受験作文のい直前の対策と言っても、この時期に新しいことをやるのではありません。ときどき、言葉の森で勉強したものを学校やほかの塾の先生に見てもらう人がいますが、よほどその先生が作文指導に慣れている先生でなければそれはやらない方がいいです。(そういう先生はほとんどいません。)
というのは、作文指導に慣れていない先生ほど、この時期に直す指導をしてしまうからです。もちろん、その直す指導が具体的で本人にすぐできるものであればいいのですが、ほとんどの場合その生徒がすぐにはできないことを言います。
すると、子供は混乱して、これまでできていたことまでできなくなってしまうことがあるのです。
もし万一そういうことをもうしてしまった人がいたら、お母さんかお父さんがしっかりした方針として、「これまでのやり方でやっていけばいい」と言ってあげてください。
これは作文の試験以外のすべての試験にあてはまります。
何事も、最初に決めてやってきたやり方が、いちばんいいやり方なのです。
では、どういう直前対策をするかというと、それはこれまで書いてきた作文をファイルにとじておくことです。
その上で、その作文を読んで、自分なりに上手に書けたと思うところに赤か青のペンで線を引いておきます。(赤ペンは既に担当の先生が引いていることが多いので。)
また読み返してみると、表現を直した方がいいと思うところも出てきます。その場合は、小さい字になってもいいので、その部分をよりよい表現に直しておきます。ひらがな書きになっているところや、誤字のところも同じです。
そのようにしてファイルした作文を、ときどき読み返します。全部読む時間がないときは、上手に書けたと思った傍線の引いてある箇所だけでもかまいません。試験の直前まで何度も読んでいると、試験の本番で同じ表現や実例を使える場面が出てくるからです。
作文の勉強の仕上げは、自分がこれまでに書いた作文を読むことなのです。
また、もっと時間があるという人の場合は、同じテーマで元の作文を見ずに、時間制限の中で同じように書けるかどうかを確かめてみてください。(全く同じに書くというのではありません。大体の方向が同じであればいいということです。)
受験で差がつくのは、時間が限られているためです。同じテーマで何度も書いていると、自分が最高のスピードで書けばどのぐらいの時間で何文字書けるかがわかってきます。この自分の最速の字数を知っていると、試験の本番で残り時間が少なくなったときでも、「あと何分あるから、何文字は書ける」という見通しがつくので、焦らずに書いていくことができます。
作文試験や面接試験の当日には、読みかけの小さい本も持っていくようにしてください。作文の場合は、これまでに書いた作文を見直すのが試験前の準備ですが、それでも時間があるとき、又は面接試験で待っている時間があるときは、持ってきた本を読んでおきましょう。
試験前に本を読んでいると、なぜか不思議なことに、作文や面接の試験のときに、その本の内容を生かせる場面が出てくることがあるのです。
作文試験の本番で、書きやすい、易しい課題が出てきたら、それは普段の心がけがよかったからです。
その反対に、難しい、書きにくい課題が出てきたら、それは逆にチャンスです。自分が難しいと思うときは、ほかの人もみんな難しいと思っています。言葉の森での作文の勉強は構成を重視して練習しているので、難しくて書きにくい課題のときほど上手にまとめて書くことができるからです。
さて、生徒の方はこういう準備でやっていけばいいのですが、お父さんやお母さんも心の準備をしておく必要があります。
合格を目指して勉強することは、とても価値あることです。こういう受験勉強の中で、親も子も鍛えられます。
しかし、人生という長い目で見ると、合格した子も、合格しなかった子も、途中の経過は違っても、なぜかその子の本来の目指していたところに行き着くようになっているのです。
合格が有利で不合格が不利に見えるのは、そのときだけです。その後の人生の中では、有利に見えたことが不利になったり、不利に見えたことが有利になったりして、いろいろな紆余曲折を経て、その子の本来の道を進んでいたことに気がつくのです。
だから、お父さんお母さんは、なごやかな表情で子供の受験勉強の最後の仕上げを見守ってあげてください。
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これからの入試では、選択式の問題は次第に少なくなり、記述式の問題が増えていきます。更に、記述式以上に文章力の評価を重視した作文、小論文の試験も増えてきます。
記述力というものは、誰でもそれなりにありますが、入試で大事になるのは記述をするスピードです。
これは読解の問題でも同じで、国語の問題は誰でも時間をかければそれなりにできるようになりますが、スピードを上げて読み取るというところが難しくなるのです。
家でゆっくりやればできるのに、実際の試験ではできないというのは、このスピードが不足しているからです。
読解と記述のスピードを上げるためには、難しい語彙を読み取る語彙力と、難しい語彙も的確に使える語彙力とが必要です。読む語彙力と書く語彙力がそれぞれに必要なのです。
語彙力の有無は、森リン点の数値として出てきます。
人間が読み取って、「何か密度が薄い気がする」と思うものは森リン点が低く、その反対に、「密度の濃い文章という気がする」と思うものは、森リン点が高いという関係があります。
つまり、森リン点は、その文章に使われている語彙の質と量をチェックしているのです。
では、どうしたら語彙力が増えるかというと、ひとつは長文音読で、もうひとつは長文暗唱です。
長文の暗唱に慣れていると、英語の勉強も、算数数学の勉強も、わかりにくいといころはとりあえず暗唱で対応という形がとれます。
これは、決して丸暗記というのではありません。丸暗記というものは、テスト前のそのときだけ覚えていてあとは忘れてしまうような暗記です。
そうではなく、わからないながらも暗唱で丸ごと自分のものにしておくと、あとからそのわからないところが時間の経過とともにわかるようになるというのが暗唱なのです。
この暗唱によって、難しい語彙を読み取る力と、その語彙を使う力がついてきます。
小学校高学年から中学生にかけては、理解の語彙力に比べて表現の語彙力が低くなる時期です。そのため、この時期の子供は作文を書くことに負担を感じやすくなります。
つまり、読む力はあるので、それに比べてあまりに低い自分の書く力を見て、作文が苦手だと思うようになるのです。
この苦手な時期をのりこえる勉強が、音読と暗唱です。
音読は、張り合いがない勉強という気がするので、家庭では続けにくい面があります。また、家庭で音読をしていると、よく親から読み方を注意されることがあります。それでますます音読は続けられなくなりがちです。
暗唱の場合は、暗唱をし終えたあとの達成感があるので、音読よりも続けやすい面がありますが、達成感を感じるようになるまでの最初の練習を乗り切るまでが難しいところです。
言葉の森の寺子屋オンエアでは、音読については、skypeのビデオメッセージで先生に音読を送るという形を取っています。これで、音読を続けやすく感じる生徒が増えてきました。
暗唱については、暗唱に慣れるまでの間、やはり寺子屋オンエアで暗唱クラブのようなものを立ち上げ、それを今年からスタートする暗唱検定でチェックするという形を考えています。
作文力や記述力は、文章を書けば上達するわけではありません。書いて上達するのは、作文力記述力の一部です。文章を書く力は、文章を書くよりも、読む力をつけて上達する面があるのです。
その読む勉強を、毎日の自習という自然な形で取り組めるようにしていくのが大事です。
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「作文力や記述力は、文章を書けば上達するわけではありません。書いて上達するのは、作文力記述力の一部です。文章を書く力は、文章を書くよりも、読む力をつけて上達する面があるのです。 」
私も高1の娘といっしょに読解力アップに励みたいと思います。
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言葉の森の生徒の毎日の自習としての暗唱は、希望者が1ヶ月で900字の長文の暗唱をできるようにするという形で続けてきました。
暗唱は、やり方さえわかれば誰でもできるという見通しがあったので、以前はできるだけ全員がやるようにすすめていました。そして、今も実際に今やっている生徒のほとんどは、毎日の暗唱が勉強の習慣になっています。
しかし、家庭でお母さんと子供だけで自習をする形ですと、微妙なところで本来の正しいやり方とずれて、暗唱が続けにくくなる子がいました。
例えば、机の前にきちんと座って、ゆっくりていねいに読むというような暗唱の仕方です。やりやすい暗唱は、歩き回りながらでも何をしながらでもいいから場所などは気にせずに、早口で棒読みで読むというやり方です。
また、例えば、わずかの「てにをは」の違いを、内容が合っていれば少しぐらい違っていてもいいと最初に見過ごしてしまい、そのあと直せなくなるという人もいます。暗唱は、最初の数回目が最も大事で、ここで間違って読むとあとからはなかなか直せなくなるのです。
そのほか、文章を見ながらすらすら読むのではなく、文章を見ずにできるだけ思い出して読むような読み方をしてしまう子もいます。すらすら読めるようになるまでは、文章を見ながら音読した方がいいのです。思い出しながら読むと、思い出す読み方が癖になってしまうからです。
このように家庭で正しいやり方で取り組むのは、いろいろ難しい面があったため、暗唱の仕方のビデオを作りました。
しかし、このビデオもまだやや簡単に説明しすぎているところがあるので、今度はもっと本格的なビデオ教材を作りたいと思っています。
さて、言葉の森では、毎週先生が電話指導をするので、毎週の暗唱チェックができるという利点がありました。これは、通常の通信教育ではなかなかできないことだと思います。
しかし、電話だけのチェックでは、中には、長文を見ながら音読して暗唱してしまう子も出てきました。通常は、電話の近くには、お母さんなど家族の人がいるのでそういうことはありませんが、中には子供がひとりで電話で先生と話をするという家庭もあります。そういうところでは、暗唱チェックが形だけのものになってしまう可能性がありました。
また、暗唱チェックは、どうしても聞いている先生が甘くなってしまい、少しぐらい間違えたり、思い出せなくて助け舟が必要だったりしても、せっかく熱心にやっているのだからと合格にしてしまうケースもありました。
そこで、暗唱の自習をもっと確実にできるようにするために、今年から暗唱検定を行うようにし、暗唱検定用の暗唱長文も新たに作成しました。
現在、幼長から高3までの30編以上の新しい暗唱長文は大体できていますが、ルビふりなどの細かいところのチェックに時間がかかり、現在暗唱のページに掲載しているのは1編です。
今後の予定としては、1~3月の間に掲載する予定の3編の暗唱長文(1編が約1000字)を、続けて暗唱できるかどうかをチェックする暗唱検定を3月ごろに行う予定です。
3編続けてですから、約3000字の暗唱です。これを5分以内に間違えずに暗唱できることが目標になります。
暗唱は、正しく(ということは、親子喧嘩などをせずに)やれば、多くのメリットがあります。
例えば、語彙力がつきます。記憶力がつきます。理解力がつきます。表現力もつきます。毎日の勉強の習慣もつきます。また、今回の暗唱長文は日本の古典から選んでいるので、日本の文化に対する感受性も育ちます。
これらがわずか毎日10分の自習でできるのです。
しかも、言葉の森の電話指導の際に先生に暗唱チェックをしてもらえば、暗唱検定までの間の意欲も持ち続けられます。
暗唱検定は、電話ではなくskypeのビデオ通話か、作文検定と同じようにgoogleハングアウトで行う予定です。自宅で検定試験が受けられるので、取り組みやすい検定試験になると思います。
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勉強の習慣は、小学1年生のころにつきます。
勉強の習慣だけでなく生活習慣もそうです。自分で持ち物を用意し、自分で整理する習慣というものは、最初は親の働きかけがなければできませんが、いったんそういう習慣ができると、特に親から言われなくても自分でするようになります。
勉強も同じように、1年生のころに自分で勉強する習慣をつけておけば、しばらくは親が手伝ったりアドバイスをしたりすることもありますが、4年生になるころには、誰にも言われなくても自分で勉強するようになります。
しかし、小学1年生で勉強の習慣をつけるためには、勉強の仕方にコツが必要です。
第一は、毎日同じような勉強をするということです。今日は何をやろうかとそのつど決めるような勉強の仕方では、習慣はつきません。
熱心なお母さんは、ここのところを勘違いして、子供が意欲的に取り組めるようにいろいろ新しい教材を用意したり、新しい勉強法を用意したりしがちです。
しかし、親が工夫してさせる勉強は、親がいないとできないことになるので、子供は親が指示してくれるまで勉強を待つようになります。こういう勉強の仕方では、自分から進んで勉強する習慣はつきません。
ですから、親の手助けは必要ですが、親がいないとできないような勉強の仕方にはせずに、できるだけ親がいなくてもできるような形になるように工夫していくことが大切になります。
例えば、問題をやったあとの○つけなどもそうです。親が○×をつければ簡単ですが、そういう勉強では親がいないとできなくなる勉強です。
子供に自分で○×をつけるようにさせるには、採点を甘くしないとか、○×をつけたあと×のところを自分で考えるとか、いろいろな注意が必要になります。だから、最初はかなり手間がかかります。
しかし、ここで自分でやる仕組みを作っておけば、あとはずっと楽になり、小4以降も親が言わなくても自分で勉強する習慣が続くのです。
第二は、長時間やりすぎないということです。
親が見る勉強では、子供がその勉強を早く終わらせると、親はついもったいない気がして、勉強を追加させがちです。
しかし、いったんそういう勉強の追加をすると、子供はだらだらと時間かけて勉強するようになります。
勉強時間を決めて勉強をさせるのも同じようなだらだら勉強になりがちです。ある時間までやればいいとなると、その時間の範囲でできるだけ楽な勉強の仕方をするようになります。
勉強は時間ではなく、分量で決めておくのが原則です。そして、その分量も楽に終わるぐらいの量で、終わったらあとは自由時間としておくのです。
子供は、勉強よりも自由の方が好きですから、がんばればすぐに終わる見通しのある量の勉強であれば、集中して早く終わらせようとします。
小学校の間は特に、勉強の内容よりも、勉強の習慣をつけることが目的ですから、量は少なくても、毎日自分で自主的にやることが大事なのです。
第三は、勉強の開始時刻を決めておくことです。
決めやすい時間帯は、朝ご飯の前の自習、朝ご飯のあと学校へ行くまでの間の読書、学校から帰ってすぐの宿題、夕ご飯の前の自習、夕ご飯後の読書、などです。
その家庭の生活時間に合わせて、毎日同じように勉強する時間を決めておけば、勉強は習慣化しやすくなります。
学年が上がると、学校から帰る時間や夕方の時間は、いろいろと変動が出てきます。すると、夕方の勉強の習慣は崩れやすくなります。
だから、小学校1年生のうちから、朝ご飯前に主な自習を済ませる仕組みにしておくとよいのです。
こういう生活習慣は、いったんできると、あとから変えるのは大変です。したがって、小学1年生の始めの時期が、勉強の習慣を作る最も大事な時期になるのです。
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竹田和平さんと船井勝仁さんの対談の中で、船井さんは、「株は九勝していても一敗ですべてを失ってしまう可能性がある」と述べています。
一方、ユニクロの柳井正さんは、「一生九敗」という著書の中で、「商売は失敗がつきものだ。十回新しいことを始めれば九回は失敗する」と述べています。
株は九勝一敗でも負けることがある、事業は一勝九敗でも勝つことがある、という対比です。
更に、柳井さんは、「成功した経営者の中には、もっと凄まじく『百回に一回程度しか成功しない』などとおっしゃる方もいる」とさえ言っています。
これは、子育てにも、ということは人生にも、応用できます。
これまでの勉強は、いかにミスをなくし、苦手をなくし、総合点でよい点数を取るかということが中心になっていました。そのため、どこかに欠点がひとつでもある場合は、なかなか上にはいけないという仕組みになっていました。しかし、このことが、日本社会全体のレベルの高さを生んできたことも事実です。
一方、これまでの日本では、欠点や苦手の克服に力を入れる一方、突出した才能を伸ばすという面はあまり評価されていませんでした。
だから、よく言われるのは、日本は優れた大衆と、普通の平凡なリーダーによって運営される、そしてそれで何となくうまく行っている不思議な国だという海外からの見方があるということです。
しかし、九勝一敗でがんばる人生は、かなりストレスの多い人生です。勝ち続けることにそれほど力を入れるのではなく、五勝五敗かせいぜい六勝四敗で勝ち越せばいいというペースでやっていき、その一方で、一勝九敗でも勝てる分野を新たに作っていくのがこれからの人生設計になります。つまり、子育ても、一勝九敗で勝てる分野を作っていくことが大事なのです。それが、個性を育てる教育です。
小学校低学年のころは、勉強の内容も簡単なので、誰でもよくできます。だから、親はつい、もっと難しい問題をもっと完璧にできるようにしたいと思いがちです。
しかし、そこで、誰でもできることを誰よりもよくできるようにするのではなく、誰でもできることは人並みにできる程度でいいとして、その分を、誰もやっていないことをその子の個性を伸ばす形で取り組んでいく方がいいのです。
個性を伸ばすというのは、一勝九敗の世界ですから、「十回新しいことを始めれば九回は失敗する」かもしれません。しかし、十回のうち一回でも、その子に合うものが見つかれば、その一勝が残りの九敗を補って余りあるものになる可能性が高いのです。
これからの日本の社会は、ますます個性を重視したものになっていきます。
東大の推薦入試や京大の特色入試もその方向で出てきた入試制度です。
社会が一つの方向に向かって成長しているときは、同じことをよりよくやっていくことが正しい路線でした。そうすれば、普通の人でも、次々に広がるシェアの中で自然に上昇していくことができました。
しかし、これからの先進国では、社会はほとんどの分野で下降していきます。
今、身近な人が働いている仕事を思い浮かべてみるとわかるように、年々マーケットが小さくなっていくものがほとんどです。だから、たまにマーケットの広がりが一時的にせよ認められる分野(例えば介護)などでは、すぐに参入者が増え競争の中で市場が小さく分割されてしまうのです。
こういう大きく衰退傾向にある社会で、一勝九敗の分野を見つけるには、その分野を創造しなければなりません。創造とは、与えられた答えを速く正確に見つけることではなく、自分の個性をもとにして新しい答えを作り出すことです。
こういう時代には、まず親から、「答えがあるから安心だ」という発想ではなく、「答えがないから面白い」という発想に切り換えていく必要があります。
誤解のないように言えば、勉強ができることはよいことです。そしてもちろん、全教科、苦手なものがないように勉強していくべきです。それは、大して難しいことではなく、正しい勉強法とある程度の勉強時間があれば誰でもできることです。
しかし、そこそこ勉強ができるということで留まっていたのでは、これからの個性の時代に活躍することはできません。一勝九敗の世界をいつも念頭に置きながら子育てをしていく必要があるのです。
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明けましておめでとうございます。
平成28年は、大変化の年になりそうです。
世界中で過剰に印刷されたマネーが、実は経済に連動して回ってはいなかったのだということがわかると(それはもうとっくにわかっているのですが、建前上わかると)、経済の急収縮が始まります。
その経済収縮の中で、無駄なもの不要なものは次々に淘汰されます。
今の世の中であるのが当然だと思われていた仕事、利権、付加価値に、実は価値がなかったことが明らかになるのです。
そこから、これまで人に頼っていたもの、人に任せていたものを、自分たちでやろうという動きが出てきます。
何でも自分の手でやっていこうとする自前主義の意識が高まるのです。
自分たちで物事を進めるときの基準は、本質志向です。
他人のためではなく自分のため、外見ではなく本当に価値あるものを作っていこうとする方向がはっきりしてきます。
この本質志向は、医療、農業、教育、政治、食事、娯楽、仕事などあらゆるものに広がっていきます。
そして、本質志向と自前主義は、起業精神と結びつきます。
誰もが、自分の最も関心のあることを、まず自分でやろうとし、そしてやがてそれを自分の仕事にしていきます。
この起業精神と本質志向の中で、交流を中心とした社会が広がります。
これからの情報は、マスコミや宣伝によってではなく、信頼できる人との交流の中で伝わっていくからです。
この起業精神と交流社会の中で、技や道を追求する文化が生まれてきます。
日本には、もともと、どのような技術やサービスも最高のレベルまで到達させようとする文化があるのです。
そして、技と道の文化が広範に広がると、その文化を土台にした創造的な経済が生み出されます。
これまでの供給過剰で破綻した工業経済に代わって、創造的な文化の経済が生まれてくるのです。
創造文化経済の中では、社会のあらゆる層の人々が、自身の向上を目指すようになります。
そして、かつての城下町や門前町と同じように、学ぶ場所を中心とした輪のような町ができるのです。
このような社会では、左右の対立や、権力の分立や、議論のための議論はもう必要ありません。
最も意識の高い人のビジョンに合わせて、自然に社会全体がまとまっていきます。
これが新し日本列島の姿です。
そして、この日本の国の仕組みが、やがて世界に広がっていきます。
平成28年を、このような新しい世界が始まるきっかけの年にしていきましょう。
言葉の森も、頑張っていきたいと思います。
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国語の問題文の読み取りの仕方で、線も何も引かずにきれいに読む子がいます。そういう読み方では、設問を見て問題文に戻ったときに、該当する箇所がすぐに見つかりません。だから、正確に読み取れません。
問題文には線を引いて読む必要があります。
一方、問題文に、ていねいにも接続詞は四角で囲み筆者の意見は波線を引き、というような読み方で読む子もいます。これでは、時間がいくらあっても足りません。
今の国語の問題は、差をつけるために読む文章の量が多くなっています。途中で考えたり、読み返したりしている暇はないのです。
では、どうして、このような接続詞を四角で囲むというやり方をするかというと、国語の勉強をいかにも勉強らしくやりたいという事情があるからです。同じように、わからない言葉を逐一辞書で調べるというのもそうです。
そういう明確な方法論を持った勉強をしたいという気持ちはわかりますが、それはあくまでも外見上の勉強らしさです。
国語の勉強法は、他の教科の勉強法とはかなり異なります。それは、スポーツや音楽の勉強法と似ています。理屈でわかる以上に、自然に体が動いていくまで練習することが必要なのです。
国語の場合の練習とは、入試問題のレベルの文章を読み慣れることです。その際、線を引いて読みますが、途中で確認のために立ち止まったり読み返したりはしません。ただひたすら前へ前へと読んでいき、線を引くのは、面白いと思ったところだけにします。
ときどき、大事なところに線を引くと考えている人がいますが、読んでいる途中にその箇所が大事かどうかはわかりません。大事なところがわかるのは、全部を読み終えてからです。だから、読んでいる途中は、面白いと思ったところ、よくわかったところ、という主観的なところに線を引くのが大事なのです。
主観的な線の引き方をして、最後までできるだけ早く読み終えるようにすると、文章の全体像がわかります。国語の場合は、この全体像がわかるということが最も大事です。
特に、入試問題の場合は、次のような性格の文章がよく出題されるのです。
ひとつは文章の書き出しの部分に、難しくわかりにくい、しかし内容的には意味のない文章が入ってくることです。読む力のない生徒の多くは、ここをじっくり読んでしまいます。読む力のある生徒は、「わかりにくい文章だなあ」と思いながらも気にせずに先を読んでいきます。それは、最後まで読めばわかるという見通しがあるからです。
実力のないときほど、難しいことを重要だと思い、実力がついてくるほど、難しいところも易しいところも同じウエイトで読めるようになるのです。
もうひとつは、文章の最後の数行にあたるところで、全体の意味がやっとわかるような話が入ってくることです。だから、問題文を最後まで早く読んだ人ほど理解が深まり、途中の難しいわかりにくいところを詳しく読み取ろうとした人ほど理解が浅くなるのです。
さて、問題文を最後まで読み、設問に取りかかると、もう一度問題文に戻って確かめる作業が必要になります。そのときに、主観的に線を引いたところが生きてきます。
線を引いた箇所が、「面白いと思ったところ」「自分なりによくわかったところ」という主観的なものですから、その箇所が目印になって、探したい箇所がすぐに見つかります。
これがもし、「その文章に即して大事なところ」という客観的に見えるが、自分の感情が動いていないところであると、その線を引いた箇所は目印になりません。
道を覚えることと似ていて、目印は主観的な最初にピンと来たところがいちばんいいのです。
一方、問題文をきれいに、線も引かずに読んでいる人は、戻って確かめるという作業にもっと時間がかかります。
よく、設問を先に見てから、問題文を読むという読み方をするという人がいますが、これもほとんどの場合かえって時間がかかります。
しかし、こういう主観的なところに線を引いて最後まで素早く読むという読み方は、慣れていないとできません。だから、練習量が必要になります。
練習量を確保するためには、国語の問題集などを解いてたのでは駄目です。問題を解かずに問題文を読む練習だけをしていくのです。
物語文の読み方は、説明文の読み方とは少し異なります。この場合も線を引きながら読むことは同じですが、その物語的な文章に没頭して味わいながら読むのです。自分がその中の登場人物であるかのように読んでいると、設問を見たときにも、自分の経験を聞かれているような感じですぐに答えられます。
この場合も、物語の本を没頭して読んだ経験が生きてきます。だから、国語力は、問題集を解くような勉強をするよりも、好きな本を味わいながら読んでいた方がずっと力がつくのです。
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国語力は読む力だとハッとしました。
勉強の仕方が間違っていたように思います。
めぐちゃんさん、ありがとうございます。
国語ははっきりした成果が見えにくい気がすると思いますが、読む勉強をしていくと必ず成績が上がります。
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満ち潮の時代というのは、人口が増えて、所得が増えて、シェアが広がり、売上が上がり、規模が大きくなり、部下も増えていくという経済成長の時代です。
それに対して、引き潮の時代というのは、人口が減って、売上も減って、所得も減り、規模も縮小していくという今のようなデフレの時代です。
満ち潮の時代では、大きい船に乗ることが成功の条件でした。
だから、勉強にしても、スポーツにしても、音楽にしても、できるだけメジャーなものをやっていた方が潰しが効きました。
大きい船に乗っていれば、船自体が満ち潮で上昇していくので、小さい船に乗っているよりも見返りは大きかったのです。
今の大人の多くは、こういう満ち潮の時代を生きてきました。だから、その時代の価値観が根強く残っています。
そのために、つい多くの人がやっているのと同じものをやる方がプラスになると考えてしまうのです。
ところが、現代は既に引き潮の時代になっています。
引き潮の時代では、何もかもが縮小していきますから、大きい船に乗っていると、今度は逆に減っていくものを奪い合う競争が小さい船よりも激しくなります。
満ち潮のときに有利に働いていたものが、引き潮のときには反対に働くようになるのです。
しかし、こういう引き潮の時代の対処の仕方を経験している大人はほとんどいませんから、引き潮の時代でもまだ、より大きなより安全な船に乗ることを志向してしまうのです。
今の日本の社会を見てみると、さまざまな分野で、何々不況というものが生まれています。
人口が減っていて、必要なものがほぼ満たされている社会では、物は年々売れなくなっていくのが当然です。
そして、たまに市場の広がる分野が見つかると、参入者がどっと入ってきます。そして、そこもすぐにレッドオーシャンになります。
もう仕事を引退したような年配者だけは、とりあえずこれまでの蓄積があるので、危機感をそれほど感じてはいないというだけです。
では、引き潮の時代には、どういう生き方をしていけばいいのでしょうか。
そのコツは、メジャーなものから離れて、誰もがあまり見向きもしない小さな個性的な船に乗ることです。
引き潮の時代には、小さな船だから入れるような小さな入江があちこちにできます。そこでブルーオーシャンを見つけていくのです。
満ち潮の時代は、誰もが納得するような合理的な答えがある時代でした。だから、みんなが迷わずその道を選ぶことができました。
引き潮の時代には、誰にも共通するような答えはありません。勘と運と持続力だけが頼りです。
しかし、だから、逆に面白い時代だとも言えるのです。
そして、潮の満干(みちひ)があるように、引き潮の時代のあとには、また満ち潮の時代が来ます。
そのときに来る満ち潮は、今の満ち潮とは違うところに広がります。
今の引き潮の時代は、次の満ち潮の準備の時代とも言えるのです。
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