受験作文コースの取り組みで大事なことは三つあります。
第一は、自分らしい個性や感動のある実例を見つけていくことです。
受験コースのそのときどきの課題で、いい実例を見つけていると、それが試験の本番でも応用できるようになります。
実例は、子供が自分で考えるだけでなく、親が似た例を話してあげることも大事です。親の似た例にヒントを得て、子供が更によい例を考えつくということも多いからです。
第二は、深い感想や意見を書く練習をすることです。
作文の課題が、例えば「これまでの学校生活の思い出」のような身近なものであったとしても、身近な話をそのまま書いたのでは、受験用の作文とはなりません。
自分の書いた文章の中に、必ず大きい視点、深い見方、個人の実例を超えたより一般的な考え方というものが必要になってきます。
これは、小学6年生の課題で「一般化の主題」として勉強してきたものです。
ところが、この一般化した感想や意見は、子供にはなかなか見つけにくいものなのです。
それは、その子の日常生活の中で、そういう一般的な話を論じる必要がないために語彙が不足しているからです。
そこで出てくるのが、やはり両親です。
毎回の作文の課題に応じて親子で話をし、そこに親が大人としての大きい見方から話をする機会を増やしていきます。
例えば、「私の友達」というテーマで書く場合は、個々の友人の話を超えて、「友情というもの」について話をするということです。
一般化した、より抽象的な語彙を使えるようになるためには、親子の対話が最も役に立ち、また楽しく続けられるものなのです。
第三は、切れ味のよい表現を作っていくことです。
受験の作文を採点するのは人間ですから、単に正しいことを書いてあるだけでなく、読む人の心にひびくような表現が使われていることが大事です。
この切れ味のよい表現が、作文の結びの5行以内に入っていると、読んだあとの印象がかなり上がります。
同じレベルの作文であれば、結びの5行に切れ味のよい表現があるかどうかで、合否もほぼ決定するのではないかと思います。
ところが、この切れ味のよい表現は、作文をいくつも書く中で、偶然に出てくる面があります。
だから、毎回表現の切れ味を意識して書き、そこに両親も参加してアドバイスするという形をとっていくといいのです。
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受験コースの方針は、出そうなテーマで10本書いたら一応安心、ということです。
その10本をすべて力作で書くのです。
しかし、言う方は簡単ですが、書く方は大変(笑)。
作文というのは、心理的負担の大きい勉強なので、ひとりでやるのは難しいのです。
受験作文は本人がひとりで突破するものではないのですね。
家庭の力、親子の風通しのよさ、いろいろなことが試されてしまいます。
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天外伺朗さんの「『教えないから人が育つ』横田英毅のリーダー学」を読んでいて、ふと、中室牧子さんの「学力の経済学」という本のことを思い出しました。
天外さんは、本名土井利忠さん。元ソニーの常務で、これまでにCD、ワークステーションNEWS、ロボット犬AIBOなどを開発した人です。
天外さんは、「教えないから人が育つ」の中で、全面的な受容の大切さを述べています。
一方、「学力の経済学」は、データの裏づけによって、何が学力にとってプラスになるのか、あるいはマイナスになるのかを分析した本です。
この本を見ると、例えば、ある程度のご褒美は子供のやる気を引き出し、学力を高めることに結びつくというようなことが書かれています。
この2冊を並べて考えると、教育の距離とか、人間の成長の距離とかいうものが、両者で大きく違っていることがわかります。
昔、和田秀樹さんと森毅さんの教育観の比較を考えたことがあります。
和田さんは、「数学は、わからなかったらすぐに答えを見て、その解答を理解すること」と述べていました。
この方法で勉強すると、誰でも数学が得意になります。大学入試までのレベルの数学は、考える勉強ではなく理解する勉強だからです。
一方、森さんは、それとは反対に、「数学は、答えを見ずに、まず自分で考えること」と述べていました。
森さんと同じ数学者の岡潔さんは、朝起きてから夜寝るまで一つの問題だけを何ヶ月も考え続けていたそうです。
これは、受験の数学ではなく、学問の数学です。
この両者の説は、どちらも正しいのであって、違いは、数学というものの距離をどこまでと考えているかによって表れてくるのです。
同じことは、教育一般についてもあてはまります。
よく教育の逆説ということが言われます。よい環境とよい育て方で、よい子が育つというのは、多くの場合妥当性がありますが、時には、よい環境とよい育て方で、それに反発して悪い子が育つという例もあります。
逆に、悪い環境と悪い育てられ方をバネにして、よい子が育つという例もあるのです。
天外さんの言う全面的な受容というのもそうです。
世の中で活躍している人や、学問で業績を上げている人の中には、親から勉強しろなどと言われたことはないという人が意外と多いのです。
そのかわり、全面的な受容の中で、自分の好きなように成長し、はたから見れば遊びすぎだと思われるような子供時代や学生時代を送ってきたという例が多いのです。
褒めて育てるということは、この全面的な受容というところから考える必要があります。
褒めることを、「褒めてコントロールする」という短い距離の方法として考えると、それは受容とは正反対のものになります。
褒めるというのは、やる気を出させるために褒めるのではなく、自然によいところに目が向いてしまうという、褒める人自身の生き方としての褒めることなのです。
このように生き方として相手を褒めることができる人は、自分自身も受容しています。その受容の根源は、たぶんその人の親から受け継いだものです。
社会に出てから自分なりの人生を楽しく送れる人は、受容性の高い人です。
そこで、教育の距離というものが出てきます。
数ヶ月先のテストでいい点を取るために、ほめたり、叱ったり、うまくコントロールしたりするというのは、短い距離の話です。
そういう距離感も、もちろん少しは必要です。
しかし、もっと大事なのは、その子が将来社会に出たときに、社会の中で自分らしく自信を持って楽しく生きていける人間になってほしいという長い距離感の子育てです。
その長い距離感のもとになるものが、曖昧な概念のようにも見える全面的な受容なのです。
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今の小学生が大学入試に向かうころには、入試のあり方が大きく変わってきます。その前に、高校の勉強のあり方も大きく変わってきます。更に、社会のあり方も大きく変わってきます。
昔は、いい大学に入りさえすればあとは何とかなる、という考えがありました。
今はもう、もちろんそういう時代ではありません。逆に、受験勉強のために余分なことをしないという生活をしていると、かえってのびしろの少ない人生になってしまいます。
その結果、大学入試の直前が学力のピークで、入学したらあとはずっと下り坂となってしまう人も多いのです。
勉強は、正しい方法とかけた時間によって結果が出てきます。だから、つい見える結果だけを目指してしまいがちですが、本当は、将来社会に出て活躍するための全人間的な力をつけることを第一に考えていくべきなのです。
勉強の仕方でこれからいちばん変わることは、全部の教科が普通にできるようになることです。文系だから理数は苦手でいいとか、理系だから文学は苦手でいいというわけにはいかなくなります。
そして、勉強は塾や予備校に行って特別に難しいことをやるのではなく、学校で普通にしっかりやればよいという形になっていきます。
勉強が普通にできればよいというところまで落ち着くのと反比例して、いかにその子の個性を伸ばし、楽しい人生を送るかということが、子育ての重点になってきます。
昔は、いい学校、いい会社、いい職業、いい人生のような正解のルートがありました。そして、誰もがそこに殺到したので、受験競争が過熱し、重箱の隅をつつくような奇問難問が出るようになり、その問題に対応して長時間勉強させる塾が増え、勉強しかできない子が増えてきたのです。
これからの社会では、正解のルートはありません。それぞれの子供の個性と社会の情勢に合わせて、一人ひとりが自分のルートを決めていく時代です。
そのために必要なのが全面的な普通の学力と、個性と創造性と意欲と人間性なのです。
昔は、一浪してでも二浪してでも希望の大学に入りたいという人が数多くいました。それで、予備校も繁盛していました。
今はそういう、何が何でも特定の大学や学部に入りたいという人は少なくなっています。それは、子供たちに覇気がなくなったからではありません。苦労してどこかの大学に入っても、その苦労に見合った分だけの将来の展望が見えない気がするからです。
高度経済成長の名残りがある右肩上がりの時代には、いいところに乗れば、そのままエスカレーターで先まで行けるという漠然とした見通しがあるように見えました。
今はそうではありません。
親もまた、子供たちの将来の見通しがわからないので、勉強も、「とりあえずやっておけば損はない」という程度のことしか言えなくなってきているのです。
日本は今世界の最先端を走っています。少子化も、高齢化も、財政赤字も、地方の過疎化も、すべて世界の最先端の問題です。
これまでのように、ヨーロッパのあとを追うような姿勢ではなく、日本が自らの力で切り開かなければ解決できない問題が次々に生まれています。
少し前までは、BRICsのような新興国がこれからの時代の主役になるということが言われていました。
しかし、新興国は主役にはなりません。先進国が先に歩いた道を、あとから走っているだけです。
では、主役は誰かというと、それは新興国、先進国という区分ではなく、ただ新しいものを作り出せる国家と国民です。そして、その最も近いところにいるのが日本なのです。
なぜ日本が主役になるかというと、日本は、他の先進国に比べ、経済格差も知的格差も少なく、普通の国民が優れた能力を持っているからです。
現在日本の特許貿易は、アメリカ、ドイツも含めて、すべての国に対して黒字です。
人のあとからついていくのではなく、人の前を走れる国がこれからの主役になって、世界に貢献することができるのです。
だから、日本の進む方向は、大きく言えば、発明と発見です。わかりやすく技術開発と言ってもいいでしょう。
それは、個人のレベルであっても同様です。
普通の人が、自分の今いる場所の問題に対して、発明や発見という創造で対応していくことが求められくるのです。
その創造が当たれば、それが新しい仕事になることもあります。当たらない場合でも、個性を生かした楽しい人生を送る土台になります。
子供たちの勉強もまた、この大きな方向の中で考えていく必要があります。
これからの子育ては、発明、発見、創造、独立という方向を考えて行う子育てなのです。
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親や先生の役割は、勉強を教えることではありません。
答えの決まっている勉強などは、教科書を少し詳しく解説したものを読めば誰でもわかるようになっているのです。
本当の役割は、子供が自分の力でやれるように長い目で見守ることだと思います。
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国語の成績は、結構簡単に上がります。それは、読解の勉強の仕方にある一定のコツがあるからです。
ところが、そういう読解の仕方を、なぜか学校でも塾でも教えません。だから、国語は難しいと思ってしまう人が多いのです。
もちろん、簡単に上がると言っても、それなりに時間はかかります。しかし、理屈どおりにやっていけば、誰でも必ず国語の成績は上がるのです。
ところで、成績の上がり方には、二つの段階があります。今述べたのは「すぐ上がる」というのは、第一の段階の方です。
第一段階で上がるのは、解き方のコツを理解するからで、どちらかと言えば知識的な理解ですから成績が上がるのも早いのです。
しかし、第二の段階はそうではありません。第二段階の理解とは、知識的な理解ではなく思考的な理解だからです。
だから、難しい文章の内容を読み取ることができなければ、第二段階の国語の成績は上がりません。
受験というのは、差をつけるための試験です。そのため、解き方を知らないと解けないような問題を出すのです。
そして、それでもなお差をつけにくいときは、読み取りにくい難しい文章を出すのです。(悪文であることが多い)
どのくらい読み取りにくいかというと、誰が読んでも理解できないような文章です。それが、立派な私立大の国語の問題として出てくるのです。国立大では、そういうことはまずないようですが。
しかし、このような読み取りにくいというか読み取れない文章であっても、思考力のある生徒は、大きく自分なりに読み取ってしまいます。その差は、難しい語彙に慣れているかどうかです。
だから、もちろん第二段階の国語力にも、力の付け方というものがあります。それは、難しい文章を読み慣れることです。
しかし、これがまた大部分の生徒にとっては難しいことなのです。なぜ難しいかというと、苦しいわりにあてのない気がする勉強だからです。
そこで、言葉の森では、寺子屋オンエアの勉強の一環として、国語問題集読書の音読をビデオメッセージで先生に送ってもらうことにしました。
難しい文章を繰り返し読むために最もいい方法が音読だからです。
黙読では、理解できない文章は理解できないままです。だから、頭に入りません。
しかし、音読で読むと、理解できない文章が理解できないままであっても、頭に入るのです。そして、何度も繰り返し頭に入っていると、理解できるようになってきます。
音読は、必ずしもていねいに読む必要はありません。聞いてわかるぐらいであれば、早口でも小声でもかまいません。また、時間も問題集2ページ分ぐらいであれば3分で読めます。そんな短い時間でいいのです。
そのかわり大事なことは、毎日続けていくことです。
国語力の第二段階は、勉強としてというよりも、生活習慣としてやっていくことなのです。
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国語が苦手な子は、国語の問題を勘で解いています。
だから、「合ってた」とか「合ってなかった」で終わってしまうのです。
そして、「合ってなかった」というときも、その理由を知ろうとはしません。
そうではなく、国語は理詰めで解いていくのです。
そうすると、合っていなかったときは、なぜそうなのかと理由を聞くようになります。
すると、国語の成績は急に上がるようになるのです。
しかし、その上がる度合いは、その子の難読力の範囲までです。
難読力をつけるには、難しい本を読み慣れるしかありません。
そこで、音読が役に立つのです。
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