小学校1、2年生の頃にとてもよくできる子がいました。国語も算数も音楽もでき、スポーツもでき、ハキハキして目から鼻に抜けるという印象の子でした。
その子が学年が上がるにつれてだんだん普通の子に近づいていき、小学校高学年になった頃には、必要最小限、最低限のことしかやらないような性格になっていったのです。
必要最小限とは、次のようなことです。例えば、言葉の森では、作文の字数は学年の100倍から200倍書くとしています。6年生の1学期の頃は600字で、三学期になると1200字になります。
すると、その子は1学期の頃は600字まで書くと、ほぼぴったりとやめるのです。
普通、作文の好きな子は、書き始めると熱中して止まらなくなることがあります。ところが、その子は先生に言われた字数まではちゃんと書くのですが、その字数まで書くと義務を果たしたようにピッタリとやめてしまうのです。
真面目な子ですから、勉強はそこそこできます。しかし、小学校低学年の頃のように、同じ学年の子と比べてダントツにできるということはありません。だから、学年が上がるにつれて、段々とごく普通の実力になっていったのです。
この原因は何かと言うと、小学校低学年の頃に身につけていた勉強の力は、人に言われてやる勉強力だったということです。だから、言われたことを素直にやる小学校低学年の頃はよくできていたのです。
しかし、学年が上がってから必要になる勉強の力は、自分から進んでやる勉強力です。この「自分から進んで」という部分が、文化力と呼ばれるものなのです。
つまり、小学校低学年の頃は、勉強力を育てるよりも「自分から進んでやる」という文化力の方を重点にして育てる必要があったのです。
しかし、普通のお母さんは、文化力を育てるという余裕をなかなか持てません。子供にできないことがあったらすぐ教えようとします。本当は子供が自分でできるようにする工夫をしなければならないのです。
また、子供がやるべきことをお母さんが全てコントロールするということもありがちです。本当は回り道や無駄が多かったとしても、子供が自分で自分をコントロールするための工夫をしなければならないのです。
今のお母さんの多くは、孤独の中で子育てをしています。親と子が向き合って、2人だけで過ごすような時間が多いのです。
もし、その子に弟や妹がいたり、友達がいつも遊びに来ていたり、親が近所の人とよく交流するような地域の文化があったり、祖父母が同居していたり、お父さんの帰りが早くて子供と接する時間があったりすれば、極端な行き過ぎはありません。
しかし、母子だけで暮らす時間が長いと、勉強だけが大きな価値観になり、勉強力をつけることだけが突出してしまうことがあるのです。
勉強力は植物の花の部分で、文化力は根の部分です。花を咲かせるのは子供の成長にとって大事な一つの目的ですが、そのためには、始めのうちは根を育てる必要があります。
小学校低学年の頃は、特に文化力の根を育てる時期です。この頃は勉強の花はまだ咲いていなくてもよいのです。
学年が上がり、中学3年生ぐらいになると、子供は自然に自分で花を咲かせようとするようになります。その時期に自分で咲かせるための根の力を育てておくのが小学校低学年の頃です。
親は、その子の今の状態を見るだけでなく、その子が高校生や大学生になり、自分の力で勉強をするようになる状態を念頭におきながら、低学年の頃の子供の勉強を見ておく必要があるのです。
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作文の下手な子がいた場合、その一つの原因に苦手意識があるからということがあります。苦手意識というものは、実力以上に作文を苦手にするのです。
だから、褒めてくれる先生のもとでは、子供は実力以上に上手に書こうとするので、実際に少しだけ上手になります。そこでさらに褒めてあげることによって、本人の気分のよさをてこにし、実力をつけるための音読と読書を続けさせていくのです。
これが作文を上達させるコツです。
しかし、作文力や国語力というものは、それまでの日常生活の蓄積の中で作られてきたものなので、毎日音読と読書を続けても、すぐに目に見えるような上達は感じられません。
音読と読書を一日も欠かさず半年続けて、効果など忘れた頃に、書いていることが少し変化していることに気がつくのです。
では、なぜ子供は苦手意識を持つようになったのでしょうか。
人間は自分で自分の書いた文章を評価できません。特に子供は自分の書いたものが上手なのか下手なのかを自分で判断することはできません。文章には○×試験のような点数はつかないので、自分で客観的に評価することはできないのです。
子供が自分の作文に苦手意識を持つのは、他の人から比較されたり批評されたりするからです。それは学校の先生や親による善意の一言であることが多いのです。
例えば「〇〇君のように上手に書いてごらん」とか、「これではまるで何年生の作文みたいだよ」とか、本人を発奮させるつもりで言った軽い一言が、子供の苦手意識を形成するのです。
特に子供がある箇所に自信を持って書いた時ほど、マイナスの批評は悪い影響を与えます。
例えば、子供が字数の長さに関して頑張ろうと思い、長い作文を書き、それを自信を持って先生や親に見せた時、見せられた大人がよりよい批評をしてあげるつもりで、「長ければいいというものではないから、もっと中心を決めて丁寧に書く方がいいよ」というようなことを言うと、子供の苦手意識はそこで決定的になるのです。
実際に、小学校低学年の時に作文の批評をされたのが原因で、高校3年生まで自分で作文を書けない、つまり親がいつも代筆をしていたという人がいました。
その人が大学浪人1年目の時に、言葉の森の体験学習に初めて訪れ、最初の説明でその日からすぐに作文が書けるようになり、その後1年間毎週作文を書いているうち、苦手意識など全くなくなり立派な小論文を書けるようになったということがあります。
高校3年生まで書けなかった生徒が、一日で書けるようになったのですから、奇跡のような話ですが、体験学習ではこういうことがよくあります。
作文を上達させるコツは簡単です。第一は実力をつけるために、毎日の音読と読書を一日も欠かさずに続けていくことです。
第二は、音読も読書も作文も、どんなに間違えていても、やる気がなさそうに見えても、決して注意をしたり、批評をしたりせずにいつでも褒め続けていくことです。
第三は、すぐの効果は期待せずに、目に見えるような効果は忘れた頃にやってくると思って気長に続けていくことです。
このやり方でどの子も国語力と作文力が上達していくのです。
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言葉の森の小1~中3の生徒の希望者に、6月に全国模擬試験を受けてもらいました。
低中学年の生徒で、初めてこういう試験を受けたという人も多いと思いますので、この模擬試験というものの点数の見方を説明しておきたいと思います。
ちょうど、先日、小学校低学年の生徒の保護者から相談がありました。国語の成績があまりよくなかった、自宅でやればできるので時間が不足していたらしい、とのことでした。
そのテストの内容を見ているわけではないので、正確なことはわかりません。しかし、二つのことが言えると思います。
第一は、それほど心配することはないということです。小学校低学年で求められる国語力は、高学年からの国語力とほとんど関係がありません。だから、点数は気にせずに、ただテストの内容とその子のでき具合を把握していればいいのです。
同じ「試験」という名前でも、検定試験のようなものは、百点満点中の百点が本来取るべき点数です。しかし、模擬試験や入学試験のような差をつけることを目的とした試験では、百点満点中の六十点が平均点になるように作られています。
だから、人並みの六十点よりやや上ぐらいの点数であれば、それ以上の上位を目指す必要はありません。上位を目指すのは受験のときだけでいいのです。
しかし、第二に、その点数が低かった原因が時間不足である場合、読書の量と質の不足が背景にあることがあります。
模擬試験や入学試験は、もともと短い制限時間で正解を競わせて差をつけるように作られています。だから、普通にやれば時間不足になることが多いのです。
しかし、読むスピードがある子は、時間内に解き終わります。そういう子は、多読と難読の両方ができています。ここで言う「難読」とは造語で、「難しい文章や本を読むこと」という意味です。
読むスピードがない子は、いつも時間不足になります。その場合、多読か難読のどちらかが、又は両方が不足していることが多いのです。
勉強の成績は、算数にしても、理科、社会にしても、比較的すぐに上がります。しかし、読書の量と質は、長年の蓄積によるものなので、なかなか変わりません。
だから、小学校低学年のころは、勉強よりも読書に力を入れている方が、あとから学力が伸びることが多いのです。
普段、学校の試験で百点近い成績を取ることを普通と考えている低中学年の生徒の場合、模擬試験の点数の悪さにショックを受けることがあります。
そのとき、お母さんはくれぐれも同じレベルでショックを受けないようにしてください(笑)。そして、おおらかに、これはそういうテストだから点数はそれで十分、普段の実力があるのだから大丈夫、と言ってあげるようにしてください。
そして、その点数の低さの原因が時間不足であった場合、子供に、「もっと本を読まないと駄目だ」というようなことを言わないようにしてください。それは、子供の問題ではなく親のこれからの問題であるからです。
模擬試験で状況を把握したあと、その対策を親がゆっくり考えていけばいいのです。
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国語の試験問題を解く時も、自分の興味を元にした傍線の引き方は有効です。テストの問題文で自分が面白いと思ったところに線を引き、次にその傍線を引いた箇所だけを飛ばし読みすると、その問題文の全体像が頭の中に入ってくるのです。
読書の場合も同様です。一回目の読書は傍線を引きながら読むので、分速600字で読むとしても1冊の本を読むのにかかる時間は3、4時間です。そして、2回目にその傍線の引かれた箇所だけを飛ばし読みすると、その2回目の読みは15分くらいで済みます。しかし、繰り返し読書はこれで終わりません。2回目にも自分なりに面白いと思ったところに線を引きながら読みます。すると、傍線が二重になるところも出てきます。
多くの本はこの段階で終わりますが、内容を確実に消化したい本の場合は、3回目の繰り返し読書をします。3回目は傍線が二重に引かれた箇所を中心にノートに書き出すのです。そして、さらに確実に内容を自分のものにしたい本の場合は、その書き出しを元に抽出した箇所ごとに自分の考えを書いていきます。
この作業を繰り返し読書の4回目とすると、本を確実に自分のものとして消化するには3回から4回繰り返して読む必要があると分かってくるのです。
繰り返し読書のスタートは本に線を引いて読むことです。そして線を引いて読むための哲学的基礎は『本は読むものではなく頭に入れるものだ』という考えなのです。
では、図書館で借りてきた本など、自分のものでない本に関してはどうするのでしょうか。そのやり方は傍線ではなくミニ付箋を貼ることです。繰り返し2回目の読書で二重付箋を張った箇所を元にノートに書き出しをすれば、傍線を引いた本と同じようなまとめ方になります。
ところで、以上述べたことは頭に入れたくなるような文章で書かれたものですから、その文章は主に説明文の本と国語のテストの問題文です。
小中学生がよく読んでいる本は物語文のことが多いですから、特に頭の中に入れる必要はありません。だから、傍線を引く必要もほとんどありません。
では、物語文の本はどういうふうに読めばいいのでしょうか。その方法は味わいながら読むことです。その本の中に没頭し、自分がその本の中で生きて経験しているような感覚で読んでいくのです。こういうなりきった読み方が物語文の本を把握するコツです。
物語文の読書が多い小中学生には、本に傍線を読むことの大切さを実際の読書生活の中で教える機会がなかなか持てません。だから、国語のテスト問題などを利用して、内容をしっかり把握したい文章には傍線を引いて読むということを教えていくとよいのです。
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いつも勉強になります(^o^)
きょうさん、ありがとう。
今度、こういう勉強法のコツのようなものをみんなで共有できるといいですね。
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