような作業的なものではなく(そういう勉強ももちろん大切ですが)、中心になるのは、できなかった問題を理解してできるようにするという努力を要する勉強です。これも、実は、ひとりではなかなかできません。
ほとんどの生徒は、中高生も含めて、勉強というものを考える勉強ではなく作業の勉強にしてしまいがちです。例えば、難しい問題を考えるでのは、易しい問題を何ページも解くというような勉強です。ノートを広げて計算をして答えを書くようなことをしていると、本人も周囲も、それを勉強している姿と思ってしまうのです。
ところが、45分から1時間、そういう集中力の必要な勉強をするのは、受験前などで自覚のある生徒には無理ではありませんが、ほとんどの小中学生にとっては、やはり負担の多いものです。
昔、言葉の森の通学教室で、小学校高学年以上はパソコンで作文を書くということをしていたころ、ほとんどの生徒は、机の前に座ると、まずはパソコンの中にあるマリオのゲームを数分してから、それからおもむろに勉強に取り組んでいました。ちょっと遊んで、そのあとしっかり勉強というスタイルが定着していたのです。みんな、優秀な子供たちです。
大人は、つい勉強だけに集中することを望みがちですが、人間というものは、そういうブロイラーを育てるような教育には向きません。勉強だけに集中しないからこそ、創造性や意欲や人間的な感情が育つとも言えるのです。
寺子屋オンエアは、今までは勉強の時間しかありませんでしたが、オンエアの教室に早めに入れるときや、勉強の途中で疲れたとき、又は、勉強のあとで少し遊びたいとき、又は、いろいろな質問や相談事があるときは、通常の勉強の教室以外のところにも入れるようにしたいと思います。
その名前の案が、「校舎の屋上」です。「今日は、早く入れる時間があるから、ちょっと『校舎の屋上』で遊んでこよう」というような感じです。ほかにも、「職員室」「保健室」「校長室」「給食室」「校舎の中庭」「校舎の裏」などいろいろなスペースが考えられます。もちろん、そこには、そのスペースを管理する先生がいて、入ってきた人がそのスペースで自由に息抜きをしたりお喋りをしたりできるという案です。
さて、寺子屋オンエアは、ネットで勉強するシステムですから、どんな僻地でも、又は、海外でも、自宅にいながらにして自由に勉強ができます。今は、1時間程度の勉強ですが、将来は、何時間でも、いろいろな教科の専門の先生がアドバイスする形で勉強ができます。ちょうど自宅に学校ができたという感じです。
ところが、自宅で勉強するだけでは、保護者がいないときは管理に不安があるとか、又は、友達との実際の交流がないとつまらないだろうとかいう声もあると思います。
そこで考えているのが、地域の時間のある人で子供たちに信頼されるような人が、自宅の一部を開放して子供たちの勉強スペースを提供してくれることです。例えば、退職した学校の校長先生などは、子供たちの性質もよくつかんでいるので適任だと思います。
その自宅を開放してくれる人は、子供たちに勉強を教える必要はありません。勉強的なことは、ネットで担当の先生が教えるからです。仕事は、もっぱら子供たちの行儀作法や生活の心構えや相談事などへのアドバイスです。その仕事を近所で手伝ってくれる人が数人いれば、子供たちの教育が地域のつながりの中で行われることになります。
「校舎の屋上」の話からだいぶ広がりましたが、将来はこのようなオンエア学校が各地にできると思います。そして、そのオンエア教育の仕組みは、日本に留まらず、海外にも輸出できるようになっていくと思います。