これから、人間の社会に大きな変化と波乱が起き、その後、新しい明るい社会が来るという話です。
今後、社会に起きる大きな変動としてほぼ確実なものは、経済の破局です。アメリカも、日本も、EUも、先進国の多くは財政的に破綻していますが、それが一私企業の破綻ではなく国家の破綻なので、あらゆる方策でその破綻が先延ばしされています。
その破綻が隠し切れなくなったとき、それに続く人心の不安や世情の混乱によって引き起こされる可能性の高いものが、戦争、パンデミック、自然災害などです。
この経済の破局とそれに続く社会や自然の混乱に対して、現在いくつかの対策が考えられています。
第一は、地球規模の世界的なインフラ開発によって、経済の破局を乗り切ろうという考えです。確かに、砂漠の緑化や海洋の開発は、人類に新しい経済のフロンティアをもたらすでしょう。しかし、それは、既に原理的に行き詰まっている工業型資本主義の延命策にすぎないのです。というのは、新しい開発は、古い開発にしばらくは取って代わることはできるでしょうが、やがてその新しい開発が行き詰まる時代が来るからです。
第二に、同じことは、BRICsの未来についても言えます。新興国の発展は、先進国の衰退に取って代わるように見えるかもしれませんが、それは先進国で既に行き詰まった社会を、あとからなぞっているのにすぎません。そして、先進国の行き詰まりは、さまざまな試行錯誤によって長期間かかりましたが、今度の新興国の行き詰まりは、急速に進みます。新興国は、追いつくのが早いのと同じように、行き詰まるのもまた早いのです。
第三に、これらの世界的な視野の対策とは異なり、個人の世界で、これからの破局の時代に備えるために、食料の生産や備蓄、信頼できる仲間作りなどに力を入れている人たちもいます。
確かに、今後食料危機のようなものも来るでしょう。預金封鎖になり、あると思っていた資産が吹き飛び、リストラの嵐が吹き荒れ、物価が高騰するような時代に、最も頼りになるものは、衣食住、特に食の確保だと多くの人が思うでしょう。
しかし、ここで考えておかなければならないことは、人類の生産力は、人類全体の需要を補って余りあるほどに豊かになっているはずだということです。今、飢餓に悩む地域の人々がいるのは、生産力の問題ではなく、政治力の問題です。
だから、もし日本で経済破局が起こったとしても、強力なリーダーシップを発揮できる政治が、「とりあえずこれまで動いていた経済の流れは、国家が1年間又は数年間無条件で保証する」と言えばいいのです。
経済の破局とは、結局信用の破局です。「ある」と思っていて、その「ある」ということを前提に回っていた経済の、最初の「ある」が「なかった」とわかることによって、信用に基づいた取引が急速に収縮するのが破局だからです。
だから、「あるはず」で回っていた経済なら、強力な政治力が、その「あるはず」を引き継いでいけばいいのです。もちろん無制限に引き継げるわけではありませんから、1年間又は数年間の猶予を設けて、その間に、「ない」世界から、「ある」世界に少しずつ社会全体で痛みを分かち合いながら移行していけばよいのです。
では、政治力が担保するその信用のもとは、何かと言えば、それはゴールドのような実物資産である必要はありません。最も信頼できる担保は、国民の未来への決意です。諸外国では、国民の決意のようなあいまいなものは、担保としての価値はないかもしれません。しかし、日本ではそれが最も頼りになる信用の基盤になるのです。
政治力が経済の流れを当面保証することができれば、国民の衣食住は、実は十分に確保されているのだということがわかるでしょう。一時的に食糧危機のような事態が現れることもあるかもしれませんが、それは、流通上の問題であって、決して量的な不足の問題ではありません。
だから、食べ物が確保され、信頼できる仲間がいるということは、もちろんよいことですが、それが未来の社会の土台になるわけではありません。それは、工業化が進展し資本主義が破綻するようになった以前の社会の理想像なのであって、未来の社会の理想像とは異なります。
では、以上のような対策ではない、真の対策とはどのようなものでしょうか。
経済の破綻と社会の行き詰まりは、「ある」はずのものが「なかった」とわかるように、これまで「価値がある」と思っていたものの「価値がなかった」とわかる過程です。今はまだそういうことに実感がわかない人が多いので、ここで具体的に何が価値ないものかと言っても空想的な話になるでしょう。しかし、この価値観の変化は、これからの社会の最も大きな変化の出発点となります。
何が価値ないものになるかということについては、まだ一致した考えはないでしょうが、何が価値あるものになるかということについては、大筋の合意が得られると思います。
これからの社会で、真に価値あることになるものは、「創造」です。創造以外の、単なる作業、ルーティンワーク、繰り返しの仕事など、人間の創造を必要としないものは、それがどれほど多くの人に求められているものであっても、いずれ機械やコンピュータに取って代わられるようになります。
また、現代の社会では、本質的な価値がないのに、それが生み出す価格によってあたかも価値があるかのように見えるものが溢れています。創造ということに照らしあわせて考えてみると、価格にとらわれないそれらの真の価値が自ずから明らかになってきます。
よく天国のような人間の理想の社会のイメージとして、人間が動物たちと一緒に楽しそうに木陰で休んでいるような光景がありますが、そういう天国は、誰でも数日間で飽きるでしょう。平和や安定や安逸は、それ自体が人間にとって価値あるものとはなりません。日曜日は、平日の仕事や学校があるから日曜日なのであって、毎日が日曜日になったら、ほとんどの人は、その休日を何か別の必要な時間で埋めていくようになると思います。
しかし、それを単なる作業のような時間で埋めるのではなく、創造の時間として埋めていくというのが人間社会の未来の姿です。
創造とは、人間によって生み出されるものです。だから、人間自体が創造的になることが必要です。その人間の創造の中心になる分野は、第一に子供たちの教育です。そして、そこから波及して大人たちの自己教育、そして大人たちの文化創造が、これからの社会の中心的な課題になっていきます。
今はまだ、教育というと、学校や学習塾で、面倒な勉強をいかに能率よくこなして成績を上げるかという小手先の工夫のようなものとして考えられがちですが、真の教育とは人間のあらゆる能力の開発です。
同じく、文化というものも、今はまだカルチャーセンターで絵を描いたり楽器を演奏したりするような余暇の過ごし方のひとつとして考えられていることが多いと思いますが、真の文化とは新しい人間活動の創造なのです。
これからは、かつてのカンブリア紀の進化の爆発のように、教育の可能性についての教育爆発のようなことが起きてくるでしょう。そして、それに続いて起こるものは、人間文化の可能性についての文化爆発です。(爆発などというと物騒ですが)
このように見てくると、これから起こる経済破綻や、それに続くさまざまな災害や騒乱は、旧時代が終わる大掃除であって、この大掃除をきっかけに、人間が真の価値に目覚め、その真の価値に基づいた新しい社会を作り上げる出発点になるのだと思います。
だから、今大事なことは、そのための未来に向けての行動をすることです。
これまでは、旧社会の批判がひとつの重要な課題となっていました。批判の必要性は、まだなくなったわけではありませんが、社会は、批判から実行へと重点を移しつつあります。
どういう明るい新しい社会を作るかという行動が、これから求められてくるのです。
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寺子屋オンエアは、かなり密度の濃い勉強になりがちです。
というのも、最初の5分と最後の5分に先生との話があり、その間の30分から1時間は、先生や友達のいる中で自然に集中して勉強せざるを得ないからです。
また、その勉強の内容も、国語の場合は、比較的難しい文章を読み、それに対する感想を書き、あとで先生の質問に答えるというものですから、考えてみると結構ハードです。たぶん、ひとりでそこまでの勉強のできる子はいないと思います。
また、算数数学の勉強も、ただプリントの量をこなすような作業的なものではなく(そういう勉強ももちろん大切ですが)、中心になるのは、できなかった問題を理解してできるようにするという努力を要する勉強です。これも、実は、ひとりではなかなかできません。
ほとんどの生徒は、中高生も含めて、勉強というものを考える勉強ではなく作業の勉強にしてしまいがちです。例えば、難しい問題を考えるでのは、易しい問題を何ページも解くというような勉強です。ノートを広げて計算をして答えを書くようなことをしていると、本人も周囲も、それを勉強している姿と思ってしまうのです。
ところが、45分から1時間、そういう集中力の必要な勉強をするのは、受験前などで自覚のある生徒には無理ではありませんが、ほとんどの小中学生にとっては、やはり負担の多いものです。
昔、言葉の森の通学教室で、小学校高学年以上はパソコンで作文を書くということをしていたころ、ほとんどの生徒は、机の前に座ると、まずはパソコンの中にあるマリオのゲームを数分してから、それからおもむろに勉強に取り組んでいました。ちょっと遊んで、そのあとしっかり勉強というスタイルが定着していたのです。みんな、優秀な子供たちです。
大人は、つい勉強だけに集中することを望みがちですが、人間というものは、そういうブロイラーを育てるような教育には向きません。勉強だけに集中しないからこそ、創造性や意欲や人間的な感情が育つとも言えるのです。
寺子屋オンエアは、今までは勉強の時間しかありませんでしたが、オンエアの教室に早めに入れるときや、勉強の途中で疲れたとき、又は、勉強のあとで少し遊びたいとき、又は、いろいろな質問や相談事があるときは、通常の勉強の教室以外のところにも入れるようにしたいと思います。
その名前の案が、「校舎の屋上」です。「今日は、早く入れる時間があるから、ちょっと『校舎の屋上』で遊んでこよう」というような感じです。ほかにも、「職員室」「保健室」「校長室」「給食室」「校舎の中庭」「校舎の裏」などいろいろなスペースが考えられます。もちろん、そこには、そのスペースを管理する先生がいて、入ってきた人がそのスペースで自由に息抜きをしたりお喋りをしたりできるという案です。
さて、寺子屋オンエアは、ネットで勉強するシステムですから、どんな僻地でも、又は、海外でも、自宅にいながらにして自由に勉強ができます。今は、1時間程度の勉強ですが、将来は、何時間でも、いろいろな教科の専門の先生がアドバイスする形で勉強ができます。ちょうど自宅に学校ができたという感じです。
ところが、自宅で勉強するだけでは、保護者がいないときは管理に不安があるとか、又は、友達との実際の交流がないとつまらないだろうとかいう声もあると思います。
そこで考えているのが、地域の時間のある人で子供たちに信頼されるような人が、自宅の一部を開放して子供たちの勉強スペースを提供してくれることです。例えば、退職した学校の校長先生などは、子供たちの性質もよくつかんでいるので適任だと思います。
その自宅を開放してくれる人は、子供たちに勉強を教える必要はありません。勉強的なことは、ネットで担当の先生が教えるからです。仕事は、もっぱら子供たちの行儀作法や生活の心構えや相談事などへのアドバイスです。その仕事を近所で手伝ってくれる人が数人いれば、子供たちの教育が地域のつながりの中で行われることになります。
「校舎の屋上」の話からだいぶ広がりましたが、将来はこのようなオンエア学校が各地にできると思います。そして、そのオンエア教育の仕組みは、日本に留まらず、海外にも輸出できるようになっていくと思います。
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寺子屋オンエアの勉強が軌道に乗ってきました。
勉強熱心な子は、いつもは1時間の勉強なのに、「今週はテスト前の勉強をしたいので1時間半参加します」というようなことを言ってきます。そういう要望にもすぐ対応できるのがネット教育のいいところです。
しかも、その1時間半の間は、先生が勉強の様子をずっと見ていられるので、勉強の仕方のよい点悪い点などもすぐにわかります。
しかし、勉強の能率を上げるというだけでは、やがて飽きが来ることもあります。
同じ時間に他の生徒の勉強している雰囲気も伝わってきますし、先生からは勉強の開始時と終了時にskypeの電話がありますから、集中力は持続しやすいのですが、小中学生は、勉強に多少の変化があった方が意欲を持ちやすいのです。
そこで、今考えているのは、寺子屋オンエアを使ったちょっとした息抜きです。
今は、ただ普通に勉強をしているだけですが、今後は、生徒が積極的に参加できる企画も盛り込んていきたいと思っています。
例えば、それは「寺子屋クラブ活動」のようなものです。
読書の好きな子は読書会をしたり、漢字の好きな子は漢字クイズ大会をしたり、英語の好きな子は英語スピーチをしたり、というような企画を、顧問の先生のもとで、子供たちが自主的に運営していくのです。
また、子供たちだけでなく、お父さんやお母さんやおじいちゃんやおばあちゃんが、寺子屋オンエアの新しい講座を開くこともできます。
これまでの勉強は、成績の上位を目指して一点の差を争うような近視眼的な勉強でした。
これからの勉強は、必要な学力は誰でも十分に身につけ、その学力の上に自分らしい個性と創造性を伸ばす勉強になります。
そのときに必要なのは、子供が主体的に取り組む機会と、豊かな人生経験や社会経験のある大人の眼差しです。
このように考えると、ネットを利用し、人と人との交流を通して学べる寺子屋オンエアは、大きな可能性を持っていると思います。
現在、言葉の森の生徒を対象に、1ヶ月の寺子屋オンエア無料体験学習を募集しています。
必要な機材と教材は、すべて無償貸与します。対象は小1から中3です。
当面は、言葉の森の生徒対象ですが、システムの改良が済みましたら、言葉の森の生徒以外の一般の方も募集していく予定です。
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夏合宿は、本日定員の20名を超えたので締め切りになりました。
今年は、野島青少年研修センターで厨房設備が整っているところなので、本格的に自炊をする予定です。
宿泊は、昨年のように教室内でテントを張ってシュラフで寝るのではなく(笑)、ちゃんとした二段ベッドで4人部屋です。ゆっくり寝られると思います。
1日目は、午前中勉強の予定です。
午後は、海辺で遊びます。イカダ作りなどをしたいと思っていますが、どうなるか未定です。
夜は、ナイトハイクで近所を探検したいと思っています。
2日目は、バスで近くの海に行く予定です。
海で、貝やウニを採って夕食のおかずにする作戦ですが、どうなるかわかりません。
遊ぶ時間はたっぷりあるので、自由時間を増やして遊べるようにしたいと思います。
バスで移動する時間は、長くても40分程度です。
車酔いをする人は、次のようなことをしておくといいです。
第一は、毎日でんぐり返しをして三半規管を鍛えておくことです。
船酔いしない方法として教えてくれた人がいました。
中根先生がおすすめする第二の方法は、バスに乗る練習をすることです。
これから毎日ルートを決めてバスに乗り、気持ち悪くなるまで乗り続けて、酔いそうになったらそこで降りて、休んで帰るのです。
このように、自分から進んで車酔いに挑戦していると、必ず酔いを克服して長い距離乗り続けていられるようになります。そして、車酔いなど全然しないようになります。
車酔いの心配がある人は、早速明日からでも試してみてください。
たまにおねしょをしてしまうかもしれないという心配のある人は、次のような練習をしておくといいです。
まず、トイレに行っておしっこをするときに、大きく目を開けるようにするのです。
いつもそのようにしていてそれが習慣になると、夢の中でおしっこをしそうなときも、目を開けるので、目の前に天井が見えて、それが夢だったのだということがわかります。
これも、心配な人は、早速今日からでも練習してみてください。
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寺子屋オンエアの受講案内を作りなおしました。
https://www.mori7.net/teraon/
この案内は、のちほど郵送します。
大きな変更点は、ハングアウトの入り方です。
これまで、ハングアウトは、招待通知を探して入るという形になっていましたが、今度からは、生徒ページのリンクですぐに入れるようになります。
また、生徒掲示板、父母掲示板は、投稿した本人だけが見られる個別対応の掲示板にしました。先生や事務局との連絡・質問・相談などにお使いください。
今後の改善点として、ウェブカメラを真上から写せるようにし、机上の勉強の様子がもっとよく見えるようにしたいと思っています。
カメラをつけたミニクリップをパソコンの手前に設置できるように、希望者には400×300mmの板をお送りします。
これで、勉強のアドバイスも更にしやすくなると思います。
寺子屋オンエアは、1ヶ月の無料体験学習ができます。
言葉の森の生徒には、必要な機材と教材は、無償で貸与します。
運営が軌道に乗ってきましたので、近いうちに言葉の森の生徒以外も参加できるようにしたいと思っています。
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今の勉強は、受験の競争に勝つことを主な目的にして行われています。そのため、差のつきやすい、うっかり間違えやすい、わかりにくい問題を解くことが、勉強の目標のようになっています。
しかし、これに対して、勉強は何かの役に立たせるために行うのだと考えると、これは受験勉強とは逆の低レベルの勉強に安住することになります。例えば、社会に出てから必要になるのは四則計算ぐらいだと考えると、数学の勉強はほとんど必要のないことになってしまいます。
数学の勉強、例えば因数分解を解くような勉強には、パズルを解くような面白さがあります。だから、受験勉強とも相性がいいのです。
しかし、実際に二次関数の解を求めるためには、根の公式さえ知っていれば間に合います。特に、現代のようなコンピュータの計算能力を前提にできる時代であれば、人間が因数分解をスマートに解く工夫をする必要はありません。
ところが、だから、そんな勉強をする必要はないのだとは言えないのです。
それは、勉強の中で真に求められているものは、試験に合格することでも、答えを得ることでもなく、その人の知的能力を高めることだからです。
多くの人が、この点を誤解しているようです。勉強は、成績のためにするものでも、実用のためにするものでもありません。成績と実用は、結果としての副産物であって、真の目標は人間の向上です。
小中学生のころに勉強が好きな子はあまりいませんが、高校生になると勉強を好きになる子が出てきます。それは、勉強というものが向上の喜びと結びついているからです。
小中学生のころは、解けた喜び、褒められた喜び、成績が上がった喜びでいいのですが、その喜びを自己の向上の喜びと結びつけていくところに教育の大きな目的があります。
昔、プログラミングの勉強を自己流でしているときに、ファンクション・オリエンテッドとオブジェクト・オリエンテッドの二つの方向があるということをある本から学びました。
その本の著者は、オブジェクトという一つのユニット化されたものを操作する方がわかりやすく能率もよいが、しかし、ファンクションという関数を自分なりに組み合わせて考える方が面白いし自分は好きだというようなことを述べていました。
そのときは、その理由がよくわかりませんでしたが、今になると、だんだん著者の言いたかったことが理解できるような気がしてきました。
数学の勉強でも、解き方のコツのようなことを知ると、確かに問題がすぐに解けて能率がよくなったように見えます。
しかし、わかりやすいということは、わかりにくい部分をブラックボックス化して、入力と出力の関係だけを操作的に理解させていることも多いのです。
すると、その操作に関しては能率がよいとしても、それを他の勉強に生かすことはできません。まして、そこから新しい考えを創造することなど更にできなくなるのです。
未来の社会で最も大事になる人間の能力は創造性です。
能率よく答えに到達する能力は、過去の工業時代に必要な能力でした。
そう考えると、これからの勉強は、答えを出すことでも、それを何かに役立たせることでもなく、問題を考えること自体の楽しさを味わうような方向で進んでいく必要があるように思うのです。
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教育の問題を考えるとき、多くの人が共通して挙げる対策は、教育の自由化です。
本日の新聞(朝日新聞2015年5月20日)に、「義務教育を学校に限らず認めるという法案が、超党派の議員でまとめられた」という記事が載っていました。
この流れは、これから加速すると思います。
しかし、今の学校で行き詰まっている問題を、民間の創意に任せれば解決するかというと、事はそれほど単純ではありません。
今の学校外の教育のほとんどは、学習塾によって担われています。その学習塾は、成績を上げるプロですから、これまでの学校よりも能率のよい教育ができるかもしれません。
しかし、本当の問題は、成績を上げるというときの成績そのものの前提が問われているというところにあるのです。
教育の本来の目的は、人間が自立して社会に創造し貢献することができるようになる力を育てることです。
ところが、受験競争の影響によって、教育の目的は、差をつけるための試験で上位の成績を取ることに置かれるようになっています。
簡単に言えば、仕事や人生のための教育ではなく、成績のための教育になっているところに、今の教育の根本の問題があります。
その教育を支えているのは、先生です。多くの先生は、成績を上げるためのプロであるかもしれませんが、仕事や人生のプロではありません。
教育の自由化を考えるときに大事なことは、まず、教育によって何を目指すかというところから自由に考える必要があるということです。
もちろん、それは成績を否定することではありません。成績も含めたより大きな目的を教育の目的として考えていく必要があるのです。。
====引用ここから。
「学校外で義務教育、容認案 フリースクールや家庭学習 超党派、国会提出めざす」
不登校の子たちが通うフリースクールや家庭など、小中学校以外での学びを義務教育の制度内に位置づける法案を、超党派の議員連盟の立法チームがまとめた。実現すれば、義務教育の場を学校に限った1941年の国民学校令以来、74年ぶりの転換となる。不登校の子に学校復帰のみを求めてきた政策も見直す動きだ。
法案は「多様な教育機会確保法案」。議連には自民、民主、維新、公明、共産などの議員が加わり、27日の総会で案を固めたうえで、議員立法に向けて今国会での提案を目指す。
不登校の小中学生が約12万人いる現状を踏まえ、文部科学省は1月、フリースクールなどで学ぶ子を支援する方向で有識者会議を設けた。法案は「多様な教育機会の確保」という理念を掲げ、対象を「様々な事情で学校で教育を十分に受けていない子」と定めた。
保護者が子どもと話し合って学校以外で学ぶことを選んだ場合、地元の教育委員会や学校、フリースクールなどの助言を得て「個別学習計画」を作り、市町村教委に申請できる。教委は「教育支援委員会」を作って審査。その結果を参考に判断する。認定した場合、教委職員やスクールソーシャルワーカーらが定期的に訪問して助言。国や自治体は家庭への経済的支援も検討するという。
学齢期の子に限らず、義務教育を受けられずに学齢を超えた人向けに、夜間中学の整備を進める仕組みづくりも法案に盛り込んだ。
■<解説>不登校の子に選択肢
不登校の小中学生は20年近く10万人を超え続けている。「なぜ学校に行けないのか」と自分を責める子や悩む親は少なくない。
その現実を前に、政府の教育再生実行会議が昨年7月、フリースクールなどの位置づけを検討するよう提言。文科省も1月から検討会議で議論を始めた。
今回の法案は、場所を限らずに、保護者が子に一定水準の教育を受けさせた場合、義務を果たしたとみなすもので、制度化への機運が党派を超えて高まってきたことを示す。「学校一辺倒の教育に風穴を開けたい」と立法チーム座長の馳浩(はせひろし)衆院議員は話す。
実現すれば、子は自分に合った学びの場を選べ、教委も子の状態を確かめながら支援できる。
ただ、課題は多い。個別学習計画を教委がどう判断するのか。子の受ける教育の質をどう保証するのか。過去には、子への暴行が問題になったフリースクールもあり、そうした施設をどう排除するのか。卒業は誰が認定するのか。具体的な制度設計はこれからだ。(編集委員・氏岡真弓)
◆キーワード
<義務教育> 憲法は保護者が子に普通教育を受けさせる義務を負うと規定し、学校教育法はその場を小中学校、中等教育学校、特別支援学校と定めている。文科省は、フリースクールやインターナショナルスクールなどに通う場合は当てはまらないとしてきた。
====引用ここまで。
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同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255) 不登校(0)
キャノンの社長だった賀来龍三郎さんは、高校生のとき、尊敬する数学の先生に、「数学は公式から自分で考えて解け」と教わったそうです。
大学入試でも、その教えを忠実に守って公式から自分で考えて解こうとしたために、時間不足で不合格になりました。そのときは、その数学の先生を恨んだようです。
しかし、その後、社会人になって、根本的に考えることの大切さを何度か経験するうちに、その先生の偉大さを改めて感じるようになったということでした。
今の世の中は、どの分野も複雑化しているので、能率を上げるために、根本から考えるよりもまず操作できればよいという考え方が主流になりつつあります。
家電製品などでも、故障すると、昔は電気屋さんが中を分解して故障を箇所を見つけたのですが、今は、ブラックボックス化したICチップをまるごと取り替えるような修理の仕方になっています。
能率は大幅に向上したのですが、このまるごと交換という対応の仕方からは、工夫も発見も生まれません。
算数数学の問題でわからない問題があったとき、まず大事なのは、自分で考えてみることです。しかし、それではあまりに時間がかかるというときは、解答を見てその解法を理解します。
学校で勉強するような数学の問題は解けることが前提に作られているので、解法を見れば誰でもわかるようになっています。
しかし、それでも理解できないとき、つい人に聞きたくなります。しかし、そこで人に聞いてわかりやすく教えてもらうと、それはICチップをまるごと交換するような勉強になってしまうのです。
すぐわかったつもりになることは、かえって自分の力として定着しません。能率よく理解する度合いが強ければ強いほど、実力はつきにくくなるのです。
世の中の価値ある仕事の多くは、無駄な遠回りを積み重ねて作られています。
今の世の中の風潮は、能率を重視し、最小のコストで最大の効果を上げることに向かいがちです。
しかし、本当の楽しみは、苦労して自分なりにつかむという経験の中にあるのです。
自由な時間のある子供時代にこそ、そういう無駄な遠回りをする楽しさを味わうことが大切だと思います。
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