公立中高一貫校の受験作文コースがスタートします。
志望校の過去問の傾向に合わせた作文課題を、週1回のペースで学習します。
言葉の森の作文指導の特徴は、事前指導で書き方をわかりやすく説明する点にあります。
ここが、書いたあとの添削が中心になる他の作文指導とちがうところです。
作文は、書く前に構成の仕方の説明があると、その説明を参考にそこに盛り込む実例や感想を考えることができます。
また、事前に両親に取材して、自分が考えついたものとは異なる実例や感想を聞くという準備ができます。
作文の力がつくのは、この事前の準備によってです。
事前の準備をして書いた作文が10本ぐらいたまると、試験の本番でどのようなテーマが出されても、何らかの形で自分がこれまで書いた作文の材料に関連させて考えることができます。
作文試験というものは、一般にそのときの出来不出来が大きいですが、この事前の練習によって自分の実力がそのまま発揮できるようになるのです。
言葉の森の指導の特徴は、単なる紙ベースの通信指導ではなく、そこに毎回の電話指導が加わることです。
先生との電話によるやりとりの中で、自分の考えを更にはっきりさせて書くことができるようになります。
例年、受験する生徒のほとんどが言ってくれる言葉が、「作文は自信を持って書けた」です。
試験当日は気合いが入るせいもあって、どの生徒も、それまでに練習した作文のいちばんいい面を出してくるようです。
中学入試の受験作文コースは、試験の4ヶ月前からスタートできます。
なお、受験作文コースとは別に、小4~小6の生徒を対象にしたオンエア講座「思考国算講座」もありますが、こちらは現在定員になっているため、新たな受付はできません。ご了解ください。
先日、ある新聞社から取材があり、最近Twitterで話題になった感想文の宿題に関する議論について感想を聞かせほしいというものがありました。
その議論というものの発端は、小学5年生の宿題で、「シンデレラ」の話を例にとって、見本となるような書き方が印刷され、それを参考に書けというような内容のものだったそうです。
Twitterで最初にその宿題について発信した人は、このような枠が決められた感想文では誰もが同じような書き方になるのではないか、という批判的な意見を述べたそうです。後に、学校の先生の立場も考えて、そのTwitterは削除したということですが。
このTwitterの意見について、さまざまな賛否両論の意見が寄せられたというのです。
私は、その話を聞いて、これまでいつも感じていた感想文についての疑問を思い出したのです。
言葉の森では、かなり昔、保護者からの要望を聞いて、夏休みに感想文指導の講座を開いたことがあります。対象は、確か小3~小6たと思います。
ところが、そこで教えた子の多くがその後、クラスや学校の代表に選ばれ、中にはコンクールに入賞してしまった子もいたのです。
もちろん、その講座に参加した生徒は、もともとよくできた子も多かったので、その成果自体は問題ないのですが、私はそれを見て、この調子で毎年入賞者が出るのは何か問題だなあと感じ、それで夏休みの宿題の感想文指導はその年かぎりでやめることにしたのです。
そのかわり、言葉の森では、小3以上は、週に1回から3回の感想文指導があります。(小3と小4は月1回、小5と小6は月2回、中学生以上は月3回)
これは、コンクールのためにやるものではなく、通常の作文の勉強としてやるものです。だから、この通常の指導でよい作品が書けた生徒の中には、それをふくらませて感想文の宿題にしてしまう子もいます(笑)。
つまり、子供の勉強として力をつけるためにやる感想文指導ならいいのですが、コンクールに出すために感想文指導をするというのは、何か勉強の目的を取り違えているのではないかと思ったのです。
そこで、Twitterの意見についての話に戻りますが、学校の感想文の宿題の出し方に対する批判的な意見も、またそれに対する批判、つまり学校の指導に対する擁護の意見も、どちらも、子供の教育ということ以前に、まず感想文の宿題があるのが当然というような考えがあるのではないかと思ったのです。
日本の社会は、伝統墨守というか、一度行われたことは毎年定例化して行われるようなところがあります。その全国民的な例が紅白歌合戦です。私は好きですが。それから、小学校の運動会で、鈴割りとか、綱引きとかいう定番のものがあるのも同じです。
そういう行事的なものは、ある程度定番化された方が、見ている方も安心できるということがありますが、子供の教育については、やはり何のためにやるのかという原点をときどき見直した方がいいと思ったのです。
特に、学校の感想文の宿題で明らかに問題だと思うのは、小学校2年生あたりから感想文の宿題が出ることです。この感想文の宿題で上手に書いてコンクールに入選などする子の作品は、例外なく大人の手が入っています。何のための宿題だかわかりません。
それから、もうひとつ問題だと思うのは、中学生の感想文の宿題で、税金についてとか、人権についてとか、中学生にまるで興味の持てない課題が出て、それが別にその生徒の成長などを考えているわけではなく、どこかの外部の機関向けに行われているような感じがあることです。
そして、この小学生の感想文の場合も、中学生の感想文の場合も、夏休みの宿題として出されるだけであって、学校で日常的に感想文の指導が行われているわけではないことです。
つまり、何か教育的な意義や意図があって行われているのではなく、毎年出さなければいけないようになっているから宿題として出すということなのです。
学校が、言葉の森のように通常の授業の中で感想文指導をしていて、その延長で、夏休みに宿題を出すというのなら話はわからないではありません。しかし、そういう通常の授業での指導のようなものはたぶんなく、ただ宿題が出されて、子供も親も苦労するという形になっているのです。
小学生は、感想文など書くよりも、本をたくさん読んで、あとはたっぷり遊んでいればいいのです。昔の小学生はそうでした。
中学生は、人権のようなどうでもいいことではなく、もっと自分にとっての切実なことを自由に論じさせればいいのです。その切実なことが人権であれば、それはそれでいいのですが。
というようなことを、その新聞社の取材の方に話したのですが、うまく伝わったかなあ。