●毎週の作文で読む力と書く力がつく
小学校低学年のころは、何でもたやすく吸収できます。しかし、この時期に知識的なことを吸収しすぎると、考える力の成長がかえって遅れてしまいます。
低学年のころにやってはいけない勉強の第一は、長時間勉強させることです。長時間勉強すると、時間が来るまで机に向かっていればよいという姿勢になるので、集中力がなくなります。
やってはいけない勉強の第二は、英語教育のやりすぎです。小学3年生までは日本語脳が形成される時期なので、この時期に外国語の勉強をさせると、日本語の力が正しく形成されなくなります。特に避けたいのがCDなどの音声を繰り返し聞くことです。
やってはいけない勉強の第三は、算数の難問に取り組ませることです。低学年のころの難問は、本当の難問ではなく、文章が読み取りにくかったり条件が複雑だったりするだけの難問ですから、考える力がつかないばかりか、かえって勉強が嫌いになることもあります。
では、やった方がいい勉強は何かというと、それは、日本語の読書と音読と親子の対話をもとにした作文です。毎日の読書・音読・対話と、毎週の作文の組み合わせで、日本語力と思考力の基礎を作っておくのです。
●毎週の電話でたのしく続ける通信教育
小学校低学年のころは、勉強の土台ができる時期です。この時期にすべての学力の基礎となる読む力と書く力をつけておくことが大事です。そのためには、毎日読む習慣を作ること、毎週書く楽しさを味わう時間を作ることです。
読む習慣をつけるためには、第一に読み聞かせを続けることです。幼児のころに行っていた読み聞かせは、子供が喜ぶ限り、小学校に上がっても続けておくことです。第二は、お母さんお父さんが日常の生活の中で楽しく本を読む姿勢を見せることです。第三は、読書の時間と競合することになるテレビやゲームの時間を、禁止するのではなくコントロールすることです。
書く楽しさを味わうためには、第一に毎週作文を書く時間を作ることです。第二は、書かれた作文は直すのではなくいつもいいところを見て褒めることです。第三に、作文の題材作りを助けるために家庭の中で簡単な行事や遊びを企画することです。
低学年のころに書く楽しさを味わった子は、学年が上がり作文の課題が難しくなっても、書く習慣をずっと継続することができます。
●小1から始められる親子作文コース
幼児から小学2年生ごろにかけては、まだ書くことに慣れてはいないので、ひとりで作文の勉強を始めるには無理があることがあります。作文を書いても、表記のミスが多かったり、わずか1、2行しか書けなかったりする場合です。
しかし、作文の勉強はできるだけ早く始めた方が習慣になります。幼児がひとりでもできる国語のプリントのような簡単な学習をするのではなく、作文を書くという難しい勉強に直接取り組んだ方がいいのです。そこで、言葉の森が企画したものが親子作文コースです。
親子作文コースでは、先生からの電話のあと、子供と親(主にお母さん)でその日に書くことを話し合います。話をしながら、親が構成図を書いていきます。10分から15分で構成図を書き終えたら、子供はその作文の絵をかき、親はその作文の文章を書きます。そこに、他の家族(お父さんやその子の兄弟)が、関連する写真や絵を貼ったり、コメントを書いたりします。このようにして、家族全体の企画として、毎週子供の作文を書くのです。
子供は、親の行動を見て育つので、親が作文を書いている姿を見せれば、自分でもいつか作文を書きたいと思うようになります。そして、親の書いた作文を見ているうちに、自然の表記の仕方も覚えます。
また、親は、子供用の作文を書くことで、子供に教える作文指導のコツを身につけます。それが将来、森林プロジェクトなどの作文講師資格を取るときに役に立ちます。
このようにして、作文がまだ書けない子でも、作文を書く準備としての勉強が楽しくできるのです。
●子供時代の作文は将来の宝物
子供時代の作文は、子供のころでなければ書けません。小中高と作文の勉強を続けていくと、自分の成長のあとが記録として残ります。それは、単なる勉強の記録ではなく、親子の触れ合いも含めたその子の人生の記録です。子供の成長の記録をビデオや写真で残しておくように、内面の成長の記録は、作文として残っていくのです。
また、今の子は、手紙を書く機会がほとんどありません。作文を書いていると、その作文の中身をそのまま田舎のおじいちゃんやおばあちゃんへの手紙として書いていくことができます。作文を書くことが現実のコミュニケーションとして役立つことを知れば、子供は更に意欲的に作文に取り組むようになります。
また、子供の作文の題材選びや、感想文の似た例の相談などを家族ですると、親子の知的な対話の習慣ができます。この親子の対話が、子供の語彙力や思考力や人間関係力を育てていきます。
このような作文の勉強を楽しく続けるために最も大事なことが、直したり注意したりせず、いつもいいところだけを見て明るく褒めてあげることです。そして、作文は褒めるだけにして、その一方で読書と音読の読む力をつける勉強を気長に続けていくのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
作文は、小学1年生になったばかりではまだと難しいところがあるかもしれませんが、夏が過ぎて秋になり、今ごろの時期になると、どの子も大体普通に書けるようになります。
しかし、おかしいところがあってもすぐに直さないということが大事です。
作文嫌いになる原因は、大人が直しすぎることにあるからです。
低学年の子は、「親の後ろ姿を見て育つ」というやり方で勉強を教える必要があります。
子供の自主性を育てるためには、なるべく直接教えないように教えるのがいいのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。小学校低学年(79) 親子作文コース(9)
●小1~高3、一環指導の独自教材
小学校で教える作文は、小学校の時代に通用する作文です。必ずしも中学で通用する作文ではありません。中学校で教える作文は、中学校の時代に通用する作文です。必ずしも高校で通用する作文ではありません。
作文教室はm,小1から高3まで一貫した指導のできることが重要な基準となります。小学校で書く作文も、中学、高校への展望を持って指導する必要があるからです。
言葉の森の作文指導は、小学校で作文コンクールに入選する子もいます。高校で感想文コンクールに入選する子もいます。中学受験の作文で合格する生徒も、高校入試の作文で合格する生徒も、大学入試の小論文で合格する生徒もいます。
また、作文が苦手で来る生徒も、作文が好きで得意だから来る生徒もいます。それらの多様な生徒すべてに対応できるのは、小中高の一貫した独自教材によって指導しているからです。
●先生との触れ合いがある電話通信
言葉の森の作文指導の特徴は、毎週担当の先生からの電話指導があることです。
毎週の電話指導があると、先生は生徒のことがよくわかり、生徒も先生を信頼できるようになります。この先生と生徒の相互の信頼関係の中で作文指導を進めていくので、何年間も同じ先生で作文の勉強を続ける生徒が多いのです。中には、小学生から始めて高校生になっても同じ先生という生徒もいます。
先生と生徒のの触れ合いのある指導が、ほかにはない言葉の森の作文指導の特徴なのです。
言葉の森の作文の課題は、どの学年も、学年相当よりも難しいものになっています。そのため、言葉の森の教材に載っている解説だけでは書けない生徒も出てきます。電話指導があると、話のやりとりの中で、その生徒の理解度がわかるので、先生は生徒に応じてより詳しく説明したり、より高度な説明をしたりすることができます。
同じ教材でありながら、生徒によって指導の重点を変えることができるのも、電話による担任制の指導をしているからなのです。
●豊富なほかにはないオプション教材
言葉の森は、作文専科の教室として、日本で最も長い歴史を持っている教室の一つです。長年の作文指導の中で、作文教室を補完するさまざまなオプション教材を開発してきました。
読解マラソン長文は、小1から高3までのそれぞれの学年に対応した説明文の長文です。この長文とセットになっている読解問題は、選択式の問題を解くコツをつかむのに最適です。
暗唱長文集は、小1から高3まで毎月900字の長文を暗唱するための教材で、言葉の森の暗唱方法を使えば、誰でも確実に暗唱ができるようになります。
作文検定は、言葉の森が開発した語彙力評価ソフト森リンを組み込んだ、小1から高3までを対象にした検定試験です。
寺子屋オンエアは、全教科の学力を家庭学習の中でつけるための、インターネットを利用した自学自習システムです。
このほかに、自習検定、学力テスト、プレゼン作文発表会、夏合宿、幼児作文コース、受験作文小論文コースなど、多様なオプション教材が用意されています。
●親子二世代生徒もいる長年の伝統
言葉の森には、親子二世代の生徒もいます。その親子を同じ先生が教えていることもあります。生徒も先生も、長いつながりがあるのが言葉の森の特徴の一つです。
作文指導の骨格は、創立以来一貫していますが、時代に変化に応じて運営の仕方はさまざまに変わりました。特に、インターネットの分野では、IT環境の変化に合わせて、勉強の仕方は激変しました。
しかし、その中で仕事をしている講師のほとんどは、その変化に対応して長年仕事を続けています。
時どき、いった退会していた高校生の生徒から、「また言葉の森を始めたいのですが、小学生のときの○○先生いますか」という問い合わせがあることがあります。
小学生のとき言葉の森を受講していて、中学生になり部活などで続けられなくなった生徒が、高校生になって再び再開するというケースです。多くの場合、曜日時間の都合が合えば、また同じ先生に教わることができます。
言葉の森は、作文の勉強を通して、生徒と先生のつながりや保護者と先生のつながりが長く続く文化があるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
作文指導で、小中学生だけ教えているところや、高校生だけ教えているところはあると思いますが、小1から高3まで同じ体系で教えているところはないと思います。
なぜそういうことができるかというと、教材が全部オリジナルだからなのです。
だから、作文検定などもできるのです。(作文検定のページは今工事中ですが)
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。言葉の森の特徴(83)
■■教育改革
これからの日本に求められているものは、ひとつは教育改革、もうひとつは新産業の創出です。
教育改革については、二つの方向で進められる必要があります。第一は、創造性を育てる教育です。第二は、すべての子供が確実な学力をつけるための本質的な教育です。
これまでの教育は、ひとことで言えば受験を目的とした教育でした。それは、私的には投資した分の見返りがあるという意味で価値ある教育でした。また、社会全体としては、競争によって全体の学力を向上させるという意味で価値のある教育でした。
しかし、今日では、その受験教育が、早期からの過剰な競争教育によってかえって子供たちの真の学力を低下させているという状況が生まれています。
■創造教育
教育が社会的な意味を回復するためには、創造性を育てる教育と、真の学力を育てる教育を並行して進めていく必要があります。
創造性を育てる教育の一つとして考えられるのが作文教育です。通常の教科の教育は、既にある知識や技術を身につけるという言わば答えのある教育です。これに対して、作文は、各人が自分でテーマを見つけそのテーマについてひとまとまりの文章を書くという問題と答えを作り出す教育です。
■プレゼン作文、作文検定
これまでの作文教育では、この作文学習の結果を発表する場が、文集作成やコンクール応募などきわめて限られたものになっていました。しかし、インターネットの時代には、作文発表の場を日常的なプレゼン作文発表会として企画することができます。また、森リンによる作文検定試験のように作文力の向上を日常的に把握する方法も生まれています。
更に、プレゼン作文発表会は、今後プレゼン作品発表会として拡張させていく展望があります。その作品には、今の小学校の教科で言えば、音楽、図工、家庭、体育などの作品が含まれます。また、理科的な実験や社会的な調査のようなものも含まれます。
それらの作文や作品の発表の中で、無数の小さな創造が生まれ、それが将来の大きな創造の裾野になります。この創造の場作りが、創造教育の受け皿となります。
未来の社会では価値あるものは、再現から創造に移行していきます。
人間の労働が生産の中心であった時代には、要求される仕事をこなすための再現能力を育てることが教育の目標でした。基礎学力と基礎技術は、仕事を再現するために必要だったのです。
しかし、機械化とIT化が進む現代では、再現能力は次第に機械やプログラムソフトに置き換えられていきます。これからの時代に必要な能力は、再現能力よりもむしろ創造能力です。再現能力は、創造能力の基盤として必要なものになっていくのです。
■本質教育
創造能力の基礎である再現能力を、本質的な学力を育てる教育として進めていくものが本質教育です。
現代の教育で問題になっているものは、ひとつには重箱の隅をつつくような末期化した受験教育です。しかし、それよりも大きな問題となっているものは、教育格差の中で本質的な学力を育てられていない子供たちが生まれていることです。その中には、これから増える外国からの移民の子供たちも含まれます。
すべての子供に確実な学力をつけるためには、今の学校教育はシステム的に無理があります。明治時代に作られた学校教育は、等質な生徒集団を一律の教科書で一斉に指導する教育システムでした。それは、誰もが等しく貧しかった時代に日本を工業的に離陸させるためのキャッチアップ経済の教育としては有効な教育でした。
しかし、現代は、多様な家庭環境の生徒が、多様な文化環境の中で成長しています。多様な背景を持つ生徒を学校という場でまとめて一斉に指導するというシステムに無理が生まれてきているのです。
■寺子屋オンエア
一斉教育の無理を解消する対策は、少人数学級、習熟度別教育、学力を補完するための塾通い、各人の学力に応じた学校への受験、ICT教育などで行われています。
しかし、多様な生徒の学力を本質的に育てるためには、先生が一斉に教えるという発想をやめ、各人が自学自習で自ら学ぶという教育に転換する必要があります。
その教育が、家庭で複数の生徒が自学自習によって学ぶ寺子屋オンエア教育です。
自学自習で、どのように一定の学力を担保するかというと、その方法が、自習検定や暗唱検定です。特に、暗唱検定のように進度がまちまちでそれに応じて評価もまちまちであるような学習は、従来の一斉指導の場で行おうとすればコストが大きくなりすぎます。しかし、家庭での学習だけで行うには家庭の負担が大きすぎます。寺子屋オンエアのような自学自習の場でなければ成立させにくい学習なのです。そして、この暗唱教育が創造教育の一つの柱となります。
寺子屋オンエア教育は、普及するにつれて、地域性も加味したものになります。近い地域の子供たちが、同じオンエア教室で学習を行うようになるのです。すると、日常的な教育は、場所の制約の少ないオンエアで行い、非日常的な遠足や合宿や発表会や文化祭などのイベントは、リアルな場で行うようになります。
これからのオンエア教育は、家庭と地域を土台としたものになり、家族や地域の大人や子供という、より深く人間の関与したものになっていくのです。
また、寺子屋オンエア教育は、場所の制約がないという点を生かして、海外の日本人の子弟教育にも活用できます。更に、日本の教育を学びたいという海外の外国人の生徒も、オンエア留学教育として受け入れることができます。
これからのオンエア教育は、このような形で海外にも輸出できる教育になるのです。
■■新産業の創出
新しい産業の創出については、二つの方向が考えられます。第一は、形ある物の消費と生産が中心であった経済から、形のない文化の消費と生産が中心になる経済への移行です。第二は、生産を担う少数の企業と消費を担う多数の大衆という関係の経済から、個人が生産者と消費者を兼ねる全員参加型の経済への移行です。
■技道(わざみち)文化
現代の先進国では、物は、新しい消費を生み出すというよりも、むしろ買い替え需要として、消費と生産を循環させるものになっています。
しかも、少子化の流れの中で、消費が縮小するに応じて生産も縮小していきます。すると、生産する側は、縮小した生産に対応するコストの削減のために機械化を推し進め、それが雇用を縮小させ、その結果消費の原資が更に縮小します。
その縮小した物の経済を脱し、物の普及した先進国で新しい消費を生み出すものが文化の経済です。
しかし、その文化は、これまでのマス文化のように限られた生産者と大多数の消費者によって成り立つものではありません。これまでの文化は、文化を提供する側はひとにぎりのプロで、その文化を需要する側はただの受け手として消費するだけの多数のアマチュアでした。それは、工業時代の文化とも言えるものです。
これからの文化は、主に技と道の文化になります。技と道の文化とは、参加者が文化の受け手としてだけ参加するのではなく、自らもその文化を学び、自己を向上させ、やがて自身もその文化を提供する側に回るという文化です。
技と道文化においては、消費は単なる消費ではなく、自分がその文化を身につけるための教育投資ともなります。
工業時代には、例えば、自動車という物を買うために300万円を費やしたとすれば、その自動車を4人家族で7年間使った場合、1ヶ月あたりに換算した1人あたりの支出は約9000円になります。
その自動車は、移動の利便性を獲得するための投資とも考えられますが、その利便性が生活の中にビルトインされた状態になり、その利便性があることを前提にした日常生活が営まれるようになると、支出は投資というよりも単なる必要経費になっていきます。
しかし、同じ9000円を出して、自分が何か新しい技能を身につけようと思えば、第一にその技能を身につける過程自体が喜びになります。第二に、その技能が活用できるほどにはならないという可能性があったとしても、支出は単なる支出ではなく、自分の技能を蓄積するための投資となります。
これからの先進国で拡大する可能性がある消費は、このような技と道の文化の消費です。その消費が拡大するためには、従来の限られた古典的な技と道ではなく、新しい多様な技と道を創造していく必要があります。
現在の技と道の文化は、例えばスポーツで言えば、野球、サッカー、テニス、ゴルフなどのように限られたメジャーなものが主流になっています。スポーツの祭典と言われるオリンピックでも、約30競技300種目しかありません。この限られた数のスポーツは、工業時代のスポーツ文化の結果です。70億人になろうとする地球の人口にとっては、スポーツの種類はもっと飛躍的に多様になる必要があるのです。
■家元産業
技道(わざみち)文化には、文化を作り出す面と、教育を作り出す面があります。例えば、茶の湯の文化には、その文化だけでなく、その文化を継承するための教育システムが伴っています。
従来の大量生産大量消費社会では、少数の生産者と多数の消費者をつなぐものは、流通や広告や営業という別の生産者でした。
しかし、多様な技道文化の社会では、生産する側と消費する側は、教育で結びついています。
文化自体が消費を生み出すためには、その文化は多数の消費に堪えるほど高度なものである必要があります。絵は誰でもかけますが、ピカソの絵のような金額で売れる絵は、誰でもかけるわけではありません。文化産業は、文化そのものを消費の対象としている限り、パトロン文化かマス文化にならざるを得ません。
しかし、技道文化は、文化そのものの価値はまだ未成熟だったとしても、教育という面においては、学びたいという人がいれば経済的に成立します。
経済的に成り立つ文化の中に、やがて天才が現れると、その文化は技の文化から道の文化へと進化します。文化自体が道の文化として価値を生み出すようになる以前の文化の生産と消費をつなぐ教育が家元産業の基盤です。
■森林プロジェクト
森林プロジェクトは、自分で作文教室を開き作文教育を行いたい人のための講師資格講座プロジェクトです。
ここに、寺子屋オンエア指導を組み合わせると、インターネットを利用して子供たちに多様な教育を行うことができます。これが、寺子屋オンエア教室のオンエア特別講座です。
このオンエア特別講座は、子供向けだけでなく大人向けにも多様な文化の講座として提供していくことができます。
従来のカルチャーセンターのように場所に制約されたものは、受講者を集めやすいメジャーな文化の提供が中心でした。しかし、インターネットのようにロングテールをカバーできるものは、各人の好みに応じたマイナーな文化も提供できます。
このオンエア特別講座を利用して、各人が自分の興味のある分野を技道文化として作り出し、自身がその家元となっていくというのが、未来の文化産業の姿です。オンエア特別講座は、技道文化の言わばインキュベータともなるのです。
■貯金の必要のない社会
これまでの社会では、ほとんどの人は、消費者でありかつどこかの企業の被雇用者でした。定年になり雇用がなくなると、貯金で消費を賄わなければなりません。
それは生産者の場合でも同じです。生産に従事できる年齢でなくなると、やはり消費はそれまでに蓄積した貯金で賄わなければなりませんでした。
今後、現在のような年金制度は行き詰まると言われています。また、少子化の社会では子供もあてにすることはできません。そのため、多くの人が貯金という社会にお金が回らない形の仕組みに頼らざるを得ません。しかし、今後考えられるインフレやデノミの前では、その貯金自体も頼りにならなくなります。
江戸っ子は、宵越しの銭を持たない社会で暮らすことができました。それは、社会全体に助け合いの仕組みがあったからです。
現代の社会では、まだその助け合いの仕組はできていません。しかし、その助け合いの仕組みを部分的に先取りするものが、家元システムです。
新しい技道文化を創始した家元は、文化を作るとともに、教育を行います。その文化と教育の継承者となる人が家元を支える仕組みが新しい私的年金制度です。
使うあてのない貯金が、老後の不安のために退蔵されている社会というのは、きわめて効率の悪い社会です(※)。家元年金制度の中では、お金はほとんどが自分自身への投資と、新しい文化の創造と、後継者の育成のために使われます。使われていないお金がないという点で、宵越しの銭が必要でない社会は、効率的に無駄のない未来の社会なのです。
■未来の日本のための実行
日本も世界も、今大きく変わろうとしています。それは、現在の社会が、経済的にも文化的にも自然環境的にも行き詰まりを見せているからです。
しかし、まだ新しい社会の方向は、空想の上でしか語られていないように見えます。
新しい未来の展望を、空想ではなく現実的な行動として実行していくことがこれから必要になってくるのだと思います。
※追記
ケインズ政策は、貯金を公共政策によって消費や投資に振り向けます。しかし、それが有効であるのは、消費が個性化していない分野であり、生産が雇用を生み出すことのできる分野です。だから、現在のケインズ政策は、有効性を失っているのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
長い記事で恐縮ですが、言葉の森の今後の展望を全部盛り込みました。大盛りです。
あとは実行あるのみですが、この実行が面倒なんだよなあ(笑)。仕事苦手だし。
少しずつ変わっていく社会を見すえて、先取りで考えている中根先生に再敬服しました。
ぜひ一緒に取り組んでいきたいです。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
とうこさん、ありがとうございます。
この間、山本印店に行ったら、「いつも八年先を見ている。もっと今を見て自分んのことを考えないと」と言われました。八年という数字がどこから出てきたんだか。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育改革(0) 新しい産業(23) 言葉の森のビジョン(51) 教育論文化論(255) 森林プロジェクト(50)
●国語力は問題を解いても身につかない
国語力は、国語の問題を解いても身につきません。算数・数学は、解けなかった問題の解法を理解すればできるようになりますが、国語はそうではありません。
その理由は、算数・数学が答えが一つに絞られているのに対して、国語は答えの可能性がいくつもあるからです。例えば、選択問題でも、選択肢の一つの文の中に、合っているところと違っているところが微妙に組み合わされています。ある選択文の始めの方は合っているが、後の方に違うことが書いてあるという選択肢になっているのです。
しかも、その合っているところと違っているところが、わかりやすく書かれているのではありません。同じ表現で合っているところ、違う表現だが合っているところ、同じ表現だが違っているところ、違う表現で違っているところという書き方になっているのです。
選択問題でさえ、このように答えに広がりがありますが、記述問題では更に答えの幅が広がります。作文の問題では、それ以上に答えの範囲が広がるのです。
●国語力の本質は読む力と書く力
国語の得意な子の多くは、国語の勉強をしていません。得意なのでわざわざ勉強をする必要がないからです。では、どうして国語が得意になったかというと、それは読書によってです。読書によって読む力がついたので、国語の問題も自然に解けるようになったのです。
国語の勉強というと、漢字の書き取りや読解の問題を連想しがちですが、漢字の書き取りでも、読解の問題でも、読む力はつきません。読む力は、文章を読むことによってついてくるのです。
しかし、読書による国語力では、学年が上がるにつれて伸び悩む人も出てきます。それは、国語力の中に難しい文章を読み取る力が求められるようになってくるからです。易しい物語の本を読んでいるだけでは、難しい説明文の読み取りはできるようにはなりません。
読書はもともと楽しみのために読むものですから、易しい物語の読書ももちろんいいのです。しかし、その易しい読書と並行して難しい読書もしていく必要があります。
易しい文章と難しい文章の差は、主に語彙の差です。難しい文章には、より抽象的な語彙が使われています。読む力がつくというのは、その抽象的な語彙を実感として感じ取れるようになることです。すると、その語彙力によって読む力と同じように書く力もついてくるのです。
国語力の本質は、この読む力と書く力です。
●難しい文章を読み書き考える勉強法
言葉の森の勉強法は、難しい文章を読み取る力をつけるところから始まります。その学年の生徒が普通に読む文章より一段階上の文章を毎日音読します。文章は、もともと理解されるように書かれています。難しい言葉があったり、馴染みのない表現があったりしても、それを音読で繰り返し読んでいると、その文章の全体像がわかってきます。
国語力は、部分から全体に進むのではありません。漢字や語句の勉強の積み重ねで全体の文章を読み取る力がつくのではなく、先におおまかな全体がわかり、そこから個々の部分がわかるようになります。これが、部分から全体に進む算数・数学などの勉強法との違いです。
全体を読み取る力をつけるためには、まず繰り返し読むことです。繰り返し読むためには、音読をする必要があります。繰り返し読んで自分なりに理解したことを、家族に話して説明します。このアウトプットによってインプットが確実なものになります。そして、家族との対話によって文章の上だけで理解したことが、より具体的な実感を持って理解されるようになります。それをひとまとまりの文章として書くのが、言葉の森の感想文の勉強です。
こういう勉強ができるのは、言葉の森の指導が、担任の先生からの毎週の電話によって行われているからです。
●生涯役に立つ本当の国語力をつける
読む力は、あらゆる学力の基礎となります。
現代は、新しい知識や技術が次々と生まれ、それがまたたく間に世界中に広がるという情報化の速度が高まった時代です。この社会で生きていくためには、学生時代の勉強の知識だけでは不足します。社会に出てからも新しい知識を読み取りそれを自分なりに表現する力が求められてきます。
言葉の森の読解と作文の勉強は、社会に出てからより一層役に立ちます。それは、読むことや書くことが苦にならず、むしろ読む楽しみ、書く楽しみを持つことができるようになるからです。
現代は、情報化の進行に伴って、ものごとをビジュアルに表現する技術が発達しています。しかし、それによって目で見てわかりやすいものでなければ理解できないという人も増えています。どの分野でも、ものごとの本質に迫るためには、文章による理解と文章による表現が欠かせません。
言葉の森の国語の勉強は、単に学生時代の国語力をつけるだけでなく、社会に出てからの国語力をつけることに役立っているのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
国語力をつけるのに、特別な勉強法は必要ありません。
ただ難しい文章を繰り返し読んでいればいいのです。
しかし、その難しい文章を繰り返し読むということが、家庭でも塾でもなかなか実行できません。それは、子供がすぐに飽きてしまうからです。しかも、読むだけでは張り合いがありません。
そこで、言葉の森が今やっているのが、寺子屋オンエアで問題集を音読する練習です。小1から中3までの生徒がのべ約100人参加しています。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。国語力読解力(155) 言葉の森の特徴(83)
●中高大いずれの入試も記述力重視に
中学入試、高校入試、大学入試とも、入試の傾向は、○×式の選択問題から、記述力を重視した問題に移っています。この傾向は、難関校ほど顕著で、国語に限らず数学、英語、理科、社会も、すべて記述力が必要な問題になっています。
また、融合問題と言われる複数の教科の内容を横断したものも増えているので、これまでのように単純に理科や社会の教科別の勉強をしていたのでは答えられない問題も出てきています。つまり、単なる知識の再現をテストする問題ではなく、その問題を自分なりにどう理解し、どう考えるのかという思考力が問われる問題になっているのです。
生徒の思考力は、表現力として表れます。ある問題についてどのように書くかということが、その生徒がどのように考えているかという内容と結びついています。だから、これからも記述力、作文力を重視した問題は確実に増えていくのです。
●言葉の森の作文で読解力も表現力も
言葉の森の作文の学習は、単に作文を書かせるだけの学習ではありません。長文を読み、家族と対話し、実例を増やし、より広い視野で作文を書くという学習です。
書く力は、読む力に支えられています。読む力の育成を伴わない学習では、作文力の向上はすぐ頭打ちになります。例えば、語彙力のない生徒は、いつも同じようなありきたりの言葉で文章をまとめてしまいます。語彙力のある生徒は、それぞれの文の流れに合わせて多様な語彙を使うことができます。語彙力のない生徒に、作文の評価の上だけで多様な語彙を使うように言っても指導は空回りするだけです。書く練習をする以上に、読む練習をする必要があるからです。
言葉の森の作文の課題となる長文は、それぞれの学年に応じたレベルの文章よりも一段階難しいものになっています。だから、家庭で事前にその長文を音読し、その長文をもとに家族と対話することが、よりよい作文を書く準備となっています。この音読と対話が、作文力のもととなる読む力を育てるのです。
●中学入試から大学入試まで作文専科
言葉の森の生徒は、下は幼稚園年長から、上は高校3年生、大学生、社会人まで幅広い年齢にわたっています。中学入試で作文の試験を受け、言葉の森の受験作文コースで勉強した生徒が、学年が上がり、今度は大学入試でも小論文試験を受けるために受験作文コースに切り換えて勉強するということがよくあります。それだけ、言葉の森の作文指導を信頼しているのです。
作文や小論文を教えてくれる塾や予備校は数多くあります。しかし、子供たちの文章を見て評価したり添削したりすることと、その生徒の文章力を上達させることとは全く別のものです。
言葉の森は、長年の作文指導の蓄積があるので、苦手な生徒から得意な生徒まで、どのような課題にも対応できる指導をしています。
受験には合否がありますが、言葉の森の作文指導を受けた生徒は、受かった生徒はもちろん、落ちた生徒でさえもほぼ全員が、「作文の試験はよくできた」と言ってくれます。受験の合否を超えて、真の実力をつける練習をしているからです。
●文章力は社会に出てからも役に立つ
言葉の森の作文指導は、作文小論文の試験はもちろん、記述力の試験にも、読解力の試験にも役立ちます。しかし、本当に役立つことが実感できるのは、社会に出てからです。
社会生活は、仕事の上でも、仕事以外の分野でも、文章を書く機会は意外と数多くあります。特に、責任ある立場になれば、それだけ表現力のある文章を書く力が要求されるようになります。
言葉の森の作文指導は、小学校低学年までは事実中心の作文練習ですが、その事実中心の作文で書く力をつけ、その土台の上に感想文や論説文を書く練習をしていきます。
社会に出てから役に立つ文章力は、どちらかと言えば、小説を書くような文章力ではありません。自分の意見をわかりやすく説得力を持って書くという論説文的な文章力です。
言葉の森で作文の練習をすることによって、その論説文を書く力が育ちます。それは、その人の生涯の無形の財産ともなるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
再び、宣伝っぽい記事(笑)。
しかし、受験で作文があるのなら、言葉の森の作文指導が一番です。
ただし、高校入試、大学入試は、もう先生の時間があまり取れないので新しい受け入れは難しいです。
そのかわり、指導のできない分、サービスで書き方のコツを教えます。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。受験作文小論文(89)
facebookページ「言葉の森ネットワーク」で、遊びのグループを紹介しました。
こういう親子の遊びや季節の行事を、低学年の作文の実行課題集に載せています。
https://www.mori7.com/jk/
====
子供は遊びが大好きです。
それに敢えて理由をつけるとすれば、自分の自由な意思で創意工夫ができて、友達と交流ができるからだと
思います。
言葉の森ネットワークでは、「親子で遊ぼうワンワンワン」という子供の遊びを紹介するグループを作っています。
前にあった面白い記事が、ダンボールの空き箱で家の中に子供の隠れ場を作ろうというものでした。
家の中にキャンプ用テントなどを張ると、その狭い中にわざわざ入って、遊んだり本を読んだり、時には勉強をしたり(笑)します。
子供向けの遊びに興味のある方は、ぜひご参加ください。
▽非公開グループ
「親子で遊ぼうワンワンワン」
https://www.facebook.com/groups/wanwanwan/
(写真は教室のペットワンワン「ゆめ」)
====
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
小学1、2年生の子で、自由な題名の作文に毎回「きょうのこと」と書く子がいます。
それは、もちろんそれでいいのです。低学年のころは、毎日の日常が楽しい経験だからです。
しかし、家庭でもう少し工夫すれば、作文の新しい題材が見つかります。
何も、家族で旅行に出かけて豪華に遊ぶ必要はありません。
ちょっとした工夫で、子供は夢中になって遊ぶのです。
そのひとつが、家の中にテントを張ること(笑)。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。facebookの記事(165)
教育に関するブログを、ここ数日よく目にしました。
一つは、In Deepさんのブログの記事でした。
もう一つは、アゴラというサイトの池田信夫さんの「学校は教育に向いていない」と、中沢良平さんの「学校は勉強するところではない」という記事でした。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51957877.html
記事の内容は、学校は学力をつける場所ではなく、不自由な集団行動に同調する姿勢を作る場であり、社会に出るときの学歴を発行してくれる場である、というものです。
これは、実感として多くの人が感じていることだと思います。
私(森川林)も、小中学生のときは、学校の授業で机に向かって先生の話を聞いているのが退屈で退屈で、いつも窓の外を見ては、自然の生き物は自由でいいなあと思っていました(笑)。
昔の子供たちで、塾や予備校に行く人はほとんどいませんでした。学校以外にそういう不自由な場所に行くというようなことは、誰も考えつきもしなかったのです。
私が学校の授業で唯一ほっとする時間が、テストの時間でした。テストは、自分から進んでやればいいからです。だから、授業のときと違ってテストは退屈しませんでした。
こう考えると、勉強は家でしてきて、学校はテストをする場だけでもいいのではないかと思えてきます。ちょうど今の反転授業のようなものです。
子供たちは、勉強が嫌いとよく言いますが、単純に勉強が嫌いなのではありません。
人間にはもともと向上する意欲があるので、勉強をして自分が賢くなるのは好きなのです。嫌いなのは、無意味な知識を覚えこむことと、それが外からの強制として行われることです。
だから、基本的な学力をつけるために自分のペースで勉強するということであれば、そういう勉強は苦になりません。
この場合の基本的な学力とは、決して初歩的な易しいレベルの学力というのではありません。東大の推薦入試で、学力の担保して見ると言われている「センター試験8割」の学力です。
こういう基本的な学力を子供が自分の力でつけるというのが、これからの勉強に求められているのです。(つづく)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
ここのところ、続けて教育を話題にしたブログを目にすることがありました。
まず、In Deepさんのブログから。
「世界大学ランキングの日本の大学の順位の急落からさえも思う「もう詰め込み教育から子どもたちを解放させて、遊ばせてやれ!」…の想いは強まるばかり」
http://oka-jp.seesaa.net/article/427109409.html
東大の世界大学ランキングからの順位低下は、子供の塾通いが始まり出したころから始まっているというグラフをもとに、成績をよくするよりも頭をよくしよう、子供は勉強などせずに遊ぶことだ、と述べています。
ここに書かれていることは確かにそのとおりで、今の勉強の仕組みの中では、成績をよくすることは頭を悪くすることにつながっています。もちろん、本を読むとか九九を覚えるとかいう段階では、そういうことはありません。成績をよくすること=頭をよくすることだからです。
しかし、受験勉強に近づくにつれて、成績をよくすることと頭をよくすることは反比例してくるのです。
例えば、こんな問題です。
「次の中で体温が変化する動物はどれですか。ア.シャチ イ.サバ ウ.カケス エ.マムシ」(朝日小学生新聞「受験理科」より2015/10/2)
小学生で、生きたシャチ、サバ、カケス、マムシなどを見ているような子は、ほとんどいません。実物の実感がないところで、名前という記号と、それに合った図や写真という記号と、恒温動物という知識としての記号を、ただ頭の中で結びつけているかどうかを見るだけなのです。
もちろん、こういう知識もあっていいのです。しかし、それは本を読んだり、図鑑を見たり、実物に触れたりすることによって、自然に身につけるものです。自然に身につけたものであれば、「生き物の中には、体温が変わるものと変わらないものがあるんだなあ」という理解ですから、一瞬で頭の中に入ります。そして、具体的にどの動物がそうなのかということは、必要なときに調べればいいのです。
ところが、これを知識として覚えようとすると、ただ大きな理解をしただけでは駄目です。特に試験に出そうな間違えやすい例を重点に何度も反復して頭に刻みつけなければなりません。これが頭を悪くします。
身につける必要のない、そして自分でも興味がない知識を、何度も反復して頭に入れておく子が成績のよい子になってしまうのです。(つづく)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
昔の子供は、みんなそうだと思いますが、学校から帰ったらランドセルを家の中に放り投げて、すぐ近くの原っぱに。
暗くなって夕飯の時間になるまで、誰もたっぷり遊んでいました。
それで、みんな頭がよくなっていったのです。(かなあ)
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)