先日、中学3年生の生徒の保護者から相談がありました。国語の模試の成績が悪かったのでどうしたらよいかというのです。
そういうときは、点数よりもまず実際の試験問題と解答用紙を見る必要があります。
点数が悪いと言っても、問題のない悪い点もありますし、重症と言える悪い点もあります。点数は二の次で、まずはその中身なのです。
試験問題と解答用紙を見てみると、いろいろな問題がありましたが、中でもいちばん重症だと思えたのは、試験問題をじっくり読みすぎていることでした。
文章の中の単語をいくつも丸で囲んで読んでいるのです。目だけで読んでいるのに比べて、手を動かすと読み方が格段に遅くなります。
遅くなる分じっくり読んでいるとも言えるのですが、そういう読み方は、時間制限のある試験向きの読み方ではありません。
国語の問題文は、日常的に読む文章比べると難しいものであることが多いので、繰り返し読む必要があります。繰り返し読むためには、傍線を引いて読む必要があります。傍線を引くのと丸で囲むのとでは、手を動かすスピードが全く違います。
傍線を引く箇所は、大事なところというのではありません。1回目の読みで、大事なところはよくわからないのが普通だからです。
では、どういうところに傍線を引くかというと、それは、自分なりによくわかったところ、面白いと思ったところ、何かピンと来たところ、という主観的な感じをもとにしたところです。
国語の試験問題は、結びの部分に全体の内容理解の鍵となる文章が入っていることが多いので、じっくり読むのではなく、スピードを上げてなにしろ最後まで一気に読むことが大事です。
これは、読書でも同じです。
本の内容を理解するには、何しろできるだけ早く最後まで読み切ることで、何日も時間をかけてゆっくり読めば読むほど、内容理解はしにくくなるのです。理解するということは、全体を把握することで、部分を積み重ねることではないからです。
試験問題の場合も、素早く最後まで読み切ると、全体像がおぼろげながらわかってきます。そこで、最初に傍線を引いた箇所だけを、飛ばし読みでもう一度読んでみるのです。
傍線を引いた箇所は主観的に引いたところですから、その傍線を引いた箇所をつなげるだけで、自分なりの全体把握ができてきます。
自分なりの全体把握ができれば、個々の設問を解くときも、傍線の箇所を基準に、どのあたりを詳しく読めばいいのかがわかってきます。
精読とは、ゆっくり読むことではありません。何度も繰り返し読むことです。繰り返し読むためには、できるだけ素早く読むことと、自分でいいと思ったところに傍線を引いて読むことが大事です。
本に線を引くというのは、慣れないとなかなかしにくいものですから、普段の問題集読書を利用して、傍線を引きながら読む練習をしておくといいのです。
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精読とは、ゆっくり読むことではなく、何度も繰り返し読むことです。
文章の理解は、個々の単語や文や段落を積み重ねてできるのではなく、全体を何度もなぞることによってできてきます。
部分の理解は、全体の理解のあとにやっていけばよいのです。
その全体を何度もなぞる方法が、音読です。
音読はひとりでは続けられません。近くで聞いてあげる人が必要です。
しかし、その人は、音読の仕方についてあれこれ注意してはいけないのです。これが難しい(笑)。
近所の草地に、ピンクのベゴニアの花が咲いていま
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小学生が、作文にことわざを引用すると、その部分がひとつの光る表現になります。
平板な事実の中に、感想の深みが出てくるのです。
しかし、ことわざというものは、意識して出てくるものではありません。その文章の文脈の中で自然のひらめきとして思いつくものなのです。
だから、子供に、「こういう(事実の)ときに、どんなことわざを使えばいいか」と聞かれても、すぐには答えは出てきません。
ことわざの引用を意識的にすることは、大人でも難しいのです。
同じく難しいのが、ダジャレの引用です。しかし、この話は置いといて(笑)。
ところで、ことわざの引用が文章を効果的にするのは、小学生までの間です。
中学生や高校生、更に大人が文章にことわざを引用すると、その部分だけかえってありきたりの表現になってしまいます。
せっかく個性的な事実を書いておきながら、それをありあわせの言葉でしめくくってしまうというのがことわざの直接的な引用です。
大人の場合は、ことわざはそのまま引用するのではなく、加工して引用するといいのです。
ことわざの引用と同じように陳腐な表現になりやすいのが、流行語の引用です。
少し前までよく使われる表現に、「背中を押される」というのがありました。自分の迷いを振り切って行動するように促されるというような意味です。
イメージ力のある言葉ほど鮮度が落ちるのも早いので、何度か使われているうちに、かえって古臭い表現のようになってきました。
文章は、伝える中身が大事ですから、表現は平凡でいいのですが、その流行語を使いたいときもあります。
そのときに使うのが、流行語の加工です。
例えば、「背中を押される」の代わりに、「お尻を押される」とか「お腹を引っ張られる」とかいう表現を使うのです。(かなり変ですが)
しかし、この流行語の加工は、その流行語が既に共有されている人の間でしか通用しません。
日本語は、同質の文化環境の中で育ってきた言葉なので、こういう共有の範囲がほかの言語よりもかなり広くなっています。
例えば、誰かが閉まっているドアを開けようとしたときに、中にいる人が、「山」と言えば、自然に、「川」という言葉が出てきます。「え、山がどうしたの」などと言う人はあまりいません。
この共有度の高さを生かしたものが、言葉の加工なのです。
ことわざの加工は、高校生の小論文でも使えます。
もちろん、それ以前に中身の文章がしっかり書いてあることが重要ですが、小論文を書き終えて時間の余裕のあるときは、文章の結びの5行の表現を工夫していくといいのです。
その工夫の方法が、ことわざの加工や、流行語の加工や、自作名言や、書き出しのキーワードに戻ることなどなのです。
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ことわざを作文に引用すると、小学生の間は、事実に深みが出てきます。
しかし、中高生になると、個性的な事実を、ありきたりの見方でしめくくってしまうおそれが出てきます。
だから、ことわざを使いたいときは、ことわざを加工して使うのです。
そのいちばん簡単な例は、反対の意味にして使うことです。
例えば、「木から落ちるサルは滅多にいない」「川を流れるカッパはカッパとは言えない」「ウリのつるにナスビをならす」「五十歩と百歩は二倍も違う」「医者の養生」……いくらでも出てくるわ(笑)。
言葉の森、やってます❣️
参考になりました!
わてなさん、こんにちは。
これから、ことわざの加工、がんばあってやってください。
ダジャレのようなセンスが必要(笑)。
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受験勉強の鉄則は、早めに過去問をやることです。
ところが、「受験直前まで過去問はやらないように」という塾があるのです。
その理由は、受験直前に生徒にいろいろな学校の過去問をやらせて、合格しそうなところを受けさせるからです。
こういう勉強法は、最もロスの多い勉強法です。
大学入試を前にした高校生でも、ときどきこのような勉強の仕方をしている人がいます。
受験勉強なのに、どこでも受けることができるような全方位的な勉強をして、受験直前に自分の合格可能性を確かめるために過去問をやるという勉強の仕方です。
勉強には、実力をつけるための勉強と、勝負に勝つための勉強の二種類があります。
普段の勉強は、もちろん実力をつけるための勉強です。だから、全方位的な勉強をすることが大事で、試験に出ないようなところまで掘り下げて勉強することも大事なのです。
しかし、受験勉強の半年か1年間は、勝つための勉強に切り換えなければなりません。
勝つための勉強とは、相手の傾向を知り、自分の弱点を知ることによって、焦点を絞った範囲を集中して取り組む勉強です。
そのためには、過去問を早めにやることが欠かせないのです。
もちろん、塾からは、「それでは合格の可能性がわからない」と言われるかもしれません。
しかし、合格の可能性は、親や本人が、過去問をもとにして同じ傾向の問題で7割ぐらいの得点ができるかどうかを見積もることによって判断するものなのです。
日本には、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という言葉があります。
受験の場合、敵というのは、もちろん過去問です。ほかの受験生ではありません。
己というのは、過去問の得点力です。塾の成績順位や模試の得点ではありません。
こういう自分の判断に基づいた勉強をすることが、勉強以外の生活の中にも生きてくるのです。
大事なことは、勝負に勝つための勉強などは必要悪みたいなものだから、できるだけ能率的にやろうということです。
本当の勉強は、能率に関係なく、自分の好きなことを心ゆくまでやることだからです。
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志望理由書の書き方についての質問がありましたので、以前載せた記事を再掲します。
なお、現在、新しい企画の準備で時間が取れないため、志望理由書の添削は行っておりません。
下記の記事を参考にしてくださるようお願いします。
====再掲ここから。====
志望理由書の書き方ということで、書店にはいろいろな本が出ています。書く内容は、それらを参考にしていただくことにして、ここでは、それらの本にはあまり書いていないことを説明したいと思います。
第一は、子供任せにしないことです。志望理由書は本人が書くという建前になっていますが、小6や中3の子供に任せて、いいものが書けるはずはありません。と書くと言いすぎですが、ここはやはり親が全面的に協力して内容を煮詰めていくことです。
第二は、明るい内容、面接で話題にしてほしい内容に絞ることです。明るさというのは、志望理由書以外に、作文の試験の場合も重要です。文章がうまければよいというのではなく、自分の好ましい人柄がにじみ出るように書いていくことが大事です。
第三は、勉強の話を中心にしていくことです。学校は勉強をするところです。それなのに、部活や友達や趣味の希望をたっぷり書いてしまう人がいます。学校で青春を楽しみたいという気持ちはわかりますが(笑)、勉強をしにいくのだという原点を大事にしておかなければなりません。その学校に入ったら、どんな勉強を何のためにどういうふうにやっていきたいかということを書いていくことです。
第四は、書くスタイルです。よく直接鉛筆で書いて、手書きの原稿を推敲している人がいますが、それでは十分な推敲はできません。まず最初に、自分が普通に書くぐらいの字の大きさで、読み手にとって見にくくない程度の文字で2、3行手書きで書いてみます。そして、1行の平均的な字数を数えます。そのあと、その字数と行数に合わせてパソコンで下書きを書いていきます。パソコン上で推敲を十分に行ってから、最後は手書きで清書をするようにします。
第五は、書いたものは、必ず書いた本人以外の他人に見てもらうということです。本人がアピールしたいと思っていることと、相手に実際にアピールすることとは違います。どういう内容がアピールするかというと、ひとつは挑戦したことがわかる話、もうひとつは継続したことがわかる話で、これらに客観的な裏づけのあるデータを入れて書きます。客観的なデータとは数字や固有名詞のことで、例えば、「○年間、○○の委員長を務め、○○という工夫をして、○○パーセントの成果を上げた」というような書き方です。
志望理由という言葉から、自分の希望を中心に書いてしまいがちですが、未来の話はだれも同じようなものになりがちです。自分らしい過去の実績を盛り込みながら書いていくことが大事なのです。
====ここまで。====
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受験小論文のグループということで、このような記事も参考になるかと思い紹介します。
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受験作文小論文コースは、毎年新しい課題があるので、月末はその解説を書くのに時間かかります。
解説1本に10~15分かかるので、月4回分だと約1時間。それが4、50人もいるからです。
とは言っても、既に作成したものもあるので、実際に書くのはその一部ですが、それでも数日かかります。
中学高校入試は読ませる資料も千字から二千字程度の短いものが多いのですが、大学入試は長い資料もかなりあります。中には、何のテストだかわからないような意味不明の複雑な資料も。
たぶん、受験生が多くなり過ぎないようにわかりにくくしているのだと思います。どこの大学とは言いませんが(笑)。
しかし、入試問題の中には、なるほどよく工夫されていると思うものもあります。例えば、ある都立中高一貫校の作文の試験は、複数の設問が比較的シンプルですが、よく考えられていると思いました。
作文小論文の試験は、その学校で実施する最初の年は題名課題が多いようです。それは、受験生がどんな課題でどのくらい書けるのかわからないので様子を見るという面があるからです。
しかし、題名課題だとみんなそれなりに書けて差がつかなくなるので、すぐに文章を読んで書く感想文課題のスタイルになります。
ところが、ひとつの文章だとやはりだんだん差がつかなくなるので、そのうち複数の文章や資料を読んで書かせるようになるようです。
しかし、ただ複数の文章を提示して書かせるのでは、いろいろなアプローチの仕方があるので、今度は評価が大変になります。
私が、いちばんいいと思うのは、言葉の森の作文指導のように、構成と項目を指示して書かせることです。
しかし、そういうスタイルの作文小論文試験をやっているところは、まだあまりありません。
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受験作文小論文は、解説を書くのが大変です。だから、「入試問題集」にも、模範解答のようなものは載っていません。
しかし、問題を作成する方は、もっと大変なはずです。誰もがそれなりに書けて、しかも思考力や表現力が評価できるような問題を出すのですから、苦労します。中には、苦労しすぎて意味不明になっている入試問題もときどきあります(笑)。
しかし、解説よりも問題作成よりももっと大変なのが、受験生の作文を評価することです。
だから、問題を作成する時点で、言葉の森方式の項目構成指導を打ち出しておけばいいのです。
そういう問題はまだ多くありませんが、たまに見かけるようになりました。
言葉の森が、こういうことをはるか以前から気がついていたというのはやはりすごいです。と、自分で自分を褒めてどうするんだ(笑)。
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小学1、2年生のころは、勉強する内容も簡単で、子供が親や先生の言うことをよく聞く時期ですから、ついいろいろなことを教えたくなります。
しかし、ここで、親のペースで勉強させると、子供はそのときは楽しくやっているように見えますが、内心は親にコントロールされている自分に肯定的な感情を持てなくなります。
人間は誰でも自分の意思で自由に行動したいと思っています。人に言われたとおりにやることが好きな人はいません。しかし、「教える―教えられる」という関係ができあがると、言われたとおりにやることが正しいことなのだと自分に言い聞かせてやり続けるようになります。
こういうやり方が限界に来るのが、小学4年生ごろからです。このころになると自立心が育ってくるので、親に言われたとおりにやることに反発するようになるのです。
本当は、小学5年生以降の勉強が難しくなる時期に、親と協力して勉強することが大事なのですが、低学年のときに親の言うとおりにやってきた子は、高学年になってから親とうまく協力することができなくなります。
すると、親は子供の勉強を見ることができなくなり、その結果、学習塾などに勉強を任せるようになり、ますます子供の勉強に関与できなくなり、ただ点数の上でしか子供の勉強の実態がわからないという状態になるのです。
こうならないためには、低学年のころから、子供が自主的に勉強する環境を作っておくことです。そのためには、親が手取り足取り勉強の内容を指示するのではなく、あらかじめやるべきことを、子供が無理なくできる範囲に絞って決めておき、子供が毎日の習慣としてその勉強をするのを、横で静かに見守るという接し方が必要になります。
低学年のころは、親が無関心でいると意欲が低下するので、見守ることは大事なのですが、できるだけ口出しをしないようにする必要があります。
そして、注意はできるだけ少なくし、よくできたときに褒めるという接し方をすることによって、子供は自主的に勉強する姿勢を身につけていきます。
褒めるというのは、必ずしも直接褒めることに限りません。例えば、本をよく読んでいたら、「○○ちゃんは、本を読むの好きなんだね」というその行動を認めてあげるだけでいいのです。
しかし、自主的な勉強と褒め言葉だけでは、時に子供がさぼったり、ずるをしたりする場面も出てきます。こういうことができるのも、人間に自主性があるからなのですが、それをそのままにしておくと、あとで修正するのが難しくなります。
こういう場面で登場するのは、やはり父親です。
特に男の子は、知っていて悪いことをするということがよくあります。それは、ある意味で、自分がどこまでやると叱られるか試している面もあるのです。
母親は、そういうときの注意は苦手です。母親の注意は、愚痴のような小言になることが多く、子供を叱るというパワーに欠けることが多いのです。
叱り方の原則は、厳しく短く一度だけです。何度も同じことを言うような叱り方では、叱られることに免疫ができてしまい、ますます何度も言わないと言うことを聞かないというようになります。
母親の役割の中心は、叱ることではなく、優しく認めてあげることです。
その分、父親が厳しい叱り方の役割を分担する必要があります。しかし、それは、父親が憎まれ役を買うというのではありません。厳しく一度だけ叱って、あとを引かない父を、子供は尊敬するからです。
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母親は、手芸のように細かいことをきちんとやるのが得意です。
しかし、それを子供の教育でそのままやってしまうと、子供の自主性が育たなくなることがあります。
子育てで大事なことは、親がきちんとやることではなく、子供が自分でやるように仕向けることです。
そうすると、きちんとやれないことも出てきます。しかし、そのきちんとやれないことも含めて子供が自分の力でやることが大事なのです。
一方、父親は一般的に、手芸や料理のように細かいことが苦手です。
晩酌のつまみなども、ひとりのときは、冷蔵庫にあるニンジンに味噌をつけてそのままボリボリかじったりします。(おまえだけだろ)
しかし、そのきちんとしない分、肝心なときに子供の前に登場することができるのです。
ウルトラマンみたいです。
(写真は、9月30日の朝の太陽)
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小学2年生は、字数に燃える学年です。
1年生のころはまだ指の力が弱くて、長く書くことができなかった子が、2年生になるとだんだん長く書けるようになってきます。
すると、その長く書けることがうれしいので、ひたすら長く書くことを目標にするようになります。
これは、これでいいことです。人間は、自分が成長しているところを伸ばすのが好きですから、字数が長く書けるようになってきたら、その字数をもっと伸ばしたくなるというのは自然の感情です。
しかし、字数を長く書くのに関心が向く分、字が雑になったり、細かい表記ミスが出てくるようになります。
このときに、「字数だけ長くてもダメ。もっと○○でないと」などと言ってはいけません。
褒め言葉は、本人ががんばっているところに向けて言うのが原則です。だからそれほど難しくはありません。
しかし、注意の言葉は、本人が意識していないところで言ってしまうことが多いので、それが作文の苦手な子を作ってしまうことがあるからです。
字数の長さに燃えているのであれば、ただそこを褒めているだけでよくて、その字数以外の注意は言う必要ありません。
もし、注意をするとしたら、それは事後的な注意ではなく、作文を始める前に、「今日は、こういうことに気をつけて書くんだよ」と事前に言っておくことです。
字数の長さを褒めるだけで、なぜ細かい表記の注意はしなくてよいかというと、字数に燃える時期は小2の間だけで、小3になると自然に字数の長さへのこだわりを卒業するようになるからです。
小3になると、字数よりも、表現の工夫や内容の面白さなどに関心が向いてきます。すると、字数は自然に短くなります。
小2のころよりも字数が少なくなるので、手を抜いているように思うかもしれませんが、この字数が短くなってきたことが進歩なのです。
では、なぜ小2のころ長く書けるのかというと、小2までは、自分の言葉で書いているわけではないからです。
本をよく読む子は、読んだ本の文章がのリズム感がそのまま頭に残っています。だから、自分で考えて書くのではなく、本の文章のリズムをそのまま自分が書こうとしている事実に結びつけて写しているだけなのです。
読書の好きな子は、小2のころに大人も顔負けの達者な表現で作文を書くことがあります。そういう文章が書けるのもやはり、自分で考えて書いているわけではないからです。
ところが、小3になると、自分の言葉で作文を書くようになります。すると、小2のころよりも、字数も短くなるし、表現もつたなくなることが多いのです。
言葉の森では、生徒によく、「上手に書けたものがあったら応募するといいよ」と言っています。
しかし、コンクールなどの応募の適齢期は、小3から小4にかけてです。なぜかというと、この時期は、本人も上手に書くことを意識できる時期で、また作文の題剤も書きやすいものが多いからです。
小5以降になると、課題が難しくなるので、上手な作文は書きにくくなります。しかし、もちろん小5以降、小6も中高生も、自信のある人はどんどんコンクールに応募しておくといいのです。
小2以下は、コンクールへの応募はおすすめしません。その理由は、どこかに応募したいという意識が本人にまだないからです。
また、応募するとなれば、いろいろ書き直すところが出てきます。もともと自分の意思で応募したいと思っているわけではないところに、細かい書き直しがあるわけですから、作文というのは大変だという気持ちを持ってしまうことが多いのです。
小2までの生徒のいちばんの喜びは、身近なお母さんやお父さんや先生が、自分の作文に関心を持って温かい言葉をかけてくれることです。
コンクールに入選するとか、ご褒美の賞品があるとかいうことは、この時期の子供たちの本当の喜びではないのです。
言葉の森では、小1と小2の作文の重点目標は、「楽しく書くこと」としています。
この時期に、たっぷり楽しく書いていくことが、その後の作文の勉強の土台となるのです。
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子供たちが書く作文は、学年によって大きな違いがあります。
小学校1年生は、まだ文章を書くこと自体に慣れていないので、「わ」と「は」の区別や、会話にかぎかっこをつけることや、文の終わりに「。」をつけることなどができません。
それは、当然です。普段の会話の中で、「こんにちは」の「は」の部分を「は」と言う人はいません。誰もが「わ」と言うので、文に書くときにも自然に、「こんにちわ」と書くのです。
同じく、会話のカギカッコや句読点も、会話の中には出てきません。だから、それはできなくてあたりまえなのです。
なぜ小1でこのような話し言葉と書き言葉の区別の問題が出てくるかというと、日本では小1で作文が書けるからなのです。
世界にはいろいろな言語がありますが、小1で作文が書ける言語というのは日本語だけだと思います。
日本語は一音と一語がほぼ同じように対応しています。欧米などの言語は、話し言葉から書き言葉の文字列を連想することはできません。だから、日本語では、小学校1年生で作文が書けてしまうのです。
ここで微妙な問題が起こってきます。
小1の作文の勉強の目標は、「楽しく書くこと」です。小1のころに作文を楽しく書いている子は、学年が上がっても作文に対する肯定的な印象が続くので、難しい課題になっても書き続けることができます。
だから、この時期の作文は特に、書いたことをそのまま認めてたくさん褒めてあげるといいのです。
ところが、「わたしわおとおさんとうみえいきました」などという文をそのまま褒めるということはなかなかできません。
かと言って、表記のミスに赤ペンを入れていちいと直していたのでは、すぐに書くことが嫌いになってしまいます。
小1の作文は、こういう問題が出てくるのです。
この問題の解決策は、書くことよりも読むことに力を入れることです。
なぜなら、書かれた文章には、「わ」と「は」の区別も、カギカッコも、句読点も、目に見える形で出てくるからです。
この読む練習が少ないまま、作文の書き方を直すと、何度同じことを注意しても直りません。カギカッコなどは何ヶ月言い続けても直りません。
だから、表記のミスがなかなか直らない子は、注意をするのではなく、読む力をつけることが先決なのです。
小1で、まだ表記のミスが多い生徒に、作文を書く練習を続けながら、読む力をつける方法が、幼児作文コースです。
それは、お母さんが子供と話をしながら構成図を書き、子供が絵をかき、お母さんが作文を書くという方法です。
子供は、親のやることを真似したがります。
親が読書をしている姿を見ている子は、自然に本好きになります。同じように、親が文章を書くのを見ている子は、自然に作文好きになります。
「本を読みなさい」とか「作文を書きなさい」とか強制するのではないのです。何も言わなくても、本を読んだり作文を書いたりしたくなるのです。
幼児作文コースでは、お母さん又はお父さんが書いた、親子合作の作文を見ているうちに、子供は自然に表記の仕方を頭に入れます。
正しい表記を何度も見ている子は、表記を直すときでも一度の注意ですぐに身につきます。
一度の注意で直らないときは、まだ読む量が少ないというだけなのです。
読む力が書く力の土台となっているというのは、小学1年生の時期だけではありません。
小6になると、作文の主題に抽象的な概念を盛り込むことが求められるようになります。難しい本を読んでいない子は、そういう語彙がありません。
中学生でも、高校生でも、その学年に必要が語彙のレベルは、常に読む力に引っ張られる形で書き言葉に現れてきます。だから、毎日の音読という自習が、作文の勉強の基礎になっているのです。
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小1の作文の目標は、楽しく書くことです。
しかし、小1のころは表記のミスが多いので、正しい書き方も身につけなければなりません。
ところが、普通に作文を書いていたのでは、この「楽しく書く」と「正しく書く」は両立しないのです。
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