日本の寺子屋式の勉強は、従来の欧米式の勉強に比べると、一歩も二歩も進んでいる勉強法です。
現在、学校教育の中で教育格差が拡大しているのは、その教育が欧米式の教育だからです。
欧米式の教育とは、等質の生徒集団を前提として、先生が一方的に教える形で理解させ、理解度をテストで評価し、競争で意欲づけを図るという教育です。
その教育の前提となる社会は、成績が学歴と結びつき、学歴が社会的地位と結びつくという画一的な価値観が中心となっていた社会です。
戦後しばらくの間は、子供たちは黙っていても勉強する動機がありました。それは、成績が地位と結びつくという社会の価値観があったからです。そして、家庭環境は誰もが等しく貧しいというところで等質でした。
しかし、その後、受験塾が登場すると、勉強は受験のためのテクニックを必要とするようになりました。
また、昔は読書とラジオぐらいしかなかった室内の娯楽が、テレビ、ゲーム、インターネット、SNSと多様化すると、娯楽に多くの時間を取られる子も出てきました。
その結果、等質集団という前提が崩れてきたのです。
欧米式教育は、できすぎる子と、できなさすぎる子には対応できません。誰もが同じ程度であるときにだけしか効果を発揮できない勉強法です。
そして、世界の子供たちを取り巻く環境は、社会が貧しいときは等質なので、欧米式の学校教育も効果的ですが、社会が豊かになるにつれて、日本と同じように等質性が崩れてくるはずなのです。
昔は、等質の生徒集団を、単一の教科書で、一人の担任が教えていました。また、社会全体が教育に求める価値観も共通していました。
この時期が、欧米式教育の成功していた時期です。
今は、多様な生徒集団を、多様な教材で、多様な塾がそれぞれに教えています。しかし、先生が教えるという形を前提にすると、欧米式教育を効果的にするためには、少人数学級や習熟度別クラスや個別指導で、等質の集団を細分化する形で作り直さなければならなくなります。
そして、この多様性を多様性のままに教えるための仕組みづくりの一つとして、ICT教育が期待されているのです。
しかし、江戸時代の寺子屋教育は、コンピュータのない時代に、多様性を多様性のままに教えるシステムを作りだしていました。
なぜそれができたかというと、自学自習の方法が確立されていたからです。つまり、今で言う義務教育の年齢では、学ぶべきものはほぼ確定しているので、先生が多様な生徒を一律に教えるのではなく、生徒が自分の進度に合わせて教材を学習し、先生はそれを見守るだけで、ときどき進度の段階を決め直すという仕組みができていたのです。
しかも、寺子屋教育の利点は、ICT教育のように人間がコンピュータと向き合う孤独な勉強ではなく、集団の中で勉強するという集団の力学も生かしたものだった点にあります。
その自学自習を進める勉強の一つの方法が、限られた一つの教材を音読によって徹底して反復し身につけるという方法でした。
つまり、義務教育段階の学力は、理解による方法ではなく、反復による方法で身につければよいという教育観が確立していたのです。
この寺子屋教育の勉強法をインターネットを活用して現代に生かし、更に、創造性を高める作文教育に結びつけていくというのが、言葉の森がこれから考えている教育のビジョンです。
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日本の寺子屋式勉強法のひとつの名残りが九九の暗唱です。
欧米では、九九を理解によって一覧表などを使って覚えようとするので、できる子とできない子の差が生まれ、できる子でも大してできるようにはなりません。
義務教育段階のあらゆる勉強は、九九と同じです。
しかし、九九は学校の勉強だけではできるようにはなりません。
ここが、学校と寺子屋の教育法の違いなのです。
なぜ学校だけでは、九九ができるようにならないかというと、学校は理解の場になっているからです。
教育の本質は慣れなのですが、学校は理解させる場になっています。そして、その理解を教えるのが先生の役割です。
では、慣れはどこで身につけるかというと、家庭での宿題か、学校のあともうひとつの塾か、又はその塾で出された宿題かなのです。
かつての寺子屋では、理解ではなく最初から慣れを身につけさせる教育法が確立していました。それが、限られた教材と音読による反復と集団の中での学習というシステムでした。先生の役割は、教えることではなく、そのシステムをメンテナンスすることだったのです。
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言葉の森は、昔、作文だけを教える作文教室としてスタートしました。
「創造性を育てる作文」というのが指導の目標でしたから、当初は国語の勉強などは度外視していました。今でも漢字の書き取りなどには力を入れていません。
それは、国語とか漢字とか、あるいか算数数学の勉強とか英語の勉強とかいうものは、答えも勉強の仕方もはっきりしているものですから、わざわざ人に教えてもらうようなものでないと考えていたからです。
しかし、創造性を育てるといっても抽象的で、具体的にどういう勉強が創造性を育てるのかわかりません。
そこで、いろいろな試行錯誤の結果、今は、音読で語彙力をつける、暗唱で文章を丸ごと理解する力をつける、構成と項目を意識して書く、プレゼン作文で発表と交流の機会を作る、というような方法で指導するようにしています。
また、作文の評価はどうしても主観的になるので、客観的な評価ができるように、森リンという自動採点ソフトを開発しました。特許庁の検索のページ(
https://www.j-platpat.inpit.go.jp/web/all/top/BTmTopPage )で、「言葉の森」と検索すると表示されます。
そして、この自動採点ソフトの点数と、小1から高3までの構成・項目指導の評価を組み合わせて作文検定試験を行うようにしました。
作文の勉強というものは心理的な負担の大きいものなので、なかなか独学で続けることができません。
だから、夏休みの感想文の宿題なども、締め切りギリギリにならないと書け出せないという子が多いのです。
そこで、言葉の森では、開設当初から事前指導に力を入れ、作文を書く前に10分間、先生がその子に合わせて説明するという方法で指導するようにしました。
一般の作文指導はこの逆で、事前に何の指導もないか、あるいは全員一律の指導があるだけで、子供たちに作文を書かせます。そして、書いたあとに赤ペンで詳しく添削します。
赤ペンの添削がたくさんあると、いろいろ教えられているような気がしますが、その添削を生かせる子はまずいません。
作文は、事前指導でなければ力がつかないのです。
言葉の森の作文指導は、書く人の立場に立った系統的なものなので、小1から始めて高3あるいは大学生、社会人になるまで続ける人がよくいます。
そういう人たちは、書くことが苦にならないのはもちろん、書くこと、読むこと、考えることが好きな、個性のはっきりした人になるようです。
ところが、このように順調に勉強を続けられない人も一部にいることに、最初のころから気づいていました。
それは、例えば、読書の習慣がない子、簡単な本しか読まない子、長文の音読をして来ない子、その結果親子の対話もない子、暗唱が続けられない子などです。
更に、作文や国語だけでなく、算数や数学の勉強でも、通信教材を漠然とやるだけだったり、塾に行っているという理由で家庭学習の習慣がなかったりする子などもいました。
また、小学生なのに、勉強が忙しくて読書の時間がとれないという逆立ちした勉強の仕方をしている子もいました。
もちろん、その反対に、中学入試や高校入試や大学入試の受験の直前まで作文の勉強を続け、読書の生活も続け、受験にも合格し、合格後またすぐ作文の勉強を開始するという子もいました。
この差は、能力の差ではなく、家庭学習や家庭環境の差だと思ったのです。
しかし、教室では、家庭学習まではコントロールできません。
「長文ちゃんと読んでくるんだよ。そしてできればお父さんやお母さんに取材してくるんだよ」と前の週に言っているのに、その週になると、「まだ読んでいませんでした」となってしまう子は、やはり密度の濃い勉強はできません。
それは、やむを得ないことだと思っていました。教室では、家庭での過ごし方まで関与できないからです。
ところが、インターネットの技術の発達で、クラウドサービスのひとつとして、教室と家庭を結びつける学習指導ができるようになったのです。
それが、今行っている寺子屋オンエアです。
生徒は、自宅で自分の好きな時間に勉強を始めます。
しかし、勉強の仕方を知らない子がほとんどなので、言葉の森の方で国数英の指定の教材を決め、その勉強の方法も決めておきます。もちろん、自分のやりたい教材でやってもかまいません。
勉強時間は約1時間ですが、低学年の生徒は自由に時間を短くできます。
予定の勉強が終わると、読書をして先生の電話を待つようにしています。これで、読書習慣のない子でも、毎日本を読む習慣がつきました。
勉強している間は、先生や同じ時間に勉強している友達が見えるので、自然に勉強する雰囲気で集中して取り組めます。
勉強が終わると、先生がその日の感想を聞いたり質問をしたり雑談をしたりします。電話だけでなく顔も見えるので、話が弾みやすくなります。
生徒がその日に音読したものは、録画して先生に送るようにしているので、音読の習慣もつきます。
こういう形で毎日勉強をしていると、確実に力がつきます。
勉強は、塾に週何日か通ったり、通信教材をひととおりやったりするよりも、毎日の自学自習を続けることで本当の力がついてくるからです。
なぜかというと、塾や通信教材の勉強は、わかることもわからないことも同じようにやるので、わかることをやっている時間は無駄になり、逆にわからないことはいつまでもわからないままになることが多いからです。
小学校低中学年のときは、勉強自体が易しいので、こういう勉強法でも力がつきますが、高学年になると塾や通信教材の勉強ではなかなか力がつきません。力をつけるためには、無駄を承知で勉強の時間を長くするか、自分なりにわからない問題を反復する仕組みを作らなければなりません。しかし、そういう仕組みを作れるような子は、自学自習で勉強できる子なのです。
寺オンは、この家庭での自学自習になるのです。自学自習を先生がアドバイスする形の勉強なので、家庭学習のいいところと通学教室のいいところを兼ね備えた勉強になります。
寺オンの応用形態として、作文の勉強と寺オンの勉強を結びつけることもできます。
作文の勉強で、10分間の事前指導を受け、そのまま寺オン上で作文を書き、作文が終わったら他の勉強や読書をし、勉強が終わったときにまた先生から10分間の話があるという形です。
その間、生徒は先生とずっとつながっているので、先生もその子がどういう感じで作文を書いているかがわかります。
また、ネットワーク環境があると、プレゼン作文発表会などの生徒どうしの交流の企画もすぐに行えるようになります。
夏合宿などのリアルな交流も並行して行えば、ほとんど自宅にいながらにして、勉強も交流もできる充実した教育環境ができます。
インターネットを利用した教育ですから、この寺オンの勉強を日本国内だけでなく、海外にも広げていくことができます。
作文指導は、既に海外の生徒を対象にして行っているので、時差の問題さえ解決できれば、寺オンも海外生徒対象に行うことができます。
海外の場合、最初は海外の日本人の子供が対象ですが、将来は、日本語を勉強したいという外国人も生徒の対象になります。
すると、そういう海外の生徒を、ホームステイなどで日本に滞在させる形で受け入れる場所も必要になります。
それが「森の学校」という構想です。
そこは、もちろん日本国内の生徒も、寺子屋合宿の場所として利用できます。
以上の作文と寺オンのシステムは、教材を送るのに宅急便を使うような場面以外は、ほとんどすべてインターネットを基盤としているので、どこでも立ち上げることができます。
例えば、世界中の生徒を、三浦半島の海と山に近い静かな場所に森の学校を作り、そこから教えるということもできるのです。(つづく)
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「教育が変わらなければならない」と考えている人は多いと思います。
しかし、何をどう変えるのかというと、それぞれの人が主観的に勉強の内容をどう変えたいかと言っていることが多いのです。
歴史の勉強をもっと人間的な感動のあるものにしたいとか、国語の教材をもっと明るく前向きなものにしたいとか、道徳の教科に力を入れたいとかいうことは、それぞれに大事なことです。
しかし、本当に変えなければならないのは、勉強の内容よりも勉強の方法です。
教えてもらう勉強ではなく、自ら学ぶ勉強にしなければ、教育の根本は変わらないのです。
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大人は、子供たちの勉強を見て、間違えたところをすぐに直そうとしたり、できなかったところをすぐに理解させようとしたりしがちです。
その気持ちはわかりますが、そういう勉強の仕方をしていると、まず教える人がくたびれてきます。そしてだんだん叱るようになってきます。
次に教えてもらう子の方が最初は真面目に聞いていますが、だんだん気分が乗らなくなってきます。
そして最後に、教える方も、教えてもらう方も疲れ果ててしまい、勉強が続かなくなるのです。
勉強の仕方で最も大事なのは、長続きさせることです。どんなによい教え方をしても、長続きしなかったら、その勉強は身につきません。長続きさせることを再優先して勉強させるというのが、勉強の仕方の鉄則です。
では、長続きさせるためにはどうしたらよいかというと、それはにこやかに見守るだけにするのです。
それでは、できなかったところがいつまでもできないままではないかと思う人もいると思いますが、できなかったことも繰り返しているうちに自然にできるようになるのです。
ただし、そのためには、できなかったところを繰り返し勉強する仕組みを作ることが大切です。
「作文が書けない」「書くことがない」「どう書いていいかわからない」などという質問を体験学習の子供たちから時どき受けます。
そのときに、教える側が真面目になって、書くことを引き出そうといろいろアドバイスをすると、ますます書けなくなります。
書けない原因の第一は、読書不足です。第二は、これまで注意されすぎてきたことです。
だから、アドバイスの方法でいちばんいいのは、口頭でアドリブで書くことを言ってあげることです。
「じゃあ、今から先生が言うとおりに書いてね。『きょう、ぼくはあさ6じにおきました。あさごはんは、なっとうとたまごやきでした。』はい、書いてごらん」
こういう感じで言ってあげると、子供たちは、安心して素直に書き出します。そして、途中から、「なっとうとたまごやきじゃなくて、パンとぎゅうにゅうだったんだけど」などと言いながら自分で書くようになるのです。
書き終えたら、たとえそれがほとんど先生の言ったとおりであっても、褒めてあげて、それでおしまいです。
言葉の森に体験学習に来る生徒の中には、作文が超苦手という人もよくいます。
そういう子供たちが、体験学習の1回めから苦もなく書き出し、やがてどんどん書けるようになり、作文が得意になっていきます。
それは、作文に慣れるように教えているからなのです。
音読も同じです。
国語があまり得意でない子は、つっかえつっかえ読んだり、読み間違えたりします。それを近くで聞いているお母さんが、注意して直そうとすれば、音読はますます苦手になり下手になっていきます。
何も言わずににこやかに聞いていれば、やがて上手に読めるようになります。
これも、慣れです。慣れれば誰でも上手になるものなのです。
勉強も同じです。
算数や数学でできない問題があったとき、教える側はついわかりやすく説明してその場で理解させることがよいことだと思ってしまいます。
しかし、いちばんよいのは、子供が自分で苦労して、「あ、わかった」というわかり方をすることです。
だから、できなかった問題は、少し説明してわからないときは、それ以上説明をせずに、次の日にもう一度同じところをやって、解法と答えを読ませるといいのです。
それを何度か繰り返し、それでもわからないときは、問題と解法と答えを書き写し、それを覚えてしまうぐらいにします。
そうすると、ほとんどの場合、その問題に慣れて自然に理解できるようになります。
それでもどうしてもわからないときは、生徒掲示板に書いて、先生に聞けばいいのです。
音楽や運動は、頭での理解よりも身体の慣れだということをみんな知っています。
知的な理解も大切ですが、そこに使う時間はわずかで、練習量のほとんどは身体が慣れるための時間です。
勉強もそうです。
特に、国語や作文の勉強は、他の教科よりもずっと運動や音楽の習得に近い勉強です。
慣れるためには、いつもにこやかに褒めて、長続きさせていくことが大事なのです。
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戦後教育を受けたお父さんお母さんの世代には、理解というものに対する信仰のようなものがあります。
「丸暗記ではなく、理解することが大事だ」と言う人が多いのですが、本当は、理解よりももっと大事なものが慣れなのです。
赤ん坊は、歩き方を理解してから歩くのではありません。まず歩き始めて、何度もころんでいるうちに歩けるようになります。
その場合、大事なのは歩いて向こうに行きたいという目的です。
勉強の場合は、正解という目的があります。目的さえわかっていれば、ほとんどは慣れでできるようになるのです。
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