中学生や高校生にテスト結果を聞いたとき、「大体できました」という生徒は、あまり成績がよくありません。「こことここを間違えたんです」という生徒は、大体成績がいいのです。
「できた」という生徒はあまりできていなくて、「できなかった」という生徒はできているという逆転が起きるのは、テスト問題に対する姿勢が違うからです。
テストというのは、勉強の結果ではなく、次の勉強の出発点です。
テストが返されたとき、どういう傾向のテストで、自分がどう間違えたのかを知ることが、次の勉強の土台になります。
受験用の過去問を、受験勉強を開始する前(大学入試なら高2の終わりか高3の始め)にやっておくというのも、こういう理由からです
時間をかけているわりに成績が伸びない生徒は,テストを勉強の結果としてだけしか考えていません。
だから、成績がたまたまよかったり悪かったりしても、それは、当たり外れのレベルの話になってしまうのです。
定期テストの対策は、まず自分で作戦を立てることから始まります。
前回のテスト結果を分析し、今回の勉強の方向を決め(つまり、教材と範囲と回数を決め)、スケジュールを考えてから勉強を始めるのです。
ところが、こういう自分で立てた作戦を持たずに、ただ塾に行って、言われたことをやるという生徒が意外と多いのです。
人間の得手不得手は、人それぞれに違います。みんなと同じ一律の勉強をしていたのでは、時間がかかるだけです。
自分の勉強の作戦を立てられるのは、自分しかいないのだということをしっかり自覚することが大事なのです。
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言葉の森の暗唱長文は、これまでは現代文でその学年の生徒が作文を書くのに役立つようなものを載せていました。
これはこれで大事な役割があったのですが、せっかく暗唱までするのですから、今後は生涯覚えていて時どき口ずさめるようなものを暗唱長文にしたいと思いました。
そうすれば、その暗唱はやがて親子三代で楽しめるようなものになります。
聞くところによると、群馬県には上毛かるたというものがあるそうで、これは既に家族全員で楽しめる文化になっているようです。
作文に使えるような文章の暗唱が教育的暗唱で、親子三代で楽しめるような文章の暗唱が文化的暗唱と言ってもよいと思います。
教育的暗唱の長文の方は、その学年の作文の模範例文として別途読めるようにしていく予定です
さて、文化的暗唱と言っても、人それぞれに好みがありますから、選択の範囲はかなり広がります。
そこで、いくつかの基準を設けて、新しい暗唱長文を選ぶことにしました。
第一は、親子三代ですから、百年の風雪に耐えるような文章にしたいということです。
第二は、既にある程度知られているような親しみの持てるものにしたいということです
第三は、日本語の文章の暗唱ですから、できるだけ日本文化につながるものにしたいということです。
百年の風雪に耐えるとなると、やはりできてから百年以上経っているということが目安になります。
明治時代の始まりが、今から約150年前でした
明治維新は、現代日本のひとつの大きな原点になっています。
この明治時代の文化の方向が、その後の日本の大きな方向を決定づけました。
例えば、その一つが和魂洋才です。西欧の優れた科学技術は積極的に吸収するが、日本の文化の根は守るという方向が日本人の共通の意識となったのが明治時代でした。
しかし同時に、それにもかかわらず、明治以降の日本の文化は次第に西欧文化に侵食されていきました。
そこで、明治の初期をひとつの基準として、それ以前の古代・中世・近世・近代の文章を中心に暗唱長文を選定することにしました。
参考までに近代のよく知られている人物の生年です。
これらの人々は、江戸時代の成熟した日本文化を背景にしつつ、明治時代の急速な西欧化との葛藤の中で自身の精神形成をしていったのです。
勝海舟 1823~1899 文政
西郷隆盛 1828~1877 文政
吉田松陰 1830~1859 文政
福沢諭吉 1835~1901 天保
内村鑑三 1861~1930 万延
森鴎外 1862~1922 文久
新渡戸稲造 1862~1933 文久
夏目漱石 1867~1916 慶應
幸田露伴 1867~1947 慶應
鈴木大拙 1870~1966 明治3
島崎藤村 1872~1943 明治5
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海外で子育てをしなければならない人は、子供の日本語教育の問題で悩まれることが多いと思います。
これまで帰国子女の保護者の相談を受けていてよく感じるのは、日本語学校のような教育機関だけでは日本語の力をつかないということです。これが、同じ勉強のように見える算数数学、英語、理科、社会などと違うところです。
海外で子育てをしながら、子供に現地の言葉も日本語もしっかり身につけさせている家庭に共通するのは、家庭で日本語を使う機会を意識的に増やしていることでした。
中には、日本語学校が近くにないので、家庭だけで日本語教育をやらざるを得なかったという人もいました。しかし、その方がよい結果を生んでいたようなのです。
家庭での日本語教育の方法は、youtubeで日本語のアニメを見る、近所の子供たちを読んで日本語のゲームをする、家庭の中では両親と日本語で話すなどでした。つまり、勉強として日本語を身につけさせるのではなく、遊びや日常生活の中で自然に身につけさせようとする工夫でした。
このことは、帰国子女に限らず、日本で日本語で生活している日本人の子供たちでも共通です。例えば、親が子供に話しかけるときは、できるだけ断片的な言葉ではなく、ひとつの文がある程度の長さを持っているような言葉で話しかけることです。国語力は、こういう日常生活の中で育っていくのです。
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小6の部で、森リン点89点で第1位になった作品です。
森リン点は、主に語彙の多様性を評価している点数です。
多様な語彙が使われている作文は、内容が充実していて密度が濃いものになっているという相関関係があります。
その多様な語彙の土台は、読書と対話です。
作文の勉強をするためには、たくさんの本を読み、お父さんやお母さんとたくさん話をする必要があるのです。
文化というものは
らうみ
僕は、”文化”というテーマについて似たような話がある。僕はアニメのキャラクターの置物を集めるのに没頭している。例えば、黒子のバスケのストラップや暗殺教室のフィギュアなどだ。イオンモールに行くと必ず一個は買うので、僕の引き出しの中は、フィギュアが散乱していてまるで一つの世界がそこにあるかのようだ。母は、
「そんな細々としたものは必要ないでしょ。」
と顔をしかめるが、僕はそうとは思わない。引き出しの中の世界から、フィギュアたちをこちらの世界へ招待し、ずっと眺めていると自然と笑みがこぼれる。たまには、あちら側の世界に招待してもらい、一緒に遊びたいものだが……。
最近は、「生きるために必要ない」「買う意味が無い」という理由から物を必要最小限しか買わない若者が急増している。でも、僕は物理的に必要でもないものを買う事は意味のないことではなく、むしろ必要だと思う。僕は、フィギュアやストラップなどにも人間と同じように、個々の命があると思う。人間とは違い、表情が変わることもなく、動きもしない。でも、フィギュアたちなりに生きていて僕の、生きるために必要である力を与えてくれていると僕は考えている。毎日の生活も、役に立つことばかりだったら、みんな疲れてしまうだろう。それがないと、生きていけないという訳ではないが、ある方が元気に前向きに生きていけるだろう。
母は、ボールペンを何本も何本もコレクションするのが好きだそうだ。買うボールペンは主に旅行へ行った時に買ってくる自分へのお土産だそうだ。それらを見てみるととても可愛らしいものばかりだ。ボールペンは一つで間がいく、何故多くのボールペンをコレクションしているのだろう。と疑問に思った僕は、疑問をそのまま質問した。母の話によると、母がボールペンを集め始めたのは十年前くらいで、ディズニーランドでかわいいミニーのボールペンを買ったことがきっかけだそうだ。今では、ボールペンの数は数十本以上となっている。母は、必要なくても、使わなくてもそこに旅行という思い出を集めているのよと言わんばかりに笑っていた。生活の役には多分、立たないがそのボールペンコレクションがあるという情緒のおかげで母はいつもニコニコ笑っていられるのかもしれない。
文化とは、人間にとって生きていく上で必要ではないが、あるからこそ素敵な笑顔がたくさん生まれるのだと思う。「角を矯めて牛を殺す」ということわざのように、役に立たないから、人生に必要ないからといって切り捨ててしまうと、大切なものを見失ってしまう。生きるためには、役に立たない無駄にみえるものも必要なのである。
「森リンの丘」より
https://www.mori7.net/oka/moririn_seisyo.php
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●オンエア方式で理科実験や工作の講座を行う企画
子供の教育で大事なことは、個性を伸ばし創造性を育てることです。その創造性を支えるために、学力というものが必要になります。
しかし、今はこれが逆転していて、学力をつけることだけが目的のようになっています。その学力も、真の意味での学力とはずれている、受験に合格するための、つまり競争に勝つための学力です。そのため、引っかかりやすい問題をうまくくぐりぬけるようなところに必要以上の時間を取って学習し、その結果、誰もが同じような価値観を持った、個性のあまり際立たない、そして本当の自分が何をしたいのかがよくわからない子供たちが生まれているのです。
こういう教育が有効な時代は、工業化のために均質で優秀な労働力が必要とされていた時代でした。今、均質で優秀でしかも従順な労働力は、機械や人工知能に取って代わられつつあります。
これから必要になるのは、機械や人工知能に取って代わられない人間の能力です。それが、個性であり、創造性であり、何もないところに問題を発見し、誰もまだ知らない世界に自分の好きなものを作り出していく能力です。その能力を発揮するためにこそ、学力をつける必要があるのです。
では、子供の個性を発見し、創造性を育てるためには何が必要なのでしょうか。それは、その子がさまざまなことに挑戦する機会を、周りの大人が数多く作ってあげることです。
人間は、自分が好きなものにぶつかれば自然に熱中します。この熱中によって、個性が創造性へと発展していきます。
誰もが同じような勉強をして、その輪切りの評価の中で他人より1点でも上に行くことが要求される没個性の教育ではなく、基本的な学力をつけつつも、勉強以外の多様な経験をする自由な教育が必要になっているのです。
言葉の森が、今後の企画として力を入れていくものは、まず基本的な学力をつける教育としての寺子屋オンエア教育、次に、人間性と創造性を伸ばす教育としてのオンエア特別講座です。
このオンエア特別講座の内容としては、理科、社会、図工、音楽、体育などの教科に関連する、より実践的な講座の企画が考えられます。
オンエア方式で、7、8人の小グループが、テレビ会議での先生の監督のものに、自宅でいろいろな実験や実習をするという企画です。
子供たちに必要なのは、自分の興味や関心のある分野で、頭だけでなく手や足を動かし、それを友達との交流の中で行っていくことです。
当面は、理科実験や工作のような取り組みやすいものから始めていきたいと思っています。
●子供の教育講座から大人の文化講座へ
オンエア特別講座は、単に子供たち向けの教育だけに留まりません。子供向けのオンエア特別講座のある分野を受け持つ講師は、やはりその分野が好きな大人でしょう。例えば、理科実験の好きな大人が理科実験の講座を行い、ロボットプログラミングの好きな大人がロボットプログラミングの講座を行います。
すると、何度もその講座を企画しているうちに、その人はやがてその分野の講座のプロのようになっていきます。すると、やがて子供向けだけではなく、より高度な大人向けの講座も開きたくなるでしょう。このように子供向けの教育講座の中には、大人向けの文化講座に発展していくものも出てくるのです。
従来の教育や文化の分野は、既に大きな枠が完成されています。
受験のための教育にしても、お茶やお花の文化にしても、野球やサッカーのスポーツにしても、和洋中の料理にしても、どれも長い歴史の中で完成度の高いものになっているので、需要よりも供給が上回るようになっています。
買いたい人より売りたい人の方が多い産業分野が日本中に広がっているということが、今のデフレの根本的な要因です。
ところが、教える人と教わる人が、自分の好みをもとにして始めた教育文化講座の多くは未完成で、これからいろいろな試行錯誤を経て発展していくものです。そこに、経済の乗数効果が働きます。
メジャーとは言えない狭い好みの分野で教えたい人と教わりたい人が出会えるというのが、ロングテールを持つインターネットの長所です。
インターネットの黎明期には、さまざまなベンチャー企業が生まれました。そのベンチャー企業を担った人の多くは、財産も地位もなく夢だけがある若者でした。
その文化の小さな爆発が、これからまだ誰もそんな世界があるとは知らないさまざまな未知の分野で起こってくるのです。
そういう未来の創造文化産業のきっかけとしても、オンエア特別講座を企画していきたいと思っています。
(写真は、近所の公園に咲いていたハナミズキの実)
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オンエア特別講座は、勉強の企画でもあるのですが、たぶん楽しい遊びの雰囲気があると思います。
そこで、遊びのfacebookグループなどで、この企画を練っていきたいと思っています。
たぶん、退屈な勉強をいやいややるよりも、こういう遊びに熱中した方が、子供たちの頭はずっとよくなると思います。
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●毎週の作文で読む力と書く力がつく
小学校低学年のころは、何でもたやすく吸収できます。しかし、この時期に知識的なことを吸収しすぎると、考える力の成長がかえって遅れてしまいます。
低学年のころにやってはいけない勉強の第一は、長時間勉強させることです。長時間勉強すると、時間が来るまで机に向かっていればよいという姿勢になるので、集中力がなくなります。
やってはいけない勉強の第二は、英語教育のやりすぎです。小学3年生までは日本語脳が形成される時期なので、この時期に外国語の勉強をさせると、日本語の力が正しく形成されなくなります。特に避けたいのがCDなどの音声を繰り返し聞くことです。
やってはいけない勉強の第三は、算数の難問に取り組ませることです。低学年のころの難問は、本当の難問ではなく、文章が読み取りにくかったり条件が複雑だったりするだけの難問ですから、考える力がつかないばかりか、かえって勉強が嫌いになることもあります。
では、やった方がいい勉強は何かというと、それは、日本語の読書と音読と親子の対話をもとにした作文です。毎日の読書・音読・対話と、毎週の作文の組み合わせで、日本語力と思考力の基礎を作っておくのです。
●毎週の電話でたのしく続ける通信教育
小学校低学年のころは、勉強の土台ができる時期です。この時期にすべての学力の基礎となる読む力と書く力をつけておくことが大事です。そのためには、毎日読む習慣を作ること、毎週書く楽しさを味わう時間を作ることです。
読む習慣をつけるためには、第一に読み聞かせを続けることです。幼児のころに行っていた読み聞かせは、子供が喜ぶ限り、小学校に上がっても続けておくことです。第二は、お母さんお父さんが日常の生活の中で楽しく本を読む姿勢を見せることです。第三は、読書の時間と競合することになるテレビやゲームの時間を、禁止するのではなくコントロールすることです。
書く楽しさを味わうためには、第一に毎週作文を書く時間を作ることです。第二は、書かれた作文は直すのではなくいつもいいところを見て褒めることです。第三に、作文の題材作りを助けるために家庭の中で簡単な行事や遊びを企画することです。
低学年のころに書く楽しさを味わった子は、学年が上がり作文の課題が難しくなっても、書く習慣をずっと継続することができます。
●小1から始められる親子作文コース
幼児から小学2年生ごろにかけては、まだ書くことに慣れてはいないので、ひとりで作文の勉強を始めるには無理があることがあります。作文を書いても、表記のミスが多かったり、わずか1、2行しか書けなかったりする場合です。
しかし、作文の勉強はできるだけ早く始めた方が習慣になります。幼児がひとりでもできる国語のプリントのような簡単な学習をするのではなく、作文を書くという難しい勉強に直接取り組んだ方がいいのです。そこで、言葉の森が企画したものが親子作文コースです。
親子作文コースでは、先生からの電話のあと、子供と親(主にお母さん)でその日に書くことを話し合います。話をしながら、親が構成図を書いていきます。10分から15分で構成図を書き終えたら、子供はその作文の絵をかき、親はその作文の文章を書きます。そこに、他の家族(お父さんやその子の兄弟)が、関連する写真や絵を貼ったり、コメントを書いたりします。このようにして、家族全体の企画として、毎週子供の作文を書くのです。
子供は、親の行動を見て育つので、親が作文を書いている姿を見せれば、自分でもいつか作文を書きたいと思うようになります。そして、親の書いた作文を見ているうちに、自然の表記の仕方も覚えます。
また、親は、子供用の作文を書くことで、子供に教える作文指導のコツを身につけます。それが将来、森林プロジェクトなどの作文講師資格を取るときに役に立ちます。
このようにして、作文がまだ書けない子でも、作文を書く準備としての勉強が楽しくできるのです。
●子供時代の作文は将来の宝物
子供時代の作文は、子供のころでなければ書けません。小中高と作文の勉強を続けていくと、自分の成長のあとが記録として残ります。それは、単なる勉強の記録ではなく、親子の触れ合いも含めたその子の人生の記録です。子供の成長の記録をビデオや写真で残しておくように、内面の成長の記録は、作文として残っていくのです。
また、今の子は、手紙を書く機会がほとんどありません。作文を書いていると、その作文の中身をそのまま田舎のおじいちゃんやおばあちゃんへの手紙として書いていくことができます。作文を書くことが現実のコミュニケーションとして役立つことを知れば、子供は更に意欲的に作文に取り組むようになります。
また、子供の作文の題材選びや、感想文の似た例の相談などを家族ですると、親子の知的な対話の習慣ができます。この親子の対話が、子供の語彙力や思考力や人間関係力を育てていきます。
このような作文の勉強を楽しく続けるために最も大事なことが、直したり注意したりせず、いつもいいところだけを見て明るく褒めてあげることです。そして、作文は褒めるだけにして、その一方で読書と音読の読む力をつける勉強を気長に続けていくのです。
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作文は、小学1年生になったばかりではまだと難しいところがあるかもしれませんが、夏が過ぎて秋になり、今ごろの時期になると、どの子も大体普通に書けるようになります。
しかし、おかしいところがあってもすぐに直さないということが大事です。
作文嫌いになる原因は、大人が直しすぎることにあるからです。
低学年の子は、「親の後ろ姿を見て育つ」というやり方で勉強を教える必要があります。
子供の自主性を育てるためには、なるべく直接教えないように教えるのがいいのです。
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●小1~高3、一環指導の独自教材
小学校で教える作文は、小学校の時代に通用する作文です。必ずしも中学で通用する作文ではありません。中学校で教える作文は、中学校の時代に通用する作文です。必ずしも高校で通用する作文ではありません。
作文教室はm,小1から高3まで一貫した指導のできることが重要な基準となります。小学校で書く作文も、中学、高校への展望を持って指導する必要があるからです。
言葉の森の作文指導は、小学校で作文コンクールに入選する子もいます。高校で感想文コンクールに入選する子もいます。中学受験の作文で合格する生徒も、高校入試の作文で合格する生徒も、大学入試の小論文で合格する生徒もいます。
また、作文が苦手で来る生徒も、作文が好きで得意だから来る生徒もいます。それらの多様な生徒すべてに対応できるのは、小中高の一貫した独自教材によって指導しているからです。
●先生との触れ合いがある電話通信
言葉の森の作文指導の特徴は、毎週担当の先生からの電話指導があることです。
毎週の電話指導があると、先生は生徒のことがよくわかり、生徒も先生を信頼できるようになります。この先生と生徒の相互の信頼関係の中で作文指導を進めていくので、何年間も同じ先生で作文の勉強を続ける生徒が多いのです。中には、小学生から始めて高校生になっても同じ先生という生徒もいます。
先生と生徒のの触れ合いのある指導が、ほかにはない言葉の森の作文指導の特徴なのです。
言葉の森の作文の課題は、どの学年も、学年相当よりも難しいものになっています。そのため、言葉の森の教材に載っている解説だけでは書けない生徒も出てきます。電話指導があると、話のやりとりの中で、その生徒の理解度がわかるので、先生は生徒に応じてより詳しく説明したり、より高度な説明をしたりすることができます。
同じ教材でありながら、生徒によって指導の重点を変えることができるのも、電話による担任制の指導をしているからなのです。
●豊富なほかにはないオプション教材
言葉の森は、作文専科の教室として、日本で最も長い歴史を持っている教室の一つです。長年の作文指導の中で、作文教室を補完するさまざまなオプション教材を開発してきました。
読解マラソン長文は、小1から高3までのそれぞれの学年に対応した説明文の長文です。この長文とセットになっている読解問題は、選択式の問題を解くコツをつかむのに最適です。
暗唱長文集は、小1から高3まで毎月900字の長文を暗唱するための教材で、言葉の森の暗唱方法を使えば、誰でも確実に暗唱ができるようになります。
作文検定は、言葉の森が開発した語彙力評価ソフト森リンを組み込んだ、小1から高3までを対象にした検定試験です。
寺子屋オンエアは、全教科の学力を家庭学習の中でつけるための、インターネットを利用した自学自習システムです。
このほかに、自習検定、学力テスト、プレゼン作文発表会、夏合宿、幼児作文コース、受験作文小論文コースなど、多様なオプション教材が用意されています。
●親子二世代生徒もいる長年の伝統
言葉の森には、親子二世代の生徒もいます。その親子を同じ先生が教えていることもあります。生徒も先生も、長いつながりがあるのが言葉の森の特徴の一つです。
作文指導の骨格は、創立以来一貫していますが、時代に変化に応じて運営の仕方はさまざまに変わりました。特に、インターネットの分野では、IT環境の変化に合わせて、勉強の仕方は激変しました。
しかし、その中で仕事をしている講師のほとんどは、その変化に対応して長年仕事を続けています。
時どき、いった退会していた高校生の生徒から、「また言葉の森を始めたいのですが、小学生のときの○○先生いますか」という問い合わせがあることがあります。
小学生のとき言葉の森を受講していて、中学生になり部活などで続けられなくなった生徒が、高校生になって再び再開するというケースです。多くの場合、曜日時間の都合が合えば、また同じ先生に教わることができます。
言葉の森は、作文の勉強を通して、生徒と先生のつながりや保護者と先生のつながりが長く続く文化があるのです。
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作文指導で、小中学生だけ教えているところや、高校生だけ教えているところはあると思いますが、小1から高3まで同じ体系で教えているところはないと思います。
なぜそういうことができるかというと、教材が全部オリジナルだからなのです。
だから、作文検定などもできるのです。(作文検定のページは今工事中ですが)
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■■教育改革
これからの日本に求められているものは、ひとつは教育改革、もうひとつは新産業の創出です。
教育改革については、二つの方向で進められる必要があります。第一は、創造性を育てる教育です。第二は、すべての子供が確実な学力をつけるための本質的な教育です。
これまでの教育は、ひとことで言えば受験を目的とした教育でした。それは、私的には投資した分の見返りがあるという意味で価値ある教育でした。また、社会全体としては、競争によって全体の学力を向上させるという意味で価値のある教育でした。
しかし、今日では、その受験教育が、早期からの過剰な競争教育によってかえって子供たちの真の学力を低下させているという状況が生まれています。
■創造教育
教育が社会的な意味を回復するためには、創造性を育てる教育と、真の学力を育てる教育を並行して進めていく必要があります。
創造性を育てる教育の一つとして考えられるのが作文教育です。通常の教科の教育は、既にある知識や技術を身につけるという言わば答えのある教育です。これに対して、作文は、各人が自分でテーマを見つけそのテーマについてひとまとまりの文章を書くという問題と答えを作り出す教育です。
■プレゼン作文、作文検定
これまでの作文教育では、この作文学習の結果を発表する場が、文集作成やコンクール応募などきわめて限られたものになっていました。しかし、インターネットの時代には、作文発表の場を日常的なプレゼン作文発表会として企画することができます。また、森リンによる作文検定試験のように作文力の向上を日常的に把握する方法も生まれています。
更に、プレゼン作文発表会は、今後プレゼン作品発表会として拡張させていく展望があります。その作品には、今の小学校の教科で言えば、音楽、図工、家庭、体育などの作品が含まれます。また、理科的な実験や社会的な調査のようなものも含まれます。
それらの作文や作品の発表の中で、無数の小さな創造が生まれ、それが将来の大きな創造の裾野になります。この創造の場作りが、創造教育の受け皿となります。
未来の社会では価値あるものは、再現から創造に移行していきます。
人間の労働が生産の中心であった時代には、要求される仕事をこなすための再現能力を育てることが教育の目標でした。基礎学力と基礎技術は、仕事を再現するために必要だったのです。
しかし、機械化とIT化が進む現代では、再現能力は次第に機械やプログラムソフトに置き換えられていきます。これからの時代に必要な能力は、再現能力よりもむしろ創造能力です。再現能力は、創造能力の基盤として必要なものになっていくのです。
■本質教育
創造能力の基礎である再現能力を、本質的な学力を育てる教育として進めていくものが本質教育です。
現代の教育で問題になっているものは、ひとつには重箱の隅をつつくような末期化した受験教育です。しかし、それよりも大きな問題となっているものは、教育格差の中で本質的な学力を育てられていない子供たちが生まれていることです。その中には、これから増える外国からの移民の子供たちも含まれます。
すべての子供に確実な学力をつけるためには、今の学校教育はシステム的に無理があります。明治時代に作られた学校教育は、等質な生徒集団を一律の教科書で一斉に指導する教育システムでした。それは、誰もが等しく貧しかった時代に日本を工業的に離陸させるためのキャッチアップ経済の教育としては有効な教育でした。
しかし、現代は、多様な家庭環境の生徒が、多様な文化環境の中で成長しています。多様な背景を持つ生徒を学校という場でまとめて一斉に指導するというシステムに無理が生まれてきているのです。
■寺子屋オンエア
一斉教育の無理を解消する対策は、少人数学級、習熟度別教育、学力を補完するための塾通い、各人の学力に応じた学校への受験、ICT教育などで行われています。
しかし、多様な生徒の学力を本質的に育てるためには、先生が一斉に教えるという発想をやめ、各人が自学自習で自ら学ぶという教育に転換する必要があります。
その教育が、家庭で複数の生徒が自学自習によって学ぶ寺子屋オンエア教育です。
自学自習で、どのように一定の学力を担保するかというと、その方法が、自習検定や暗唱検定です。特に、暗唱検定のように進度がまちまちでそれに応じて評価もまちまちであるような学習は、従来の一斉指導の場で行おうとすればコストが大きくなりすぎます。しかし、家庭での学習だけで行うには家庭の負担が大きすぎます。寺子屋オンエアのような自学自習の場でなければ成立させにくい学習なのです。そして、この暗唱教育が創造教育の一つの柱となります。
寺子屋オンエア教育は、普及するにつれて、地域性も加味したものになります。近い地域の子供たちが、同じオンエア教室で学習を行うようになるのです。すると、日常的な教育は、場所の制約の少ないオンエアで行い、非日常的な遠足や合宿や発表会や文化祭などのイベントは、リアルな場で行うようになります。
これからのオンエア教育は、家庭と地域を土台としたものになり、家族や地域の大人や子供という、より深く人間の関与したものになっていくのです。
また、寺子屋オンエア教育は、場所の制約がないという点を生かして、海外の日本人の子弟教育にも活用できます。更に、日本の教育を学びたいという海外の外国人の生徒も、オンエア留学教育として受け入れることができます。
これからのオンエア教育は、このような形で海外にも輸出できる教育になるのです。
■■新産業の創出
新しい産業の創出については、二つの方向が考えられます。第一は、形ある物の消費と生産が中心であった経済から、形のない文化の消費と生産が中心になる経済への移行です。第二は、生産を担う少数の企業と消費を担う多数の大衆という関係の経済から、個人が生産者と消費者を兼ねる全員参加型の経済への移行です。
■技道(わざみち)文化
現代の先進国では、物は、新しい消費を生み出すというよりも、むしろ買い替え需要として、消費と生産を循環させるものになっています。
しかも、少子化の流れの中で、消費が縮小するに応じて生産も縮小していきます。すると、生産する側は、縮小した生産に対応するコストの削減のために機械化を推し進め、それが雇用を縮小させ、その結果消費の原資が更に縮小します。
その縮小した物の経済を脱し、物の普及した先進国で新しい消費を生み出すものが文化の経済です。
しかし、その文化は、これまでのマス文化のように限られた生産者と大多数の消費者によって成り立つものではありません。これまでの文化は、文化を提供する側はひとにぎりのプロで、その文化を需要する側はただの受け手として消費するだけの多数のアマチュアでした。それは、工業時代の文化とも言えるものです。
これからの文化は、主に技と道の文化になります。技と道の文化とは、参加者が文化の受け手としてだけ参加するのではなく、自らもその文化を学び、自己を向上させ、やがて自身もその文化を提供する側に回るという文化です。
技と道文化においては、消費は単なる消費ではなく、自分がその文化を身につけるための教育投資ともなります。
工業時代には、例えば、自動車という物を買うために300万円を費やしたとすれば、その自動車を4人家族で7年間使った場合、1ヶ月あたりに換算した1人あたりの支出は約9000円になります。
その自動車は、移動の利便性を獲得するための投資とも考えられますが、その利便性が生活の中にビルトインされた状態になり、その利便性があることを前提にした日常生活が営まれるようになると、支出は投資というよりも単なる必要経費になっていきます。
しかし、同じ9000円を出して、自分が何か新しい技能を身につけようと思えば、第一にその技能を身につける過程自体が喜びになります。第二に、その技能が活用できるほどにはならないという可能性があったとしても、支出は単なる支出ではなく、自分の技能を蓄積するための投資となります。
これからの先進国で拡大する可能性がある消費は、このような技と道の文化の消費です。その消費が拡大するためには、従来の限られた古典的な技と道ではなく、新しい多様な技と道を創造していく必要があります。
現在の技と道の文化は、例えばスポーツで言えば、野球、サッカー、テニス、ゴルフなどのように限られたメジャーなものが主流になっています。スポーツの祭典と言われるオリンピックでも、約30競技300種目しかありません。この限られた数のスポーツは、工業時代のスポーツ文化の結果です。70億人になろうとする地球の人口にとっては、スポーツの種類はもっと飛躍的に多様になる必要があるのです。
■家元産業
技道(わざみち)文化には、文化を作り出す面と、教育を作り出す面があります。例えば、茶の湯の文化には、その文化だけでなく、その文化を継承するための教育システムが伴っています。
従来の大量生産大量消費社会では、少数の生産者と多数の消費者をつなぐものは、流通や広告や営業という別の生産者でした。
しかし、多様な技道文化の社会では、生産する側と消費する側は、教育で結びついています。
文化自体が消費を生み出すためには、その文化は多数の消費に堪えるほど高度なものである必要があります。絵は誰でもかけますが、ピカソの絵のような金額で売れる絵は、誰でもかけるわけではありません。文化産業は、文化そのものを消費の対象としている限り、パトロン文化かマス文化にならざるを得ません。
しかし、技道文化は、文化そのものの価値はまだ未成熟だったとしても、教育という面においては、学びたいという人がいれば経済的に成立します。
経済的に成り立つ文化の中に、やがて天才が現れると、その文化は技の文化から道の文化へと進化します。文化自体が道の文化として価値を生み出すようになる以前の文化の生産と消費をつなぐ教育が家元産業の基盤です。
■森林プロジェクト
森林プロジェクトは、自分で作文教室を開き作文教育を行いたい人のための講師資格講座プロジェクトです。
ここに、寺子屋オンエア指導を組み合わせると、インターネットを利用して子供たちに多様な教育を行うことができます。これが、寺子屋オンエア教室のオンエア特別講座です。
このオンエア特別講座は、子供向けだけでなく大人向けにも多様な文化の講座として提供していくことができます。
従来のカルチャーセンターのように場所に制約されたものは、受講者を集めやすいメジャーな文化の提供が中心でした。しかし、インターネットのようにロングテールをカバーできるものは、各人の好みに応じたマイナーな文化も提供できます。
このオンエア特別講座を利用して、各人が自分の興味のある分野を技道文化として作り出し、自身がその家元となっていくというのが、未来の文化産業の姿です。オンエア特別講座は、技道文化の言わばインキュベータともなるのです。
■貯金の必要のない社会
これまでの社会では、ほとんどの人は、消費者でありかつどこかの企業の被雇用者でした。定年になり雇用がなくなると、貯金で消費を賄わなければなりません。
それは生産者の場合でも同じです。生産に従事できる年齢でなくなると、やはり消費はそれまでに蓄積した貯金で賄わなければなりませんでした。
今後、現在のような年金制度は行き詰まると言われています。また、少子化の社会では子供もあてにすることはできません。そのため、多くの人が貯金という社会にお金が回らない形の仕組みに頼らざるを得ません。しかし、今後考えられるインフレやデノミの前では、その貯金自体も頼りにならなくなります。
江戸っ子は、宵越しの銭を持たない社会で暮らすことができました。それは、社会全体に助け合いの仕組みがあったからです。
現代の社会では、まだその助け合いの仕組はできていません。しかし、その助け合いの仕組みを部分的に先取りするものが、家元システムです。
新しい技道文化を創始した家元は、文化を作るとともに、教育を行います。その文化と教育の継承者となる人が家元を支える仕組みが新しい私的年金制度です。
使うあてのない貯金が、老後の不安のために退蔵されている社会というのは、きわめて効率の悪い社会です(※)。家元年金制度の中では、お金はほとんどが自分自身への投資と、新しい文化の創造と、後継者の育成のために使われます。使われていないお金がないという点で、宵越しの銭が必要でない社会は、効率的に無駄のない未来の社会なのです。
■未来の日本のための実行
日本も世界も、今大きく変わろうとしています。それは、現在の社会が、経済的にも文化的にも自然環境的にも行き詰まりを見せているからです。
しかし、まだ新しい社会の方向は、空想の上でしか語られていないように見えます。
新しい未来の展望を、空想ではなく現実的な行動として実行していくことがこれから必要になってくるのだと思います。
※追記
ケインズ政策は、貯金を公共政策によって消費や投資に振り向けます。しかし、それが有効であるのは、消費が個性化していない分野であり、生産が雇用を生み出すことのできる分野です。だから、現在のケインズ政策は、有効性を失っているのです。
この記事に関するコメント
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長い記事で恐縮ですが、言葉の森の今後の展望を全部盛り込みました。大盛りです。
あとは実行あるのみですが、この実行が面倒なんだよなあ(笑)。仕事苦手だし。
少しずつ変わっていく社会を見すえて、先取りで考えている中根先生に再敬服しました。
ぜひ一緒に取り組んでいきたいです。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
とうこさん、ありがとうございます。
この間、山本印店に行ったら、「いつも八年先を見ている。もっと今を見て自分んのことを考えないと」と言われました。八年という数字がどこから出てきたんだか。
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