1月から全学年の暗唱長文を作りなおすことにしました。現在、その最終チェック中です。
低学年の子のお母さんから、子供に暗唱の自習をさせやすいように、面白い文章を取り入れてほしいという声もありました。それも、確かに一理あると思います。
言葉の森の読解マラソン集は、説明文でダジャレの盛り込まれている長文で、子供たちに人気があります。
その文章を音読したり暗唱したりする子は、楽しいから続けられるという面があるようでした。
しかし、暗唱のいちばんの基本は、やはり親や先生という周囲の大人の確信だと思います。
例えば、日本ではどの子も例外なく九九ができます。九九のような便利なものを、なぜ他の国でやらないかというと、他の国では大人が確信を持てないからなのです。
日本では、大人は、九九はできて当然だし、やれば誰でもできるとわかっているので、子供や嫌がろうが何しようが明るくやらせることができます。
大人が、できて当然という態度で臨めば、子供も自然にそのことを受け入れるのです。
これが逆に、大人が、この暗唱は難しいだろうとか、自分には到底できないとか、嫌がったらどうしようとか思っていると、その気持ちは子供に通じます。
そして、子供も、大人が思っているとおりに暗唱を難しく感じ出すのです。
では、どうしたらいいかというと、暗唱という勉強を毎日の習慣のように軌道に乗せてしまえばいいのです。
その方法として考えているのが、寺子屋オンエアを利用して、家庭で行う暗唱クラブという企画です。
暗唱クラブで、数人の子どもたちが先生の指導のもとに、それぞれの家庭で一緒に暗唱をすれば、毎日10分の暗唱は苦もなくできます。
そして、その暗唱の勉強を、暗唱検定を目標にして続けていくのです。
今回の暗唱長文は、日本の古典から素材を選んでいます。
古代からの日本の文章は、萬葉集や平家物語のように文学的なものが多いのですが、明治時代に入ると、少しずつ説明文的なものが出てきます。
明治時代の説明文で代表的なものに、内村鑑三の「代表的日本人」や、新渡戸稲造の「武士道」などがあります。
これらは、もともと英語で書かれたものですから、翻訳された日本語の文章を暗唱すれば、それに合わせて英語の原文の方も暗唱できるようになると思います。
話は変わりますが、今、青森県十和田市にある新渡戸稲造記念館が廃館の危機にさらされているそうです。
こういう日本文化を代表するような貴重な資料は、国民全体の財産として残しておくべきだと思います。
家庭での暗唱のような勉強が中心になると、今広がりつつある反転授業のように、勉強は家庭で行い、学校は友達との交流と勉強の発表のために行くという形になっていくと思います。
個人差のある子供たちを一斉授業で教えるのは、低学年のうちは可能ですが、学年が上がるにつれて無理になってくるからです。
しかし、家庭での勉強の難しいところは、子供はひとりでは張り合いがないので、自分から勉強に取りかかことができないということです。
そこで考えられるのが、やはり寺子屋オンエア的な個別指導です。
そして、この家庭での個別指導を更に発展させて考えると、二重反転授業のようなこともできると思います。
それは、つまり、自然環境のいいところに宿泊もできる校舎を作り、そこに、都会にいる複数の先生がネットワークを通して子供たちの個別指導をするという仕組みです。
これを、森の学校という構想としていつか実現していきたいと思っています。
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森の学校、いいですね!ステキな構想だと思います。
学校の勉強だけでなく、外国語やカルチャー教室などもできるかもしれません。
子供だけでなく、大人のリラクゼーションスポットにもなりますね!
ぜひ!実現を!!
とうこさん、ありがとう。
城下町、門前町などがあるように、これからは、学校やカルチャーセンターがその町の輪の中心になる学輪町のようなものが生まれてくると思います。
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甲野善紀さんは、古武術を自分なりに研究して新たな境地を切り開いてきた人です。
その甲野さんが、「今までにない職業をつくる」という本を出しています。これは、自分がこれから作るというのではなく、今の若者の仕事の状況を見て、やむにやまれぬ気持ちで、「もっと自分たちで新しい職業を作ればいいんだよ」とアドバイスしているのだと思います。
http://www.amazon.co.jp/dp/4903908593
若い人たちの就職の環境は、今のままではますます展望のないものになっていきます。
派遣という形の仕事が増えると、当面の生活は何とかなりますが、その仕事の中で自分が何かを学び成長するという面がどうしても弱くなります。
しかし、正社員でもその事情はあまり変わりません。生活の安定度がある程度あるとしても、これからの社会では、高度成長時代のように毎年規模が拡大するような仕事はもうありません。
逆に、毎年縮小する市場を多くの企業が奪い合う中で、そのしわよせは社員に向けられます。つまり、競争の中で最も削減の対象となるのは人件費なのです。
そのため、正社員であっても、仕事の中で自分の成長や挑戦が実感できる人はごくわずかで、ほとんどの人は、縮小する市場の中でいかに仕事を能率よくこなすかというようなところに力を入れざるを得なくなっていきます。
若い人の離職率が高いのは、根性がないからではなく、やはりその仕事の中で先の展望が見えない気がするからなのだと思います。
昔のように、会社自体が発展していく中であれば、長年勤めているだけで、部下が増え新しい仕事が増えました。それに伴って、自分も成長していくことができたのです。
しかし、これからのように会社も市場も縮小していく中では、仕事の中で成長するどころか、今ある能力自体もさびついていく可能性が高いのです。
では、どうしたらいいかというと、それは、若いうちに時間を味方にすることです。
時間を味方にするというのは、時間をかければかけるだけその分野のプロになれるようなことに今から着手しておくのです。
甲野善紀さんが、古武術の研究を始めたころは、そういうことが仕事になると思っている人は誰もいなかったでしょう。本人自身も、それが仕事になるとは思っていなかったではずです。
しかし、自分の好きなことをずっと続けていく中で、やがて時間がたち、気がついたら押しも押されぬその分野の第一人者になっていたということなのです。
これからが個性の時代というのは、こういうことなのです。
個性というものが持って生まれたものだけであれば、それが特に何かに役に立つことはあまりありません。しかし、時間をかけた個性であれば、それは個性を生かした仕事に結びつくのです。
しかし、個性というぐらいですから、みんなと同じ安全に見える道を歩いていたのではその分野の第一人者にはなかなかなれません。
例えば、野球やサッカーやバスケットボールというメジャーなスポーツであれば、同好の士も多いし、練習する機会や場所も幅広く提供されています。しかし、その分野でプロになる可能性はほとんどないでしょう。
ところが、周りに同じことをやっている人がほとんどいないような珍しいスポーツであれば、最初は誰からも相手にされないという苦労を味わうでしょうが、何年もたつうちに、そのスポーツの第一人者になっている可能性がずっと高くなるのです。
これが、昔のような住んでいる地域に限定された狭い情報の社会であれば、人と違うことをやっていることは特に大きな利益にはなりませんでした。
しかし、今のインターネット時代の特徴は、ロングテールなのです。つまり、インターネットを使えば世界中が市場ですから、自分の住んでいる町が人口10万人で1人だけ同じ趣味を持つ人がいたとしたら、同じ確率で考えると日本全体の1億人の中では、1000人も同じ趣味を持つ人がいます。世界全体で考えれば、もっと多くの仲間がいて、その人たちに自分の経験を教える仕事をすれば、そこに大きなマーケットが生まれるのです。
こういうことが可能になるのは、ただ自分の好きなことに時間をかけることによってです。そして、若いということは、これからの時間がたくさんあるということです。
だから、今仕事をしている人も、これから新たに社会に出る人も、まず自分の好きな分野で、多くの人がまだ参加していない分野をライフワークにする展望で取り組んでいくといいのです。
言葉の森では、森林プロジェクトという名称で、作文を教える仕事を提供していますが、これを今後作文だけでなくもっと幅広い分野でできるものにしていきたいと思っています。
当面、毎月第二火曜日は、森林プロジェクトに参加している人の交流会を、googleハングアウトで行っていく予定です。
同じようなことをしているところは、今はたくさんあるはずです。
若い人たちは、こういうさまざまな機会を利用して、自分のライフワークを見つける参考にしていくといいと思います。
そのときに大事なことは、まず第一に自分の好きなこと、そして第二にできるだけみんなのやっていないことを時間をかけてやっていくことです。
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仕事は自分の能力を伸ばしたり挑戦したりする機会だとすると、「就職」以外の道を考えるほうが、ライフワークに結びつくかもしれませんね。
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言葉の森の中学生の作文指導は、文章を読んで意見文を書く形が中心です。題名だけの課題もたまにありますが、ほとんどは文章を読んで書く課題です。
読む対象となる文章は、高校入試の説明文のレベルなので、しっかり読んでいれば自然に語彙力が身につきます。
中学生の3年間で学ぶ構成が高校生以降の小論文の基本で、この書き方ができるようになれば、どういう課題が出ても対応できます。
第一は、一つの意見について複数の理由を述べるという構成です。
第二は、複数の意見を述べて総合化するという構成です。
第三は、一つの意見について複数の方法を述べるという構成です。
この中でも最もわかりにくいのが、複数の意見を述べてそれを総合化してまとめるという書き方です。
複数の意見を述べるというのは、誰でもすぐにできます。問題は、その複数の異なる意見をどうまとめるかということです。
考えずにまとめると、Aの意見もわかる、Bの意見もわかる、だから両方をうまく使い分けて……というようなただの折衷案になってしまいます。
複数の意見を折衷案でまとめずに、より高い次元のCの意見としてまとめるというのが総合化の主題です。
こういう考えは、もちろん大人にも難しいものですから、うまく考えつくときと、どうしても考えつかないときがあります。
また、あるとき考えついた意見が、あとから自分の成長とともにもっといい意見に変わるということもあります。
当然、人によって答えは違いますし、その答えもひとつではありません。
こういう考え方をすることで、抽象的に物事を考える力がついてくるのです。
抽象的に考える初歩の練習は、理由を考えることです。
例えば、意見文で、「○○はよいか悪いか」という題名で書く場合、よいか悪いかの意見は誰でもそれなりに書けます。
その意見の裏付けとなる実例も、多くの人が書けます。
しかし、その実例をより一般化した理由として書くということがなかなかできない人がいるのです。
こういう例もある、ああいう例もある。では、それらの例をまとめてひとことで言うとどうなるかということが出てこないのです。
出てこないものは仕方がありません。そういうときは、いくら考えても出てこないものなのです。
しかし、それは能力がないからではありません。
人間には、もともと抽象的に考える力が備わっています。しかし、それが日常生活の中で必要とされない環境にいるので、磨かれていないだけです。
では、どうしたら、日常生活の中で、抽象的に考えることが必要になる場面が出てくるのでしょうか。
それは、ひとつは親子の会話によって、もうひとつは読書によってです。
つまり、読む力、聞く力が、作文力のもとになっているのです。
作文の欠点を注意しても上手になるわけではないのは、この理由からです。
作文力をつけるのは、作文を直すのではなく、作文を書く土台となる読む力をつけることによってなのです。
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言葉の森の中学生用指導のエッセンスです。
この3つの書き方を習得するだけでほとんどの小論文に対応できるのではないでしょうか。
ただ、この習得というのは、課題を理解し、自分の考えを意見化し、自身の体験と照らし合わせ…という考える訓練により得られるものです。
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今の子供は、意外と「いろは」や「子丑寅」を知りません。
ところが、子供は、そういう呪文のような言葉を覚えるのが好きなのです。
そこで、田舎に行ったときなど、おじいちゃんやおばあちゃんに、覚えていることをいろいろ聞いてみます。
中には、百人一首や昔の歌謡曲や、更には般若心経などを教えてくれる人もいるかもしれません。
特に、お母さんやお父さんができないことを子供ができるとなると、子供は喜んでそのことに熟達しようとします。
そういうちょっと知的な言葉遊びを楽しんでみるといいと思います。
話は変わりますが、今、言葉の森では新しい暗唱長文集を作成しています。
これまでの暗唱長文集は、子供たちが作文を書くときの参考にできるように、主にその学年の課題の表現項目を入れた文章でした。
しかし、せっかく子供たちが1000字近い文章を暗唱するのですから、その暗唱がずっと記憶に残り、大人になってもときどき思い出せるようなものにしたいと思いました。
そうすればと、やがて覚えた文章を自分の子供にも教えていけるようになり、言葉を通して文化的な伝統も伝えていけるようになると思います。
暗唱の方法というのは、実は簡単です。記憶力や年齢は、全く問題ではありません。正しい方法でやれば、誰でも確実にできるようになります。
だから、暗唱という勉強法は、落ちこぼれというものがありません。また、先に進みたい人はいくらでも先に進めます。
その方法はひとことで言えば、回数がわかる目印になるものを用意し(私がおすすめするのは紙を折る方法ですが)、できるだけ早口で100字ぐらいの文章を30回繰り返すことです。時間は10分程度で、これを毎日続けるのです。
ただ繰り返すだけですから、シャワーを浴びながらでも、道を歩きながらでもできます。こういう方法で、誰でも簡単に暗唱ができるようになるのです。
おじいちゃんやおばあちゃんに教えてもらった文章があったら、この方法で覚えておき、あとで聞かせてあげるといいと思います。
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日本の子供の読書環境は、幼児や低中学年のころに読む本はかなり充実しています。
よく、どういう本を読んだらよいかという質問を受けますが、書店や図書館に並んでいる本で面白そうなものはどれでもいいというぐらいよいい本がそろっています。
ただし、次のような本の選び方はあまりよくありません。
それは、
(1)名前が有名だからという理由だけで読ませる本(難しすぎたり、逆に子供向けに省略されていたりするものがあります)、
(2)親が昔読んだ感動した本(現代に合わない暗い話になっているものが多いです)、
(3)「○年生の読みもの」などと銘打ってある本(短い話がぶつ切りに載っているようなものが多く、読書に没頭するという読み方ができません)
いい選び方は、次のようなものです。
(1)ブックオフなどに並べられている本(よく読まれているものが多いからです)、
(2)本の奥付を見て何度も印刷されていることがわかる本(人気のある本だからです)、
(3)シリーズ化されている本(「フォア文庫」「青い鳥文庫」などのようにシリーズ化されているものは、これまでに人気のあった本だからです)
さて、小学校中学年のころまでは読書環境が充実していますが、小学校高学年、中学生、高校生になると、その年齢にふさわしい本がだんだん少なくなってきます。
高校生で本を読まない人が多いというのも、やはりいい本が身近にないためです。昔は、高校生向けの新書版の本が何種類かありましたが、今はあまり見かけません。
特に、説明文の本は、書店にはほとんどないと言っていいので、いい本を探すためには図書館を利用していく必要があります。
図書館では、「岩波ジュニア新書」「ちくま少年図書館」「ちくまプリマー新書」などが並んでいると思います。
しかし、父親や母親が最近読んで感銘を受けた本であれば、小学校高学年以上の生徒でも、同じように読めるものがかなりあります。
私が数日前人に薦められて読んだ本で面白かったものは、「サラとソロモン」のシリーズです。
ストーリーもいいのですが、中に説明的な言葉がよく出てきます。ストーリーの面白さにひかれて読んでいくうちに、説明的な概念も身につきます。
このような大人も、高学年以上の子供も同時に楽しめるような本は結構あると思います。
ただし、ここで注意することは、自分が読んでよかったと思った本でも、必ずしも子供はそうは思わないことがあるということです。
読書というものは個性的な面がありますから、好き嫌いははっきりしています。
そこで、読ませ方のコツとしては、2冊以上の本を並行して読むようにすることです。1冊だけにこだわると、その本にあまり関心がない場合、そこで読書が止まってしまいます。2冊以上を同時に読んでいれば、1冊にあまり興味がわかないときでも、ほかの本を手に取ることができます。
また、読書は必ず毎日読むようにさせることです。週に3日とか4日とかいう読み方では、読書の習慣はつきません。
何しろ毎日読むことが大事で、その目安は、本当は毎日50ページ以上です。しかし、読書の苦手な子は、毎日50ページ以上ではかえって続きませんから、少なくとも10ページ以上は読むというようにしておくといいと思います。その場合でも大事なことは、毎日読むということです。
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受験作文コースの方は、間近に迫った受験に落ち着かない気持ちでいることと思います。
こういう時期は、特に親の姿勢が重要になります。
これまでに載せた受験関係の記事から、今の時期に大切なことを再掲します。
■受験直前の作文の勉強は、これまでにやってきたことを再確認して自信をつけること(20140102)
受験直前の勉強は、これまでやってきたことを再確認することです。そして、自分なりに納得できる作品を仕上げて、これまでやってきたことに自信をつけることです。
ところが、受験直前に不安になり、別の塾や予備校に相談したり、別の勉強をやろうとしてしまう人も多いのです。そういうことが、これまで何度もありました。あるいは、模試で悪い点数を取って自信をなくすという子もいました。
ところが、そういう悪い点数を取ったり、これまでの作文をけなされたりした子もちゃんと合格しています。作文のよさは内容のよさです。他人にどうのこうの言われて判断するものではありません。しかも、受験の直前にそういうところで他人にふりまされるものではありません。
言葉の森は、中学入試だけでなく、高校入試でも大学入試でも通用する作文小論文を指導しています。大学入試では、どの予備校の小論文講座よりも優れた指導をしている自信がありますし、現にそういう実績を上げています。塾や予備校で、その学年の生徒だけ指導しているのとは厚みが違うのです。
かわいそうなのは、受験直前にこれまでと違うアドバイスを受けて動揺してしまう子供たちです。言葉の森では、たとえほかの塾や予備校から入ってきた子がいても、前の作文指導の悪口などは決して言いません。そんなことを言っても、子供にとっては何のプラスにもならないからです。そして、自然に言葉の森のやり方で作文が書けるように指導していきます。
だから、子供のそれまでの作文をけなす指導者は、それだけでもう二流です。保護者のみなさんは、そのことをよく頭に入れておくといいと思います。
今の時期は、新しいことを始めるのではなく、これまでやってきたことを固めることに全力を尽くす時期です。受験にはメンタルな面があります。親が不安がっていては、子供も力を出せません。お父さんやお母さんがどっしり構えて、これまでやってきたことをそのまま一直線に続けていくことが大事なのです。
■受験直前の今は、欠点を直す時期ではなく、これまでの勉強に確信を持って反復する時期(20140103)
受験直前になると、子供以上に親や先生が不安になります。不安になると、欠点を直すことに目が向きます。しかし、これがいちばんよくないのです。
まず第一に、欠点はそんなに簡単に直せるものではありません。
第二に、欠点を直す勉強に力を入れると、どんどん自信をなくしていきます。
欠点は捨てておけばいいのです。普段の心がけがよければ、苦手な分野は出てこないと思っていれば気が楽になります。そんな感じでいいのです。
そのかわり、これまで自分が勉強してきたやり方に確信を持ち、参考書や問題集を見なおして更に確実に自分のものにしていくことです。その際、過去問にもう一度目を通しておくといいでしょう。どういう分野が重点になっているかがわかると、これまでの勉強の見直しにも焦点が絞れます。
過去問に目を通す方法は、まず、まだやっていない過去問に、あらかじめ答えを全部書き込むことです。過去問は、自力でやろうとすると気持ちの負担が大きくなり、後回しになることが多いからです。
答えを全部書き込んだあと、その過去問の問題と答えを読書のようなつもりで読むのです。なるほど。この問題で、こういう答えになるのか。ふむふむ」という感じです。
受験勉強という一大イベントに臨む姿勢は、その後のその子の人生の大きなイベントに臨む姿勢のモデルのようなものになります。そういう大きい視野で勉強を見ておけば、受験勉強はその子にとって勉強以上の大きな収穫のあるものになっていきます。
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外国語を意識的に学んでよい時期は、10歳以降です。その時期以前に、母語以外の言語にさらされると、母語が正しく成長しません。これは、既にいくつかの研究で確かめられていますが、その研究の結果が広がっていないために、いまだに幼児期から英語の勉強をさせてしまう人が絶えないのです。
中には、親自身が、日常会話で子供に話しかけるときに英語を使っているということさえあります。この結果、どういうことが起こるかというと、肝心の日本語も英語もどちらも中途半端な子供が育ってしまうのです。
母語が正しく成長しないという結果が出てくるのは、少し年齢が上がってからのようです。ですから、小学校時代は、日本語も英語もどちらもそれなりにできるような気がしてしまうのです。
言語は、人間がものを考えたり感じたりするための最も根底にある土台です。算数や理科や社会などの教科と同じような勉強のひとつの科目なのではありません。
言葉の森の生徒の保護者の中には、英語教育に携わっている人もいます。また、子供を英会話教室に通わせている人もいます。ですから、ここで早期の英語教育を批判することは、それらの人の気持ちを逆なですることもあると思います。
しかし、何事も、おかしいと思ったらやり直せばいいだけです。早期の英語教育に違和感があると思ったら、ただそれをやめて、もっと日本語を豊かにする生活に切換えていけばいいのです。
日本に住んでいる子の日本語教育は、よくないことをやめればいいだけですから簡単です。
しかし、難しいのは、海外に住んでいる日本の子供の日本語教育です。特に、小学校3年生までの低学年の時期に海外で暮らさざるを得ない場合は、かなり厳しい環境に置かれていると考えられます。
低学年の日本語教育は、家庭でしかできません。
これが、日本語力が既に定着している小学校4年生以降の海外生活であれば、既に形成されている日本語力の基礎の上に現地の言葉を学べばよいのですから、かえってプラスになります。
小3以前か小4以降かという時期の違いが決定的なのです。
しかし、小3以前の子供の場合は、親との生活を楽しむ時期という有利な点があります。小4以降になると、親よりも友達との生活の方が優先されるようになります。ですから、この親と一緒にいることを好む時期の利点を生かしていくことが大事です。
そのためには、海外で生活する場合でも、家庭では日本語で話すことを徹底することです。父親が日本人でない場合は、父親はその父親の言語で、母親は日本語でという区別をはっきりさせておけば、子供は混乱しません。
日本人である母親が、日本語と現地の言葉を両方使うようなことを家庭で行うと、混乱が生じるのです。
今、日本では、国際人を育てるという名目で、英語教育の必要性がさまざまなところで唱えられています。しかし、コミュニケーションの道具としての言語は、今後必ず機械によって代替されるようになります。それは、自動車の自動運転が昔は夢物語であったのに、今では現実の日程までのぼってきているのと同じです。
道具には、道具として発展する方向が内在しています。道具の不十分さを人間の努力で補うというのは、過渡的な現象です。
人間は、道具には委ねられない人間だけができることに、時間を費やしていくべきなのです。
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塚澤健二さんの「そして偽装経済の崩壊が仕組まれる」(ビジネス社)に、「これだけ違う『二十世紀』と『二十一世紀』の価値観」と題して、わかりやすい対応の表が書かれています。
http://www.amazon.co.jp/dp/4828418504
20世紀は、成長社会で、戦争の世紀でした。そこから、経済的な用語にも、ストラテジー、タクティクス、ターゲットなど戦争用語が使われていました。
それに対して、21世紀は、成熟社会で、生命(生物)の社会になっています。使われる用語も、インキュベーション、ハイブリッド、コラボレーションなど生物学的な用語が多くなっています。
また、20世紀は、正解のある時代で、良い大学を卒業して大企業に就職することがひとつの幸せのパターンになっていました。そこで求められる能力は、試験処理能力で、良いか悪いか、損か得か、正しいか正しくないかが客観的に判断できる社会でした。
これに対して、21世紀は、正解のない時代で、良い大学を出ることや大企業に入ることが必ずしも成功とは言えなくなっています。こういう社会で求められる能力は、クリエーション能力で、好きか嫌いか、信じるか信じないかを基準に、自分を軸として決断することが求められるようになっています。
戦後すぐの1950年のころのサラリーマン比率は34パーセントでした。これが2012年には88パーセントになっています。つまり、ほとんどの人が会社に勤めるような人生を送っています。
これまでの社会では、会社勤めは正解でした。会社が成長する形で、日本が成長してきたからです。しかし、これからの時代は、日本の成長が鈍化する中で、会社の成長も停滞してきます。そして、その中でもなお成長を続ける会社は、機械化を進め、雇用を減らしていけるような会社です。
これからの子供たちが暮らす社会は、正解のない社会です。だからこそ、そこで必要になるのがクリエーション能力と決断力なのです。
では、これまで正解のある人生を送ってきた大人が、正解のない社会での生き方を子供に伝えることができるかと言えば、それは難しいと思います。
そこで生まれているのが、女性を中心としたミニ起業志向ではないかと思います。
たぶん、多くの人は、これからの社会は自分の力で仕事をしていかなければならない社会になると直観的に感じています。それがたとえ小さな試みであっても、自分自身がそういう経験を少しでもしていれば、子供が同じような決断をするときに助けになることができるのです。
政府は、昨年全国300か所に創業塾を開き、全国で13000人の創業希望者を募りました。
日本の国自体が、これからは独立起業精神を持った人が続々と現れるのでなければ発展しなくなっているのです。
言葉の森は、現在、森林プロジェクトという、誰もが作文指導を行える仕組みを作っています。このプロジェクトに、今後は寺子屋オンエアの指導を組み合わせ、そこに、作文検定や暗唱検定やプレゼン作文発表や幼児親子作文などの企画を取り入れていきたいと思っています。
誰もが小さな独立の仕事を始めることによって、日本の社会が活性化していきます。
世の中には、少子化だから需要が減るのは仕方ないと考える人もいますが、人口の多さが生み出す需要は、結局「物」の需要でしかありません。
これからの時代に必要なのは、「物」の需要ではなく「事」の需要です。そして、「事」の需要は、人口に比例するのではなく、その国民の文化度や向上心に比例します。
そういう新しい社会を切り開く大きな可能性を持っている国が日本なのです。
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