なぜ勉強がつまらなくて遊びが面白いかというと、勉強には答えという枠があるのに対して、遊びにはそういう枠がないからです。自由に自分の可能性を広げることができるから、遊びによって工夫する力、創造する力がつくのです。
ところが、現在の遊びの中には、創造性に結びつかない遊びもあります。そのひとつがゲーム、もうひとつがソーシャル・コミュニケーションです。
もちろん、こういう遊びも息抜きとしてはあっていいのです。しかし、本当の自由な遊びの持つ充実感は、こういう遊びからは得られません。
そこで、言葉の森が今考えているのは、ネットワークを使った自由な遊びの創造です。これは、オンエア特別講座という形で今企画しているところです。
もうひとつは、生活に役立つプログラミング教育です。
現在行われているプログラミング教育の中には、単なるお絵かきごっこやレゴ遊びのような決められた枠の中でプログラミングの雰囲気を味わうようなものが多いのではないかと思います。
プログラミングが面白いのは、そこに無限の工夫の可能性があり、その可能性を広げていくと、生活に役立つものができるというところにあります。
現在のプログラミング教育について、清水亮さんが、とても参考になる記事を書いていました。
「プログラミング教育の落とし穴」
https://wirelesswire.jp/2015/10/47351/
ネットワークは、子供の遊びの時間を創造性のないゲームやコミュニケーションに置き換えてしまう面がありましたが、うまく活用すれば新しい遊びの可能性を生み出すものとなっているのです。
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昔の小学生は、学校から帰ると、カバンを家の中に放り投げてすぐに近くの原っぱに行き、夕飯の時間までたっぷり遊んでいました。
日曜日などは、今日は何をして遊ぶかと考えると嬉しくてたまらなくなり、自然に早起きをしていました。
今の子が、日曜日は平日の勉強の疲れを取るために、朝ご飯ぎりぎりまでゆっくり寝ているのとは大違いです。
昔の子供たちは、この遊びの中で創造性を育て、生きることの楽しさを味わう力を育てていたのだと思います。
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作文がなかなか書き出せない、書くことがない、書いてもすぐ止まってしまう、という子がいます。本人も悩んでいますが、近くで見ている親はいらいらしてきます。
作文がなかなか書けない原因のひとつは、実は作文にあるのではなく、読書にあることが多いのです。
その反対に、いつも楽に書き出す子がいます。思いついたことを苦もなく書いて、しかも書くことを楽しんでいるような書き方をする子です。
そういう子は、本をよく読んでいる子です。
読書と作文がなぜ結びつくかというと、それは比喩的に考えれば、次のように言えると思います。
運動をするには、エネルギーが必要です。そのエネルギーは、食べ物から来ます。「腹が減っては戦はできぬ」という言葉のように、エネルギーとして入るものがなければ、力として出てくるべきものも出てこないのです。
しかも、食べ物が、一度に1週間分のものを食べるわけにいかないように、読書も、あるときまとめて読んだから、あとはしばらく読まなくていいというわけにはいきません。
毎日食べるように、毎日読む必要があるのです。
書く力を本格的につけるためには、まず読むことです。読書の原則は毎日です。週に何日か読むという読み方ではなく、少ないページ数でもかまわないので、何しろ毎日読んでいくことです。毎日読んでいれば、必ず読む力がつき読書が好きになります。
そして、小中学生の場合は、家庭で本を読む習慣がある子と、がfっ子雨の成績がよい子との間には、高い相関があるのです。
もちろん、読書は、勉強ができるようになったり、作文が得意になったりするためだけに読むものではありません。読書は、まず楽しいから読むものです。
しかし、その楽しい読書の結果として、勉強もできるようになるし、作文も書けるようになるし、自分のものの見方も豊かになっていくのです。
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作文を書く力をつけるためにはまず読書、と言っても、それでは時間がかかりすぎます。
そこで、即効的な対処法は、お母さんが子供と一緒に書く構成図です。これで、どの子も楽に書けるようになります。
もっと簡単な対処法は、お母さんがアドリブで文章を口頭で言ってあげることです。そういう呼び水があると、途中から子供は自然にその続きを書くようになります。
しかし、根本的な対策は、やはり読書なのです。
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中学生や高校生にテスト結果を聞いたとき、「大体できました」という生徒は、あまり成績がよくありません。「こことここを間違えたんです」という生徒は、大体成績がいいのです。
「できた」という生徒はあまりできていなくて、「できなかった」という生徒はできているという逆転が起きるのは、テスト問題に対する姿勢が違うからです。
テストというのは、勉強の結果ではなく、次の勉強の出発点です。
テストが返されたとき、どういう傾向のテストで、自分がどう間違えたのかを知ることが、次の勉強の土台になります。
受験用の過去問を、受験勉強を開始する前(大学入試なら高2の終わりか高3の始め)にやっておくというのも、こういう理由からです
時間をかけているわりに成績が伸びない生徒は,テストを勉強の結果としてだけしか考えていません。
だから、成績がたまたまよかったり悪かったりしても、それは、当たり外れのレベルの話になってしまうのです。
定期テストの対策は、まず自分で作戦を立てることから始まります。
前回のテスト結果を分析し、今回の勉強の方向を決め(つまり、教材と範囲と回数を決め)、スケジュールを考えてから勉強を始めるのです。
ところが、こういう自分で立てた作戦を持たずに、ただ塾に行って、言われたことをやるという生徒が意外と多いのです。
人間の得手不得手は、人それぞれに違います。みんなと同じ一律の勉強をしていたのでは、時間がかかるだけです。
自分の勉強の作戦を立てられるのは、自分しかいないのだということをしっかり自覚することが大事なのです。
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言葉の森の暗唱長文は、これまでは現代文でその学年の生徒が作文を書くのに役立つようなものを載せていました。
これはこれで大事な役割があったのですが、せっかく暗唱までするのですから、今後は生涯覚えていて時どき口ずさめるようなものを暗唱長文にしたいと思いました。
そうすれば、その暗唱はやがて親子三代で楽しめるようなものになります。
聞くところによると、群馬県には上毛かるたというものがあるそうで、これは既に家族全員で楽しめる文化になっているようです。
作文に使えるような文章の暗唱が教育的暗唱で、親子三代で楽しめるような文章の暗唱が文化的暗唱と言ってもよいと思います。
教育的暗唱の長文の方は、その学年の作文の模範例文として別途読めるようにしていく予定です
さて、文化的暗唱と言っても、人それぞれに好みがありますから、選択の範囲はかなり広がります。
そこで、いくつかの基準を設けて、新しい暗唱長文を選ぶことにしました。
第一は、親子三代ですから、百年の風雪に耐えるような文章にしたいということです。
第二は、既にある程度知られているような親しみの持てるものにしたいということです
第三は、日本語の文章の暗唱ですから、できるだけ日本文化につながるものにしたいということです。
百年の風雪に耐えるとなると、やはりできてから百年以上経っているということが目安になります。
明治時代の始まりが、今から約150年前でした
明治維新は、現代日本のひとつの大きな原点になっています。
この明治時代の文化の方向が、その後の日本の大きな方向を決定づけました。
例えば、その一つが和魂洋才です。西欧の優れた科学技術は積極的に吸収するが、日本の文化の根は守るという方向が日本人の共通の意識となったのが明治時代でした。
しかし同時に、それにもかかわらず、明治以降の日本の文化は次第に西欧文化に侵食されていきました。
そこで、明治の初期をひとつの基準として、それ以前の古代・中世・近世・近代の文章を中心に暗唱長文を選定することにしました。
参考までに近代のよく知られている人物の生年です。
これらの人々は、江戸時代の成熟した日本文化を背景にしつつ、明治時代の急速な西欧化との葛藤の中で自身の精神形成をしていったのです。
勝海舟 1823~1899 文政
西郷隆盛 1828~1877 文政
吉田松陰 1830~1859 文政
福沢諭吉 1835~1901 天保
内村鑑三 1861~1930 万延
森鴎外 1862~1922 文久
新渡戸稲造 1862~1933 文久
夏目漱石 1867~1916 慶應
幸田露伴 1867~1947 慶應
鈴木大拙 1870~1966 明治3
島崎藤村 1872~1943 明治5
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海外で子育てをしなければならない人は、子供の日本語教育の問題で悩まれることが多いと思います。
これまで帰国子女の保護者の相談を受けていてよく感じるのは、日本語学校のような教育機関だけでは日本語の力をつかないということです。これが、同じ勉強のように見える算数数学、英語、理科、社会などと違うところです。
海外で子育てをしながら、子供に現地の言葉も日本語もしっかり身につけさせている家庭に共通するのは、家庭で日本語を使う機会を意識的に増やしていることでした。
中には、日本語学校が近くにないので、家庭だけで日本語教育をやらざるを得なかったという人もいました。しかし、その方がよい結果を生んでいたようなのです。
家庭での日本語教育の方法は、youtubeで日本語のアニメを見る、近所の子供たちを読んで日本語のゲームをする、家庭の中では両親と日本語で話すなどでした。つまり、勉強として日本語を身につけさせるのではなく、遊びや日常生活の中で自然に身につけさせようとする工夫でした。
このことは、帰国子女に限らず、日本で日本語で生活している日本人の子供たちでも共通です。例えば、親が子供に話しかけるときは、できるだけ断片的な言葉ではなく、ひとつの文がある程度の長さを持っているような言葉で話しかけることです。国語力は、こういう日常生活の中で育っていくのです。
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小6の部で、森リン点89点で第1位になった作品です。
森リン点は、主に語彙の多様性を評価している点数です。
多様な語彙が使われている作文は、内容が充実していて密度が濃いものになっているという相関関係があります。
その多様な語彙の土台は、読書と対話です。
作文の勉強をするためには、たくさんの本を読み、お父さんやお母さんとたくさん話をする必要があるのです。
文化というものは
らうみ
僕は、”文化”というテーマについて似たような話がある。僕はアニメのキャラクターの置物を集めるのに没頭している。例えば、黒子のバスケのストラップや暗殺教室のフィギュアなどだ。イオンモールに行くと必ず一個は買うので、僕の引き出しの中は、フィギュアが散乱していてまるで一つの世界がそこにあるかのようだ。母は、
「そんな細々としたものは必要ないでしょ。」
と顔をしかめるが、僕はそうとは思わない。引き出しの中の世界から、フィギュアたちをこちらの世界へ招待し、ずっと眺めていると自然と笑みがこぼれる。たまには、あちら側の世界に招待してもらい、一緒に遊びたいものだが……。
最近は、「生きるために必要ない」「買う意味が無い」という理由から物を必要最小限しか買わない若者が急増している。でも、僕は物理的に必要でもないものを買う事は意味のないことではなく、むしろ必要だと思う。僕は、フィギュアやストラップなどにも人間と同じように、個々の命があると思う。人間とは違い、表情が変わることもなく、動きもしない。でも、フィギュアたちなりに生きていて僕の、生きるために必要である力を与えてくれていると僕は考えている。毎日の生活も、役に立つことばかりだったら、みんな疲れてしまうだろう。それがないと、生きていけないという訳ではないが、ある方が元気に前向きに生きていけるだろう。
母は、ボールペンを何本も何本もコレクションするのが好きだそうだ。買うボールペンは主に旅行へ行った時に買ってくる自分へのお土産だそうだ。それらを見てみるととても可愛らしいものばかりだ。ボールペンは一つで間がいく、何故多くのボールペンをコレクションしているのだろう。と疑問に思った僕は、疑問をそのまま質問した。母の話によると、母がボールペンを集め始めたのは十年前くらいで、ディズニーランドでかわいいミニーのボールペンを買ったことがきっかけだそうだ。今では、ボールペンの数は数十本以上となっている。母は、必要なくても、使わなくてもそこに旅行という思い出を集めているのよと言わんばかりに笑っていた。生活の役には多分、立たないがそのボールペンコレクションがあるという情緒のおかげで母はいつもニコニコ笑っていられるのかもしれない。
文化とは、人間にとって生きていく上で必要ではないが、あるからこそ素敵な笑顔がたくさん生まれるのだと思う。「角を矯めて牛を殺す」ということわざのように、役に立たないから、人生に必要ないからといって切り捨ててしまうと、大切なものを見失ってしまう。生きるためには、役に立たない無駄にみえるものも必要なのである。
「森リンの丘」より
https://www.mori7.net/oka/moririn_seisyo.php
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●オンエア方式で理科実験や工作の講座を行う企画
子供の教育で大事なことは、個性を伸ばし創造性を育てることです。その創造性を支えるために、学力というものが必要になります。
しかし、今はこれが逆転していて、学力をつけることだけが目的のようになっています。その学力も、真の意味での学力とはずれている、受験に合格するための、つまり競争に勝つための学力です。そのため、引っかかりやすい問題をうまくくぐりぬけるようなところに必要以上の時間を取って学習し、その結果、誰もが同じような価値観を持った、個性のあまり際立たない、そして本当の自分が何をしたいのかがよくわからない子供たちが生まれているのです。
こういう教育が有効な時代は、工業化のために均質で優秀な労働力が必要とされていた時代でした。今、均質で優秀でしかも従順な労働力は、機械や人工知能に取って代わられつつあります。
これから必要になるのは、機械や人工知能に取って代わられない人間の能力です。それが、個性であり、創造性であり、何もないところに問題を発見し、誰もまだ知らない世界に自分の好きなものを作り出していく能力です。その能力を発揮するためにこそ、学力をつける必要があるのです。
では、子供の個性を発見し、創造性を育てるためには何が必要なのでしょうか。それは、その子がさまざまなことに挑戦する機会を、周りの大人が数多く作ってあげることです。
人間は、自分が好きなものにぶつかれば自然に熱中します。この熱中によって、個性が創造性へと発展していきます。
誰もが同じような勉強をして、その輪切りの評価の中で他人より1点でも上に行くことが要求される没個性の教育ではなく、基本的な学力をつけつつも、勉強以外の多様な経験をする自由な教育が必要になっているのです。
言葉の森が、今後の企画として力を入れていくものは、まず基本的な学力をつける教育としての寺子屋オンエア教育、次に、人間性と創造性を伸ばす教育としてのオンエア特別講座です。
このオンエア特別講座の内容としては、理科、社会、図工、音楽、体育などの教科に関連する、より実践的な講座の企画が考えられます。
オンエア方式で、7、8人の小グループが、テレビ会議での先生の監督のものに、自宅でいろいろな実験や実習をするという企画です。
子供たちに必要なのは、自分の興味や関心のある分野で、頭だけでなく手や足を動かし、それを友達との交流の中で行っていくことです。
当面は、理科実験や工作のような取り組みやすいものから始めていきたいと思っています。
●子供の教育講座から大人の文化講座へ
オンエア特別講座は、単に子供たち向けの教育だけに留まりません。子供向けのオンエア特別講座のある分野を受け持つ講師は、やはりその分野が好きな大人でしょう。例えば、理科実験の好きな大人が理科実験の講座を行い、ロボットプログラミングの好きな大人がロボットプログラミングの講座を行います。
すると、何度もその講座を企画しているうちに、その人はやがてその分野の講座のプロのようになっていきます。すると、やがて子供向けだけではなく、より高度な大人向けの講座も開きたくなるでしょう。このように子供向けの教育講座の中には、大人向けの文化講座に発展していくものも出てくるのです。
従来の教育や文化の分野は、既に大きな枠が完成されています。
受験のための教育にしても、お茶やお花の文化にしても、野球やサッカーのスポーツにしても、和洋中の料理にしても、どれも長い歴史の中で完成度の高いものになっているので、需要よりも供給が上回るようになっています。
買いたい人より売りたい人の方が多い産業分野が日本中に広がっているということが、今のデフレの根本的な要因です。
ところが、教える人と教わる人が、自分の好みをもとにして始めた教育文化講座の多くは未完成で、これからいろいろな試行錯誤を経て発展していくものです。そこに、経済の乗数効果が働きます。
メジャーとは言えない狭い好みの分野で教えたい人と教わりたい人が出会えるというのが、ロングテールを持つインターネットの長所です。
インターネットの黎明期には、さまざまなベンチャー企業が生まれました。そのベンチャー企業を担った人の多くは、財産も地位もなく夢だけがある若者でした。
その文化の小さな爆発が、これからまだ誰もそんな世界があるとは知らないさまざまな未知の分野で起こってくるのです。
そういう未来の創造文化産業のきっかけとしても、オンエア特別講座を企画していきたいと思っています。
(写真は、近所の公園に咲いていたハナミズキの実)
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オンエア特別講座は、勉強の企画でもあるのですが、たぶん楽しい遊びの雰囲気があると思います。
そこで、遊びのfacebookグループなどで、この企画を練っていきたいと思っています。
たぶん、退屈な勉強をいやいややるよりも、こういう遊びに熱中した方が、子供たちの頭はずっとよくなると思います。
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●毎週の作文で読む力と書く力がつく
小学校低学年のころは、何でもたやすく吸収できます。しかし、この時期に知識的なことを吸収しすぎると、考える力の成長がかえって遅れてしまいます。
低学年のころにやってはいけない勉強の第一は、長時間勉強させることです。長時間勉強すると、時間が来るまで机に向かっていればよいという姿勢になるので、集中力がなくなります。
やってはいけない勉強の第二は、英語教育のやりすぎです。小学3年生までは日本語脳が形成される時期なので、この時期に外国語の勉強をさせると、日本語の力が正しく形成されなくなります。特に避けたいのがCDなどの音声を繰り返し聞くことです。
やってはいけない勉強の第三は、算数の難問に取り組ませることです。低学年のころの難問は、本当の難問ではなく、文章が読み取りにくかったり条件が複雑だったりするだけの難問ですから、考える力がつかないばかりか、かえって勉強が嫌いになることもあります。
では、やった方がいい勉強は何かというと、それは、日本語の読書と音読と親子の対話をもとにした作文です。毎日の読書・音読・対話と、毎週の作文の組み合わせで、日本語力と思考力の基礎を作っておくのです。
●毎週の電話でたのしく続ける通信教育
小学校低学年のころは、勉強の土台ができる時期です。この時期にすべての学力の基礎となる読む力と書く力をつけておくことが大事です。そのためには、毎日読む習慣を作ること、毎週書く楽しさを味わう時間を作ることです。
読む習慣をつけるためには、第一に読み聞かせを続けることです。幼児のころに行っていた読み聞かせは、子供が喜ぶ限り、小学校に上がっても続けておくことです。第二は、お母さんお父さんが日常の生活の中で楽しく本を読む姿勢を見せることです。第三は、読書の時間と競合することになるテレビやゲームの時間を、禁止するのではなくコントロールすることです。
書く楽しさを味わうためには、第一に毎週作文を書く時間を作ることです。第二は、書かれた作文は直すのではなくいつもいいところを見て褒めることです。第三に、作文の題材作りを助けるために家庭の中で簡単な行事や遊びを企画することです。
低学年のころに書く楽しさを味わった子は、学年が上がり作文の課題が難しくなっても、書く習慣をずっと継続することができます。
●小1から始められる親子作文コース
幼児から小学2年生ごろにかけては、まだ書くことに慣れてはいないので、ひとりで作文の勉強を始めるには無理があることがあります。作文を書いても、表記のミスが多かったり、わずか1、2行しか書けなかったりする場合です。
しかし、作文の勉強はできるだけ早く始めた方が習慣になります。幼児がひとりでもできる国語のプリントのような簡単な学習をするのではなく、作文を書くという難しい勉強に直接取り組んだ方がいいのです。そこで、言葉の森が企画したものが親子作文コースです。
親子作文コースでは、先生からの電話のあと、子供と親(主にお母さん)でその日に書くことを話し合います。話をしながら、親が構成図を書いていきます。10分から15分で構成図を書き終えたら、子供はその作文の絵をかき、親はその作文の文章を書きます。そこに、他の家族(お父さんやその子の兄弟)が、関連する写真や絵を貼ったり、コメントを書いたりします。このようにして、家族全体の企画として、毎週子供の作文を書くのです。
子供は、親の行動を見て育つので、親が作文を書いている姿を見せれば、自分でもいつか作文を書きたいと思うようになります。そして、親の書いた作文を見ているうちに、自然の表記の仕方も覚えます。
また、親は、子供用の作文を書くことで、子供に教える作文指導のコツを身につけます。それが将来、森林プロジェクトなどの作文講師資格を取るときに役に立ちます。
このようにして、作文がまだ書けない子でも、作文を書く準備としての勉強が楽しくできるのです。
●子供時代の作文は将来の宝物
子供時代の作文は、子供のころでなければ書けません。小中高と作文の勉強を続けていくと、自分の成長のあとが記録として残ります。それは、単なる勉強の記録ではなく、親子の触れ合いも含めたその子の人生の記録です。子供の成長の記録をビデオや写真で残しておくように、内面の成長の記録は、作文として残っていくのです。
また、今の子は、手紙を書く機会がほとんどありません。作文を書いていると、その作文の中身をそのまま田舎のおじいちゃんやおばあちゃんへの手紙として書いていくことができます。作文を書くことが現実のコミュニケーションとして役立つことを知れば、子供は更に意欲的に作文に取り組むようになります。
また、子供の作文の題材選びや、感想文の似た例の相談などを家族ですると、親子の知的な対話の習慣ができます。この親子の対話が、子供の語彙力や思考力や人間関係力を育てていきます。
このような作文の勉強を楽しく続けるために最も大事なことが、直したり注意したりせず、いつもいいところだけを見て明るく褒めてあげることです。そして、作文は褒めるだけにして、その一方で読書と音読の読む力をつける勉強を気長に続けていくのです。
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作文は、小学1年生になったばかりではまだと難しいところがあるかもしれませんが、夏が過ぎて秋になり、今ごろの時期になると、どの子も大体普通に書けるようになります。
しかし、おかしいところがあってもすぐに直さないということが大事です。
作文嫌いになる原因は、大人が直しすぎることにあるからです。
低学年の子は、「親の後ろ姿を見て育つ」というやり方で勉強を教える必要があります。
子供の自主性を育てるためには、なるべく直接教えないように教えるのがいいのです。
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