大人は、子供たちの勉強を見て、間違えたところをすぐに直そうとしたり、できなかったところをすぐに理解させようとしたりしがちです。
その気持ちはわかりますが、そういう勉強の仕方をしていると、まず教える人がくたびれてきます。そしてだんだん叱るようになってきます。
次に教えてもらう子の方が最初は真面目に聞いていますが、だんだん気分が乗らなくなってきます。
そして最後に、教える方も、教えてもらう方も疲れ果ててしまい、勉強が続かなくなるのです。
勉強の仕方で最も大事なのは、長続きさせることです。どんなによい教え方をしても、長続きしなかったら、その勉強は身につきません。長続きさせることを再優先して勉強させるというのが、勉強の仕方の鉄則です。
では、長続きさせるためにはどうしたらよいかというと、それはにこやかに見守るだけにするのです。
それでは、できなかったところがいつまでもできないままではないかと思う人もいると思いますが、できなかったことも繰り返しているうちに自然にできるようになるのです。
ただし、そのためには、できなかったところを繰り返し勉強する仕組みを作ることが大切です。
「作文が書けない」「書くことがない」「どう書いていいかわからない」などという質問を体験学習の子供たちから時どき受けます。
そのときに、教える側が真面目になって、書くことを引き出そうといろいろアドバイスをすると、ますます書けなくなります。
書けない原因の第一は、読書不足です。第二は、これまで注意されすぎてきたことです。
だから、アドバイスの方法でいちばんいいのは、口頭でアドリブで書くことを言ってあげることです。
「じゃあ、今から先生が言うとおりに書いてね。『きょう、ぼくはあさ6じにおきました。あさごはんは、なっとうとたまごやきでした。』はい、書いてごらん」
こういう感じで言ってあげると、子供たちは、安心して素直に書き出します。そして、途中から、「なっとうとたまごやきじゃなくて、パンとぎゅうにゅうだったんだけど」などと言いながら自分で書くようになるのです。
書き終えたら、たとえそれがほとんど先生の言ったとおりであっても、褒めてあげて、それでおしまいです。
言葉の森に体験学習に来る生徒の中には、作文が超苦手という人もよくいます。
そういう子供たちが、体験学習の1回めから苦もなく書き出し、やがてどんどん書けるようになり、作文が得意になっていきます。
それは、作文に慣れるように教えているからなのです。
音読も同じです。
国語があまり得意でない子は、つっかえつっかえ読んだり、読み間違えたりします。それを近くで聞いているお母さんが、注意して直そうとすれば、音読はますます苦手になり下手になっていきます。
何も言わずににこやかに聞いていれば、やがて上手に読めるようになります。
これも、慣れです。慣れれば誰でも上手になるものなのです。
勉強も同じです。
算数や数学でできない問題があったとき、教える側はついわかりやすく説明してその場で理解させることがよいことだと思ってしまいます。
しかし、いちばんよいのは、子供が自分で苦労して、「あ、わかった」というわかり方をすることです。
だから、できなかった問題は、少し説明してわからないときは、それ以上説明をせずに、次の日にもう一度同じところをやって、解法と答えを読ませるといいのです。
それを何度か繰り返し、それでもわからないときは、問題と解法と答えを書き写し、それを覚えてしまうぐらいにします。
そうすると、ほとんどの場合、その問題に慣れて自然に理解できるようになります。
それでもどうしてもわからないときは、生徒掲示板に書いて、先生に聞けばいいのです。
音楽や運動は、頭での理解よりも身体の慣れだということをみんな知っています。
知的な理解も大切ですが、そこに使う時間はわずかで、練習量のほとんどは身体が慣れるための時間です。
勉強もそうです。
特に、国語や作文の勉強は、他の教科よりもずっと運動や音楽の習得に近い勉強です。
慣れるためには、いつもにこやかに褒めて、長続きさせていくことが大事なのです。
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戦後教育を受けたお父さんお母さんの世代には、理解というものに対する信仰のようなものがあります。
「丸暗記ではなく、理解することが大事だ」と言う人が多いのですが、本当は、理解よりももっと大事なものが慣れなのです。
赤ん坊は、歩き方を理解してから歩くのではありません。まず歩き始めて、何度もころんでいるうちに歩けるようになります。
その場合、大事なのは歩いて向こうに行きたいという目的です。
勉強の場合は、正解という目的があります。目的さえわかっていれば、ほとんどは慣れでできるようになるのです。
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寺子屋オンエアで、子供たちが家庭学習をしている様子を見ると、みんなの勉強の仕方の長所短所がよくわかります。
今回はその中で、いくつか問題に感じたことを紹介します。
今後の家庭学習の参考にしてください。
●勉強は長時間やらせすぎない
せっかく先生が見ていてくれるのだからと、長い時間勉強させようとするお母さんがいます。
長くやってくれると、親は確かにうれしい気がすると思いますが、長くやることによって子供の負担感が少しずつ蓄積されてくると、結局長続きしなくなります。
勉強は、短い時間でよいので、毎日同じようなことを長く続けることで力がついてきます。どんなに集中して長時間やったとしても、その結果長続きがしなかったら何の成果もありません。
親から見て、ものたりないと思うぐらいの時間が、子供にとっては最適の時間なのだと考えていってください。
本人に勉強の自覚ができる中学3年生ぐらいになると、親が何も言わなくても長時間集中してやるようになります。長時間の勉強は、本人が自覚してからでいいのです。
●問題集に直接答えを書かない
問題集に直接答えを書く子がよくいます。問題集の方も、空白が広くとってあり、そこに計算式と答えが書けるようになっているものが多いようです。
しかし、問題集に答えを書くと、結局その問題集は1回やっただけで終わりになってしまいます。
問題集には、○と×だけをつけておき、計算と答えは別にノートに書きます。これなら、間違えたところだけを何度も繰り返しできるので、その問題集を完璧に仕上げることができます。
ところで、こういう説明をすると、ノートの方に○と×をつけるだけで、問題集には何も書いていないという子がいました。それでは、どの問題ができてどの問題ができなかったかわかりません。
問題集には○と×、ノートには計算と答えと○と×をつけておいてください。
●面白く読める本を優先、しかし少しずつ難しい本に触れる機会も増やす
読書は、勉強よりも優先して毎日取り組む必要があります。特に小学生の場合はそうです。
読書さえしっかりしていれば、今の成績が普通程度であっても、学年が上がって本気で勉強に取り組むようになればすぐに力がつきます。
逆に、今の成績がどんなによくても、読書を後回しにしている子は、学年が上がると成績が伸びなくなります。
今の成績よりも将来の学力を考えて、読書を毎日欠かさずに行うようにしてください。
本の選び方で、よく「○年生の読み物」などとなっている本がありますが、こういう細切れの名作が載っているようなものは、没頭して読む本にはなりません。
物語文であればストーリーの面白い本、説明文であればその子の興味のあるジャンルの本を選んでいくようにしてください。
小学校低学年で読む本として、「怪傑ゾロリ」のような本は、大人から見れば品がないように見る人もいると思いますが、文章はしっかりしているし内容も面白いのでおすすめです。
漫画や学習漫画や絵本や図鑑のような絵に頼るものでなければ、子供が夢中になって読む本をいちばんいい本だと考えていってください。
しかし、大人が新しい別のジャンルの本の面白さに触れる機会を作ってあげなければ、子供はいつまでも同じレベルの本にとどまります。
その子の興味や関心や読書力を考慮しながら、少しずつ興味の持てる説明文の本を読む機会を作っていくようにしてください。
難しい本というと、大人はすぐに難しすぎる名前だけ有名な本を読ませがちです。
その子の読書力を考えて、無理のない難しい本を選ぶようにしてください。
また、1冊を最後まで読む形の読書だと、その本に興味が持てない場合、ずっと同じ本でとどまるようになります。
読書は、読んでいるところに付箋をつけ、何冊かの本を並行して読むようにすると、1冊の本だけを読むよりも読書量が増えます。
また、子供に本を読ませるだけでなく、お母さんお父さんも毎日必ず本を開くようにしてください。
●問題集読書の音読と感想
問題集読書は、答えを先に書き込み、音読し、感想を書くという流れで勉強しています。
この中で最も大事なのは音読です。しかし、音読は形に残らないので、形の残る感想を書くようにしています。
感想は、50字ぴったりに書くことと、たとえ又は自作名言(「○○はAでなくBである」のような表現)を入れて書くことを目標にすると、より高度な書き方になります。
ただし、たとえや自作名言を毎回入れるのは難しいので、とりあえずは50字ぴったりに書くことを目標にしていくといいと思います。
感想は形に残るので、子供も親もつい感想に力を入れがちですが、勉強の中心はあくまでも音読で、感想はやり終えたという形を作るためのものと考えていってください。
音読は、これまでは本人任せでしたが、skypeのビデオメッセージで先生あてに送れるようになったので、音読も形の残る勉強になりました。
音読も感想も、長く続けることが大事ですから、近くで見たり聞いたりしているお母さんは、どのような音読や感想であっても、細かい注意はせずに、続けることが第一と考えて見ていってください。
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題名長すぎ(笑)。
寺子屋オンエアで子供たちの勉強の様子を見ていると、いろいろなことに気が付きます。
いちばん多いのが、形にとらわれて、中身のあまりない勉強をしていることです。
例えば、問題集の解きっぱなし。
子供はつい解くことが勉強だと思ってしまうのです。
本当は、解いたあと間違えたところを理解し、それを反復して練習する仕組みを作るのが勉強なのですが。
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江戸時代の日本の各地で広がっていた寺子屋は、自学自習のシステムでした。
共通の場で勉強するので、自然に勉強する雰囲気ができますが、先生は一斉指導で教えるわけではありません。
勉強の方向性はありますが、何を勉強するかは生徒一人ひとりに対応して、先生がアドバイスする形でした。
寺子屋オンエア(以下寺オン)は、この寺子屋方式の自学自習を家庭にいながらにして、先生のコントロールのもとで、インターネットを利用して自由な時間できるようにしたものです。
寺オンを始めるようになった生徒の中に、すぐに驚くような成果が現れることがあります。
ひとつには、家庭で勉強をしたり読書をしたりする習慣がほとんどなかった子が、毎日勉強や読書をするようになることです。
またもうひとつには、既に家庭学習の習慣のあった子は、それまでひとりで又は親子で勉強していたときに比べて、より集中度の高い勉強をするようになることです。
しかも、寺オンの勉強法は、よくありがちな家庭学習の次々と新しいプリントをやる形ではなく、1冊を徹底反復する形ですから、確実に実力がつくのです。
例えば、中学生のある生徒は、小学6年生から寺オンを始め、塾には行かずに家庭だけで勉強しています。中学生になってからの成績は全教科ほとんど5を維持しています。
小学3年生のある生徒は、それまで家庭で勉強したり読書をしたりする習慣がほとんどありませんでした。しかし、寺オンを始めるようになってからすぐに、毎日の勉強と読書の習慣がつくようになっています。
しかし、このような例がある一方、寺オンのコンセプトが新しいこともあって、時々勘違いした受け止め方で勉強している人もいます。
例えば、勉強する習慣のなかった子が、寺オンで勉強するようになったから、もっと勉強させるために塾に行かせるというようなことがありました。
寺オンを週4日やっていたのを、週2回にして、残りの2回は塾に行かせるというような形です。
そのようなことをすれば、塾に行っている2回分は家庭学習ができなくなります。そして、結局勉強の方向が定まらなくなるので、どちらも中途半端にしかできなくなってしまうのです。
子供が家庭で勉強するのを見ていると、時どき飽きたり、遊んだり、ふざけたりすることがあります。
それが気になると、つい塾に行かせてもっと集中して勉強させるようにしようなどと思いがちですが、子供は塾でも同じように、飽きたり遊んだりふざけたりしています。塾に行かせると、それが親の目から見えなくなるだけなのです。
だから、家庭で、時どき飽きたり遊んだりするのを許容しながら、毎日の習慣として勉強を続けさせていくというのが最もよいやり方なのです。
寺オンを、週に1回か2回見てくれる家庭教師のようなものを考えてしまう人もいます。
勉強は、毎日同じことを同じようにやるのが大切なのですが、寺オンのときだけ、せっかく先生が見てくれているのだからと、普段できない勉強をするという人もいました。
これは、寺オンも、その特別の勉強も、どちらもやりたがらなくなる最悪のやり方です(笑)。
特別の勉強をさせるのであれば、それは、その特別の勉強を専門とする特別の先生に頼んで、より高い月謝で本格的に取り組むべきです。
寺オンは、低価格で日常の勉強の習慣をつけ、実力をつけるという、言わば「凡事徹底」の勉強ですから、そういう特別の勉強をする場ではないのです。
勉強は、平凡なことを継続するということが大事ですから、寺オンの回数が、週に1回や2回の場合でも、同じ勉強の仕方を寺オンのない日もやっていく必要があります。
ほかの曜日はそれぞれほかの習い事をして、寺オンのある日は国語の勉強というやり方では、国語もほかの勉強も力がつきません。
寺オンのある日の国語・算数数学・英語・読書の勉強の仕方を基準にして、寺オンのない日も、土曜日曜も含めて毎日同じような家庭学習を続けていくというのが、最も能率よく実力をつける道なのです。
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受験作文コースの取り組みで大事なことは三つあります。
第一は、自分らしい個性や感動のある実例を見つけていくことです。
受験コースのそのときどきの課題で、いい実例を見つけていると、それが試験の本番でも応用できるようになります。
実例は、子供が自分で考えるだけでなく、親が似た例を話してあげることも大事です。親の似た例にヒントを得て、子供が更によい例を考えつくということも多いからです。
第二は、深い感想や意見を書く練習をすることです。
作文の課題が、例えば「これまでの学校生活の思い出」のような身近なものであったとしても、身近な話をそのまま書いたのでは、受験用の作文とはなりません。
自分の書いた文章の中に、必ず大きい視点、深い見方、個人の実例を超えたより一般的な考え方というものが必要になってきます。
これは、小学6年生の課題で「一般化の主題」として勉強してきたものです。
ところが、この一般化した感想や意見は、子供にはなかなか見つけにくいものなのです。
それは、その子の日常生活の中で、そういう一般的な話を論じる必要がないために語彙が不足しているからです。
そこで出てくるのが、やはり両親です。
毎回の作文の課題に応じて親子で話をし、そこに親が大人としての大きい見方から話をする機会を増やしていきます。
例えば、「私の友達」というテーマで書く場合は、個々の友人の話を超えて、「友情というもの」について話をするということです。
一般化した、より抽象的な語彙を使えるようになるためには、親子の対話が最も役に立ち、また楽しく続けられるものなのです。
第三は、切れ味のよい表現を作っていくことです。
受験の作文を採点するのは人間ですから、単に正しいことを書いてあるだけでなく、読む人の心にひびくような表現が使われていることが大事です。
この切れ味のよい表現が、作文の結びの5行以内に入っていると、読んだあとの印象がかなり上がります。
同じレベルの作文であれば、結びの5行に切れ味のよい表現があるかどうかで、合否もほぼ決定するのではないかと思います。
ところが、この切れ味のよい表現は、作文をいくつも書く中で、偶然に出てくる面があります。
だから、毎回表現の切れ味を意識して書き、そこに両親も参加してアドバイスするという形をとっていくといいのです。
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受験コースの方針は、出そうなテーマで10本書いたら一応安心、ということです。
その10本をすべて力作で書くのです。
しかし、言う方は簡単ですが、書く方は大変(笑)。
作文というのは、心理的負担の大きい勉強なので、ひとりでやるのは難しいのです。
受験作文は本人がひとりで突破するものではないのですね。
家庭の力、親子の風通しのよさ、いろいろなことが試されてしまいます。
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天外伺朗さんの「『教えないから人が育つ』横田英毅のリーダー学」を読んでいて、ふと、中室牧子さんの「学力の経済学」という本のことを思い出しました。
天外さんは、本名土井利忠さん。元ソニーの常務で、これまでにCD、ワークステーションNEWS、ロボット犬AIBOなどを開発した人です。
天外さんは、「教えないから人が育つ」の中で、全面的な受容の大切さを述べています。
一方、「学力の経済学」は、データの裏づけによって、何が学力にとってプラスになるのか、あるいはマイナスになるのかを分析した本です。
この本を見ると、例えば、ある程度のご褒美は子供のやる気を引き出し、学力を高めることに結びつくというようなことが書かれています。
この2冊を並べて考えると、教育の距離とか、人間の成長の距離とかいうものが、両者で大きく違っていることがわかります。
昔、和田秀樹さんと森毅さんの教育観の比較を考えたことがあります。
和田さんは、「数学は、わからなかったらすぐに答えを見て、その解答を理解すること」と述べていました。
この方法で勉強すると、誰でも数学が得意になります。大学入試までのレベルの数学は、考える勉強ではなく理解する勉強だからです。
一方、森さんは、それとは反対に、「数学は、答えを見ずに、まず自分で考えること」と述べていました。
森さんと同じ数学者の岡潔さんは、朝起きてから夜寝るまで一つの問題だけを何ヶ月も考え続けていたそうです。
これは、受験の数学ではなく、学問の数学です。
この両者の説は、どちらも正しいのであって、違いは、数学というものの距離をどこまでと考えているかによって表れてくるのです。
同じことは、教育一般についてもあてはまります。
よく教育の逆説ということが言われます。よい環境とよい育て方で、よい子が育つというのは、多くの場合妥当性がありますが、時には、よい環境とよい育て方で、それに反発して悪い子が育つという例もあります。
逆に、悪い環境と悪い育てられ方をバネにして、よい子が育つという例もあるのです。
天外さんの言う全面的な受容というのもそうです。
世の中で活躍している人や、学問で業績を上げている人の中には、親から勉強しろなどと言われたことはないという人が意外と多いのです。
そのかわり、全面的な受容の中で、自分の好きなように成長し、はたから見れば遊びすぎだと思われるような子供時代や学生時代を送ってきたという例が多いのです。
褒めて育てるということは、この全面的な受容というところから考える必要があります。
褒めることを、「褒めてコントロールする」という短い距離の方法として考えると、それは受容とは正反対のものになります。
褒めるというのは、やる気を出させるために褒めるのではなく、自然によいところに目が向いてしまうという、褒める人自身の生き方としての褒めることなのです。
このように生き方として相手を褒めることができる人は、自分自身も受容しています。その受容の根源は、たぶんその人の親から受け継いだものです。
社会に出てから自分なりの人生を楽しく送れる人は、受容性の高い人です。
そこで、教育の距離というものが出てきます。
数ヶ月先のテストでいい点を取るために、ほめたり、叱ったり、うまくコントロールしたりするというのは、短い距離の話です。
そういう距離感も、もちろん少しは必要です。
しかし、もっと大事なのは、その子が将来社会に出たときに、社会の中で自分らしく自信を持って楽しく生きていける人間になってほしいという長い距離感の子育てです。
その長い距離感のもとになるものが、曖昧な概念のようにも見える全面的な受容なのです。
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今の小学生が大学入試に向かうころには、入試のあり方が大きく変わってきます。その前に、高校の勉強のあり方も大きく変わってきます。更に、社会のあり方も大きく変わってきます。
昔は、いい大学に入りさえすればあとは何とかなる、という考えがありました。
今はもう、もちろんそういう時代ではありません。逆に、受験勉強のために余分なことをしないという生活をしていると、かえってのびしろの少ない人生になってしまいます。
その結果、大学入試の直前が学力のピークで、入学したらあとはずっと下り坂となってしまう人も多いのです。
勉強は、正しい方法とかけた時間によって結果が出てきます。だから、つい見える結果だけを目指してしまいがちですが、本当は、将来社会に出て活躍するための全人間的な力をつけることを第一に考えていくべきなのです。
勉強の仕方でこれからいちばん変わることは、全部の教科が普通にできるようになることです。文系だから理数は苦手でいいとか、理系だから文学は苦手でいいというわけにはいかなくなります。
そして、勉強は塾や予備校に行って特別に難しいことをやるのではなく、学校で普通にしっかりやればよいという形になっていきます。
勉強が普通にできればよいというところまで落ち着くのと反比例して、いかにその子の個性を伸ばし、楽しい人生を送るかということが、子育ての重点になってきます。
昔は、いい学校、いい会社、いい職業、いい人生のような正解のルートがありました。そして、誰もがそこに殺到したので、受験競争が過熱し、重箱の隅をつつくような奇問難問が出るようになり、その問題に対応して長時間勉強させる塾が増え、勉強しかできない子が増えてきたのです。
これからの社会では、正解のルートはありません。それぞれの子供の個性と社会の情勢に合わせて、一人ひとりが自分のルートを決めていく時代です。
そのために必要なのが全面的な普通の学力と、個性と創造性と意欲と人間性なのです。
昔は、一浪してでも二浪してでも希望の大学に入りたいという人が数多くいました。それで、予備校も繁盛していました。
今はそういう、何が何でも特定の大学や学部に入りたいという人は少なくなっています。それは、子供たちに覇気がなくなったからではありません。苦労してどこかの大学に入っても、その苦労に見合った分だけの将来の展望が見えない気がするからです。
高度経済成長の名残りがある右肩上がりの時代には、いいところに乗れば、そのままエスカレーターで先まで行けるという漠然とした見通しがあるように見えました。
今はそうではありません。
親もまた、子供たちの将来の見通しがわからないので、勉強も、「とりあえずやっておけば損はない」という程度のことしか言えなくなってきているのです。
日本は今世界の最先端を走っています。少子化も、高齢化も、財政赤字も、地方の過疎化も、すべて世界の最先端の問題です。
これまでのように、ヨーロッパのあとを追うような姿勢ではなく、日本が自らの力で切り開かなければ解決できない問題が次々に生まれています。
少し前までは、BRICsのような新興国がこれからの時代の主役になるということが言われていました。
しかし、新興国は主役にはなりません。先進国が先に歩いた道を、あとから走っているだけです。
では、主役は誰かというと、それは新興国、先進国という区分ではなく、ただ新しいものを作り出せる国家と国民です。そして、その最も近いところにいるのが日本なのです。
なぜ日本が主役になるかというと、日本は、他の先進国に比べ、経済格差も知的格差も少なく、普通の国民が優れた能力を持っているからです。
現在日本の特許貿易は、アメリカ、ドイツも含めて、すべての国に対して黒字です。
人のあとからついていくのではなく、人の前を走れる国がこれからの主役になって、世界に貢献することができるのです。
だから、日本の進む方向は、大きく言えば、発明と発見です。わかりやすく技術開発と言ってもいいでしょう。
それは、個人のレベルであっても同様です。
普通の人が、自分の今いる場所の問題に対して、発明や発見という創造で対応していくことが求められくるのです。
その創造が当たれば、それが新しい仕事になることもあります。当たらない場合でも、個性を生かした楽しい人生を送る土台になります。
子供たちの勉強もまた、この大きな方向の中で考えていく必要があります。
これからの子育ては、発明、発見、創造、独立という方向を考えて行う子育てなのです。
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親や先生の役割は、勉強を教えることではありません。
答えの決まっている勉強などは、教科書を少し詳しく解説したものを読めば誰でもわかるようになっているのです。
本当の役割は、子供が自分の力でやれるように長い目で見守ることだと思います。
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国語の成績は、結構簡単に上がります。それは、読解の勉強の仕方にある一定のコツがあるからです。
ところが、そういう読解の仕方を、なぜか学校でも塾でも教えません。だから、国語は難しいと思ってしまう人が多いのです。
もちろん、簡単に上がると言っても、それなりに時間はかかります。しかし、理屈どおりにやっていけば、誰でも必ず国語の成績は上がるのです。
ところで、成績の上がり方には、二つの段階があります。今述べたのは「すぐ上がる」というのは、第一の段階の方です。
第一段階で上がるのは、解き方のコツを理解するからで、どちらかと言えば知識的な理解ですから成績が上がるのも早いのです。
しかし、第二の段階はそうではありません。第二段階の理解とは、知識的な理解ではなく思考的な理解だからです。
だから、難しい文章の内容を読み取ることができなければ、第二段階の国語の成績は上がりません。
受験というのは、差をつけるための試験です。そのため、解き方を知らないと解けないような問題を出すのです。
そして、それでもなお差をつけにくいときは、読み取りにくい難しい文章を出すのです。(悪文であることが多い)
どのくらい読み取りにくいかというと、誰が読んでも理解できないような文章です。それが、立派な私立大の国語の問題として出てくるのです。国立大では、そういうことはまずないようですが。
しかし、このような読み取りにくいというか読み取れない文章であっても、思考力のある生徒は、大きく自分なりに読み取ってしまいます。その差は、難しい語彙に慣れているかどうかです。
だから、もちろん第二段階の国語力にも、力の付け方というものがあります。それは、難しい文章を読み慣れることです。
しかし、これがまた大部分の生徒にとっては難しいことなのです。なぜ難しいかというと、苦しいわりにあてのない気がする勉強だからです。
そこで、言葉の森では、寺子屋オンエアの勉強の一環として、国語問題集読書の音読をビデオメッセージで先生に送ってもらうことにしました。
難しい文章を繰り返し読むために最もいい方法が音読だからです。
黙読では、理解できない文章は理解できないままです。だから、頭に入りません。
しかし、音読で読むと、理解できない文章が理解できないままであっても、頭に入るのです。そして、何度も繰り返し頭に入っていると、理解できるようになってきます。
音読は、必ずしもていねいに読む必要はありません。聞いてわかるぐらいであれば、早口でも小声でもかまいません。また、時間も問題集2ページ分ぐらいであれば3分で読めます。そんな短い時間でいいのです。
そのかわり大事なことは、毎日続けていくことです。
国語力の第二段階は、勉強としてというよりも、生活習慣としてやっていくことなのです。
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国語が苦手な子は、国語の問題を勘で解いています。
だから、「合ってた」とか「合ってなかった」で終わってしまうのです。
そして、「合ってなかった」というときも、その理由を知ろうとはしません。
そうではなく、国語は理詰めで解いていくのです。
そうすると、合っていなかったときは、なぜそうなのかと理由を聞くようになります。
すると、国語の成績は急に上がるようになるのです。
しかし、その上がる度合いは、その子の難読力の範囲までです。
難読力をつけるには、難しい本を読み慣れるしかありません。
そこで、音読が役に立つのです。
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従来の、そして現在も広まっているICT教育、ネット教育は、もっぱら大量のリッチコンテンツと低コストの配信という仕組みで成り立っています。これは、これで教育の素材面でのインフラになるので、大きな意義があります。
しかし、そのインフラを生かせるかどうかは、生きた主体である子供たちの取り組み方にかかっています。
子供たちは友達と遊んだり、本を読んだり、スポーツに熱中したり、お喋りを楽しんだり、食べたり、休んだりという全体としての生活をしています。
そういう生活の中に、教育の素材だけがどさっと置かれたとき、その素材を生活全体の中にどう位置づけ取り組むかは、子供たちの主体的な実行の有無にかかっています。
インスタントラーメンであれば、お湯を注げば例外なく3分間でできあがりますが(3分も待たずに食べる人もいますが)、人間はいくら材料を与えられても、それを主体的に生かそうと思わなければ、その材料が自動的に何かを生み出すわけにはいきません。
今のネット教育に対する多くの人の疑問は、「確かにいいものがそろっているが、うちの子に続けられるかどうか」ということです。
そして、多くのネット教育は、続けやすくするために、教育の中身とはあまり関係のない外見の面白さやゲーム性や賞品リストなどに力を入れるようになっているのです。
中学生や高校生の中には、塾などの自習室で勉強する子がよくいます。
カラフルでインタラクティブなネット教育よりも、殺風景な自習室の方が勉強がはかどるのは当然です。そこには、勉強する雰囲気があるからです。
自習室での勉強の場合、教材は自分持ちで、教えてくれる先生はいません。ゲームも賞品もありません。しかし、同学年の子供たちがそれぞれに自習しているのを見ると、そこで自分も自然に勉強しようという気になるのです。
その自習室に、いつでも質問したり相談したりできる先生役の人がいて、勉強の方向などのアドバイスを受けられれば、それが理想的な勉強の場です。
しかし、こういうサービスは、人口密度の高い都会でしか成り立ちません。また、そういうサービスを提供できる自習室があったとしても、自宅から教材を持参して、歩いたり自転車に乗ったりして時間をかけて通わなければなりません。
それなら、自宅で勉強した方がいいと思っても、自宅でひとりで勉強するには、そういう雰囲気になるきっかけが必要です。また、自宅では、わからないところが出てきたときに質問できる人がいません。
こういう問題を解決するのがインターネットを使った新しい教育システムである寺子屋オンエアです。
しかし、寺子屋オンエアのような新しいコンセプトの勉強は、なかなか理解しにくいと思います。
そこで、言葉の森では、現在、言葉の森の生徒には機材も教材も無償の寺子屋オンエア無料体験学習キャンペーンを行っています。(つづく)
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昔の子は、都会でも、塾や予備校には行きませんでした。
というか、塾や予備校自体がありませんでした(笑)。
だから、みんな能率の悪い自己流のやり方で勉強をしていました。
今の子は、田舎でも、塾や予備校に行きます。
だから、勉強の仕方は洗練されています。
しかし、洗練されているわりに、無駄な時間が多いのです(笑)。
自宅でできる自主的な勉強で、肝心なときだけアドバイスを聞けるというのが、理想の勉強法になると思います。
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