中学生の普段の勉強の目標は、定期テストになっていると思います。
しかし、定期テストは、それほど難しい問題が出るわけではなく、それまでの授業で習ったことがほとんどです。
だから、真面目に勉強していて、早めに(と言っても10日前か2週間前ぐらいからを基準にして)取り組めば誰でもよい成績が取れます。
ところが、この定期テストの積み重ねの延長に入試があるわけではありません。入試のレベルは、定期テストとはかなり違うのです。
定期テストは、真面目に勉強していたかどうかを見るためのテストですが、入試は受験生に差をつけるためのテストです。だから、入試の勉強は、定期テストの勉強とは別の位置づけで取り組む必要があります。
中でも、最も差があるのは数学です。数学は、定期テストでも難問が出されることがありますが、入試の場合はもともと差をつけることが目的ですから、もっと多くの難問が出ます。
他の教科は、勉強した知識があれば解けるようになっていますが、数学は知識があっても解けません。それは、いくつかの知識を組み合わせて問題が作られているからです。
数学は、解き方を知らないと解けない問題があるのです。しかも、大問の場合は点数の差も大きくなります。
だから、数学の勉強は、学校の定期テストレベルの問題とは別に、入試レベルにも対応した問題集を独自に勉強しておく必要があります。もちろん、その前提になるのは定期テストレベルの問題ですが、そこに留まっていては入試には対応できないのです。
数学が差のつく勉強だとすると、逆に、あまり差のつかない勉強が国語です。国語で差のつく分野は、文法や古文のような知識が必要な分野です。だから、文法や古文の点数が悪いときは、ただ勉強をしていないだけと言っていいと思います。
国語は、文法や古文以外は勉強をしてもしなくてもある程度の点数は取れます。そのため、国語の勉強は、漢字の勉強以外はしないし、しようがないと思っている人が多いのです。
ところが、国語力は実は頭のよさのことなのです。ものごとを理解したり判断したり考察したりする力が国語力の本質です。ですから、それは日常生活でも、社会に出てからも、又は他の勉強の土台としても、ある意味で最も大事なものなのです。
したがって、国語の勉強はテストのためではなく、日常的に難しい文章を読み自分で考えて書くという勉強としてやっていく必要があります。
ただし、この本当の国語力と、テストの国語の成績は、一致しないことがよくあります。それは、テストの国語には、やはり解き方のコツというものがあるからです。しかし、国語力のある生徒は、そのコツさえ理解すれば国語の成績はすぐに上がるのです。
英語は、現在ヒアリングが重視されるようになっています。しかし、ヒアリングで出てくる単語はそれほど難しいものではありません。聞き慣れれば、理解できるようになります。
ヒアリングのコツは、国語の放送問題でも同じですが、必ずメモをしながら聞くことです。特に、男性は耳から聞いただけのものはすぐに忘れてしまうことが多いので、要点をメモしながら聞くといいのです。
ところで、入試で差のつくところは、ヒアリングではなく長文の読解です。普段の定期テストの英語では、あまり長い文章が出ることはありません。文法や単語を中心とした短い文が多いので、知識があれば解けるようになっています。
また、文の語順の問題は、知識ではなく英語の文の流れに対する慣れが必要ですから、教科書を音読暗唱して英文の感覚に慣れておけば感覚的に解けるようになります。
英語の長文は、普段の勉強ではあまり取り組む機会がありません。しかし、入試には必ず出てくるものですから、普段から長文を読む練習をしておくことが大事です。そのための教材として最もよいのは、やはり入試問題です。入試問題が、最もよい教材になるというのは、国語の場合も同じです。
中学生は、定期テストの勉強は一応計画的にやっておき、その一方で、数学の難問題集(ただし自分にとっての)、国語の入試問題集の読み(解くのではなく)、英語の入試問題の長文の読み(これも解くのではなく)、などに力を入れていくといいのです。
この中学生の勉強は、そのまま高校生の勉強にもあてはまります。
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子供のころ、近所の原っぱで泥団子を作って遊びました。だんだん、粘土質のあるいい土のあるところがわかるようになり、そこで硬い団子を作って遊んでいました。
そのうちに、その硬い団子にロウ石の白い粉をつけたらどうなるだろうと思い、団子の周りに塗ってみると、つやつや光る団子になりました。
そのうちまた、この白い粉に炭を混ぜたらどうなるだろうと思い、ロウ石に炭を混ぜて塗ると、銀色に光る団子になりました。
そのうちにまた、この泥団子の上にまた泥を塗るとどうなるかと思い、何重にもなった硬い銀色に光る泥団子を作りました。
遊びの面白さとは、このように次々と創意工夫が生まれてくることです。
これに対して、小学生のころの勉強は、本当につまらないものでした。
答えの既にある話を聞いているだけですから、退屈で退屈でたまらず、教科書のほとんどすべてのページに落書きを書いて遊んでいました。
勉強というものは、小中学生のころは,大部分が枠の決められた世界です。
これが、高校生や大学生になれば、やり方によっては創意工夫が生かせるのだと思いますが、小中学生の義務教育には、まずそういうことはありません。(灘中の橋本先生の「銀の匙」の授業などはその数少ない例だと思いますが)
だからこそ、義務教育は教育の基礎として大事なのだとも言えますが、子供にとってはそのつまらなさはやはりできるだけ避けたいものです。
だから、学校の勉強の枠の決められた時間を取り戻すかのように、放課後は夢中になって遊んだのです。
遊びがなぜ楽しいかというと、自分の自由意志でいくらでも工夫ができるからです。
コンピュータ・プログラミングの初期の世界は、こういう遊びで溢れていました。使える材料が少なく必要な知識が限られていたので、誰でも遊びに参加でき、そこで新しい発明や発見をして楽しむことができたのです。
ところが、その後コンピュータが発達すると、プログラミングの世界は、次第に勉強の世界になっていきました。
今の若い人が、昔の若い人のようにはコンピュータ・プログラミングに燃えないのは、遊びの要素よりも勉強の要素の方が多くなって来たからだと思います。
ところで、これからの時代に必要なのは、すべての人が自分の個性と創造性を発揮していくことです。それが、個人にとっても社会全体にとっても、理想となる生き方です。
すると、これからの教育は、答えのある勉強を教えるだけではなく、創造性を育てる遊びを教えるようになっていくと思います。
今の教育は、つまらない勉強にカラフルな彩りとおいしそうな味付けをして、何とか子供にたくさん食べさせようとしていますが、本当はそういうところにはもうこれ以上力を入れなくてもいいのです。
なぜなら、人間には、誰でももともと知的な向上心があるのですから、基本的なところだけをきちんと押さえておけば、あとは必要に応じて学んでいくのです。
大事なことは、子供たちの創意工夫ができる遊びを考案して、そこで子供たちが自然に工夫することを学ぶ機会を作ることです。
これからの教育は、勉強の教育と同じぐらい、自由な遊びの教育が必要になってくるのだと思います。
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昔からある鬼ごっこのような単純な遊びにも「イマドキルール」ができていて面白いと思うことがあります。今、環境自体が昔とは変わりつつありますが、その中で、子供は自由な発想で、遊びに創意工夫をしているですね。
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子供が中学生になると、親の手から離れるようになります。勉強面でも、生活面でも、親の指示を待つようなことはせずに、自分で判断してやるようになります。
しかし、自分でやるようになっても、自分で正しくできるとは限らないのです。
中学生を見ていて、よく思うのは、勉強に対する位置付けがないまま勉強をしている子が多いことです。
これまでの経験で、次のような例がありました。そのどの子も、真面目で素直で性格もよく勉強もそれなりによくできている子たちでした。
一人は、学校から出された宿題を、ほとんど答えを写してやったことにしていました。もう一人は、やはり学校の宿題をいつも友達のノートを写してやっていました。
また、facebookグループの「中学生の勉強相談室」でよくある質問が、「この答えを教えて」です(笑)。解き方や考え方を教えてではないのです。
これらに共通しているのは、すべて、人に見せるための勉強という考え方です。自分自身の向上のための勉強ではなく、先生や親に何か言われないように勉強の形だけ見せているのです。
しかし、こういう子供たちも、成長につれて自然に目覚めていきます。高校受験がある場合は、中学3年生になり受験が迫ってくると、誰に言われるでもなく、勉強の中身を考えるようになります。
しかし、受験がない場合は、形だけの勉強が中3以降も続くことがあります。
では、親はどうしたらよいのでしょうのか。
貝原益軒が81歳のときに著した教育論「和俗童子訓」では、「予(あらかじ)め」という考え方が中心になっています。問題が生まれてから対策を考えるのではなく、問題が生まれる前に対策を立てて実行しておくという考えです。
これは、中学生の勉強にもあてはまります。
中学生になる前、つまり小学生のまだ親の言うことをよく聞く時期に、親が指図して勉強をさせることだけに力を入れるのではなく、子供の自覚を促す勉強の仕方に力を入れるのです。
小中学生の勉強は、難しいと言ってもたかが知れています。特に小4までの勉強は、やれば誰でもできるようになる簡単な勉強です。この時期の勉強でよい点を取るようなことはどうでもいいことです。
だから、よい点を取ることに力を入れるのではなく、何のために勉強するのかという勉強に取り組む姿勢を伝えることに力を入れていくのです。
そのためには,例えばテストなどでも、点数を見るのではなく、その点数の中身を見ることです。
ひとつの例として言えば、次のようなことです。
子供がテストを見せて、「このテストの最後の方は、時間がないから適当に選んだら○になって百点になった」などと言ったとき(まれな例ですが)、親は、「それは、よかったね」などと言うのではなく、穏やかに次のように言うのです。
「勉強は、自分自身を向上させるためにやるのだから、時間がなかったりわからなかったりしたら、答えを適当に書かずに、ちゃんと×にしてもらうんだよ。悪い点数を取った方が自分のためになるんだからね」
こういう一言が、子供が中学生になったときに生きてくるのです。
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子供の読書習慣は、大人の働きかけによってすぐに変わります。学校で読書の時間が設けられれば、すぐに子供たちの本を読む冊数が増加します。
そして、いったん読書が日常生活に定着してくると、子供は自分の好みに応じで、読書の傾向をはっきりさせていきます。
しかし、どのジャンルも読める本は豊富なので、高校生になると、読みやすい本に留まる人と、難しい本に進む人に分かれてくるようです。
読みやすい本は、一般に物語文の本で、難しい本は、主に論説文の本です。
読書は、楽しむために読む面もありますが、自分自身の向上のために読む面もあります。
高校生以上の人にすすめたいのは、論説文の難しい本です。こういう本を高校生時代に読んでいれば、その読書は大学生になっても発展していきます。
そして、大学生になったら、さまざまな分野の古典と言われる本を読んでいくといいのです。
少し古い資料になりますが、内田保男さんが高校生向けの小論文の参考書の中で推薦した本の中から、参考までに主な著者を挙げておきます。(順不同)
福沢諭吉
湯川秀樹
土居健郎
中根千枝
梅棹忠夫
丸山真男
木村尚三郎
鈴木孝夫
桑原武夫
星野芳郎
石井威望
森嶋通夫
中野孝次
木下是雄
今西錦司
富山和子
時実利彦
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子供が小学校高学年になると、本人が塾に行きたがるようになります。それは、必ずしも受験のためばかりではなく、自分だけ勉強が遅れるのが嫌だからという心理が働くからです。
また、親の方も、子供が家でのんびり過ごしているのを見ると、その時間をもっと役に立つ勉強の時間がで埋めたいと思うようになります。
これは、もちろんこれでいいことなのです。子供の仕事は勉強ですから、勉強の時間を優先していくというのは大事なことです。しかし、問題があるのは、大事なものが勉強だけになってしまうことです。
よく、家庭学習で集中力なくだらだらと長時間勉強する子がいます。子供は、本当はそういうだらだらした勉強をすることは嫌いなのです。
しかし、なぜだらだらするのかというと、勉強が早く終わったときに、次の勉強が課されるという家庭が多いからです。それはつまり、親に、勉強以外の大事なものが見えていないからです。
勉強以外の大事なものとは、個性です。これからの世の中は、自分の個性を生かして生きていく時代になります。
これまでの社会では、仕事をしっかり済ませて、その余暇に自分の個性を生かすという生き方が主流でした。しかし、これからは、自分の個性を生かすこと自体が仕事になるという時代になります。
今の大人で個性を生かして仕事をしている人は、ごく少数です。ほとんどの人は、与えられた仕事をこなすことに自分の時間の大半を使っています。これまでは、そういう仕事の仕方でなければ生活できない社会だったからです。
しかし、今の子供たちが大人になる時代には、社会はもっと豊かになっています。豊かな時代の仕事の中心は、自分の個性を生かした仕事になります。
ところが、個性というものは、生まれつき誰にでもあるとは言っても、それが社会の中で個性として認識されるためには、時間をかけて育まなければならないものなのです。その個性を育てることが、勉強の次に来る子育ての重要な目標です。
そうすると、子供への接し方も当然変わってきます。必要な勉強はできるだけ早く能率よく終わらせて、あとは個性を育てるための時間を確保するというのは、子供の生活のあるべき姿になってきます。
また、勉強は学校できちんと済ませておけば、それ以上塾で勉強を追加するようなことはせずに、勉強以外の個性を育てることに時間を使うというようになってきます。
しかし、勉強は学校でと割りきって生活をするためには、今の学校教育は力不足なところがあります。だから、勉強は、学校プラス家庭学習で、そして必要な勉強を済ませたら、その上にそれ以上の勉強を果てしなく続けるのではなく、個性を育てる生活に切り換えていくのです。
もちろん、その個性の中には、もっと勉強を深めて学者や研究者になるような個性もあるでしょう。しかし、ほとんどの人は、実際的な仕事をして生活していきます。
ただし、未来の実際的な仕事は、今の社会ではまだ存在していないものが大部分です。
今既にあるような仕事は、既に誰かが始めたものですから、今は個性的に見えても、すぐに参入者が増え、レッドオーシャンになっていきます。
しかし、自分が最初に始めた個性的な仕事であれば、次々と新しい創造を付け加えていけばいいのですから、いつまでも個性を保って続けられます。
これを、不安定な仕事の仕方だと思うのは、旧時代の社会観です。自ら変化を作り出すのが、これからは最も安定した仕事の仕方になります。
逆に今、堅い安定した仕事だと思われているようなものは、これからは科学技術の発展によって急速に不安定な仕事になっていきます。
これは、仕事に限らず、スポーツにも、音楽にも、芸術活動にも、さまざまな趣味の分野にもすべてあてはまります。
個性を生かすことが、これからは最も楽しく安定した人生の過ごし方になります。
そして、こういう未来の個性的な人生を楽しむために、今の子供時代の教育があるのです。
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中学生になると、親はだんだん子供の勉強に関与できなくなります。勉強も仕方も、塾に行ったり、通信教育をやったりと、親がその勉強の仕方も次第に把握できないものになってきます。
そうすると、つい、机に向かっているからいいというように、外見だけで子供の勉強を判断するようになります。
しかし、大事なことは、勉強しているかどうかではなく、どういうやり方で勉強しているかです。
勉強のやり方で大切なことは、どういう教材を使っているか、それをどう使っているです。
親も子も、この肝心なところを抜きにして、ただ勉強をしているだけでよいと思っていることが多いのです。
まず、どういう教材を使っているかです。塾や通信教育の教材は、ばらばらになってしまうものがほとんどです。ばらばらになるような教材は、よほどきちんと管理できるような子でなければ、有効には使えません。
教材の理想は、1教科1冊です。何枚ものプリントになっていたり、分冊になっていたりするものは、使えない教材になってしまうことが多いのです。
(ばらばらのプリントをきちんと保管し、繰り返し勉強できるような仕組みを作っているところもあります。「でき太くんの算数クラブ」などはそうだと思います。)
もうひとつは、どう使っているかです。理想の勉強法は、同じ教材を同じように5回繰り返すことです。
ところが、小学生のころから、この繰り返す勉強に慣れていない子が多いので、ほとんどの中学生は、1冊がひととおり終わったら次の教材に移ってしまいます。
わかりやすく言うと、5冊の教材をそれぞれ9割できるようにするよりも、1冊の教材を5回繰り返して10割できるようにした方が確実に力がつくのです。
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中学生のころは、テストの点数を気にはしても、勉強というものにまだ自覚がないのが普通です。
だから、勉強の仕方も、勉強らしいことをしていればいいというふうになってしまいます。
そこで必要なのは、まず居間でみんなのいる中で勉強すること、次に1冊の教材を5回繰り返すような勉強の仕方をすることです。
これは、本人の自主性に任せていてはできないので、この基本だけは親が整えておくことが大事です。
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なぜ勉強がつまらなくて遊びが面白いかというと、勉強には答えという枠があるのに対して、遊びにはそういう枠がないからです。自由に自分の可能性を広げることができるから、遊びによって工夫する力、創造する力がつくのです。
ところが、現在の遊びの中には、創造性に結びつかない遊びもあります。そのひとつがゲーム、もうひとつがソーシャル・コミュニケーションです。
もちろん、こういう遊びも息抜きとしてはあっていいのです。しかし、本当の自由な遊びの持つ充実感は、こういう遊びからは得られません。
そこで、言葉の森が今考えているのは、ネットワークを使った自由な遊びの創造です。これは、オンエア特別講座という形で今企画しているところです。
もうひとつは、生活に役立つプログラミング教育です。
現在行われているプログラミング教育の中には、単なるお絵かきごっこやレゴ遊びのような決められた枠の中でプログラミングの雰囲気を味わうようなものが多いのではないかと思います。
プログラミングが面白いのは、そこに無限の工夫の可能性があり、その可能性を広げていくと、生活に役立つものができるというところにあります。
現在のプログラミング教育について、清水亮さんが、とても参考になる記事を書いていました。
「プログラミング教育の落とし穴」
https://wirelesswire.jp/2015/10/47351/
ネットワークは、子供の遊びの時間を創造性のないゲームやコミュニケーションに置き換えてしまう面がありましたが、うまく活用すれば新しい遊びの可能性を生み出すものとなっているのです。
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昔の小学生は、学校から帰ると、カバンを家の中に放り投げてすぐに近くの原っぱに行き、夕飯の時間までたっぷり遊んでいました。
日曜日などは、今日は何をして遊ぶかと考えると嬉しくてたまらなくなり、自然に早起きをしていました。
今の子が、日曜日は平日の勉強の疲れを取るために、朝ご飯ぎりぎりまでゆっくり寝ているのとは大違いです。
昔の子供たちは、この遊びの中で創造性を育て、生きることの楽しさを味わう力を育てていたのだと思います。
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作文がなかなか書き出せない、書くことがない、書いてもすぐ止まってしまう、という子がいます。本人も悩んでいますが、近くで見ている親はいらいらしてきます。
作文がなかなか書けない原因のひとつは、実は作文にあるのではなく、読書にあることが多いのです。
その反対に、いつも楽に書き出す子がいます。思いついたことを苦もなく書いて、しかも書くことを楽しんでいるような書き方をする子です。
そういう子は、本をよく読んでいる子です。
読書と作文がなぜ結びつくかというと、それは比喩的に考えれば、次のように言えると思います。
運動をするには、エネルギーが必要です。そのエネルギーは、食べ物から来ます。「腹が減っては戦はできぬ」という言葉のように、エネルギーとして入るものがなければ、力として出てくるべきものも出てこないのです。
しかも、食べ物が、一度に1週間分のものを食べるわけにいかないように、読書も、あるときまとめて読んだから、あとはしばらく読まなくていいというわけにはいきません。
毎日食べるように、毎日読む必要があるのです。
書く力を本格的につけるためには、まず読むことです。読書の原則は毎日です。週に何日か読むという読み方ではなく、少ないページ数でもかまわないので、何しろ毎日読んでいくことです。毎日読んでいれば、必ず読む力がつき読書が好きになります。
そして、小中学生の場合は、家庭で本を読む習慣がある子と、がfっ子雨の成績がよい子との間には、高い相関があるのです。
もちろん、読書は、勉強ができるようになったり、作文が得意になったりするためだけに読むものではありません。読書は、まず楽しいから読むものです。
しかし、その楽しい読書の結果として、勉強もできるようになるし、作文も書けるようになるし、自分のものの見方も豊かになっていくのです。
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作文を書く力をつけるためにはまず読書、と言っても、それでは時間がかかりすぎます。
そこで、即効的な対処法は、お母さんが子供と一緒に書く構成図です。これで、どの子も楽に書けるようになります。
もっと簡単な対処法は、お母さんがアドリブで文章を口頭で言ってあげることです。そういう呼び水があると、途中から子供は自然にその続きを書くようになります。
しかし、根本的な対策は、やはり読書なのです。
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