子供が一生懸命勉強していると、お母さんは喜ぶと思います。「そんなに勉強しないで、もっと遊んだり休んだりしなさい」という人はあまりいません。
しかし、本当は、子供が一生懸命に勉強しすぎていたら、特に小学生の場合は、ほどほどに抑えておくことが大事なのです。
食事の場合は、おいしいからと言って食べ過ぎれば、あとでお腹をこわします。勉強も、そして遊びもそうなのです。
子供の話から、ペットの話に変わりますが、ペットの子犬を訓練するとき、大事な原則が二つあります。それは、決して例外を作らないこと、やらせすぎないことです。
子犬の場合は、正直ですから、ルールに例外を作ると、そのルールはすぐ守らなくなります。
例えば、「吠えてはダメ」というルールを決めたら、どんな場合でもそのルールを守るようにします。たとえ、泥棒が入ってきたときでもそうです。一度決めたルールに例外を作ると、それはもうルールではなくなってしまうからです。
これは、ほんの一度か二度の例外でそうなります。そして、一度ルール作りが失敗すると、それはもう直すことができなくなるのです。
ときどき、「子供が言うことを聞かない」と相談されるお母さんがいます。それは、小さいころに、何度か例外を作ってしまったので、子供が親のいうことは聞かなくてもいいと学習してしまったからです。
では、どうしても例外を作らなければならないときはどうするかというと、「なぜ、今日は例外なのか」ということを、ひとこと理屈で説明しておけばいいのです。「今日は、○○だから、このへんまでこうしようね」と線引きの基準を変えるのです。
例えば、読書を毎日すると決めているのに、何かの行事などがあって遅くなりできなくなった場合は、「今日は遅いから、読書は5ページだけにしようね」という言い方で基準を変えます。5ページなど、読んでも読まなくてもほとんど変わらないぐらいの分量です。しかし、大事なのは、理屈できちんと、ルールに例外はないというメッセージを伝えておくことなのです。
この言葉で理屈を説明する方法は、子犬と違って人間の子供だからこそできるルールの守り方です。(つづく)
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大人は臨機応変ということができますが、子供はできません。
だから、読点の打ち方などという、ルールはあるが例外もあるということは教えにくいのです。
子犬も同じです。(犬と人を一緒にするなって)
同じことでもこの場合はよいが、あの場合はだめということはなかなか理解できません。よいか悪いかのどちらかしかないのです。
だから、大事なことは、子供と子犬には例外を作らない接し方をすることなのです。
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今の学習塾などでやっている勉強は、無駄の多い勉強です。それはなぜかというと、プリントが多すぎるのです。
プリントが多ければ、結局子供は1回しかやりません。すると、できる問題をやっている時間がほとんどで、それに時間をとられるから、できない問題も通り一遍にしかできません。
だから、できない問題が確実にできるようになるところまで行かないのです。
この勉強法で成績を上げるためには、勉強時間を長くしなければなりません。
しかし、長時間の勉強で、親は満足するかもしれませんが、その分子供にとって、本当に大切な読書や趣味や遊びの時間が圧迫されてしまうのです。
読書や趣味や遊びの時間の不足は、長い目で見ると、子供の創造性や個性や意欲を失わせる要因になります。
将来社会に出て大切になるのは、学生時代の表面的な成績ではなく、向上心や創造性や人生に対する幸福感など主に勉強以外のものです。
大人は、そういう長期的な目で子供の勉強を考えていく必要があります。
受験勉強は、受験期の最後の1年間に集中してやればいいのであって、それまでは自分のペースでのんびり勉強していればいいのです。
しかし、その最後の1年間の集中も、塾に行ったり予備校に行ったりする集中勉強ではなく、自分で計画を立てて自力で行う集中勉強です。
そういう自主的な勉強ができるようになるためにも、普段から自分の計画で、家庭での勉強をしていく必要があるのです。
家庭での自学自習は、塾や予備校などのお任せ学習と比べて、最初のうちは無駄も多く、誘惑も多く、成果も思ったようには出ず、不安になることもあると思います。
しかし、その一見遠回りに見える学習の仕方が、子供の自立心を育てていきます。
今の塾での勉強は、ほとんど末期症状に近くなっています。よく、学習塾で成績保証をうたっているところがあります。「いついつまでにこの成績に上がらなければ、月謝は返金します」という保証です。
それは、簡単なのです。正しい方法で長時間勉強させれば、誰でも成績は必ず上がるからです。(ただし、国語以外)
しかし、問題は、その勉強を一律の教材で有無を言わせずやらせることです。できる問題もできない問題も一様にやらせるので、結局、長時間勉強しなければ力がつかない仕組みになってしまうのです。
成績の悪い子というのは、自分で計画を立てて勉強することができません。だから、強制的に勉強させれば、必ず成績は上がります。
しかし、そういう他人依存型の勉強をしていると、勉強以外のことも他人依存型になります。言われたことはきちんとするが、言われないことはやらないというのでは、その他大勢の一人になってしまいます。
自分らしい人生を送るためには、言われなくてもやる、言われたことでも意に反すればやらない、しかし、人間的なコミュニケーションはしっかりとれるという、自主性と人間関係力を備えた力をつけておく必要があるのです。(つづく)
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成績を上げるというのは、本当はわけのないことです。
正しい方法で、毎日勉強すればいいだけだからです。
大事なのは、その勉強の中で、子供の自主性を育てていくことです。
今の世の中の勉強は、他人依存型の勉強ばかりになっています。そこに乗らずに勉強していくことが大事なのです。
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「地方消滅 創生戦略篇」に書かれている内容は、2人の著者の実体験に裏打ちされた具体的な現状分析や提案です。
読後感は、かつて読んだ、湯川秀樹と梅棹忠夫の対談「人間にとって科学とはなにか」と同じような、知的な相互交流の魅力です。対談によって、ひとりで考えるよりもはるかに多くのことが広く深く語られたという印象でした。
この本には、次のようなことが書かれていました。
・地方には、若者を引きつけられるような生産性の高い仕事がない。
・都会は今後高齢化が進行すれば、介護がパンクする。
・都会の高齢者が動けなくなる前に地方に移住して、地方で新しい生活ができる仕組みを作るべきだ。
この議論の対極にあるのが、増田悦佐(えつすけ)さんの「高度成長は世界都市東京から」だと思います。
増田悦佐さんは、次のような考えを述べています。
・都会への集中が、高い人口密度の中で新しいサービス産業を生み出す。
・地方からの人口流出は、技術革新のニーズを生み地方の労働生産性を高める。
・官僚や政治家が制度を作るのではなく、大衆の自由な創意に任せるべきだ。
いずれにしても、今後、趨勢的に進む少子化、高齢化の中で、都会と地方のあり方が解決すべき大きな問題として問われる時代になっているのです。
しかも、時間的な余裕はあまりありません。
都会と地方の問題を考える際に考慮に入れなければならない重要な要素は、第一に今後の技術革新、第二に世界のマネー経済の行き詰まり、第三に人間の意識の変化あるいは進化、です。
この中でも特に、技術革新は、予測できないブレークスルーを生み出す可能性があります。
その技術革新の方向は、未来へのビジョンによって大きく方向づけられます。
問題は、現在の目で見るだけでは解決できません。問題は、未来に向けた行動によって解決されるものだからです。
その解決が新しい問題を生み、それが再び行動によって解決され、その解決が更に新しい問題を生み、という形で、行動が問題を解決し続けていきます。
行動に必要なのは、未来に対するビジョンです。今後、私たちがどういう日本(世界はそのあとで考えるとして)を作っていくかということが大事なのです。
日本の未来を考えるとき、まずいちばんの前提になるのが、真に価値あるものは創造だという考えです。
話は大きくなりますが、植物は地球環境の中で重要な役割を果たしています。しかし、植物自体に価値があるのではなく、最初にあった光合成の発明に価値があったというのが、「創造=価値」の考え方です。現在の植物は、その最初の創造的発明のコピーにすぎません。
人間の生産活動でも同様です。目の前にある工場群は、確かに工業製品という富を生産しています。しかし、価値があったのは、その生産物を作るための最初のいくつもの発明だったのです。
日本の製造業の技術は、新興国にコピーされて広がっています。そして、新興国で低コストで生産された工業製品がそれらの国の発展を生み出し、日本の製造業の相対的な凋落を生み出し、そして全体的には世界の豊かさを生み出しています。
だとすれば、日本の役割は、コピーされるものを守ることではなく、新たに、コピーされ得るものを創造することです。
創造は、人間が本来持っている性質です。動植物に生まれながらの繁殖力があるように、人間には生まれながらの向上心と創造性があります。それを引き出すのが、創造をよしとする文化と、創造をよしとする教育です。
日本が発展してきたのは、進んだ欧米先進国の科学技術を見て、それをコピーして満足するのではなく、独自に自国でもその技術を創造しようとしたからです。
今、日本の産業でふるわない分野があるとすれば、それは楽なコピーにとどまっているからです。
今後、日本は、先に進んでいた国からコピーするものがなくなる時代に突入していきます。
工業製品に限らず、社会制度にしても、多数決民主主義や三権分立などの制度は、欧米のコピーでした。これらの文化も、今後は単なる正確なコピーにとどまらず、新たに日本的に創造する時代に来ているのです。
この創造を価値とする未来の日本を展望した上で、過疎化する地方と、高齢化する都会と、その背景にある少子化の進行という問題の対策を考えていく必要があります。
私が考えるのは、子供たちの創造的な教育を目的とした、インターネットの活用による、都会と地方の連携です。
地方の過疎化を考える場合、いちばんの問題となっているものは、地方で生産性の高い産業を生み出せていないということです。
農業も、観光も、トータルな生産額は大きくても、個々の生産者にとっては低い生産性で、つまり低い時給で経営されています。医療や介護や福祉が、今後生産性の高い産業になると考える人もいますが、それらは後ろ向きの産業です。
生産性の高い未来の産業として、子供たちの教育産業を地方で作り出し、インターネットによって地方性を克服するという方向が考えられます。
その際の教育は、受験教育ではありません。受験教育は、受ける個人にとっては意味あるものですが、日本の社会全体にとっては(全体の学力を向上させるという効果はあったとしても)、何も新しいものを生み出していません。
創造教育によって、将来新しい価値を創造するような子供たち、つまり受験秀才の量産ではなく、ノーベル賞級の天才の量産を目指していくことが、日本がこれから世界のリーダーとして指し示す先進国のモデルなのです。
ノーベル賞級の天才を生み出すためには、創造の幅広い裾野が必要です。その裾野は、例えば、工場のカイゼン運動などで出されるような身近なところから始まる創造です。
誰もが創造に関心を持ち、身の回りの問題を創造によって解決し、その創造を周囲が評価するという文化があれば、その文化の中で突出した創造が生まれてきます。
身近な創造が社会を変えた例として私が思いつくのは、水車の発明です。水車によって、水流を動力として利用するだけでなく、川の水を低いところから高いところに移すという仕組みができました。これがその地域の農業の発展に果たした役割は、かなり大きなものだったと思います。
しかし、その発明者が誰だったかは誰も知りません。このような無数の無名の発明が、人間の社会を発展させてきました。
こういう創造を教育の第一の目的とし、その創造教育を社会の主要な産業として育てていくことが、これからの先進国の発展する方向です。
言葉の森が今行っている寺子屋オンエアは、以上のような文脈で考えている新しい教育の提案です。
そこで目指しているものは、子供たちのトータルな学力の教育、勉強以外の人間性や文化性の教育、表現・発表・創造の教育です。そして、その教育を支えるための、女性と高齢者の知的資産、経験的資産、文化的資産の活用です。
これらをインターネットの利用によって、都会と地方の連携の中で展開していく仕組みを作れば、この新しい教育は、日本の国内にとどまらず、海外の日本人の子供たちにも広げていくことができます。
日本の未来を切り開くものは創造です。これからの教育は、その創造を第一の目的としていく必要があります。
その教育の中心になる場は家庭学習で、家庭学習はインターネットによって高度化していくことができます。その高度化する仕組みが寺子屋オンエアです。
寺子屋オンエアを支える人材は、豊富な知的資産を生活の中で充分には生かしていない女性と高齢者です。
そして、このインターネットを利用した、人間的なつながりのあるインタラクティブな教育が、地方の生産性を高め、都会と地方の問題を同時に解決するひとつの展望ともなっていくのです。
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田舎で暮らしたいという人が増えています。
しかし、田舎には仕事がありません。それは、人口密度が低いからです。
仕事がないということは、その仕事が提供する商品やサービスがないということですから、田舎には消費者が買いたいものもないのです。
そんな田舎では暮らしたくないから、ますます人口が流出し、ますます田舎は田舎になっていきます。
これを解決する道は、インターネットの活用です。インターネットは、世界がマーケットです。そして、消費者は、世界中から買いたいものが買えます。
現に言葉の森は今、本部が横浜にありますが、明日から南アルプスの山奥に引っ越すことになっても、クロネコヤマトの宅急便さえ通っていれば、仕事の90パーセントは支障がありません。(通ってないか)
そのインターネットの活用を、真の価値の創造に結びつける工夫がこれから必要になってくるのです。
文章が長すぎるが(笑)。
これからの日本の未来を考える場合、適度な都市と、適度な地方の共存ということが大事だと思う。
そして、働く場さえあれば、それぞれの人が自分の好みに応じて適度に分散していくのだから、要は新しい働き口を作ることがまず大事なのだと思う。
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上田渉さんの「勉強革命」の話の続きです。上田さんは、物語文の読み取り方は、「登場人物に感情移入して、なりきる」という読み方をすすめています。
物語文は、その物語の世界に没頭して読むと、問題を解くというよりも、自分の経験したことを思い出して解くという感覚になります。これが、物語文を早く正しく読み取るコツです。
こういうコツを身につけるためには、小さいころから本を楽しく読む習慣をつけておくことです。だから、大人から見ればくだらないように思える本でも、本人が楽しく読んでいるのであれば、その時間を確保してあげる必要があるのです。
物語文は、没頭して読むことが読み方のコツですが、説明文の場合は、構成を考えて読むことが大事になります。
この構成を考えて読むことと、構成を意識して書くことの間には共通点があります。
論説文の解き方については、上田さんは、フレームワークにあてはめて読むということを述べています。そこで述べられているフレームワークは、帰納法、演繹法、弁証法です。
実は、言葉の森の作文の勉強がこのフレームワークです。
例えば、帰納法は、複数の実例から一般化した主題でまとめるという小6相当の課題です。学年こそ小6相当となっていますが、この構成は、大学入試でも、社会に出てからも充分に使える枠組みです。
演繹法は、ある意見からその理由を複数挙げ、その理由の裏付けとなる実例を書くという中1相当の意見文の書き方です。この演繹法は、取り上げる意見の方向性によって、展開の部分が変化します。中1相当は複数の理由ですが、中3と高1は方法、高2は原因、高3は対策となります。
この、理由、方法、原因、対策という構成の仕方を身に付ければ、どのようなテーマの小論文も、理路整然と書くことができます。言葉の森の受験作文小論文のページには、現在2000件以上の解説が載っていますが、このほとんどがすべて小6から高3までに習う構成の仕方で書かれています。
しかし、もちろんフレームワークだけがあっても、上手な小論文が書けるわけではありません。大事なのは、フレームワークに入れる中身で、その中身は問題集読書のような難読を続けることで身につきます。
さて、帰納法、演繹法に続く第三のフレームワークは弁証法です。
言葉の森の作文では、これは中2の構成の仕方で、複数の意見から総合化した意見を生み出すという書き方です。
大事なポイントは、単なる折衷案の意見にならないようにすることですが、これがかなり難しいのです。うまく決まれば素晴らしい作文が仕上がりますが、うまく決まらずに折衷案でまとめてしまうと、竜頭蛇尾の印象になってしまいます。難しいだけに、考えがいのある書き方です。
作文の書き方で構成を意識していると、文章を読み取ったり、複雑なテーマをまとめたりするときも、構成的に考えるようになります。
だから、言葉の森で勉強をしていると、読解力、作文力だけでなく、会議の司会などする力もついてくるのです。
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読書好きな子というのは、本を読んでいるときは、名前を呼ばれても気が付きません。
こういう没頭する読み方が、物語文の読解の基礎です。
だから、ためになる本のようなものは、あまり読む力がつきません。
私が、これはつまらないだろうなあと思うのは、「小学○年生の読み物」などという題名の本です(笑)。何か、薬で飲むように読んでしまうのではないかと思います。
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先日、中学1年生の生徒のお母さんから相談がありました。
「言葉の森の勉強では、よく書けるのに、この前、学校の宿題の感想文を自分で書いたというのを見たら、とてもひどい出来で驚いた」と言うのです。
こういうことは、小学生の場合は、もっと頻繁にあります。
言葉の森で先生が書き方を説明したあとに書く場合は、構成や表現を意識して書くので上手に書けます。しかし、そういう目当てがないところで、自由に作文を書くとなると、言葉の森で勉強したことがまだ一般化された形で自分の中に蓄積されているわけではないので、昔ながらの書き方に戻ってしまうのです。
しかし、実力というのは、目標が与えられたときにその目標が達成できるということですから、これで充分実力がついています。言葉の森で勉強したことが自分なりの書き方として定着し、必要に応じて書けるようになるのは、勉強の自覚ができる中学3年生ごろからです。
中学1年生のころは、まだ意識的に書くということができないのです。
昔、真面目に言われたとおりにしっかり書ける小6の生徒がいました。その生徒が、修学旅行の作文を学校で書いたというので見せてもらうと、中心を絞って書くどころか、「朝起きてから夜寝るまで」の感じで、あったことをそのままずらずらと書いているだけでした。構成の意識も、表現の工夫もありません。言葉の森で勉強している成果としては、何しろ長く早く書けたということぐらいだったのです。書く前の事前のアドバイスが10分もあれば、もっといい作文を書ける子なのですが、事前指導がないと、昔に戻って書いてしまうのだということがよくわかりました。
また、東大の理学部と早稲田の政経学部に進んだ2人の生徒ですが、2人も小学校低学年から言葉の森で勉強をしていました。その子たちの中学1年生のころに書いている作文は、ごく平凡なものでした。構成も表現項目も意識して書いているので、一応はしっかり書けています。しかし、切れ味のよさがないのです。
ところが、そういう曖昧なことで評価しては、ただ自信をなくすだけです。だから、構成と項目と字数ができていることを毎回褒めていました。
作文の勉強は週1回ですから、毎回、難しい長文を読みます。欠席もほとんどなく、毎週長文を読んで書いているうちに、高校生ぐらいになると、「これはうまい」というような作文がだんだんと書けるようになったのです。
作文の勉強は、気の長い勉強です。数学や英語の勉強であれば、短期間の集中学習で成績を急上昇させるということはあり得ます。だから、受験前の夏休みは、この急上昇の機会なのです。
国語の読解力についても、比較的短期間で成績を急上昇させることはできます。しかし、難しい文章を読み取る力と、上手な作文を書く力は、かなり長い時間をかけて成長するものです。だから、作文の勉強をしている間は、書かれたものはいつでもよいところを見て褒めてあげ、その一方で読書と長文音読を気長に続けていく必要があるのです。
この気の長い勉強に我慢できず、子供の作文の欠点をすぐに直そうとすると、作文の勉強は続かなくなります。
学校で書いた作文がうまく書けていようがいまいが、そういうことには気をとらわれず、言葉の森で毎週書いている作文の字数と項目ができているかどうかだけをしっかり見て、毎日の音読と、そしてできればその音読をもとにした親子の対話に力を入れていくといいのです。
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国語力をつける勉強の基本は、多読と難読(難しい本を読むこと)です。多読は誰でもできますが、難しいのは難読の方です。
まず、小中学生が読むのにふさわしい難読の本が不足しています。新聞のコラムも難読の一種ですが、やはり文章が易しすぎることが弱点です。
そこで、言葉の森では、問題集読書という形で、入手しやすい難読の文章を読むことをすすめています。問題集の文章には出典が載っていることが多いので、興味を持った内容であれば、図書館などで元の本を借りてくることもできます。
ところが、難読を家庭で続けていくことはかなり難しいのです。それは、難しい文章を繰り返し読んでいると、次第に表面的な読み方になってしまうからです。
そうならないためには、音読で読むことです。しかし、音読を家庭で続けさせるというのもまた難しいのです。
そこで、寺子屋オンエアでは、skypeのビデオメッセージに音読を入れて、それ担当の先生に送信するというやり方を始めました。
音読が続けにくいのは、形の残らない勉強なので、張り合いがないからです。
ただし、大事なことは、音読を近くで聞いているお父さんやお母さんがいる場合、決して子供の音読に対して注意をせず、いつも温かく褒めてあげることです。
男の子の場合は、必ずと言っていいほど、早口で読んだり、声色を変えて読んだり、言葉の一部を変えて読んだりというふざけた読み方をすることがあります。そのときにもしその読み方を注意すれば、しばらくは真面目に読むかもしれませんが、そのうち音読をしなくなります。
もし、ふざけて読んでいても、にこやかに見ていれば、やがてふざけて読むことに飽きて普通に読むようになります。そして、そういうゆるやかな勉強法の方が、ずっと長続きするのです。
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上田さんは、落ちこぼれの小中高時代→東大合格→オーディオブック会社の経営、という経歴の持ち主です。
その著書「勉強革命」の国語の勉強法のところを読んで、言葉の森の普段の指導と同じような内容だったので、似たことを考えていた人もいるのだと少し驚きました。その引用です。
上田さんが、大学受験を前にして、偏差値30というどん底の中から編み出した勉強法は、徹底して音読するという方法でした。
まず、すべての学力の基礎は国語力だと認識して、国語力のアップに取り組みました。
国語力が最も大事だというのは、小中学生だけでなく、高校生にもあてはまる真理です。
小学生の場合は、計算ができても文章題が理解できないという子がときどきいます。高校生の場合は、英語の単語や文法は理解できても、その英語で書かれた内容で論説文の難しいものになると、国語力がないために読み取れないということが起こります。難関大学の英語力の半分ぐらいは国語力だと思います。
さて、著書の上田さんは、難しい文章を百回音読するということから始めました。
百回というのは、江戸時代の教育家である貝原益軒も述べている方法です。それは、論語を百字ずつ百回ずつ読み、空で読み空で書けるようにするという方法でした。
言葉の森の音読指導で、よく保護者から質問があるのは、「意味のわからない言葉があったらどうするのですか」というものです。言葉の森の回答は、「意味はわからなくていいです。わからなくてもすらすら読めるようになればいいのです」というものです。
意味がわからず、つっかえつっかえ読んでいる子に、辞書を引いて意味を調べさせるようなことをすれば、すぐに音読が嫌になります。そして、結局調べた意味も頭の中に残りません。
ところが、音読を続けて、すらすら読めるようになればいいと思ってやっていると、調べなくても自然にわからない言葉の意味が大枠としてわかってきます。その大枠がわかってくると、自然に身近な人に聞いたり自分で調べたくなったりするのです。
わからないから調べるのではなく、わかりかけてきたからはっきりさせたいと思って調べるのです。
だから、親は、「わからない言葉は調べなさい」などと言わずに、ただ「すらすら読めるようになればいい」とだけ言っていればいいのです。そして、繰り返して音読をしていれば、誰でも例外なくすらすら読めるようになります。例外なくできるようになるというのが、この音読のよい点です。
ところが、学校などの宿題として出される音読は、いくつか問題があります。第一に、もとになる文章が易しすぎるものであることが多い点です。第二に、繰り返しの回数があまりにも少ないのです。百回読むなどということはまずありません。第三に、宿題として出されたからという理由でやっていると、宿題がないとやらないようになるのです。音読は、基本となる勉強ですから、宿題としてではなく家庭学習として独自にやっていく必要があります。
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小1、小2の勉強では、やることがはっきり決まっています。漢字の書き取り、計算の練習、そこに少し難しい文章題があるくらいです。
やることが単純で明確ですから、この時期の教材は、紙の教材にしてもパソコンの教材にしても工夫されたものが多く、その工夫された教材をやっていれば、誰でも勉強ができるようになります。
しかし、誰でもできるからこそ、そこで逆に間違った勉強法を定着させてしまうことも多いのです。
間違った勉強法とは、第一に難しいことをやりすぎることです。第二に長い時間やらせすぎることです。第三に親がすぐに教えすぎることです。なぜこれらが間違っているかというと、今はよくても子供の将来の成長にとってはマイナスになるからです。
低学年のころは、難しいことをやらせても頭がよくなるわけではありません。それよりも勉強というものを嫌いになることが多いのです。長い時間やらせると、確かにその時点での成績は上がります。しかし、だらだらと勉強をする癖がついてしまいます。また、親がていねいに教えすぎると、親がいないとできないとか、誰かに教えられないとできないという自主性のない勉強になってしまうのです。
このようなことが結果として出てくるのが、小学校中高学年からです。しかし、そのころになると、いったんついた習慣はなかなか変えられません。だから、小学校低学年の簡単に勉強させられる時期に、正しい勉強の仕方をしていくことが大事なのです。
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