勉強の順番から言うと、国語が一番です。
しかし、この国語は漢字の書き取りや、国語のドリルのような勉強ではありません。まず本を読むこと、そして親子で対話をすること、更にできれば文章を書くこと、つまり文化としての国語なのです。
この国語力さえしっかりしていれば、それ以外の勉強はあとからいくらでも間に合います。
例えば、想像をたくましくして考えてみるとわかりますが、歴史上の有名な人物が、今の社会に突然登場したら、その成績はどんなだったでしょう。
聖徳太子が、突然、現代の中学生になって勉強したとすれば、国語は言葉の使い方にギャップがあるとしてもそれでも高得点でしょう。
しかし、数学は、たぶん0点でしょう。英語も、まず0点でしょう。
しかし、聖徳太子が一念発起して、数学と英語に取り組めば、数年もせずに高得点になるはずです。
例は聖徳太子でなく、西郷隆盛でも、勝海舟でも誰でもかまいません。
つまり、知識的な勉強は、時間はかかるとしてもあとからでも間に合います。しかし、思考的な勉強は、考える力の土台ですから、あとからでは間に合わないのです。
確かに、数学的なものの考え方は大事です。
物事を生まれつき理詰めに考える人もいますが、数学の勉強によって理詰めに考える力が育ちます。
また、これからの社会で仕事をするためには、数学的な素養がさまざまなところで必要になってきます。
外国語は、自分の文化を相対化して考えるために役に立ちます。
また、今はコミュニケーションの道具としても、英語は役に立ちます。
しかし、今の数学と英語の勉強が、学校でなぜ重要になっているかというと、受験で差がつきやすい教科だからという理由の方が大きいのです。
その証拠に、社会に出たら、特に数学や英語を使わなくても日常生活を支障なく送れるという人の方が圧倒的に多いのです。
さて、勉強で大事なのは国語力だとしても、人間は勉強の力だけで生きているわけではありません。
昔から言われているように、知育、徳育、体育のバランスが、人間の生活を作り上げています。
徳育の基本は、正直に生きることと、思いやりを持つこと、勇気ある行動をとれることです。
体育の基本は、健康な生活をすることです。
これらは、いずれも家庭が中心になって行うことです。
だから、国語力を中心とした知育も含めて、子供の教育のほとんどは家庭で作られ、その表面の仕上げのようなところだけが学校や塾で行われているのです。
このように考えると、子育て全体については、1に躾、2に健康、3に読書と対話、あとは自由に、ということになるかもしれません。
作文の客観的評価というものは、難しいものです。
人によって評価が違うことはもちろんですが、同じひとりの人が評価しても、その日の気分や、前後の作品の影響によって評価が微妙に違ってきます。
といって、評価があてにならないわけではありません。複数の人が評価しても、大体同じようなところに落ち着くからです。上手な作文とそうでない作文に関する、おおまかな合意はありますが、それを厳密に客観的評価として打ち出すことはできないということなのです。
言葉の森は、この評価の仕組みを当初から考えていました。
そして、その評価の方法として、二つの仕組みを考えました。
ひとつは、項目評価と呼ばれるもので、その作文にどういう表現や内容を盛り込むかを、作文を書く前にあらかじめ指示しておくというものです。
公立中高一貫校の作文試験問題にも、こういう形の問題があります。そこは、作文の評価についてよく考えているところです。
これに対して、ただ題名や文章だけの課題を出しているところは、作文の評価についてあまりよく考えていない学校だと思います。
この項目評価によって何がわかるかというと、実例となる材料の豊富さと、構成を組み立てる思考力とがわかるのです。材料の豊富さは、経験の豊富さと読書の豊富さによって成り立ちますが、同年齢の子供たちの経験はそれほど差があるわけではありません。だから、材料の豊富さは、その子の読書経験の豊富さと比例していると言ってもよいのです。
構成を組み立てる思考力というものは、学校のテストなどではあまり評価の対象にならないので、その子の思考力がどのくらいかということはよくわからないものです。
しかし、例えば、大人と話していて話がよく通じる子と、あまり通じないので大人の方が子供に合わせて話をしなければならい子とがいます。この話の通じやすさが思考力です。
言い換えると、作文の中で、理由や方法や実例や原因などという言葉で表せる内容を説明できる力が思考力です。だから、大人が子供に対して、「それはどうして?」とか、「例えばどんなこと?」とか、「どうしたらいいと思う?」などと聞いたときに、自分なりに考えて答えることができれば、それは思考力があるということです。
この項目評価だけでも、ある程度の客観評価はできますが、あるレベル以上の作文になると、項目評価だけでは不十分になります。
例えば、「たとえを入れて書く」という項目の場合、低学年ではこのたとえを入れることができるかどうかで、その子の表現力がわかりますが、高学年の生徒では誰でもそれなりにたとえを入れられるようになるので、この評価だけでは差が出ません。
しかし、同じたとえでも、ありきたりのたとえしか書かない子と、自分なりに工夫したとえを書く子との違いがあります。
この違いを評価する方法が、森リン点による評価です。
森リンというのは、言葉の森が開発した作文の自動採点ソフトです。
このソフトが何を評価しているかというと、主に、その文章の中の語彙の多様性です。それ以外に、語彙の難易度や、語彙の性質も評価していますが、中心になるのはどれくらい多様な語彙が使われているかということです。
すると、同じたとえでも、ありきたりのたとえの場合は多様性が低くなり、ユニークなたとえの場合は多様性が高くなるという傾向があるのです。
受験作文コースの作文を見ると、共通する弱点として、同じ言い回しの表現を使いすぎるということがあります。それは、作文に書く内容が、その学年の生徒にとっては難しいので、それに合う語彙が不足しているためにどうしても同じような感想や説明を何度も書くことになるからです。
これらの作文を人間が見たときにどう感じるかというと、同じ言い回しが多い文章は密度が薄く感じられ、いろいろな言い回しが使われている文章は密度が濃いと感じられるのです。
しかし、この密度の濃さというものは、人間の主観ですから数値では表せません。ところが、森リンの評価にかけると、それが多様性の点数の差として出てくるのです。
作文検定は、このように、項目評価の点数と森リン評価の点数によって数値化されています。
自宅で作文を書く練習をしている人は、自分の作文がどれくらいのレベルかわからないと思います。森林プロジェクトで作文指導をしている場合も、子供たちの評価に確実性を持たせたいと考えていると思います。
そういうときに、言葉の森の作文検定を活用するといいのです。
作文検定は、個人でも受けられます。ただし、その場合は、googleハングアウトやskypeによる作文検定試験会場との接続が必要になります。と言っても、用意するものはウェブカメラだけで、パソコンに内蔵されているものでもかまいません。
8名以上の団体で受ける場合は、インターネットによる接続は特に必要ありません。
詳しい案内は、作文検定のページをごらんください。
https://www.mori7.net/sakken/