受験の主要科目は、国、数、英です。
この中で、最も差がつきにくいのが国語です。というのは、国語は全くできない人でもそこそこの点数を取ることができる代わりに、よくできるからと言って満点を取ることは難しい科目だからです。
これに対して、数学と英語は、勉強力の差がはっきり出ます。特に、数学は大きい問題ができるかできないかで全体の点数が大きく変わってきます。だから、受験を左右するのは、数学と英語なのです。
では、なぜ数学と英語は、勉強力の差が出るのでしょう。それは、問題作成に人工的な要素が盛り込めるので、さまざまなレベルの難しい問題を作れるからです。
だから、学習塾も予備校も、数学と英語に力を入れています。そして、国語には力を入れていません。
国語は差がつきにくいから力を入れないということもありますが、それ以上に、勉強をさせてても力がつかないから、塾でも予備校でも力を入れられないのです。
もちろん、受験指導をするという建前上、塾や予備校は一応国語も教えるようにはなっています。しかし、国語は教えても力がほとんどつかないとわかっているので、問題集をやらせて解説を詳しくするような勉強しかしていません。
国語力をつけるとうたっているところも、せいぜい解き方のコツを教える程度の指導です。解き方のコツがわかると、確かにある程度の点数は上がります。しかし、それは国語力がついたのではありません。
国語力は、実は国語のテストではあまり測ることができません。
本当の国語力は○×式のテストではなく、文章を読み、それをもとに文章を書かせることでわかるからです。
だから、今後、このような国語の試験が増えてくると思います。
本当の国語力は、受験のときにも役立ちますが、それ以上に社会に出てからも役に立ちます。
数学や英語の場合は、社会に出てからはあまり使わない人もいます。逆に、仕事などで使う場合は、学生時代さぼっていた人でもがんばれば比較的短期間で身につけることができます。
これに対して国語力は、社会に出るといやがうえにも使わざるをえなくなります。
文章を読むことでも、書くことでも、話し合いをすることでも、考えることでも、すべて広義の国語力が必要です。
しかも、こういう国語力は、必要になったからといって短期間では身につけることができないのです。
だから、子供時代の国語の勉強は、国語の成績を上げるということももちろん大事ですが、それよりももっと大事なのは、読む力、書く力、考える力をつけるといことを考えていくといいのです。
そういう国語力は、問題集を解くような勉強法では、決して身につきません。
実際に文章を読み、考え、文章書くことによって身につくのです。
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国語力と国語の成績は少し違います。
国語の成績は、解き方のコツによって上げることができますが、国語力は毎日の読み書きによってしか上げることはできません。
そして、国語の成績は、国語力によって上限が決まってくるのです。
受験に役立つのは、国語の成績と国語力の両方ですが、社会に出てからも役に立つのは国語力の方です。
だから、国語の勉強は、成績を上げるだけでなく国語力をつけるつもりで取り組んでいくといいのです。
はじめまして。いつも森川様の記事を楽しく拝読させて頂いております。
現在私は30代前半の社会人ですが、子どもの頃から国語が苦手で、今の仕事でもとても苦労しています。
色々記事を参考にさせて頂き、国語力の向上のために本の暗唱を毎日しております。本は、三木清の『哲学入門』です。300字くらいに区切って、毎日100回音読し、10日間で同じ文章を計千回音読しています。
ただ、私のように30過ぎてもこのように暗唱していけば国語力は向上していくのでしょうか?
ご回答よろしくお願いします。
サムさん、こんにちは。
読んでいただいてありがとうございます。
読むのは自分の興味のある本ですから、「哲学入門」が好きならそれはそれでいいと思います。
しかし、300字を100回は長すぎます。
何事も続けて6ヶ月ぐらいたつと、効果がわかってきます。
もっと短い時間(10分ぐらい)でできるやり方にして、半年継続を目安にしていくといいです。
それから、国語力の基本は多読と難読(復読)ですから、その音読暗唱と並行して、自分が楽しく読める本を1日50ページ以上を目標にして読んでいくといいです。
がんばってください。
ご回答ありがとうございました。
そうですね、結構長い気がしますので、毎日の暗唱する分量を減らして多読と並行してやっていきたいと思います。
アドバイスありがとうございました!
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日本の寺子屋式の勉強は、従来の欧米式の勉強に比べると、一歩も二歩も進んでいる勉強法です。
現在、学校教育の中で教育格差が拡大しているのは、その教育が欧米式の教育だからです。
欧米式の教育とは、等質の生徒集団を前提として、先生が一方的に教える形で理解させ、理解度をテストで評価し、競争で意欲づけを図るという教育です。
その教育の前提となる社会は、成績が学歴と結びつき、学歴が社会的地位と結びつくという画一的な価値観が中心となっていた社会です。
戦後しばらくの間は、子供たちは黙っていても勉強する動機がありました。それは、成績が地位と結びつくという社会の価値観があったからです。そして、家庭環境は誰もが等しく貧しいというところで等質でした。
しかし、その後、受験塾が登場すると、勉強は受験のためのテクニックを必要とするようになりました。
また、昔は読書とラジオぐらいしかなかった室内の娯楽が、テレビ、ゲーム、インターネット、SNSと多様化すると、娯楽に多くの時間を取られる子も出てきました。
その結果、等質集団という前提が崩れてきたのです。
欧米式教育は、できすぎる子と、できなさすぎる子には対応できません。誰もが同じ程度であるときにだけしか効果を発揮できない勉強法です。
そして、世界の子供たちを取り巻く環境は、社会が貧しいときは等質なので、欧米式の学校教育も効果的ですが、社会が豊かになるにつれて、日本と同じように等質性が崩れてくるはずなのです。
昔は、等質の生徒集団を、単一の教科書で、一人の担任が教えていました。また、社会全体が教育に求める価値観も共通していました。
この時期が、欧米式教育の成功していた時期です。
今は、多様な生徒集団を、多様な教材で、多様な塾がそれぞれに教えています。しかし、先生が教えるという形を前提にすると、欧米式教育を効果的にするためには、少人数学級や習熟度別クラスや個別指導で、等質の集団を細分化する形で作り直さなければならなくなります。
そして、この多様性を多様性のままに教えるための仕組みづくりの一つとして、ICT教育が期待されているのです。
しかし、江戸時代の寺子屋教育は、コンピュータのない時代に、多様性を多様性のままに教えるシステムを作りだしていました。
なぜそれができたかというと、自学自習の方法が確立されていたからです。つまり、今で言う義務教育の年齢では、学ぶべきものはほぼ確定しているので、先生が多様な生徒を一律に教えるのではなく、生徒が自分の進度に合わせて教材を学習し、先生はそれを見守るだけで、ときどき進度の段階を決め直すという仕組みができていたのです。
しかも、寺子屋教育の利点は、ICT教育のように人間がコンピュータと向き合う孤独な勉強ではなく、集団の中で勉強するという集団の力学も生かしたものだった点にあります。
その自学自習を進める勉強の一つの方法が、限られた一つの教材を音読によって徹底して反復し身につけるという方法でした。
つまり、義務教育段階の学力は、理解による方法ではなく、反復による方法で身につければよいという教育観が確立していたのです。
この寺子屋教育の勉強法をインターネットを活用して現代に生かし、更に、創造性を高める作文教育に結びつけていくというのが、言葉の森がこれから考えている教育のビジョンです。
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日本の寺子屋式勉強法のひとつの名残りが九九の暗唱です。
欧米では、九九を理解によって一覧表などを使って覚えようとするので、できる子とできない子の差が生まれ、できる子でも大してできるようにはなりません。
義務教育段階のあらゆる勉強は、九九と同じです。
しかし、九九は学校の勉強だけではできるようにはなりません。
ここが、学校と寺子屋の教育法の違いなのです。
なぜ学校だけでは、九九ができるようにならないかというと、学校は理解の場になっているからです。
教育の本質は慣れなのですが、学校は理解させる場になっています。そして、その理解を教えるのが先生の役割です。
では、慣れはどこで身につけるかというと、家庭での宿題か、学校のあともうひとつの塾か、又はその塾で出された宿題かなのです。
かつての寺子屋では、理解ではなく最初から慣れを身につけさせる教育法が確立していました。それが、限られた教材と音読による反復と集団の中での学習というシステムでした。先生の役割は、教えることではなく、そのシステムをメンテナンスすることだったのです。
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