国語、算数数学、英語の勉強の基本は、きわめて単純です。国語は、多読と難読の復読です。算数数学は、1冊の問題集を完璧にです。英語は、教科書の音読と暗唱です。
こういう勉強を毎日同じようにやっていれば、無理にがんばらなくても自然に勉強はできるようになります。
ところで、こういう勉強は、塾や学校でやるものではありません。家庭で自分ひとりでやる方が、最も能率よくできるものなのです。
塾などで、生徒が黙々とひとりで勉強するのをただ見守っているだけということはまずありません。先生は、必ず何かを教えようとします。
生徒が自分で勉強するのをただ見守り、質問があったときだけ簡潔にアドバイスをするという先生は、まずほとんどいません。先生にとっては、自分のペースで教える方がずっと楽だからです。
同じことは、家庭でも言えます。特に、子供が小学校低中学年のとき、お母さんやお父さんは教えたがるのです。それは、教える方が親にとっても子供にとっても簡単にできるからです。
ところが、教える勉強が中心になると、勉強の仕方が、問題を解くようなものになってきます。問題を出してテストをして○×をつけて、×のところを教えるという勉強が中心になってしまうと、かえって実力がつかなくなるのです。
なぜ問題を解く形の勉強がよくないかというと、できた問題はもともとやらなくてもできた問題ですから、その問題を解いている時間はただ解く作業だけの無駄な時間だからです。
また、できなかった問題は、すぐに答えを見て解法を理解しそれを反復して自分のものにするというのが本来の勉強なのですが、ほとんどの子は時間をかけて考えるだけで終わり、できなかった問題をせいぜい一度か二度やり直して終わったことにしてしまうからです。
勉強の中心は、国語でも数学でも英語でも、解くことではなく読むことにあります。それも、反復して読むことが大事です。
それは、人に教わる勉強ではなく、自分でやる勉強です。教わるのは、自分でやっていてわからなかったところだけでいいのです。
そういう自学自習のスタイルの勉強を、寺子屋オンエアで広げていきたいと思っています。
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テストが返ってくると、多くの子供とお母さんは、その点数だけを見て、「できた」「できなかった」と言います。
そして、ほとんどの場合、できたときは、「よくがんばったね」、できなかったときは、「今度がんばろうね」という言葉で話は終わってしまいます。
だから、何度テストをしても、上がったり下がったり同じところを上下しているだけなのです。
テストが返ってきたら、できなかったところがなぜできなかったのか考えなければなりません。
よく、「計算のうっかりミス」とか「漢字の書き間違い」とかいう、偶然のミスのような言葉で片付けてしまう人がいますが、うっかりミスにも必然的なパターンがあります。だから、当然、ミスをしないための確実な勉強法があるのです。
中学生のテスト結果を見ていると、共通するパターンがあることがわかります。
国語のテスト結果が悪い場合、その原因は、読む力の不足です。長い文章や難しい文章になると、時間内に読み取れなくなるのです。
この原因は、難読の不足です。問題集読書と読書を続けることが大事なのですが、ほとんどの生徒は、(1)国語の勉強はやりようがないから何もしないか、(2)漢字の書き取りのような知識的なことだけをするか、(3)問題集を解くような勉強をするか、のいずれかになっています。
問題集を解く勉強は、読むだけの勉強に比べて5倍から10倍の時間がかかります。つまり、それだけ密度の薄い勉強法なのですが、小学生のころから国語の問題集を解くことが国語の勉強であるかのような刷り込みがあるせいか、国語の勉強というと、国語の問題集を解くことしか思いつかない人が多いのです。
実は、国語の得意な生徒のほとんどは、国語の問題集を解くような勉強をしていません。というよりも、国語の勉強そのものをしていません。その代わり、読書が好きで、かつ難しい文章を読むことが苦にならないのです。
英語のテスト結果が悪い場合は、教科書の音読不足です。
教科書の音読をしているかしていないかは、文の語順の問題の出来具合でわかります。単語がいくつかランダムに並んでいて、その単語を正しく並べて文を作る問題です。この語順の問題は、文法的に理解してわかるものではありません。音読に慣れていれば自然にわかり、音読に慣れていなければいくら文法的に理解しようとしてもわからないのです。
教科書の音読をしていれば、それに付随して、文法的な知識も理解が早くなります。単語も自然に覚えられます。自分が声に出しているのですから、ヒアリングもできるようになります。問題集や参考書は、知識の仕上げとしてするもので、基本はあくまでも英文の音読に慣れることなのです。
方法は、1ページを20回以上音読し、そのページを空で言えるようにすることです。更にそれができるようになったら、空で書けるようにすることです。
数学のテスト結果が悪い場合は、勉強の方法が悪いからです。
数学は、受験で最も差の開く教科です。だから、数学だけは得意にしておく必要があります。
一方、国語は受験ではそれほど差がつきませんが、その後の将来の人生で大きな差がつく勉強です。だから、読書や問題集読書は、テストのためだけでなく、自分自身の成長のためにも続けていく必要があるのです。
数学の成績が悪いのは、1冊の問題集を完璧に仕上げていないからです。いろいろな問題集を8割か9割できたことで済ませているから、数学の力がつかないのです。
これも、小学校のころから、ただ問題集を解くだけで、できなかった問題を反復して仕上げる練習をしていなかったという勉強法の名残があるからです。
なぜそういう解くだけの勉強法になりがちかというと、学校や塾で使われている問題集の多くは、解法の説明が不足しているからです。
中には、小中学生の宿題で、家庭では問題を解くだけにして、答え合わせは学校で行うという形の勉強をしているところもあります。自分で答え合わせをしない勉強は、何時間やっても勉強にはなりません。
問題を解くというのは単なる作業で、本当の勉強は、答え合わせをして、間違いの原因を理解し、その問題を自力で解けるようになるまで繰り返すところにあるからです。
以上の、国語、英語、数学の勉強法は、すべて家庭で、市販のすぐ手に入る問題集を使って、自分の力だけでできるものです。数学の問題で解法を見て理解できないところがあれば、それは親に聞くか、facebookの「中学生の勉強相談室」で質問するか、寺子屋オンエアの「生徒掲示板」で質問すればすぐに教えてもらうことができます。
しかし、そういう質問の必要が出てくるのは、全勉強時間の中のほんのわずかです。ほとんどの勉強は、自分の力だけでやっていけます。
現在のように、学校も塾も至れり尽くせりの環境が整っているように見えながら、勉強の成果が出ていないのは、子供も親も、教わる勉強に慣れていて、自分で進める勉強をしていないからなのです。
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教育とは、教え育てることです。何を教えるかというと、既に答えのあるものを、先に生まれた先生が、後から生まれた生徒に、主に知識として教えることです。それによって子供は育つと考えたのです。だから、教える場も、学校や教室という空間に限定されたものでした。また、教える年齢は、学童期と呼ばれる一定の期間でした。
しかし、それは、どちらかと言えば西洋的な学校教育の考え方です。
日本では、子育ては、そのような狭い概念ではなく、子供の全人格的な成長として考えられていました。したがって、教える人は先生だけではなく、家庭の父母や祖父母、更には地域の大人や年長者でした。また、教える内容は知識というよりも、知識も含めた文化全体でした。教える場も、教室のような場所に限られたものではなく、子供の生活空間全体が教室のようなものでした。更に、子育ては乳幼児期から始まるものと考えられていました。
だから、西洋的な意味合いの教育に対して、子供の全人間的な教育を全育と呼んでもよいと思います。
その全育が、これからネットワーク技術の進歩によって復活していくと思います。
しかし、ネットワークで共有できるのは情報化されたものだけです。
テクノロジーの発達は、文字の情報だけでなく、音声や動画も情報化できるようにしました。だから、バーチャルの世界は限りなくリアルの世界に近づいているように見えます。
しかし、リアルの世界の本質は、情報化できないところにあります。それが、身体や感情や場所や時間です。
身体と感情と場所と時間は、その個人の経験と分かちがたく結びついています。ある場所に何時間いてどんなことをしてどんなことを感じたかということは、ビット化された情報に還元できない個性的なものなのです。
ここに未来の教育、全育の鍵があります。
つまり、ネットワークを活用しつつ、リアルの世界とつながる教育です。
ネットワークの活用だけでは、個人は単なる客体として対象化された生徒という存在にとどまります。今のICT教育の前提としているものは、この個別化された個人なのです。
しかし、リアルな世界だけでは、個人は全体的な主体性を回復するとしても、その中で焦点を絞った価値ある教育はできません。リアルな世界の密度の薄さを補えるものが、ネットワークの活用なのです。
言葉の森の寺子屋オンエアと夏合宿も、以上のような位置づけでこれから発展させていきたいと思っています。
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資本主義は、工業生産の時代から始まりました。
なぜなら、工業生産のためには、その生産のための機械や設備を賄うだけの資本が必要となるからです。
農業の時代には、生産はすべての人が担うものでした。土地さえあれば、誰でもそこで農作物を作ることができたからです。しかし、工業の時代には、生産設備を持っている人だけが生産の中心を担うようになります。
その生産設備を補完するものが労働者で、その労働に見合う対価が給与でした。
労働者は、その給与によって、工業生産から生まれた商品を消費します。その消費が、生産者の売上となり利益となります。
機械が動き、労働者が働き、その働きによって給与を受け取り、その給与を消費し、それが利益となるというサイクルが回っているときは問題がありませんでした。
しかし、その利益が退蔵されはじめると、経済のサイクルを流れる富は次第に縮小していきます。
退蔵は、ただ利益を金庫にしまっておくような形でなされるのではありません。
現代社会の退蔵のひとつの特徴は、それが不毛な軍備に使われたり、金融投機に使われたりするところにあります。
経済サイクルの縮小に対する解決策として、いくつかの案が考えられていました。
第一は、退蔵される富に見合うだけの消費を新たに作り出すことです。(ケインズ)
第二は、退蔵される富に見合うだけのマネーを新たに供給することです。(マネタリスト)
第三は、退蔵する余裕がないように、企業間の競争を活性化させることです。
第四は、退蔵されようとする利益そのものを労働者で分配することです。(マルクス)
しかし、今、この資本主義の経済サイクル自体に、大きな変化が起きつつあります。
それは、先進国の消費の焦点が、工業製品の消費から、より文化的なものの消費に移りつつあることです。
昔、カー、クーラー、カラーテレビが三種の神器と呼ばれていたころ、それらの製品が持つ性能は多くの人の関心の対象でした。
しかし、今それらの工業製品は、日用品化し、性能は似たり寄ったりと見なされ、性能に対するこだわり持つ人は少なくなっています。
そのかわり、人間の持つ関心の中心は、出会い、触れ合い、新しい経験、自己の向上、社会への貢献、創造への参加など、より文化的なものに移り変わりつつあるのです。
この文化の消費の特徴は、その消費によってやがて自分が同じ文化を生産する側に回ることができるという点にあります。
そして、ネット化された社会では、生産は、かつてのような巨大な資本を必要としないものになりつつあります。
例えば、昔は仕事を始めるのに場所が必要で、そのための家賃が必要でした。今は、ネット店舗は多少のウェブの知識があれば誰でも作ることができます。
昔は働いてくれる人を確保するための人件費が必要で、それは簡単に増減できないものでした。今は、ネットでプロジェクトチームを立ち上げれば、必要に応じて人を集めることができます。
昔は、商品を宣伝するためには、看板やチラシが必要で、そのためにはそれなりの広告費が必要でした。今は、ネットワークのソーシャルなつながりがあれば、情報はその魅力に応じて拡散することができます。
昔は、新しい商品を開発するためには研究開発のための費用が必要でした。今は、ネットの交流の中でオープンな情報交換ができるようになっています。
こういうネットワークのインフラに支えられた文化産業の時代が、これから日本で始まりつつあります。
言葉の森の寺子屋オンエアも、このような歴史的文脈の中で考えています。
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日本の重厚長大産業は、強い国際競争力があります。それは、これからのデフレ化の世界的インフラ整備の流れの中で、日本の経済発展を土台となるものです。
これに対して、スマホ、パソコン、テレビなどの軽工業は、人件費の低い新興国に生産の中心が移っていきます。
しかし、だから、これから日本は重厚長大産業を中心にがんばればそれでいいのかというと、そうではありません。
それはなぜかというと、重厚長大産業は、雇用を創造する力がないからです。より正確に言えば、良質の雇用を創造する力がありません。
土木業界は、今人手不足だと言われていますが、それは、外国人労働者の導入でカバーすることが考えられるような労働力です。それはまた、いずれロボットで置き換えられるような労働力です。今後の日本の社会に必要な雇用は、そのような雇用ではなく、仕事の中で人間の成長が実現できるような雇用です。
航空宇宙産業も重厚長大産業の一種ですが、そこでは新しい雇用はほとんど生まれません。
今、多くの雇用を生み出しているのは、サービス業ですが、その多くは単純サービス業です。その仕事を何年続けても、それが自分の向上や経験の蓄積にならないような仕事は、たとえ多くの雇用を生み出していたとしても、未来の日本を支える産業にはなりません。
これから必要なのは、その仕事の中で人間が成長し、社会に新しい創造を提案できるような教育的文化的なサービス業です。
そして、この新しいサービス業という分野こそ、日本人が最も得意とする分野です。だから、教育文化産業は、今後、重厚長大産業と同じかそれ以上に、強い国際競争力を持つようになるのです。
言葉の森の寺子屋オンエアは、この新しい教育文化産業という位置づけで開発を続けています。
先はまだ長いかもしれませんが、日本の社会を更に発展させるためにがんばっていきたいと思います。
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言葉の森の寺オンで国語問題集の勉強をしている子の多くは、それだけでは時間が余るので算数数学の勉強をしています。
「でき太くんの算数クラブ」のプリントをやっている子も多いですし、「これでわかる算数(数学)」をやっている子も多いです。
学校や塾の問題集をやっている子もいますが、これはあまりすすめていません。
算数数学の勉強で大事なことは、できなかったとき、どうするかということです。
できる問題をいくらやっても力はつきません。勉強に時間をかけているわりに成績が思わしくない子は、できる問題ばかりを一生懸命やっているのです。
ある数学の個人塾で、成果を上げているところの勉強の仕方は、次のようでした。
まず問題集を1冊決めます。次に、生徒がそれを自分で解きます。問題を解いたあと自分で○×をつけ、×のところの解法を理解します。生徒が自分で解法が理解できないときだけ、先生に聞きます。
だから、先生が教えるのは最低限のことだけです。こういう勉強の仕方ですから、場合によっては先生が何も教えない日もあります。この勉強の仕方で、数学の力が確実につくのです。
ところが、今、多くの学校、塾、家庭でやっている勉強はこれとは正反対のやり方です。
まず、先生が教えすぎるのです。だから、生徒は受け身で聞いています。
問題をやる場合でも、生徒が自分で答え合わせができないように、答えだけはずしてしまう先生もいます。答え合わせも受け身なのです。
答えが違っていた場合も、多くの問題集は解説が不親切すぎます。まるで、先生に聞かないとわからないような作りの問題集になっているものが多いのです。
こういう勉強を続けていると、子供はどんどん受け身になっていきます。その結果、わからないことがあると、すぐ教えてもらおうとします。すぐに教えてもらった子は、そのときはわかった気がしますが、実力はつきません。
実力は、自分で考えて理解し、その理解を何度か反復する中でついてくるからです。
算数数学の勉強で大事なことは、まず問題集選びです。いちばんの基準は、解法が詳しく書いてあることです。その点で、学校や塾で使う問題集のほとんどは不合格です。それらの問題集は、先生がいないと勉強できない仕組みになっているからです。
「でき太くんの算数クラブ」のプリントは、子供が自分で勉強する中で理解する仕組みになっています。こういう自学自習の勉強法が重要なのです。
次に大事なことは、できなかった問題があった場合、自分で解法を理解しようとすることです。
学校でまだ習っていないところを勉強している場合は、解法の理解よりも、その単元の解説をしっかり理解することが先です。解説は、ただ読むだけでなく、そのとおりをノートに書き写し、その例題と解答が確実にできるようにしておきます。こうすれば、ほとんどの解法は理解できるようになります。
しかし、それでもまだ解法が理解できないときは、身近なお母さんやお父さんに聞きます。お母さんやお父さんが、学生のころ算数数学が苦手だったとしても問題はありません。
その解法のどの行からどの行に移るところがわからないかという絞った質問を子供にさせるようにすれば、小中学校の算数数学は、大人であれば誰でも理解できるようになっているのです。
お母さんやお父さんが子供に教えるときに大事なことは、教えすぎないということです。誰でも、自分にわかることはつい詳しく教えたくなるものですが、よくわかっていることほどできるだけ教える割合を少なくして、子供が自分でわかるようにさせておくことです。
また、その場で教えて子供ができるようになったことでも、人に教わったことは、1日たつと忘れてしまうのが普通です。同じ問題を、次の日にも、また次の日にも同じように聞かれても、同じように忍耐強く教えていくことが大事です。
親子で勉強すると、親子喧嘩になってしまう原因の多くは、親が熱心に教えすぎることと、一度教えたことはすぐできるようになるものだと思ってしまうことにあります。
では、親が解法を見てもわからないときはどうするのでしょうか。そのときは、先生に聞くのです。
しかし、解法を見ても、親が理解できない問題は、その問題集自体がよくないか、あるいはもともとできなくてもよい問題なのです。
なぜできなくてもよいかというと、その問題で入試の点数に差がつくことはほとんどないからです。
これは、国語でも同じです。
例えば、センター試験の選択問題は、原則として満点の取れる問題ですが、中には先生も正解が理解できない問題があります。その問題はできなくてもよいのです。
できるべき問題が確実にできていれば、できない問題はできなくてもよいということを子供に教えてあげることも大切な勉強の仕方になります。
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この、アプリがないと、私はもうダメなのです。本当に助かります。
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合気道と書道の師匠が、偶然同じことを言っていました。練習は、毎回同じようなものなので、3、4か月やってみて、「ああ、なんだ、毎回同じだな」とやめる人。もう一方は、やらないとなんかおかしいという感じになってくる人。そういう二種類の生徒がいるということです。(師匠とは、保江邦夫さんと山本光輝さんです。)
現代の社会では、勉強は知識として習得することが中心になっています。数学の解き方のような方法も、知識として習得できます。理屈で理解して知識として習得するのですから、短期間で成果が現れます。
夏休みは、苦手科目を克服する時期だと言われています。夏休みの1ヶ月間、英語や数学などの特定の教科を本気で勉強すれば、そのわずか1か月で苦手が普通に、普通が得意になるぐらいの大きな変化があります。
同じように、国語でもテストの成績をある程度上げることはできます。それは、国語の問題の解き方にも、知識で理解して習得できる面があるからです。
しかし、国語力の土台になっているものは、知識や理解ではなく、その生徒のそれまでのトータルな読書や経験や思考の蓄積です。
だから、国語の問題集を解くような勉強では、国語力は決して身につかないのです。
では、国語力はどのようにして身につくかというと、それは合気道や書道の師匠が言っていたことと同じで、毎回同じようなことを続けることによってです。
国語の問題集は、ほとんどの場合、一度解いたらそれで終わりです。解けなかったからといって、同じ問題を二度三度解く人はまずいません。
数学の勉強は、これとは正反対です。数学は、解けなかった問題だけを、繰り返し解くことによって初めて身につきます。
国語は、問題を解くことによってではなく、問題に出されるような難解な文章を繰り返し読むことによって身につくのです。
ところが、この難解な文章を繰り返し読むという勉強は、家庭ではなかなかできません。それは、問題を解く勉強と比べると、形として残るものがないので、まず子供が飽きてしまうからです。
また、子供が何とか続けている場合でも、親にはその続けている中身を確認することができません。「問題集読書、やった?」「うん」。これでおしまいになってしまうのでは、親子とも張り合いがありません。
それで、多くの人は、国語の問題を解くような形の残る勉強に戻ってしまうのです。
国語の勉強は、知識と理解の勉強ではありません。体力をつけるのと同じ性格の勉強です。
知識と理解の勉強であれば、週1、2回でも成果が上がります。体力をつける勉強は、毎日やらなければ蓄積されません。しかも、毎日やっても変化がないような状態が長く続き、成果のことなど忘れたときにいつの間にか力がついていることに気づくのです。
言葉の森では、中学1年生のときに国語が苦手だったという子が、毎週作文を書くために長文を読むという勉強を続けているうちに、中学3年生になるころにはいつの間にか国語がいちばん得意になっていたという話がよくあります。
それは、国語の問題を解くことによってではなく、国語の問題に出てくるような難しい文章を繰り返し読んでいたからそうなったのです。
しかし、同じように作文や感想文の勉強をしていても、長文をあまり読まず、先生の言ったヒントだけをもとに書いてしまう生徒はあまり力が伸びません。
同じような勉強をしていても、自分の力で読む生徒と、人に教えてもらう生徒とでは、実力のつき方が違うのです。
そこで、言葉の森では、寺子屋オンエアという、先生と生徒が時間を共有できるできる仕組みで、国語の問題集読書を中心とした家庭学習の指導を始めました。
この問題集読書で大事なことは二つあります。
第一は、短い時間でいいから毎日やることです。問題集読書の音読だけならわずか3分でできます。感想を書く時間を入れてもせいぜい10分から15分です。これを毎日続けていくのです。
第二は、1冊の問題集を一度読み終えたら、また最初から繰り返し読むことです。この繰り返しを5回行うのです。
この問題集読書で、本当の国語力をつけ、それを作文の勉強にも生かしていくという形の勉強を作っていきたいと思っています。
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成績表をもらう時期になると、よくある話です。
言葉の森の生徒の保護者から、「ほかの成績はいいのに、作文のところだけCなんです」という相談を時どき受けます。
あるお母さんの話では、学校の家庭訪問のときに、習い事の話が出て、作文を習っていると言ったすぐ次の学期から、作文だけがCになったそうです(笑)。
こちらは、またかと思って笑って聞いていますが、そういう成績をつけられた子供はたまりません。せっかく熱心に勉強しているその勉強だけがとりたてて駄目だと評価されるのですから結構傷つきます。
しかも、そういう子たちが決まって明るく素直な性格のよい子なのです。
算数、理科、社会などのほかの教科では、こういうことはありません。また、同じ国語でも、漢字力や読解力の評価ではこういうことはありません。
それらは客観的に評価できることですし、誰かが特別の教え方をしているわけではないので、言わば誰でも教えられる勉強なので、先生の権威も傷つかないからです。
国語の専門の先生は、国語という教科に対して思い入れのあることが多く、特にそれが作文という勉強には強く表れます。
作文は、専門的なベテランの先生でなければ十分に教えることができないという思い込みがあるのです。
どの世界にも、未熟な人はいます。学校の先生だから特別ということではありません。
もちろん大多数の先生は、そんなことにヤキモチを焼いたりせず、むしろ子供をよいところを励ます接し方をしています。
先生という仕事で最も大事な性格が、このいつでも子供のよいところを見て明るく励ますことがができるということなのです。
では、子供がそういう「作文のところだけがC」という成績をもらってきたとき、お母さんはどうしたらいいのでしょうか。
子供には、次のように言ってあげるといいのです。
「作文というのは、いろいろな見方があるけど、お母さんはあなたの作文はとてもいいと思っているのだから大丈夫。いつか、あなたが大きくなったとき、この作文Cの評価が楽しい想い出話になると思うよ」
このように明るく爽やかに、むしろその悪い評価を楽しむような気持ちで話してあげるといいのです。
そして、こういう話し方によって、子供は不本意な悪い評価を受けたときに、どう対処していけばいいのかという人生の大事なコツも学んでいきます。
「
行蔵は我に存す。
毀誉は人の主張」(勝海舟)
他人の評価は過去のものとして明るく受け流し、自分は自分のよいと思ったことを実行していけばいいのです。
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