先日、中学1年生の生徒のお母さんから相談がありました。
「言葉の森の勉強では、よく書けるのに、この前、学校の宿題の感想文を自分で書いたというのを見たら、とてもひどい出来で驚いた」と言うのです。
こういうことは、小学生の場合は、もっと頻繁にあります。
言葉の森で先生が書き方を説明したあとに書く場合は、構成や表現を意識して書くので上手に書けます。しかし、そういう目当てがないところで、自由に作文を書くとなると、言葉の森で勉強したことがまだ一般化された形で自分の中に蓄積されているわけではないので、昔ながらの書き方に戻ってしまうのです。
しかし、実力というのは、目標が与えられたときにその目標が達成できるということですから、これで充分実力がついています。言葉の森で勉強したことが自分なりの書き方として定着し、必要に応じて書けるようになるのは、勉強の自覚ができる中学3年生ごろからです。
中学1年生のころは、まだ意識的に書くということができないのです。
昔、真面目に言われたとおりにしっかり書ける小6の生徒がいました。その生徒が、修学旅行の作文を学校で書いたというので見せてもらうと、中心を絞って書くどころか、「朝起きてから夜寝るまで」の感じで、あったことをそのままずらずらと書いているだけでした。構成の意識も、表現の工夫もありません。言葉の森で勉強している成果としては、何しろ長く早く書けたということぐらいだったのです。書く前の事前のアドバイスが10分もあれば、もっといい作文を書ける子なのですが、事前指導がないと、昔に戻って書いてしまうのだということがよくわかりました。
また、東大の理学部と早稲田の政経学部に進んだ2人の生徒ですが、2人も小学校低学年から言葉の森で勉強をしていました。その子たちの中学1年生のころに書いている作文は、ごく平凡なものでした。構成も表現項目も意識して書いているので、一応はしっかり書けています。しかし、切れ味のよさがないのです。
ところが、そういう曖昧なことで評価しては、ただ自信をなくすだけです。だから、構成と項目と字数ができていることを毎回褒めていました。
作文の勉強は週1回ですから、毎回、難しい長文を読みます。欠席もほとんどなく、毎週長文を読んで書いているうちに、高校生ぐらいになると、「これはうまい」というような作文がだんだんと書けるようになったのです。
作文の勉強は、気の長い勉強です。数学や英語の勉強であれば、短期間の集中学習で成績を急上昇させるということはあり得ます。だから、受験前の夏休みは、この急上昇の機会なのです。
国語の読解力についても、比較的短期間で成績を急上昇させることはできます。しかし、難しい文章を読み取る力と、上手な作文を書く力は、かなり長い時間をかけて成長するものです。だから、作文の勉強をしている間は、書かれたものはいつでもよいところを見て褒めてあげ、その一方で読書と長文音読を気長に続けていく必要があるのです。
この気の長い勉強に我慢できず、子供の作文の欠点をすぐに直そうとすると、作文の勉強は続かなくなります。
学校で書いた作文がうまく書けていようがいまいが、そういうことには気をとらわれず、言葉の森で毎週書いている作文の字数と項目ができているかどうかだけをしっかり見て、毎日の音読と、そしてできればその音読をもとにした親子の対話に力を入れていくといいのです。
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国語力をつける勉強の基本は、多読と難読(難しい本を読むこと)です。多読は誰でもできますが、難しいのは難読の方です。
まず、小中学生が読むのにふさわしい難読の本が不足しています。新聞のコラムも難読の一種ですが、やはり文章が易しすぎることが弱点です。
そこで、言葉の森では、問題集読書という形で、入手しやすい難読の文章を読むことをすすめています。問題集の文章には出典が載っていることが多いので、興味を持った内容であれば、図書館などで元の本を借りてくることもできます。
ところが、難読を家庭で続けていくことはかなり難しいのです。それは、難しい文章を繰り返し読んでいると、次第に表面的な読み方になってしまうからです。
そうならないためには、音読で読むことです。しかし、音読を家庭で続けさせるというのもまた難しいのです。
そこで、寺子屋オンエアでは、skypeのビデオメッセージに音読を入れて、それ担当の先生に送信するというやり方を始めました。
音読が続けにくいのは、形の残らない勉強なので、張り合いがないからです。
ただし、大事なことは、音読を近くで聞いているお父さんやお母さんがいる場合、決して子供の音読に対して注意をせず、いつも温かく褒めてあげることです。
男の子の場合は、必ずと言っていいほど、早口で読んだり、声色を変えて読んだり、言葉の一部を変えて読んだりというふざけた読み方をすることがあります。そのときにもしその読み方を注意すれば、しばらくは真面目に読むかもしれませんが、そのうち音読をしなくなります。
もし、ふざけて読んでいても、にこやかに見ていれば、やがてふざけて読むことに飽きて普通に読むようになります。そして、そういうゆるやかな勉強法の方が、ずっと長続きするのです。
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上田さんは、落ちこぼれの小中高時代→東大合格→オーディオブック会社の経営、という経歴の持ち主です。
その著書「勉強革命」の国語の勉強法のところを読んで、言葉の森の普段の指導と同じような内容だったので、似たことを考えていた人もいるのだと少し驚きました。その引用です。
上田さんが、大学受験を前にして、偏差値30というどん底の中から編み出した勉強法は、徹底して音読するという方法でした。
まず、すべての学力の基礎は国語力だと認識して、国語力のアップに取り組みました。
国語力が最も大事だというのは、小中学生だけでなく、高校生にもあてはまる真理です。
小学生の場合は、計算ができても文章題が理解できないという子がときどきいます。高校生の場合は、英語の単語や文法は理解できても、その英語で書かれた内容で論説文の難しいものになると、国語力がないために読み取れないということが起こります。難関大学の英語力の半分ぐらいは国語力だと思います。
さて、著書の上田さんは、難しい文章を百回音読するということから始めました。
百回というのは、江戸時代の教育家である貝原益軒も述べている方法です。それは、論語を百字ずつ百回ずつ読み、空で読み空で書けるようにするという方法でした。
言葉の森の音読指導で、よく保護者から質問があるのは、「意味のわからない言葉があったらどうするのですか」というものです。言葉の森の回答は、「意味はわからなくていいです。わからなくてもすらすら読めるようになればいいのです」というものです。
意味がわからず、つっかえつっかえ読んでいる子に、辞書を引いて意味を調べさせるようなことをすれば、すぐに音読が嫌になります。そして、結局調べた意味も頭の中に残りません。
ところが、音読を続けて、すらすら読めるようになればいいと思ってやっていると、調べなくても自然にわからない言葉の意味が大枠としてわかってきます。その大枠がわかってくると、自然に身近な人に聞いたり自分で調べたくなったりするのです。
わからないから調べるのではなく、わかりかけてきたからはっきりさせたいと思って調べるのです。
だから、親は、「わからない言葉は調べなさい」などと言わずに、ただ「すらすら読めるようになればいい」とだけ言っていればいいのです。そして、繰り返して音読をしていれば、誰でも例外なくすらすら読めるようになります。例外なくできるようになるというのが、この音読のよい点です。
ところが、学校などの宿題として出される音読は、いくつか問題があります。第一に、もとになる文章が易しすぎるものであることが多い点です。第二に、繰り返しの回数があまりにも少ないのです。百回読むなどということはまずありません。第三に、宿題として出されたからという理由でやっていると、宿題がないとやらないようになるのです。音読は、基本となる勉強ですから、宿題としてではなく家庭学習として独自にやっていく必要があります。
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小1、小2の勉強では、やることがはっきり決まっています。漢字の書き取り、計算の練習、そこに少し難しい文章題があるくらいです。
やることが単純で明確ですから、この時期の教材は、紙の教材にしてもパソコンの教材にしても工夫されたものが多く、その工夫された教材をやっていれば、誰でも勉強ができるようになります。
しかし、誰でもできるからこそ、そこで逆に間違った勉強法を定着させてしまうことも多いのです。
間違った勉強法とは、第一に難しいことをやりすぎることです。第二に長い時間やらせすぎることです。第三に親がすぐに教えすぎることです。なぜこれらが間違っているかというと、今はよくても子供の将来の成長にとってはマイナスになるからです。
低学年のころは、難しいことをやらせても頭がよくなるわけではありません。それよりも勉強というものを嫌いになることが多いのです。長い時間やらせると、確かにその時点での成績は上がります。しかし、だらだらと勉強をする癖がついてしまいます。また、親がていねいに教えすぎると、親がいないとできないとか、誰かに教えられないとできないという自主性のない勉強になってしまうのです。
このようなことが結果として出てくるのが、小学校中高学年からです。しかし、そのころになると、いったんついた習慣はなかなか変えられません。だから、小学校低学年の簡単に勉強させられる時期に、正しい勉強の仕方をしていくことが大事なのです。
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多くのお母さんが困っていることとして、子供に集中力がないということが挙げられます。集中してやればすぐにできることを、気が散ったり、ほかのことをしたり、ぐずぐずしたりして、結局時間ばかりがかかってしまうというようなことです。
しかし、少し想像力を働かせてみればわかるように、あまり面白くないことでも義務だからといって集中してできる子がいたら、それは勉強だけすればいい学生時代にはいい子かもしれませんが、社会生活の上ではそうではありません。社会生活の中で、他人と協同して仕事をしたり、人の上に立ってリーダーシップを発揮したりすることは、かえって難しくなることが多いのです。勉強の面でのいい子は、生活や人生の面では必ずしもいい子ではありません。
創造力のある子ほど、好きなことには集中しても、興味のないことにはすぐに飽きます。しかし、本人は、興味のないことであってもちゃんとやらなければならないことはある、とうすうす分かっているのです。
そういう子が、受験などで集中して勉強する必要を感じたときに、自分のそれまでの経験から、集中しにくいことをどうしたら集中できるかという工夫を自分なりに考え出していきます。だから、集中できないことも、それがかえって自分の貴重な経験になっているのです。
そのような一見無駄に見える経験をさせずに、集中してやらざるを得ないように、塾に入れるとか、賞罰でコントロールするとかいうことをしていると、子供はかえって自分の成長によって克服するということができなくなります。
子供の成長という観点から見ると、親のアドバイスも変わってきます。単に、「もっと集中してやりなさい」ではなく、集中の大切さを説明し、その困難さに共感し、集中するための工夫をいくつか提示してあげるのです。しかし、その工夫を生かすかどうかは本人の自主性と成長に任せます。
大事なことは、今すぐの結果ではなく、その子供の将来の成長なのです。
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言葉の森では、よく保護者の皆さんに、「作文はいいところを見て、褒めるだけにしてください」と言っています。
すると、中には、「間違っているところがあっても、注意してはいけないのですか」と聞かれる人がいます。
その気持はわかります。しかし、そうなのです。間違ったところがあっても、そこは注意せずに、作文のほかのよいところを褒めるだけなのです。
しかし、「見るとつい注意したくなるから、作文そのものを見ない」というのは駄目です。身近なお母さんやお父さんが関心を示してくれることによって、子供も書くことに張り合いが出てくるからです。
では、なぜ間違ったところも注意してはいけないかというと、正しい注意であっても、その注意の言葉に乗る波動(のようなもの)に問題があるのです。
例えば、「この字が違っているよ」と指摘するのは、正しい注意です。しかし、そのとき、その言葉の中に、「こんな字も間違えていて、しょうがないわねえ。何て馬鹿なの」と、そこまでは思わないかもしれませんが(笑)、そういう気持ちが乗ってしまうことが多いのです。
すると、子供は、その注意の言葉よりも、その本心である波動の方を読み取ります。それで、だんだんと気持ちが暗くなり、そういう波動を出す人を避けるようになるのです。
お母さんの前では音読をしない、お母さんに作文を見せない、お母さんと一緒には勉強しない、というのは、すべてこの波動のせいです。
だから、逆に言えば、どんなに注意をしても、そこによい波動があれば、子供はその注意の言葉を素直に受け取ります。(ただし、受け取るからすぐできるようになるかというと、それはまた別の問題です。)
よい波動を出すコツは、どんなときにも、楽しい、嬉しい、面白いという気持ちで子供に接することです。
そのためには、子供を成長する存在として見ることです。例えば、よく間違える、言うことを聞かない、真面目にやらない、などの今は欠点に見えることであっても、それを上からコントロールして親に従わせようと思うのではなく(上からの断固としたコントロールが必要なときはもちろんありますが、それは滅多にあるものではありません)、本人の自覚と成長に期待するということです。
今あるように見える欠点も、必ず本人の成長によって長所に変わると確信することが、明るい波動をで接する前提になるのです。
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家庭学習は、小学校1、2年生のころは、誰でもうまくできます。それは、第一に、勉強の内容が簡単で、子供も言われたことをすぐに理解するからです。第二に、その時期の子供は、親や大人の言うことをよく聞くからです。
しかし、小学校3、4年生になると、家庭学習を続けることがだんだん難しくなってきます。それは、すぐにはわからないことが出てくるので何度も教えるようになるからです。また、子供に自立心が出てくるので、「嫌」ということが言えるようになるからです。
小学校3、4年生で家庭学習を表面的にはうまく続ける方法があります。それは、無理のない易しいプリント学習をすることです。易しい問題を易しい形でできるようにして、しかも見た目は何かを成し遂げたかのような外見を持つ、工夫された教材というものがよくあります。そういう教材であれば、親が口を出さなくても、子供は自分でやっていけます。しかし、親が口出しをしなくてもできるような教材は、いくらやっても力がつくことはないのです。
力をつけるための教材であれば、必ず難しいところが出てきます。それを身近な親に質問して、親が子に教えてあげるというのが家庭学習です。
ときどき、親子で勉強すると喧嘩になるので、塾にお任せするという人がいますが、塾で勉強していても、力のつく勉強であれば、必ず難しいところが出てきます。学校でも、塾でも、その難しいところを先生がすべて個別に対応して子供に理解させてあげることはできません。だから、同じような勉強をしていても学力に差が出てくるのです。
中3までの勉強は、高校受験の勉強も含めて、基本的に親が教えられるものです。なぜなら、中3までは義務教育で、誰でもひととおり同じことを習っているからです。
もちろん、実生活であまり使わない分野の数学や理科は、子供の質問にすぐ答えることはできないのが普通です。しかし、親であれば、問題と解法を照合すれば、必ず理解できるだけの素養があります。問題と解法だけでは理解できない場合でも、身近な人に聞けば、すぐにわかるようになります。それでもわからない問題は、できなくてもよい問題と割り切ればいいのです。
子供が学校や塾や通信教育で勉強していて、その勉強でわからないことがあったときだけ親に聞くという体制ができていれば、その子の学力は必ず上がります。わからないことがあったら学校や塾の先生に聞けばいいと思うかもしれませんが、ほとんどの子供は先生に質問するということに遠慮するのです。たとえ質問をしても、先生がある程度教えてくれれば、それで自分が百パーセント理解できたわけでないときも納得してしまいます。だから、どんな塾に行こうが、学力をつけるためには親子で勉強できる体制を家庭で作っておく必要があるのです。
では、親子で仲良く勉強するために必要なことは何でしょうか。それは、決して叱らない、注意しない、けなさない、からかわない、笑わない、馬鹿にしない、などです。つまり、子供がいつもいい気分で勉強できるように、親がいつもにこやかに子供のやることを認めてあげることです。勉強面では、いつも褒めてあげるというのが基本です。子供がテストでどんなに悪い点数を取ってこようが、それを明るく認めて、励ましてあげるという姿勢で接するのです。
勉強では全面的に褒めて認めてあげる代わりに、躾の面ではある線までは厳しくする必要があります。これは、どちらかと言えば父親の役割になると思います。例えば、朝起きたら挨拶をするとか、玄関の靴をそろえておくとか、返事ははいと言うとか、乱暴な言葉を使わないとか、そういうことです。躾に一本筋が通っていれば、勉強面でどれほど甘く接しても、いい加減になることはありません。そのためには、躾は例外なく厳しくして(と言っても、厳しく叱るようなことは年に数回あるかないかで、そのうち叱ること自体がなくなるでしょうが)、その一方で勉強は全面的に甘く優しく楽しくやっていく、これが家庭学習を親子でうまく続けていくコツです。
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家庭で勉強しようが、塾で勉強しようが、学力をつけるためには結局は家庭で親子で勉強できる体制があるかどうかなのですね。
しかも長く続けるには喧嘩せずよいムードでないといけません。
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●考える力の土台となる親子のベータ対話
考える力のもとになるものがベータ読みだとすると、ここで親子の対話という方法の重要性が出てきます。
わからない話を聞くというベータ聞きを続けられる人はあまりいません。同じように、わからない本を読むベータ読みを続けられる人も、あまりいません。特に、子供であればそうです。
しかし、親子という身近な間柄では、ベータ対話ができるのです。それは、親は子供にとってはわからない話をしながら、その子の反応によって、話を面白くしたり、少し易しくしたり、脱線したり、発展させたりできるからです。
このベータ対話のきっかけになるものが、ベータ読みです。そのベータ読みの手軽な方法が、言葉の森の課題長文の音読や問題集読書なのです。
●これからの子育て
親子の楽しいベータ対話で考える力をつけ、易しく面白い本の読書で多読力をつけ、長文音読や問題集読書のベータ読みで考える力を伸ばし、8割の学力を確保するために教科書レベルの1冊の教材を百パーセントマスターし、その子の興味関心を発見するために多様な経験をさせ、その興味関心を伸ばすために無駄と思えるような自由な時間を確保し、受験期でない普通の勉強の時期に教科書レベルの教材の学年先取りを進めておき(それは、教科書レベルの教材を毎日普通にやっていると、自然に学年よりも進んでしまうからです)、受験期には過去問をもとにした受験のための集中学習を親子の協力で行い、将来は自分の個性を伸ばして生活の糧となる小船を作ることを考える、というのが、これからの子育ての基本になると思います。
●言葉の森の教育のビジョン
言葉の森では、このような現代の子育てに対応するために、作文学習とともに、寺子屋オンエアを行い、プレゼン作文発表会を行い、夏休み自然寺子屋合宿を行い、作文検定試験や各種自習検定試験を行っています。今、新しく企画しているのは、新たに作る暗唱長文集をもとにした暗唱検定です。
これらの企画をインターネットのクラウドサービスを利用して、世界中にいる日本の子供たちが誰でも気軽に参加できる形で広げていきたいと思っています。
教育は、その時代の社会に広く対応しています。言葉の森が考えているのは、教育だけの教育ではなく、新しい日本の社会のビジョンも含めた教育です。
これからの教育は、教育の専門家によってではなく、子育てをするすべての人たちの手によって作られていく仕事なのです。(完)
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