オンエア特別講座、寺子屋オンエア、オンエア作文などの教育を進めていく主体として、言葉の森が考えているものが森林プロジェクトです。
森林プロジェクトでは、言葉の森の教材と指導システムを使い、小1から高3までの子供たちに作文を教えます。
それは、作文の勉強というものが、独学や家庭学習だけでは十分にやりきれないものであるからという理由もあります。しかし、それ以上に大事なのは、森林プロジェクトで作文指導を行うことによって、プレゼン作文発表会や作文検定などのより発展的な作文学習ができるということなのです。
また、森林プロジェクトは、作文を指導するだけでなくオンエア特別講座や寺子屋オンエアの講座も併設できます。つまり、家庭における自学自習を支えるとともに、子供たちどうしが個性を伸ばし合う場も提供することができるのです。
この森林プロジェクトは、未来の社会ですべての人が消費者でありかつ生産者であるという時代の、生産者のひとつの先取りです。
最初は、自宅の近くで近所の子供たちの作文を見てあげる仕事です。近所なので、プレゼン作文発表会なども近所でリアルに行うことができます。
週に1回だけの教室では、自宅での音読や暗唱や読書の指導まで徹底できないことがあるので、寺子屋オンエアで、教室に来る日以外の家庭学習のアドバイスもします。もちろん、これは生徒と先生の希望によるオプション指導です。
オンエアで家庭学習を見てあげることに慣れてきたら、その先生が自分の得意分野でオンエア特別講座を開講することができます。
オンエア特別講座は、インターネットによって世界中に開かれていますから、自分の得意な分野がニッチなものであればあるほど、ロングテールのニーズを見つけやすくなります。
これからの時代は、多くの人が関心を持つメジャーな分野で供給者どうしが激しい競争をするのではなく、自分だけのオリジナルな分野で、遠く細いニーズとつながる方が効率のよい仕事になります。ダーウィン流の適者生存の競争の時代から、今西錦司流の棲み分けによる共存の時代になっていくのです。
このようにして新しい仕事を作り出すことも、これからのひとつの創造になります。
そして、その自分独自のオンエア特別講座に、更に大きく広げる見通しが出てくれば、自分が直接教えるだけでなく、新たに教える人を育てるという仕事に、教える仕事のレベルを一段階上げていくことができます。
個性的なものは、かけた時間に比例して他の誰もが真似のできないものになっていくので、供給者どうしの競争という混雑から離れて、自分独自の世界を深め広げていくことができます。こうして、多くの人が自分の個性を生かして生きていくことが未来の社会を準備することにもなります。
このような仕組みを作れる可能性の最も近くにある国が日本です。そして、この可能性は、日本だけ留まらないのです。(つづく)
※次は、「アジア、アフリカのフロンティアについて」です。
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寺子屋学習がオンエアでできるように、作文もオンエアで学習できます。(ここで言う「オンエア」というのは、ウェブ会議のようなシステムで先生と数人の生徒が自学自習形式のグループ学習をする仕組みのことです)
オンエア作文の利点は、先生と生徒が電話だけでなく画面を通して対話できることです。また、その担当の先生が教えているほかの生徒とも、画面の上では一緒に勉強できるので、家庭での学習ではあっても孤独感がありません。
更に、書いている途中で質問があったり、相談があったりした場合は、質問コーナーなどの別のオンエアに入り直して、そこで質問や相談をすることができます。
オンエア作文は、パソコンの方が画面が大きく見られるので便利ですが、スマホでも十分に対応できます(ただし機種によっては、イヤホン付きマイクを使った方が音声が聞き取りやすくなるものもあります)。
パソコンでオンエア作文の授業を受ける場合は、パソコンで画面を見ながら電話やskypeで先生の指導を受けるという形になります。どうして電話やskypeを使うかというと、ほかの生徒の勉強の勉強の邪魔にならないように、生徒と先生が一対一で話す必要があるからです。
パソコンの故障で画面が見られないことがあっても、勉強自体には特に支障はありません。通常どおりの電話指導だけできれば、作文の勉強の方はこれまでと同じようにできるからです。
作文を書いている間は、カメラは机上の方に向けておくので、先生は、それぞれの生徒がどういう感じで書いているか見ることができます。
言葉の森の通信指導は、休んだときも別の日や別の時間にふりかえ指導が受けられることが特徴です。これは、オンエア作文でも同じです。どうしてほかの通信教育では、電話指導やオンエア指導がしにくいのかというと、このふりかえ指導に対応することが難しいからです。
通信教育の弱点は、通学のリアルな教室に比べて強制力がないことだと言われています。しかし、言葉の森の電話指導による通信教育は、小学生から高校生までの全学年平均で月4回の提出率が94パーセント以上となっています。
オンエア指導は、電話指導よりも更に深く先生と生徒とのコミュニケーションが取れるので、提出率は通学教室と変わらないかそれ以上になると思います。
通学教室の弱点は、わざわざ通わなければならないので時間の負担が大きいことです。オンエアによる通信教育は、家庭からインターネットで参加できるので、通う負担はありません。
また、言葉の森のオンエア指導は、ビデオ授業のような全員一律のものではなく、それぞれの生徒の自学自習を生かした個別対応による指導ですから、出席率が高いだけでなく中身のある勉強になっているのです。
さて、個性を育てる「オンエア特別講座」、全教科のバランスのよい学力をつける「寺子屋オンエア」、勉強の集大成でありかつ創造性を育てる「オンエア作文」が、これからの子供の教育の重要な柱になるとして話を進めてきました。
では、その教育を進めていく主体はどういうものになるのでしょうか。(つづく)
※次は、「森林プロジェクト」についてです。
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作文は、書いたものが作品としてのひとつのまとまりを持っています。個性を伸ばすことや学力をつけることは、その過程が重要なので、結果は必ずしも作品という形にはなりません。それに対して、作文は、書く過程も考えを深める過程としてもちろん重要ですが、それ以上にその書いた結果が作品として形のあるものが残るということも重要なのです。
結果が作品として残るということは、その結果を互いに発表し合い共有し合うことができるということです。この発表を、文章の上だけでなくビジュアルな形で発表するようにしたものが、プレゼン作文発表会です。
このプレゼン作文発表会も、オンエア特別講座の読書感想クラブと同じように、発表する生徒がその作文に関連する絵や写真や音楽や動画などを用意してyoutubeにアップロードしておきます。それを少人数のグループで互いに発表し合い、質問や感想を交わし合います。
これまで学校などで行われてきた作文の発表の機会というものは、ほとんどの場合、最も優れたものが選ばれ発表されるだけで、その他大勢のものは、ほかの人に見てもらう機会がありませんでした。
しかし、すべての人が主人公として活躍するこれからの社会では、全員が互いの作文を見ることができるようになる必要があります。そのためには、少人数のグループでの作文の共有が行われる必要があります。それが、少人数のネットを使ったプレゼン作文発表会なのです。
プレゼン作文発表会は、小中学生の段階では、読む力・書く力・経験・知識などの集大成というそれ自体が勉強のひとつという位置づけになります。
しかし、高校生、大学生になると、勉強の集大成以上の意味を持つようになります。それは、例えば、高校生や大学生が書く作文は、その社会(地域社会から国際社会まで含むさまざまなレベルの社会)に対する提言にもなるからです。
すると、プレゼン作文発表は、作文のプレゼンテーションであるよりも、提言のプレゼンテーションになります。
ここで重要になるのは、文章が上手かどうかということではありません。その文章に盛り込まれている内容がどれだけ創造的であるかということです。
作文が創造性を育てるという目的を持つのは、このような意味においてです。そして、これからの人間社会で、どんな時代でも価値あるものとして残るのは、ゴールドでもマネーでも土地でも資源でも知識でもなく、その人の持つ創造性なのです。
創造性以外のものは、買うか、借りるか、外注するか、コピーするかができます。しかし、創造性は、それぞれの人が自分のものだけしか持つことができません。
そして、人間の社会を豊かにしてきたものは、単に汗水たらして働くことではなく、誰かの創造性に他の誰かの創造性が積み重なってできた創造性の連鎖なのです。
植物は、世界の酸素と炭素化合物を大量に供給しています。しかし、その植物の最初の出発点は、光合成の発明というたったひとつの創造で、あとはその創造を大量にコピーしているだけです。
しかし、そのコピーの仕方にもいくつもの小さな創造があり、ある植物は砂漠でも生き延びる仕組みを創造し、ある植物は極寒の地でも生き延びる仕組みを創造しました。それらの小さな創造の積み重ねが、現在までの地球の豊かさを作り上げてきました。
人間の役割も同様です。すべての人が自分の今いる場所で小さな創造を行うことによって、世界の豊かさは加速していきます。その創造のためのひとつのツールが作文で、作文によって創造を共有する場がプレゼン作文発表会なのです。(つづく)
※次は、「オンライン作文について」です。
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寺子屋オンエアでは、子供は、家庭で自分の決めた時間に勉強に取りかかります。その際に、その日に何の勉強をどこまでするかという目標を先生に連絡します。
勉強の開始時刻に寺子屋オンエアの画面に入ると、既に先生がいて、同じ時間帯で勉強しているほかの生徒もいます。生徒の場合は、カメラが机上に向いているので、見ようと思えばほかの生徒がどんな勉強をしているのか見ることができます。しかし、実際には、そういう他人のことは誰も特に関心は持たず、自分の決めた勉強に取り組みます。
寺子屋オンエアではない場合の家庭学習の弱点は、孤独な勉強が長続きしにくいことにあります。しかし、寺子屋オンエアの場合は、先生もいるし、一緒の時間に勉強している生徒もいます。しかも、自分が勉強する内容をあらかじめ先生に連絡しているので、勉強が終われば先生にその日の勉強の内容を説明することになります。だから、ひとりでも集中して勉強することができるのです。
しかし、もちろん中には、わからないところを適当に飛ばして勉強してしまう子もいます。ここで大事になるが親の役割です。
寺子屋オンエアでは、先生がその子の勉強の概要を把握しチェックするだけでは不十分なところもあります。そこで、親がその時間にその場にいない場合は、帰宅後でいいので、子供に、その日の勉強でわかったこととわからなかったことを説明してもらうのです。
子供が熱心に説明すれば、それはよく理解できていたということです。その反対に、子供がよくわからないと言うところがあれば、親が一緒に考えてあげます。
小中学生の勉強は、親の助けで解決するものがほとんどです。解説の詳しい参考書的な問題集であれば、その解説に沿って説明すればいいのですからそれほど苦労することはありません。しかし、中には親では説明しにくいものもあるかもしれません。その場合は、親が先生に質問して確認しておけばいいのです。
小中学生の勉強で大事なことは、能率よく教えてもらうことではありません。もともと義務教育のレベルの勉強は、誰がやってもできるようになるものです。
大事なことは、自分で勉強する習慣をつけること、その勉強の中身を親が把握していること、必要に応じて相談できる先生がいることです。
この中で特に大事なのが、自分で勉強する姿勢を子供のうちから作っておくことで、この姿勢は、塾や予備校に通うとか、ノルマを課されるとか、賞や罰や競争で意欲づけされるとかいう形ではかえって育ちません。
本当の勉強は、高校生や大学生になってから始まります。そのときに自分の意志で進んで勉強するようになるために、小中学生時代のうちに、自分で勉強する習慣をつけておく必要があるのです。
さて、オンエア特別講座の読書感想クラブで個性を伸ばし、寺子屋オンエアで全教科のバランスのよい学力をつけたあとに、もうひとつ大切な勉強があります。それは作文です。
勉強に限らずどの分野でも、最後に必要になるのは読む力と書く力です。
外国語の学習でも、ヒアリングとスピーキングは、身近なコミュニケーションのためには必要ですが、それだけではその外国語で学問や仕事をする段階にまで行きません。聞くこと話すことに比べて、読むこと書くことは質の違う難しさがあるのです。
これは、日本人における日本語の場合も同様です。上手に喋る人はたくさんいますが、上手に文章を書く人はずっと少なくなります。
文章を書くということは、勉強や仕事の集大成という面があります。それ以外にも、考えを深めるために文章を書くという面もありますが、他人に見せてわかるように書くということは、作文の勉強の第一の目標で、それはそれまでの勉強全体のまとめという意味を持っているのです。(つづく)
※次は、「作文を書くこと――プレゼン作文発表とオンライン作文指導について」です。
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今の受験中心の勉強の弊害は、よくできる子にも、普通の子にも、よくできない子にも表れています。
よくできる子は、自分のペースで先の学習まで進んだり、より難しい問題に取り組んだりしていけばいいのです。それは、受験の勉強を先取りするということではありません。受験勉強の先取りは、かえって頭を悪くします。
受験的な勉強は、受験の最後の1年間でやればいいと考えて、それまでは本当の学力をつけるための教科書レベルの勉強を先取りし、自分の興味に応じてより高度な勉強も追加していけばいいのです。
自分のペースでする勉強の方法が、家庭での自学自習です。
ただし、子供が自分の力で自然に自学自習するということはまずありませんから、大人が、自学自習しやすい体制を作り、それを運営していく必要がります。
しかし、それは、大人(親や先生)が子供に一方的に教えこむような従来のスタイルの勉強ではありません。大人は、体制を作り、子供の自学自習がスムーズに行くようにやり方をチェックし、必要に応じて子供の質問に答えるという役割に留まります。
大人がリーダーとなって引っ張っていくのではなく、子供が自主的にやることを、大人がサポートしていくという役割です。この大人とは、親と先生ですが、特に小学生までは親の役割が重要になります。
例えば、子供が算数の勉強をしていてわからない問題にぶつかった場合、解説を読んでもわからないとき、子供は普通、身近な人である親にまず聞きます。そのことによって、親は子供の学習レベルがわかり、子供の理解度に応じた説明をすることができます。
そして、親が説明をしても子供がよく理解できない場合は、今度は親が先生に説明の仕方を質問するという形に進みます。そして、その結果をやはり親が子供に伝えなおしていくのです。
中学生の義務教育までの勉強では、子供の質問はすべて親が最初に対応するつもりで臨んでいくことです。そのことによって子供の勉強の実態がわかり、早めに的確なアドバイスができるようになるからです。
自学自習のもとでは、親子の勉強はそれほど多くの親の時間を取るものではありません。
親が子供に教え込む形の勉強では、子供の勉強時間と同じ時間だけ親がつきっきりでいなくてはなりません。しかし、自学自習の勉強の体制ができれば、子供は勉強時間のほとんどを自分の力でやっていきます。
親は、勉強の結果を子供に聞き、子供にわかったこととわからなかったことを説明してもらえばいいのです。子供が、わかららないところをは手を抜いてやっているのではないかという不安がある場合は、いくつかポイントを絞って質問し、子供に答えてもらえばわかります。
そして、親は子供が自分の力ではわからなかったところだけ一緒に考えて説明してあげればいいのです。その上で、親にも説明しにくいところがあれば、親が先生に質問し、それをまた次の日に親が子供に説明していきます。これが、家庭における自学自習のスタイルです。
ところで、今の教育方法の多くは、こういう自学自習の形ではありません。
低中学年の早い時期から勉強を外部の機関(塾や通信教育)に任せると、親が子供の勉強の実態が把握できなくなります。親が見ることのできるのは点数という結果だけで、勉強の中身はブラックボックスになっていきます。すると、親がアドバイスできるのは、子供の勉強の取り組み方という外見だけになり、「遊んでいる暇があったら勉強しなさい」などという外側からの強制しかできなくなってきます。
こうなると、子供はポーズとして勉強するようになります。ポーズの勉強とは、簡単にできる問題を手を動かして長時間解くような勉強です。
時間をかけているわりに成績が上がらないというのは、勉強をポーズとしてやっているからであることが多いのです。
勉強を外部の機関に丸投げすれば、それがどんなによい塾や学校や通信教育であっても、同じように親の関与は外面からだけのものになります。
子供の勉強は、いずれ親の手から離れるとしても、少なくとも小学校時代、できれば中学校時代までは、親が子供の勉強の中身にも関与できるようにしておく必要があります。それが家庭における自学自習の体制の土台になります。
このような家庭での自学自習を実現するために、言葉の森が今行っているのが寺子屋オンエアです。(つづく)
※次は、「寺子屋オンエアでの勉強の仕方について」です。
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次は、バランスのよい学力を育てることについてです。
今、学校や塾で行われている勉強の多くは、受験を目的としています。受験が勉強の目的にならざるを得ないのは、合格者の人数に制限があるからです。なぜ合格者の人数に制限があるかというと、教える先生の数が限られていて、教室の机の数が限られているからです。だから、試験をして、その学校の定員の中に入れる人を選ぶ必要があるのです。
しかし、このごく当然のように見える前提が大きく崩れつつあります。そのひとつはMOOCなどに見られるようなネットを利用した教育によってです。近い将来、受験はもっと緩やかなものになり、誰でも好きなところに入れるが、そこで勉強して卒業するにはそれなりの努力が必要になるという形に変わるでしょう。そうなると、勉強は受験に勝つためのものではなく、実力をつけるためのものになっていきます。
受験の価値が薄くなるもうひとつの理由は、少子化による大学の経営難の結果、安易な推薦入試が増え学歴と実力が相関しない例が増えているからです。また、受験のテクニックが高度化した結果、実力がなくても点数は高いというケースも増えてきたからです。
読書や思索や幅広い経験の時間を持たずに、ただ素直に勉強だけしてきた生徒の点数がいくら高くても、その点数が実力だとは言えません。そういう、まるで科挙の時代の末期のような、受験勉強の末期状態が今生まれつつあります。
現在のような受験が目的となる勉強のもとでは、勉強の重点は、人生や社会に役立つ大事なことにではなく、受験で差がつきやすいところで点数を取るということに置かれます。
昔は、受験勉強は、実力を伸ばすひとつのきっかけとして有用なものでした。今でも、もちろんそういう面はあります。だから、受験の1年間で学力が飛躍的に伸びるのも事実です。しかし、その受験勉強が先取りによって行き過ぎたものになると、逆に受験のための勉強に特化することによって、かえって学力が低下していくのです。点数は上がるが、本当の学力は低下するというのが、今の受験勉強が持っているマイナスの一面です。
受験勉強の弊害は、二つの面で出ています。ひとつは、受験勉強の先取りのし過ぎです。例えば、ある作者とその作者が書いた作品を結びつけるという国語の問題があった場合、本当の実力とは、その作者の書いたその作品を読んでいて自然にわかるというものです。しかし、その作者と作品をただ知識として記憶しただけの子も、同じ点数が取れます。そして、多くの本を読んで自然に身につけている実力のある子よりも、本を読む時間を省略してただ多くの作者と作品の結びつきを覚えた生徒の方が一般に点数はよいのです。
もちろん、こういう一夜漬けに近い勉強が必要な場面は、社会生活でもあるので、決して無駄ではありません。しかし、それはせいぜい受験の最後の半年か一年で集中してやればよいことです。何年も前からそういう条件反射的な勉強の仕方をすることは、かえってその子の学力を低下させることになるのです。
受験勉強のもうひとつの弊害は、勉強の苦手な子を多数生み出していることです。人生に役立つ本当の学力をつけることを目的にした勉強であれば、誰もが満点を取れることが目標になります。江戸時代の寺子屋で行われていた読み書き算盤は、そういう勉強でした。寺子屋で学ぶ子供たちの中には,よくできる子も、あまりできない子もいたでしょう。しかし、誰もが自分のペースで必要なことを学んでいきました。この誰もが満点を取れるようになるというのが、教育の本来の目標なのです。
しかし、受験が目的になっている勉強のもとでは、教える先生は、受験で差がつきやすい難しいところでいかに得点するかということに勉強の重点を置きがちです。解き方を訓練していないと時間内には解けない算数数学の問題、合っているものを選ぶのではなく、間違ったものを選ばないという国語の問題は、こういう事情で生まれてきています。そして、受験勉強の重点が点数の差のつきやすいものに置かれると、それに対抗するかのように受験問題は新たに点数の差のつきやすいものに進化(というか退化)していきます。このようにして、重箱の隅をつつき合うような受験勉強と受験問題の結果、多くの子が落ちこぼれていくのです。その落ちこぼれを救う方法は、差のつきやすい難問の解き方をていねいに教えることではありません。本当に必要な勉強を教えることなのです。そして、その本当に必要な勉強を学ぶことであれば、それは教科書レベルの教材と、自学自習の仕組みと、質問に答えられる体制さえあれば十分なのです。(今の教科書は解説があまり詳しくないので、教科書レベルの教材に詳しい解説が加わった市販の参考書や問題集の方がいいのですが。)(つづく)
※次回は、「自学自習の仕方について」です。
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では、どこでどのようにして個性を発見するかというと、それは読書によってなのです。読書というと、多くの人は、ストーリーのあるフィクションの本を考えると思います。フィクションももちろん個性発見のきっかけになりますが、よりはっきりと個性を自覚させてくれるのが、説明文やノンフィクションの本です。
ノンフィクションの分野には、科学、芸術、スポーツ、料理、ファッション、電車、ロボット、恐竜、政治、経済、文化などと大きな広がりがあります。人間の個性は、こういう読書がきっかけになって自覚されることが多いのです。
例えば、ある探検家が、子供時代に寒さに耐える練習をするために冬でも窓を開けて寝たなどという話を読むと、そういうことに感動してすぐに自分もやってみたくなる子と、そういうことに全く興味がなく、自分もやってみようとは思いつきもしない子に分かれます。これが個性です。その子の個性に合ったことは、止められてもやりたくなるし、個性に合わないことはどんなに勧められてもやりたくないものなのです。
両親と学校の友達と近所や親戚の人たちという狭い世界の中では、子供が本来持っている個性に合うものはなかなか見つかりません。だから、多くの人は、間に合わせの個性でほどほどに満足して成長していくことになるのです。
個性を磨くためには、その個性に費やす時間が必要です。10年同じことに興味を持って取り組んでいる人にほかの人が追いつこうと思えば、やはり10年かけなければなりません。もし自分のほかに10年かけている人がいなければ、その人はその分野の第一人者だと言ってもいいでしょう。たとえ10年かけて追いつこうとする人がいても、自分はもう10年先に行っていればいいからです。
ところが、多くの人がやっているよくある個性の場合には、第一人者になることは至難の技です。
例えば、サッカー、バスケットボール、野球、ピアノ、バイオリン、バレエなどの分野では、既に多くの人が昔から何十年もかけて取り組んでいます。だから、そこで自分が第一人者になる確率はきわめて小さいのです。そのかわり、その分野のレベルの高いものを吸収できるという利点もありますが、そこから一歩踏み出して自分独自のものを作り出すのはやはり難しいのです。
このメジャーな分野に参加して、できるだけピラミッドの上の方まで行くというのは、過去の工業社会の時代の名残りです。オリンピックの金メダル銀メダルなども、こういうピラミッド型社会の発想を前提としています。
これからの社会は、そういうピラミッドのなるべく上に行くことによって満足する社会ではありません。一人ひとり自分が山の頂点になるような分野を見つけるのが未来の社会です。そのためには、他の人が興味を示さないかもしれない個性的な分野で、自分にぴったり合うものを見つけ、そこに時間をかけて取り組んでいくことが必要になるのです。
では、そういう個性を発見するきっかけとなる読書をどのように用意していったらいいのでしょうか。言葉の森が考えているのは、インターネットを利用した「読書感想クラブ」という仕組みです。
まず、オンエアで6、7人の生徒がグループになります。そして、それぞれの生徒が自分の好きな本をみんなに紹介します。しかし、子供たちどうしでは読書の広がりが欠けるので、担当の先生も子供たちが興味を持ちそうな本を紹介します。
友達の紹介してくれた本や、先生の紹介してくれた本で、自分も興味があるものについては、本の貸し借りができるような仕組みにします。互いに少人数の固定した仲間なので、期限を決めて郵便でやりとりすれば貸し借りは安全にできます。
そして、その次の会合までに、友達や先生から借りた本、又は自分が持っている本をもとに感想を発表し合います。この感想が大事なのです。
本の感想というと、多くの人は、自分の思ったことを書けばいいのだと考えがちですが、そういう思ったことだけの感想は、誰が書いても同じようなものになることが多いのです。極端に言えば、感想の最後の結論は、「面白かった」か「つまらなかったか」ですから、そういう感想だけをいくらふくらませようとしても、個性ある感想にはなかなかなりません。
言葉の森の行っている感想文指導は、感想を書く前に、感想の裏付けとなる似た例を見つけることが中心です。「読書感想クラブ」の場合も、その似た例を見つけるために、実験や調査をしてみるのです。その実験や調査の過程を、写真で撮ったり動画で撮ったり絵で描いたりしておけばなおよいでしょう。
次の会合には、その実験や調査を伴った感想をみんなの前でビジュアルに発表します。ちょうどプレゼン作文発表会のような感じです。
このようにして、さまざまな新しい経験を積み、他の人の経験に接することで、自分の個性もより一層磨かれてきます。
個性は、すぐにその場で生かす必要はありません。人間の個性は年齢とともに変化し成長していくからです。しかし、小中学生時代にそのようなさまざまな経験をした子は、大人になっても自分の個性の輪郭がはっきりしてきます。すると、「自分が本当は何がしたいのかわからない」というようなこともなくなりますし、「自分探しの旅」に時間をかけることもなくなります。自分の個性や興味や適性を生かして生きていくことが、人生を楽しく過ごすための第一の条件になるのです。
これが、言葉の森の考える個性を育てる教育です。
この「読書感想クラブ」と同じような少人数のオンエア講座には、ほかにもさまざまな企画が可能です。
これまでにオンエア講座で行ったものは、「親子作文」「紙折り暗唱」「公立中高一貫校適性試験」「中学生定期テスト」「センター試験国語」など、勉強的なものが中心でしたが、ほかにも、行事、ロボット作り、工作、料理、音楽、スポーツ、行儀作法など、いろいろなものが考えられます。
いずれも、自分が興味を持ったものに接することによって、個性を自覚するきっかけができます。そして、自分に合ったものを伸ばしていくことが、将来の人生設計の土台になっていくのです。(つづく)
※次回は、「バランスのよい学力を育てることについて」です。
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今の世界経済は、行き詰まっています。先進国はどれだけ金融緩和をしても景気は上向かず、株価だけがマネーゲームで上がり(ということはそのうち下がることがあるのですが)、貧富の差はますます広がっています。そして、国家の財政赤字も日々拡大し、それが縮小する見通しはありません。
しかし、これを政策が悪いからだと言うことはできません。政治は今の時点でできることをやるために、できる限りの工夫をしているはずです。だから、国民のすることは、批判する対象を探すよりも、自分のできる場所で日本が直面する困難に立ち向かっていくことです。
そして、その一方で、その困難を克服したあとにこれから迎える新しい社会を生きる子供たちを、どう育てていくか考えることです。
今の世界の行き詰まりの最も大きな原因は、経済の新しいフロンティアが見つかっていないことです。
先進国がこれまで担ってきた工業社会は、グローバリズムの流れの中で、新興国、中心国に拡散していきました。新興国は、低賃金と最新設備によって、先進国から工業生産の主要な役割を引き継ぎました。
先進国は、理屈の上では、より高度な工業生産を目指していけばよかったはずなのですが、高度な工業生産は、これまでの工業のような多数の雇用を必要としませんでした。
雇用を増やさずに生産性を高める大企業と、所得を低下させ消費力を減退させていく大多数の消費者との間の矛盾が今の社会の行き詰まりの大きな原因です。
だから、これから作るべき新しい社会は、これまでのような生産を一手に引き受ける少数の大企業と、消費だけを一手に引き受ける多数の消費者によって構成される社会ではありません。
人類全体の生産力は、既に人類全体に必要な消費を埋めて余りあるものになっています。だから、先進国が率先して新しい消費と、その消費によって引き出される新しい生産を生み出す必要があるのです。しかも、その新しい生産は、生産に特化した企業によって行われるのではなく、消費者が生産者を兼ねるような形で行われなければなりません。
すべての人が消費者であるとともに生産者であるような社会を作ることによって初めて流れの止まっていた通過が動き出し、経済が自然な活性化を取り戻すのです。
江戸時代の三百年間は、経済の停滞した時代と考えられています。しかし、その中で、日本独自のさまざまな文化が生まれました。その文化を担ったのが、消費者でありかつ生産者でもある大衆の中から生まれた無名の独創家でした。今の日本が目指すのも、こういう時代です。
これまでの社会では、人間は労働者でありかつ消費者でした。労働者というのは生産者ではなく、生産者の手足となって働く人です。生産者とは、自分の意思で物を作り出す人ですから、生産者とは別の言葉で経営者と言ってもいいでしょう。
未来の社会は、誰もが経営者でありかつ消費者でもあるような時代、つまり、生産と消費の両方を兼ね備えた人間の本来の姿に近づく社会になるのです。
今の子供たちが将来社会に出るころには、そのような誰もが経営者でありそして消費者であるような世の中になっているでしょう。その時代を生きていくために、今大事なことは、経営者となるための子育てを上手に行っていくということです。
一昔前までは、経営者になることは大変でした。まず大変なのは、資金を作ることでした。なぜ資金が重要だったかというと、物を作るのにも、それを売るのにも、事業所を確保するのにも、何をするにも資金が必要で、その資金を提供してくれる機関も限られていたからです。
しかし、今は、経営者になることは昔よりもずっと簡単です。それは、パソコンとインターネットとソーシャルサービスと3Dプリンタの時代には、物を作るのにも、それを売るのにも、場所を確保するのにも、資金はほとんど必要ないからです。そして、資金を提供してくれる機関も人も、アイデアさえよければいくらでもいます。しかも、昔は失敗したらあとがないという悲壮な決意をした起業も、今はアメリカ並みに、失敗はむしろ自分の経験になるという感覚に近づいています。
こういう時代に、経営者(生産者)になるために必要なものは、個性と、個性に支えられた創造性と、その個性を支えるバランスのよい学力と、社会生活を円滑にするための人間関係です。昔のように、優れた学歴さえあればどこからでも引く手あまただったという時代は、もう過去のものになっています。学力が必要なのは、学歴のためではなく、自分が仕事をする際にいろいろな場面で学力が必要になるからなのです。
このような社会がくることを前提にして考えると(それはもう既に来ているのですが)、子育ての重点のひとつは、個性を育てることです。もうひとつは、バランスのよい学力を育てることです。そして、この二つが、言葉の森が今行っている「オンエア特別講座」や「寺子屋オンエア」や「オンライン作文」や「森林プロジェクト」に結びついているのです。
それでは、それを順番に述べていきたいと思います。
まず、個性を育てることについてです。
個性を育てるためには、その子の個性を発見しなければなりません。ところが、日常生活で見られる個性というものは、日常生活自体があまり変化や多様性がないことから、誰でも似たり寄ったりのものなりがちです。その子がどういうことに興味や関心を持っているかということが、選択できる興味や関心の分野にあまり広がりがないために平凡なものになってしまうのです。(つづく)
※次回は、「どのようにして個性を発見するか」です。
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