国語の成績は、結構簡単に上がります。それは、読解の勉強の仕方にある一定のコツがあるからです。
ところが、そういう読解の仕方を、なぜか学校でも塾でも教えません。だから、国語は難しいと思ってしまう人が多いのです。
もちろん、簡単に上がると言っても、それなりに時間はかかります。しかし、理屈どおりにやっていけば、誰でも必ず国語の成績は上がるのです。
ところで、成績の上がり方には、二つの段階があります。今述べたのは「すぐ上がる」というのは、第一の段階の方です。
第一段階で上がるのは、解き方のコツを理解するからで、どちらかと言えば知識的な理解ですから成績が上がるのも早いのです。
しかし、第二の段階はそうではありません。第二段階の理解とは、知識的な理解ではなく思考的な理解だからです。
だから、難しい文章の内容を読み取ることができなければ、第二段階の国語の成績は上がりません。
受験というのは、差をつけるための試験です。そのため、解き方を知らないと解けないような問題を出すのです。
そして、それでもなお差をつけにくいときは、読み取りにくい難しい文章を出すのです。(悪文であることが多い)
どのくらい読み取りにくいかというと、誰が読んでも理解できないような文章です。それが、立派な私立大の国語の問題として出てくるのです。国立大では、そういうことはまずないようですが。
しかし、このような読み取りにくいというか読み取れない文章であっても、思考力のある生徒は、大きく自分なりに読み取ってしまいます。その差は、難しい語彙に慣れているかどうかです。
だから、もちろん第二段階の国語力にも、力の付け方というものがあります。それは、難しい文章を読み慣れることです。
しかし、これがまた大部分の生徒にとっては難しいことなのです。なぜ難しいかというと、苦しいわりにあてのない気がする勉強だからです。
そこで、言葉の森では、寺子屋オンエアの勉強の一環として、国語問題集読書の音読をビデオメッセージで先生に送ってもらうことにしました。
難しい文章を繰り返し読むために最もいい方法が音読だからです。
黙読では、理解できない文章は理解できないままです。だから、頭に入りません。
しかし、音読で読むと、理解できない文章が理解できないままであっても、頭に入るのです。そして、何度も繰り返し頭に入っていると、理解できるようになってきます。
音読は、必ずしもていねいに読む必要はありません。聞いてわかるぐらいであれば、早口でも小声でもかまいません。また、時間も問題集2ページ分ぐらいであれば3分で読めます。そんな短い時間でいいのです。
そのかわり大事なことは、毎日続けていくことです。
国語力の第二段階は、勉強としてというよりも、生活習慣としてやっていくことなのです。
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国語が苦手な子は、国語の問題を勘で解いています。
だから、「合ってた」とか「合ってなかった」で終わってしまうのです。
そして、「合ってなかった」というときも、その理由を知ろうとはしません。
そうではなく、国語は理詰めで解いていくのです。
そうすると、合っていなかったときは、なぜそうなのかと理由を聞くようになります。
すると、国語の成績は急に上がるようになるのです。
しかし、その上がる度合いは、その子の難読力の範囲までです。
難読力をつけるには、難しい本を読み慣れるしかありません。
そこで、音読が役に立つのです。
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従来の、そして現在も広まっているICT教育、ネット教育は、もっぱら大量のリッチコンテンツと低コストの配信という仕組みで成り立っています。これは、これで教育の素材面でのインフラになるので、大きな意義があります。
しかし、そのインフラを生かせるかどうかは、生きた主体である子供たちの取り組み方にかかっています。
子供たちは友達と遊んだり、本を読んだり、スポーツに熱中したり、お喋りを楽しんだり、食べたり、休んだりという全体としての生活をしています。
そういう生活の中に、教育の素材だけがどさっと置かれたとき、その素材を生活全体の中にどう位置づけ取り組むかは、子供たちの主体的な実行の有無にかかっています。
インスタントラーメンであれば、お湯を注げば例外なく3分間でできあがりますが(3分も待たずに食べる人もいますが)、人間はいくら材料を与えられても、それを主体的に生かそうと思わなければ、その材料が自動的に何かを生み出すわけにはいきません。
今のネット教育に対する多くの人の疑問は、「確かにいいものがそろっているが、うちの子に続けられるかどうか」ということです。
そして、多くのネット教育は、続けやすくするために、教育の中身とはあまり関係のない外見の面白さやゲーム性や賞品リストなどに力を入れるようになっているのです。
中学生や高校生の中には、塾などの自習室で勉強する子がよくいます。
カラフルでインタラクティブなネット教育よりも、殺風景な自習室の方が勉強がはかどるのは当然です。そこには、勉強する雰囲気があるからです。
自習室での勉強の場合、教材は自分持ちで、教えてくれる先生はいません。ゲームも賞品もありません。しかし、同学年の子供たちがそれぞれに自習しているのを見ると、そこで自分も自然に勉強しようという気になるのです。
その自習室に、いつでも質問したり相談したりできる先生役の人がいて、勉強の方向などのアドバイスを受けられれば、それが理想的な勉強の場です。
しかし、こういうサービスは、人口密度の高い都会でしか成り立ちません。また、そういうサービスを提供できる自習室があったとしても、自宅から教材を持参して、歩いたり自転車に乗ったりして時間をかけて通わなければなりません。
それなら、自宅で勉強した方がいいと思っても、自宅でひとりで勉強するには、そういう雰囲気になるきっかけが必要です。また、自宅では、わからないところが出てきたときに質問できる人がいません。
こういう問題を解決するのがインターネットを使った新しい教育システムである寺子屋オンエアです。
しかし、寺子屋オンエアのような新しいコンセプトの勉強は、なかなか理解しにくいと思います。
そこで、言葉の森では、現在、言葉の森の生徒には機材も教材も無償の寺子屋オンエア無料体験学習キャンペーンを行っています。(つづく)
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昔の子は、都会でも、塾や予備校には行きませんでした。
というか、塾や予備校自体がありませんでした(笑)。
だから、みんな能率の悪い自己流のやり方で勉強をしていました。
今の子は、田舎でも、塾や予備校に行きます。
だから、勉強の仕方は洗練されています。
しかし、洗練されているわりに、無駄な時間が多いのです(笑)。
自宅でできる自主的な勉強で、肝心なときだけアドバイスを聞けるというのが、理想の勉強法になると思います。
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もう一つの原則である「やらせすぎない」は、特に初めて何かをするときに気をつけなければならないことです。
また、子犬の例になりますが、ボール遊びなどをすると、どの子犬もみんな喜びます。しかし、喜んでいるからといって、たっぷり遊ばせすぎると、やがてその遊びに対する興味を失ってしまいます。
だから、楽しく遊ばせ続けたいと思えば、どんなに喜んでいるときでも、腹八分で止めておかなければなりません。
これは、勉強もそうなのです。
勉強の場合でも、初めてやることは、誰でも熱中します。しかし、その意欲を続けさせたいと思ったら、その熱中している勉強も、腹八分で止めておかなければならないのです。
地面の中から大きな岩を掘り起こすときは、てこの原理を利用して、一日にほんのわずかずつ動かし、何日もかけてその岩を掘り出すのだそうです。
ほんの少しずつ、しかし毎日続けて、何日もかける。これが大きな岩を動かす秘訣です。
勉強の教科の中で、いちばん大きな岩は国語です。
ほかの教科は、短期間に集中して成果を上げることができます。しかし、国語は、勉強として見えているのは、地表に出ている部分だけで、その下の地面には日常の日本語生活という大きな岩の根が残っています。
だから、週に2回ぐらいどこかの塾に行って国語の勉強をしたからといって力はつきません。国語の成績を上げるコツはあるので、成績だけはすぐに上がりますが、しかしその上がる度合いは、その子の国語力の上限までなのです。
国語力をつけるには、ほんのわずかな勉強を、毎日繰り返し、それを半年以上続けることです。
ところが、こういう単純なことが、単純だからこそ続けにくいのです。
そこで、今、国語の問題集読書の音読と感想を、寺子屋オンエアの勉強の中でやっているのです。
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子供は、初めてのことには何でも熱中します。
勉強でもそうです。
しかし、熱中させすぎると、すぐ飽きてしまうのです。
力がつくのは、継続することによってです。
だから、勉強でも腹八分が大事なのです。
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子供が一生懸命勉強していると、お母さんは喜ぶと思います。「そんなに勉強しないで、もっと遊んだり休んだりしなさい」という人はあまりいません。
しかし、本当は、子供が一生懸命に勉強しすぎていたら、特に小学生の場合は、ほどほどに抑えておくことが大事なのです。
食事の場合は、おいしいからと言って食べ過ぎれば、あとでお腹をこわします。勉強も、そして遊びもそうなのです。
子供の話から、ペットの話に変わりますが、ペットの子犬を訓練するとき、大事な原則が二つあります。それは、決して例外を作らないこと、やらせすぎないことです。
子犬の場合は、正直ですから、ルールに例外を作ると、そのルールはすぐ守らなくなります。
例えば、「吠えてはダメ」というルールを決めたら、どんな場合でもそのルールを守るようにします。たとえ、泥棒が入ってきたときでもそうです。一度決めたルールに例外を作ると、それはもうルールではなくなってしまうからです。
これは、ほんの一度か二度の例外でそうなります。そして、一度ルール作りが失敗すると、それはもう直すことができなくなるのです。
ときどき、「子供が言うことを聞かない」と相談されるお母さんがいます。それは、小さいころに、何度か例外を作ってしまったので、子供が親のいうことは聞かなくてもいいと学習してしまったからです。
では、どうしても例外を作らなければならないときはどうするかというと、「なぜ、今日は例外なのか」ということを、ひとこと理屈で説明しておけばいいのです。「今日は、○○だから、このへんまでこうしようね」と線引きの基準を変えるのです。
例えば、読書を毎日すると決めているのに、何かの行事などがあって遅くなりできなくなった場合は、「今日は遅いから、読書は5ページだけにしようね」という言い方で基準を変えます。5ページなど、読んでも読まなくてもほとんど変わらないぐらいの分量です。しかし、大事なのは、理屈できちんと、ルールに例外はないというメッセージを伝えておくことなのです。
この言葉で理屈を説明する方法は、子犬と違って人間の子供だからこそできるルールの守り方です。(つづく)
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大人は臨機応変ということができますが、子供はできません。
だから、読点の打ち方などという、ルールはあるが例外もあるということは教えにくいのです。
子犬も同じです。(犬と人を一緒にするなって)
同じことでもこの場合はよいが、あの場合はだめということはなかなか理解できません。よいか悪いかのどちらかしかないのです。
だから、大事なことは、子供と子犬には例外を作らない接し方をすることなのです。
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今の学習塾などでやっている勉強は、無駄の多い勉強です。それはなぜかというと、プリントが多すぎるのです。
プリントが多ければ、結局子供は1回しかやりません。すると、できる問題をやっている時間がほとんどで、それに時間をとられるから、できない問題も通り一遍にしかできません。
だから、できない問題が確実にできるようになるところまで行かないのです。
この勉強法で成績を上げるためには、勉強時間を長くしなければなりません。
しかし、長時間の勉強で、親は満足するかもしれませんが、その分子供にとって、本当に大切な読書や趣味や遊びの時間が圧迫されてしまうのです。
読書や趣味や遊びの時間の不足は、長い目で見ると、子供の創造性や個性や意欲を失わせる要因になります。
将来社会に出て大切になるのは、学生時代の表面的な成績ではなく、向上心や創造性や人生に対する幸福感など主に勉強以外のものです。
大人は、そういう長期的な目で子供の勉強を考えていく必要があります。
受験勉強は、受験期の最後の1年間に集中してやればいいのであって、それまでは自分のペースでのんびり勉強していればいいのです。
しかし、その最後の1年間の集中も、塾に行ったり予備校に行ったりする集中勉強ではなく、自分で計画を立てて自力で行う集中勉強です。
そういう自主的な勉強ができるようになるためにも、普段から自分の計画で、家庭での勉強をしていく必要があるのです。
家庭での自学自習は、塾や予備校などのお任せ学習と比べて、最初のうちは無駄も多く、誘惑も多く、成果も思ったようには出ず、不安になることもあると思います。
しかし、その一見遠回りに見える学習の仕方が、子供の自立心を育てていきます。
今の塾での勉強は、ほとんど末期症状に近くなっています。よく、学習塾で成績保証をうたっているところがあります。「いついつまでにこの成績に上がらなければ、月謝は返金します」という保証です。
それは、簡単なのです。正しい方法で長時間勉強させれば、誰でも成績は必ず上がるからです。(ただし、国語以外)
しかし、問題は、その勉強を一律の教材で有無を言わせずやらせることです。できる問題もできない問題も一様にやらせるので、結局、長時間勉強しなければ力がつかない仕組みになってしまうのです。
成績の悪い子というのは、自分で計画を立てて勉強することができません。だから、強制的に勉強させれば、必ず成績は上がります。
しかし、そういう他人依存型の勉強をしていると、勉強以外のことも他人依存型になります。言われたことはきちんとするが、言われないことはやらないというのでは、その他大勢の一人になってしまいます。
自分らしい人生を送るためには、言われなくてもやる、言われたことでも意に反すればやらない、しかし、人間的なコミュニケーションはしっかりとれるという、自主性と人間関係力を備えた力をつけておく必要があるのです。(つづく)
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成績を上げるというのは、本当はわけのないことです。
正しい方法で、毎日勉強すればいいだけだからです。
大事なのは、その勉強の中で、子供の自主性を育てていくことです。
今の世の中の勉強は、他人依存型の勉強ばかりになっています。そこに乗らずに勉強していくことが大事なのです。
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「地方消滅 創生戦略篇」に書かれている内容は、2人の著者の実体験に裏打ちされた具体的な現状分析や提案です。
読後感は、かつて読んだ、湯川秀樹と梅棹忠夫の対談「人間にとって科学とはなにか」と同じような、知的な相互交流の魅力です。対談によって、ひとりで考えるよりもはるかに多くのことが広く深く語られたという印象でした。
この本には、次のようなことが書かれていました。
・地方には、若者を引きつけられるような生産性の高い仕事がない。
・都会は今後高齢化が進行すれば、介護がパンクする。
・都会の高齢者が動けなくなる前に地方に移住して、地方で新しい生活ができる仕組みを作るべきだ。
この議論の対極にあるのが、増田悦佐(えつすけ)さんの「高度成長は世界都市東京から」だと思います。
増田悦佐さんは、次のような考えを述べています。
・都会への集中が、高い人口密度の中で新しいサービス産業を生み出す。
・地方からの人口流出は、技術革新のニーズを生み地方の労働生産性を高める。
・官僚や政治家が制度を作るのではなく、大衆の自由な創意に任せるべきだ。
いずれにしても、今後、趨勢的に進む少子化、高齢化の中で、都会と地方のあり方が解決すべき大きな問題として問われる時代になっているのです。
しかも、時間的な余裕はあまりありません。
都会と地方の問題を考える際に考慮に入れなければならない重要な要素は、第一に今後の技術革新、第二に世界のマネー経済の行き詰まり、第三に人間の意識の変化あるいは進化、です。
この中でも特に、技術革新は、予測できないブレークスルーを生み出す可能性があります。
その技術革新の方向は、未来へのビジョンによって大きく方向づけられます。
問題は、現在の目で見るだけでは解決できません。問題は、未来に向けた行動によって解決されるものだからです。
その解決が新しい問題を生み、それが再び行動によって解決され、その解決が更に新しい問題を生み、という形で、行動が問題を解決し続けていきます。
行動に必要なのは、未来に対するビジョンです。今後、私たちがどういう日本(世界はそのあとで考えるとして)を作っていくかということが大事なのです。
日本の未来を考えるとき、まずいちばんの前提になるのが、真に価値あるものは創造だという考えです。
話は大きくなりますが、植物は地球環境の中で重要な役割を果たしています。しかし、植物自体に価値があるのではなく、最初にあった光合成の発明に価値があったというのが、「創造=価値」の考え方です。現在の植物は、その最初の創造的発明のコピーにすぎません。
人間の生産活動でも同様です。目の前にある工場群は、確かに工業製品という富を生産しています。しかし、価値があったのは、その生産物を作るための最初のいくつもの発明だったのです。
日本の製造業の技術は、新興国にコピーされて広がっています。そして、新興国で低コストで生産された工業製品がそれらの国の発展を生み出し、日本の製造業の相対的な凋落を生み出し、そして全体的には世界の豊かさを生み出しています。
だとすれば、日本の役割は、コピーされるものを守ることではなく、新たに、コピーされ得るものを創造することです。
創造は、人間が本来持っている性質です。動植物に生まれながらの繁殖力があるように、人間には生まれながらの向上心と創造性があります。それを引き出すのが、創造をよしとする文化と、創造をよしとする教育です。
日本が発展してきたのは、進んだ欧米先進国の科学技術を見て、それをコピーして満足するのではなく、独自に自国でもその技術を創造しようとしたからです。
今、日本の産業でふるわない分野があるとすれば、それは楽なコピーにとどまっているからです。
今後、日本は、先に進んでいた国からコピーするものがなくなる時代に突入していきます。
工業製品に限らず、社会制度にしても、多数決民主主義や三権分立などの制度は、欧米のコピーでした。これらの文化も、今後は単なる正確なコピーにとどまらず、新たに日本的に創造する時代に来ているのです。
この創造を価値とする未来の日本を展望した上で、過疎化する地方と、高齢化する都会と、その背景にある少子化の進行という問題の対策を考えていく必要があります。
私が考えるのは、子供たちの創造的な教育を目的とした、インターネットの活用による、都会と地方の連携です。
地方の過疎化を考える場合、いちばんの問題となっているものは、地方で生産性の高い産業を生み出せていないということです。
農業も、観光も、トータルな生産額は大きくても、個々の生産者にとっては低い生産性で、つまり低い時給で経営されています。医療や介護や福祉が、今後生産性の高い産業になると考える人もいますが、それらは後ろ向きの産業です。
生産性の高い未来の産業として、子供たちの教育産業を地方で作り出し、インターネットによって地方性を克服するという方向が考えられます。
その際の教育は、受験教育ではありません。受験教育は、受ける個人にとっては意味あるものですが、日本の社会全体にとっては(全体の学力を向上させるという効果はあったとしても)、何も新しいものを生み出していません。
創造教育によって、将来新しい価値を創造するような子供たち、つまり受験秀才の量産ではなく、ノーベル賞級の天才の量産を目指していくことが、日本がこれから世界のリーダーとして指し示す先進国のモデルなのです。
ノーベル賞級の天才を生み出すためには、創造の幅広い裾野が必要です。その裾野は、例えば、工場のカイゼン運動などで出されるような身近なところから始まる創造です。
誰もが創造に関心を持ち、身の回りの問題を創造によって解決し、その創造を周囲が評価するという文化があれば、その文化の中で突出した創造が生まれてきます。
身近な創造が社会を変えた例として私が思いつくのは、水車の発明です。水車によって、水流を動力として利用するだけでなく、川の水を低いところから高いところに移すという仕組みができました。これがその地域の農業の発展に果たした役割は、かなり大きなものだったと思います。
しかし、その発明者が誰だったかは誰も知りません。このような無数の無名の発明が、人間の社会を発展させてきました。
こういう創造を教育の第一の目的とし、その創造教育を社会の主要な産業として育てていくことが、これからの先進国の発展する方向です。
言葉の森が今行っている寺子屋オンエアは、以上のような文脈で考えている新しい教育の提案です。
そこで目指しているものは、子供たちのトータルな学力の教育、勉強以外の人間性や文化性の教育、表現・発表・創造の教育です。そして、その教育を支えるための、女性と高齢者の知的資産、経験的資産、文化的資産の活用です。
これらをインターネットの利用によって、都会と地方の連携の中で展開していく仕組みを作れば、この新しい教育は、日本の国内にとどまらず、海外の日本人の子供たちにも広げていくことができます。
日本の未来を切り開くものは創造です。これからの教育は、その創造を第一の目的としていく必要があります。
その教育の中心になる場は家庭学習で、家庭学習はインターネットによって高度化していくことができます。その高度化する仕組みが寺子屋オンエアです。
寺子屋オンエアを支える人材は、豊富な知的資産を生活の中で充分には生かしていない女性と高齢者です。
そして、このインターネットを利用した、人間的なつながりのあるインタラクティブな教育が、地方の生産性を高め、都会と地方の問題を同時に解決するひとつの展望ともなっていくのです。
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田舎で暮らしたいという人が増えています。
しかし、田舎には仕事がありません。それは、人口密度が低いからです。
仕事がないということは、その仕事が提供する商品やサービスがないということですから、田舎には消費者が買いたいものもないのです。
そんな田舎では暮らしたくないから、ますます人口が流出し、ますます田舎は田舎になっていきます。
これを解決する道は、インターネットの活用です。インターネットは、世界がマーケットです。そして、消費者は、世界中から買いたいものが買えます。
現に言葉の森は今、本部が横浜にありますが、明日から南アルプスの山奥に引っ越すことになっても、クロネコヤマトの宅急便さえ通っていれば、仕事の90パーセントは支障がありません。(通ってないか)
そのインターネットの活用を、真の価値の創造に結びつける工夫がこれから必要になってくるのです。
文章が長すぎるが(笑)。
これからの日本の未来を考える場合、適度な都市と、適度な地方の共存ということが大事だと思う。
そして、働く場さえあれば、それぞれの人が自分の好みに応じて適度に分散していくのだから、要は新しい働き口を作ることがまず大事なのだと思う。
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上田渉さんの「勉強革命」の話の続きです。上田さんは、物語文の読み取り方は、「登場人物に感情移入して、なりきる」という読み方をすすめています。
物語文は、その物語の世界に没頭して読むと、問題を解くというよりも、自分の経験したことを思い出して解くという感覚になります。これが、物語文を早く正しく読み取るコツです。
こういうコツを身につけるためには、小さいころから本を楽しく読む習慣をつけておくことです。だから、大人から見ればくだらないように思える本でも、本人が楽しく読んでいるのであれば、その時間を確保してあげる必要があるのです。
物語文は、没頭して読むことが読み方のコツですが、説明文の場合は、構成を考えて読むことが大事になります。
この構成を考えて読むことと、構成を意識して書くことの間には共通点があります。
論説文の解き方については、上田さんは、フレームワークにあてはめて読むということを述べています。そこで述べられているフレームワークは、帰納法、演繹法、弁証法です。
実は、言葉の森の作文の勉強がこのフレームワークです。
例えば、帰納法は、複数の実例から一般化した主題でまとめるという小6相当の課題です。学年こそ小6相当となっていますが、この構成は、大学入試でも、社会に出てからも充分に使える枠組みです。
演繹法は、ある意見からその理由を複数挙げ、その理由の裏付けとなる実例を書くという中1相当の意見文の書き方です。この演繹法は、取り上げる意見の方向性によって、展開の部分が変化します。中1相当は複数の理由ですが、中3と高1は方法、高2は原因、高3は対策となります。
この、理由、方法、原因、対策という構成の仕方を身に付ければ、どのようなテーマの小論文も、理路整然と書くことができます。言葉の森の受験作文小論文のページには、現在2000件以上の解説が載っていますが、このほとんどがすべて小6から高3までに習う構成の仕方で書かれています。
しかし、もちろんフレームワークだけがあっても、上手な小論文が書けるわけではありません。大事なのは、フレームワークに入れる中身で、その中身は問題集読書のような難読を続けることで身につきます。
さて、帰納法、演繹法に続く第三のフレームワークは弁証法です。
言葉の森の作文では、これは中2の構成の仕方で、複数の意見から総合化した意見を生み出すという書き方です。
大事なポイントは、単なる折衷案の意見にならないようにすることですが、これがかなり難しいのです。うまく決まれば素晴らしい作文が仕上がりますが、うまく決まらずに折衷案でまとめてしまうと、竜頭蛇尾の印象になってしまいます。難しいだけに、考えがいのある書き方です。
作文の書き方で構成を意識していると、文章を読み取ったり、複雑なテーマをまとめたりするときも、構成的に考えるようになります。
だから、言葉の森で勉強をしていると、読解力、作文力だけでなく、会議の司会などする力もついてくるのです。
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読書好きな子というのは、本を読んでいるときは、名前を呼ばれても気が付きません。
こういう没頭する読み方が、物語文の読解の基礎です。
だから、ためになる本のようなものは、あまり読む力がつきません。
私が、これはつまらないだろうなあと思うのは、「小学○年生の読み物」などという題名の本です(笑)。何か、薬で飲むように読んでしまうのではないかと思います。
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先日、中学1年生の生徒のお母さんから相談がありました。
「言葉の森の勉強では、よく書けるのに、この前、学校の宿題の感想文を自分で書いたというのを見たら、とてもひどい出来で驚いた」と言うのです。
こういうことは、小学生の場合は、もっと頻繁にあります。
言葉の森で先生が書き方を説明したあとに書く場合は、構成や表現を意識して書くので上手に書けます。しかし、そういう目当てがないところで、自由に作文を書くとなると、言葉の森で勉強したことがまだ一般化された形で自分の中に蓄積されているわけではないので、昔ながらの書き方に戻ってしまうのです。
しかし、実力というのは、目標が与えられたときにその目標が達成できるということですから、これで充分実力がついています。言葉の森で勉強したことが自分なりの書き方として定着し、必要に応じて書けるようになるのは、勉強の自覚ができる中学3年生ごろからです。
中学1年生のころは、まだ意識的に書くということができないのです。
昔、真面目に言われたとおりにしっかり書ける小6の生徒がいました。その生徒が、修学旅行の作文を学校で書いたというので見せてもらうと、中心を絞って書くどころか、「朝起きてから夜寝るまで」の感じで、あったことをそのままずらずらと書いているだけでした。構成の意識も、表現の工夫もありません。言葉の森で勉強している成果としては、何しろ長く早く書けたということぐらいだったのです。書く前の事前のアドバイスが10分もあれば、もっといい作文を書ける子なのですが、事前指導がないと、昔に戻って書いてしまうのだということがよくわかりました。
また、東大の理学部と早稲田の政経学部に進んだ2人の生徒ですが、2人も小学校低学年から言葉の森で勉強をしていました。その子たちの中学1年生のころに書いている作文は、ごく平凡なものでした。構成も表現項目も意識して書いているので、一応はしっかり書けています。しかし、切れ味のよさがないのです。
ところが、そういう曖昧なことで評価しては、ただ自信をなくすだけです。だから、構成と項目と字数ができていることを毎回褒めていました。
作文の勉強は週1回ですから、毎回、難しい長文を読みます。欠席もほとんどなく、毎週長文を読んで書いているうちに、高校生ぐらいになると、「これはうまい」というような作文がだんだんと書けるようになったのです。
作文の勉強は、気の長い勉強です。数学や英語の勉強であれば、短期間の集中学習で成績を急上昇させるということはあり得ます。だから、受験前の夏休みは、この急上昇の機会なのです。
国語の読解力についても、比較的短期間で成績を急上昇させることはできます。しかし、難しい文章を読み取る力と、上手な作文を書く力は、かなり長い時間をかけて成長するものです。だから、作文の勉強をしている間は、書かれたものはいつでもよいところを見て褒めてあげ、その一方で読書と長文音読を気長に続けていく必要があるのです。
この気の長い勉強に我慢できず、子供の作文の欠点をすぐに直そうとすると、作文の勉強は続かなくなります。
学校で書いた作文がうまく書けていようがいまいが、そういうことには気をとらわれず、言葉の森で毎週書いている作文の字数と項目ができているかどうかだけをしっかり見て、毎日の音読と、そしてできればその音読をもとにした親子の対話に力を入れていくといいのです。
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