読書実験クラブは、小学1年生から小学3年生対象のオンエア講座です。
最初に、参加した生徒それぞれから、今読んでいる本を紹介してもらいます。
次に、先生が本の一部を何本か読み聞かせをしたあと、みんなに自由に構想図を書いてもらいます。
その構想図をもとに、あとで、その場にいなかったお父さんなどに、生徒が読み聞かせの話を説明できるといいと思います。
先生が読むのは、主に説明文の本なので、家で似た例を観察したり、工作をしたり、実験をしたりすることもできます。
もし、そういう観察、工作、実験などがあれば、それを次の週に発表してもらいます。
読み聞かせを、本を読むだけで終わらせずに、記述や実験や発表に結びつけ、子供たちが主体的に参加する読書の機会にしていきたいと思っています。
https://youtu.be/NQxxSRfpBBM
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物語文の本のいいところは、想像がふくらませられるところです。
説明文の本のいいところは、現実のより深い理解とつなげられるところです。
最近、そういう説明文の子供向けの本が少しずつ増えてきたようです。
ビジュアルな世界が豊かになってきたのと並行して、文字の世界も更に豊かにしていく必要があると思います。
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△大きなクスノキにとまっていた秋のセミ。
こういう人を脅かすようなことは書きたくいのですが(では、書くなとも言われそうですが(笑))、子供たちを見ていて、ときどきふと心配になる子が増えてきたような気がします。
話を交わす分には、普通の子と変わりません。
だから、勉強はそれほど得意ではないとしても、特に問題があるとは思えません。
しかし、本を読む時間が決定的に不足しているようなのです。
小学校3年生以上になれば、好きな本があるときは夢中になって読むような年齢です。
ところが、夢中になるはるか以前の状態で、挿絵の多い本をぱらぱらめくっている様子が、ただ絵を見ているだけのようなのです。
その子たちが本を読んでいないことがはっきり現れるのは、作文を書いたときです。
口で話すようなことをそのまま文字として書くので、「わ」と「は」の区別がなかったり、小さい「っ」の字がなかったり、てんやまるがなかったりと、ちょうど幼児が初めて文字を書くような感じなのです。
書く力の土台となっているのは読む力です。
だから、作文が苦手な子の場合、作文を直そうとしても直すことにかなり時間がかかります。そして、直すところばかりを注意されていると、勉強を続けようという気持ちがなくなるのです。
だから、作文が苦手な子に、まずやってもらうことは、家庭で毎日10ページ以上本を読むことです。それは、読み聞かせでもかまいません。
要するに、文字としての言葉からイメージを作れるような言語感覚を育てることが出発点なのです。
そして、読書が定着するまでは、作文は直すのではなくよいところを認めて褒めることが中心です。
しかし、小学校の低学年のうちに読む習慣ができていない子が、小学校中学年から毎日読むようにするというのは、実はなかなか大変です。
生活習慣を変えるということは、口で言うほど簡単ではありません。
毎日10ページ以上の読書を続けると一大決心をして半年間続ければ、何とかその後も読書のある生活をしていくことができますが、この毎日のわずかな時間を忘れずに続けることが難しいのです。
話は少し変わりますが、言葉の森の読書実験クラブは、どちらかと言えば、読書好きな子供たちのための企画です。
子供たちが家庭で普段読む本は、両親の好みや、子供本人の好みによって大体固定化する面があります。
読書実験では、そういう子供たちが新しいジャンルの本に接して、そのあと、その本に書かれていることをもとに構想図を書いたり、似た話を探してみたりするということでやっています。
この読書実験クラブでは、その日の講座が始まる前に、みんなに今読んでいる本を紹介してもらいますが、この本の紹介というものが、かなり効果があるようなのです。
つまり、友達に、自分が今読んでいる本を紹介するとなると、自然に本を読む生活をすることが当然となっていきます。
読書の楽しみは、個人的なものですが、その読書生活を紹介し合うということが、子供たちの交流を文化的なものにしている感じなのです。
ところで、この読書実験クラブは、今は読書好きな子供たちばかりが参加していますが、これからのやり方によっては読書嫌いな子にも効果があるのではないかと思いました。
読書実験クラブのやり方はこうです。
それぞれの家庭から、パソコンで読書実験クラブに参加します。すると、先生がその日の本の読み聞かせをします。
読み聞かせですから、読むのが苦手な子も、耳から聞く形の読書を楽しめます。
そして、読んだ本をもとに、そのあと構想図を書いたり、家庭で似た話を探してきたりするのです。
ネットに接続して読書の読み聞かせに参加するというのは、まだ少しハードルが高いと感じる人もいると思いますが、これから少子化が進むと、家庭でいながらにしてさまざまな勉強ができるというのは大きな利点になってくると思います。
言葉の森では、小1~小3対象の読書実験クラブ以外に、同じようなオンエア講座として、小4~小6対象の公立中高一貫校の対策講座、中1~中3対象の先取り学習と難度の高い国語演習の講座も開いています。いずれも、参加する生徒は、こちらで何も条件を言ったわけではないのですが、かなり優秀な子供たちばかりです。
このオンエア講座の特徴は、先生と生徒との触れ合いがあることです。しかし、かといって、高額な料金設定ではありません。
言葉の森のネット活用の教育は、人間どうしの関わりを大事にしています。決して、ビデオの読み聞かせがサーバーから流れてくるという形ではありません。
そして、そういう教育をもっと日本中に広げたいと思っているのです。
このネットを媒介にした人間どうしの交流や教育というものが、これから重要になってきます。
というのも、読書生活のない子供たちも、結局読み聞かせをしてもらうような人との触れ合いがないまま成長したのだと思うからです。
テレビやゲームなどの機械的な娯楽に時間を取られていたために、読書の楽しみを知る機会のないまま成長してしまったと思うのです。
家庭に、本とテレビが一緒にあれば、本を読むことに慣れていない子は、まずテレビに手を伸ばすでしょう。
本は、読む練習をして読むことに慣れてからでなければ、自然に手を伸ばす対象ではないのです。
今は、テレビよりももっと手軽なタブレットやスマホも普及しています。本を読まない子は、タブレットでも文字は読みません。画像と動画だけを見て満足してしまうのです。
私は、いずれこの若い世代に現れた新しい文盲のようなことが、社会的な問題となるような気がしています。
そうならないためにも、もっと本を読む機会を子供たちが小さいうちから家庭の中に広げていきたいと思っています。
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タブレット教育などは、さも新しいことのように言われていますが、ただあちこちから画像や動画を検索で探しているだけのような気がします。
それよりも子供時代に大事なことは、読書という文字の集まりから実感のわくイメージを作る力ではないかと思います。
「書く力の土台となっているのは読む力です。 」~テレビやゲームに子守りをさせるのではなく、1日10分ずつでも、親子で本に向き合うのが良さそうですね。
読書嫌いな子こそ、読む習慣をつけて読む楽しさを知ってほしいですね。
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作文の勉強は、特に低学年の自由な題名のときほど、親子の知的な面白い対話が工夫できます。
そして、小1から小3にかけての時期は、子供の言語感覚が育つ最も大切な時期なのです。
その研究結果を初めて実証したのが、東京医科歯科大学の角田忠信医学博士です。
角田氏の研究によると、外国人でも日本の国で小1から小3の時期を送ると日本語脳になり、日本人でも同じ時期に海外で暮らすとその現地の言語脳になるそうです。
つまり、この時期に身につけた言葉の感覚は、一生の言語生活の土台になるのです。
だから、小1からできるだけ豊かな言葉を交わす生活を送っていくといいのですが、小1のころは「話す」「聞く」はできても、まだ「読む」は少したどたどしく、「書く」にいたってはまだほとんどできない子もいます。
それは、もちろん年齢的なことですから、焦る必要はないのですが、作文ということになると、「もう少し書けるようになってから」と、つい親は思ってしまうのです。
逆に、小1のころからがんばって書かせようとすると、子供に無理強いをする場面も出てきます。
そこで、活用できるのが親子作文という方法です。
親子作文の原理は、単純です。
子供は、自分が楽にできる範囲でお母さん、又はお父さんと話をします。
話をするだけですから、小1の子でも自由にできます。
その子供の話と親の話を、親が構想図という形で、聞きながらどんどんメモしていきます。
大体10分ぐらいすると、メモがA4用紙で1枚を埋めるぐらいになります。
そのあと、親がそれをそのまま作文に書いていきます。
そのときに、普通に書いていけば、会話は改行になりますし、句読点も適宜打つようになります。
子供向けに無理にひらがなで書く必要はありません。親が普通に使っている漢字仮名交じり文で書いていくのです。
作文を書き終えたら、漢字にはふりがなをふっておき、子供でも読めるようにしておきます。
その作文を子供に読んでもらってもいいし、親が読んであげてもかまいません。
子供に読ませるときは、その読み方をいつも褒めて励ましてあげることが大事です。
だから、読み方を褒める見込みがまだないうちは、親が読んであげる形でいいのです。
親が作文を書いて、どうして子供の勉強になるかというと、第一の理由は、子供は親の後ろ姿を見て育つので、親が楽しそうに作文を書いているのを見ると、自分もそういうことをやってみたくなるからです。
読書の場合も、親が子供に読書姿を見せていると、子供も自然に読書好きになります。
勉強で最も大事なのは、意欲的に取り組むということなので、子供に作文を書きたい気持ちが生まれるということが重要なことなのです。これは、多くの人が見落としがちな点だと思います。
第二の理由は、正しい書き方を自然に覚えるということです。
親は、文章を書くときに、句読点をつけたり、会話をカギカッコをつけて改行したりすることを自然なことのようにやっていますが、実際には、口で話し耳で聞く言葉の場合は、句読点もカギカッコも改行もありません。
そのため、小1の子供が作文を書くときに、最もつまずくのが、この原稿の書き方という表記の部分なのです。
子供は、作文の中身を見てもらいたいのに、親は表記のミスにすぐに目が行ってしまいます。そこで、作文の勉強は親子のすれ違いになることが多いのです。
しかし、自分が話したことをお母さん又はお父さんが書いてくれるのであれば、口で話すことがどのように文章化されるかということがすぐにわかります。
これをもし、作文の書き方を教えてもらうような勉強として、「会話は行を変えて書く」とか「文の終わりにはまるをつける」などという説明を受けると、途端に退屈な勉強になります。
勉強としてではなく、親子の楽しい対話として自然に勉強と同じことができるようにしていくことが大事なのです。
親子作文は、親子の対話を通して、語彙の力と、考えて聞く力と、考えて話す力が同時に育ちます。
そして、この親子作文は、その場で話をした親子の間だけでとどまらず、ほかの家族にも広げていくことができます。
親子の二人の対話だけであれば、それを録音でもしておかなければならないかぎり、その場にいないほかの人がその対話の内容に参加することができません。
ところが、作文という形であれば、お母さんと子供が話して親子作文にした内容を、あとでお父さんやおじいちゃんやおばあちゃんも見ることができます。
その場にいない人でも、親子の合作の作文を見て、そこにコメントを書き加えることができます。もちろん、そのコメントにもふりがなをふっておきます。
すると、その作文は、家族全員が共有する対話の場になっていくのです。
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本格的にやる習い事は、6歳から始めるのがよいと言われています。
作文も6歳から始めるのが本当はいちばんいいのです。
しかし、6歳ではまだ文字が上手に書けません。
左ききの子は、「く」の字を逆に、「>」などと書いたりすることもあります。うちの子でした(笑)。
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言葉の森には、分野別の掲示板(オープン教育掲示板)や、SNS(FacebookグループとGoogle+コミュニティ)が多数設置されています。
これらを利用して、お子様の勉強などに関する質問や相談はいつでも自由になさってください。
また、言葉の森新聞やホームページの記事に載らない分野別の貴重な情報も、これらの掲示板やSNSに随時掲載しています。
掲示板とSNSの一覧表は、下記のページに掲載されていますので、ぜひご利用ください。
なお、オープン教育掲示板に載せた最新の記事のタイトルは、言葉の森のホームページにも表示されるようにしています。
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作文をきっかけにした親子の知的な対話が、子供の頭をよくします。
しかし、その知的な対話は、明るく面白くなければなりません。そういう対話ができるのはいちばんの存在はやはり両親です。
両親は子供のことをよく知っているので、双方向的な話ができるからです。
玉子焼きを作る前に玉子が立つかどうかなどの話をしたあと、運動の得意な子には、三点倒立の話をしてもいいかもしれません。どのような知識も、身体を使って理解したことは、実感として心に残るからです。
最近の算数数学の入試問題には、そういう身体的な実感があると理解しやすくなる図形や立体の問題がよく出てきます。特に、公立中高一貫校の入試問題は、小学校の教科書の範囲で出すという制約があるために、生活実感の差で差が出るような問題がよく出ます。
教科書の上での勉強では、概念的な理解が中心になります。
すると、概念的に解ける問題や、操作的に解ける問題はすぐにできるようになりますが、立体的な図形の問題のように実感の伴う問題は、概念を理解しているだけでは必ずしもすぐにはできるようにならないのです。
さて、三点倒立も無事に終わって(笑)、玉子焼きの話に戻ると、玉子を割る前に、ここでもまたいろいろな話の材料が出てきます。
まず、なぜ玉子が、まん丸ではなく縦に長い形になっているかです。これは、玉子に聞いてみなければ本当のことはわかりませんが、いろいろな考えが子供から出てくると思います。
また、卵というものは、外側からの力にはかなり強くできています。ちょっと力を入れたぐらいでは潰れないようにできています。
そこで、言葉の森の小5の感想文課題にある「そっ啄の機」の話ができます。
「卵はね、中からヒヨコがかえるときに、外からお母さんのニワトリが、中からはヒヨコが、同時に殻をつついて出てくるんだよ」
「へえ」
「○○ちゃんも、お母さんのお腹から出てくるときはそうしたんだよ。覚えてる?」
「覚えてないなあ」
「というのはウソ。大体殻から出てないし」
玉子を割るときに、プロっぽい演出をして片手で割ることができますが、子供がやると大抵失敗します。
玉子を焼いているときにも、焼きかけた玉子焼きをフライパンから空中に放り投げて裏返す技がありますが、これも大抵は失敗してお母さんに叱られます。
そして、こういう過程を、スマホで写真と動画で撮っておくと面白いのです。
さて、作文の授業がある日に、先生に「今日は何を書くの」と聞かれて、子供が「玉子焼きを作った話」と言うかと期待していると、意外とそういうことはありません。
子供は数日たったことは忘れてしまうことが多いので、「今日、学校で遊んだこと」などとなってしまうことが多いのです。
しかし、それは、それでかまいません。結果を出すことが大事なのではなく、過程を楽しむことが大事で、そういう過程は必ず子供の中に残っているからです。
また、もし玉子焼きの話を作文で書く場合でも、お父さんやお母さんがいいと思っていた場面で書くことは少なく、子供はよくどうでもいいような話だけを書いておしまいにすることがあります。
それも、もちろんそれでかまいません。この場合も、結果は二次的なことで、子供が経験したという過程が大事だったと考えておけばよいのです。
書いた作文は、スマホで撮った写真などと一緒に保存しておけば、子供の成長の記録になります。
面白く書けたものがあれば、額縁に入れて写真と一緒に飾っておきます。額縁に入れると、どの作文も引き立ちます。
言葉の森では、プレゼン作文発表会をする機会があります。
そのときに、その玉子焼きの作文を発表するとしたら、スマホで撮った動画を途中で挿入して発表することができます。
すると、そこでも子供と両親がいろいろな相談をすることができます。
このように、作文の勉強は、書く前も書いたあともいろいろな形で生かせます。
親子の共通の経験を通して話ができるので、知的な話を面白くすることができるのです。
ところで、こういう話を読んで、「うちでは、まだそんなに作文が上手に書けるような年齢ではないし」と思われる小学校低学年の子のお母さんも多いと思います。
特に、小学校1年生のころは、まだ文字を書く力も弱いので、作文というひとまとまりの文章になるのは程遠いことが多いものです。
しかし、そういう時期からでも、作文を楽しく書くことができます。それが、親子作文という方法です。(つづく)
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作文をきっかけにして、親子で対話をすることが頭をよくする最も身近な方法であると書きました。
その際の対話の基本は、面白い話を難しく、あるいは似ていますが、難しい話を面白く、です。
小学校低学年までの子供は、親の話すこと、することに強い関心を持っています。
それは、子供の人生が模倣から始まるからであり、その模倣のいちばんの手本は両親だからです。
子供を読書好きにする方法はいろいろありますが、その最初の土台は、親が楽しそうに本を読んでいる後ろ姿をみせることです。子供は、自分も大人の真似事をしたいと思って、自然に本に親しみを感じるようになるのです。
親の模倣をする時期は、親の話をよく聞く時期です。
中学生ぐらいになり、反抗期になると、親が言うことに客に反発するようになります。その時期に、いくらいいことを言っても、子供の心にはストレートには入っていきにくくなります。
だから、子供が小さい素直な時期のうちに、子供に伝えたいことをたっぷり吸収させていくといいのです。そのための対話の基本が、面白く、難しくです。
小学校1、2年生の作文課題は、自由な題名です。
この自由な題名の時期に、お父さんお母さんが、子供の作文の題材になりそうな日常的な新しい経験を企画します。
それが例えば、玉子焼き作りだったとします。
低学年の作文の題材は、こういう身近な経験でいいのです。わざわざ遊園地に行って、おいしいものを食べて、お土産を買ってというような非日常的なものである必要はありません。
しかし、日常的なものでよいからと言って、子供だけに作文の題材選びを任せると、毎回、「きょうのこと」のような話になり、しかもその内容が、毎回同じような、「何とかゲームで何とかをした」となってしまうことがあります。
それが、ゲームではなく、毎回公園でのサッカーになる子もいます。また、毎回物語作りになる子もいます。
物語作りなどは、読書生活から自然に出てくるものだからよいことのように思えますが、小学校低学年で作文に書くことが毎回自分で作った物語ということになると、これもやはり問題です。それは、その子の生活が読書ばかりという単調な生活になっているということだからです。
玉子焼き作りの場合は、ただ卵をフライパンに入れて焼くだけであれば、大人なら数分でできます。面白くも何ともありません。
しかし、子供と一緒に玉子焼きを作るときは、そのときの親の働きかけの仕方によって、この簡単な作業がいくらでも面白く、しかも難しく考える経験になるのです。
まず、玉子を焼く前から、いろいろと面白い話題が出てきます。
以下、お父さんと子供の会話の例です。
「おなかすいたあ」
「じゃあ、お昼ごはんは、一緒に玉子焼きでも作ろうか」
「わあい」
「それでは、冷蔵庫から玉子を出してきて」
「はあい」
「お、ありがとう。この玉子を垂直に立てることできるかなあ」
「え?」
卵は、固い平らな机の上で慎重に垂直に置くと、ぴったり立つことがあるのです。
ちょうど、1円玉を机の上に立てるような感じです。
その原理を解明した話を、私は、これまで寺田寅彦の随筆で読んだと思っていましたが、青空文庫を見ると、中谷宇吉郎の「立春の卵」となっていました。あるいは、二人で同じようなことを書いていたのかもしれません。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/53208_49866.html
この原理をひとことで言うと、卵の表面にある小さなでこぼこの出っ張った部分の3か所の点が三角形を形作るとき、その三角形の中に卵の重心が来ると、その3点を土台にして卵が垂直に立つということです。
玉子焼きを始める前から、こういう面白い、しかも難しい話ができることが、親子の対話のよいところです。
しかし、これを延々とやると、子供は飽きて去っていきます。
(つづく)
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卵焼き作りからでも、親子でおもしろく難しい話ができるといいですね。
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作文の勉強が頭をよくするという話の続きです。
頭をよくするためには、難しいことを関心を持って考えるという過程が必要です。
これは、考えてみればあたりまえのことです。複雑なことを考えればそれに対応して考える枠組みができるので、それが他の勉強などにも生きてきます。
しかし、その難しいことは、ただ考えるわけにはいきません。興味のあることでなければ、人間は考えようと思わないからです。
遊びが子供の頭をよくするのは、遊びという興味のあるものに取り組むことを通して、その遊びに必要なことを考えようとするからです。
だから、同じような遊びであっても、子供が自分なりに工夫できる余地のあるものが、教育という観点から考えた場合はよい遊びと言えます。楽しいことが遊びの基本ですが、楽しければいいものではないということを大人は考えておく必要があります。
では、遊び以外の生活面で、子供が興味を持って難しいことを考える場面は何かというと、それは親子の対話なのです。
子供、特に小学校低学年までの子供は、親の言うことを関心を持って聞きます。それが興味深い話であれば、なおさらです。
ここで、親の話し方が重要になってきます。
親が子供に話しかけるときに、わかりやすく、面白く、かつ楽しい雰囲気で話すことが大事ですが、更に、もうひとつ「難しく話す」ということもまた大事なのです。
難しく話すというのは、難しい語彙も入れながら話すということと、難しい構造の文で話すということと、理解が難しい複雑な内容のことを話すという三つの面があります。
こういう高度なことできるいちばんの存在が、子供にとっての親です。
そして、そういう面白く高度な話をするきっかけにできる最適の機会が作文なのです。
作文には、子供が自分の興味を持っていることを書きます。すると、その作文を見て、お父さんやお母さんが関連した似た話を、お父さんやお母さんの体験談などを盛り込みながら話しやすくなります。
子供は、両親の体験談を聞くのが大好きです。その体験談を通して、自分の生き方の基盤を築いているのだと思います。
しかし、何もないところに、親が突然自分の体験談を話すというのは、話す材料が見つからないときはきっかけがつかみにくいのです。
しかし、子供の書いた作文があれば、それを題材にしていろいろな話の案が浮かびます。
また、毎週作文を書くとい課題があると、それが自由な題名の作文の場合は、話題作りを工夫することができます。
その話題作りとは、特に大がかりな遊びをしたり、どこかに出かけたりする必要はありません。日常生活の中で、ちょっとした一工夫で子供にとって新しい経験になるようなことを企画することができます。
例えば、日曜日などに、「じゃあ、今日は一緒に玉子焼きを作ってみようか」などということでいいのです。
その玉子焼き作りの過程でも親子の対話が生まれますが、それを子供が作文に書けば、またその作文をきっかけにして親子の対話ができます。
その親子の対話の中に、親自身の子供時代の体験などを盛り込みながら、面白い、しかし高度な話をしていくことができるのです。
小学校低学年のうちに、そういう親子の対話の習慣を作っておくと、子供が小学校中学年になり、作文の課題に感想文が入ってくるようになると、対話は自然により高度なものに発展していきます。
そして、その小学校中学年のころに、高度な対話を楽しく続けていれば、子供が小学校高学年になり、作文の課題が説明文や意見文の難しいものになったときに、更に行動な話を自然に続けていけるようになるのです。
しかし、こういう親子の対話の習慣が小学校低学年のころから作られていないと、子供が例えば小学校高学年で、公立中高一貫校の入試に出てくるような難しい課題の作文を考えるときに、親子が自然に対話をするということがかなり難しくなります。
作文の勉強というのは、ただ書いたものを添削するようなものではありません。そういう勉強では、すぐに限界が来ます。
添削を受けるというのは、作文の勉強のごく一部であって、作文の勉強のいちばん大事な部分は、事前の親子の対話と経験と、事後的な対話です。
その対話には、母親だけではなく父親の参加も必要です。父と母と子が、作文をきっかけにして難しい話を楽しくする習慣が日常的にあるということが、子供の頭をよくしていくのです。
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作文の勉強をしていて、将来どういうメリットがあるかというと、書くことが苦にならなくなるということです。
どんなに苦手な子でも、何年間も毎週600字から1200字の作文を書いていると、いざ何かを書かなければならなくなったというときも、気軽に書き出せるようになります。
勉強というのは、すべてこの「苦にならなくなる」が基本です。
例えば、数学の勉強をするのも、将来物事を数学的に考えることが苦にならなくなるためです。そうすれば、必要に応じて、数学を使うときにはすぐに使えるようになります。
逆に、数学的に考えることを苦痛に感じる人は、どうしても数学的なことを避けるようになります。すると、物事への対応の仕方がやはり限られてくるのです。
英語でも同じです。英文を読むのを苦にならなくなるというのはかなり大変ですが、ある程度は読めるということまでいけば、必要に応じて英語で書かれたものでも、読むことができます。
これも、逆に英文を読むのを苦痛に感じるということであれば、最初からそこを避けるようになるので自分のできることの可能性が限られてくるのです。
今、プログラミング教育に関心を持つ人が増えていますが、このプログラミング教育についても、教育の基本目標は同じです。
物事をプログラミング的に処理することが、苦にならなくなるというレベルまで行けば、必要に応じて自分で簡単なプログラムを書くことができます。
もし、そうでなければ、人に頼むようになりますが、大きな仕事ならともかく、日常のちょっとした手直しなどはいちいち人に頼むわけには行きません。
ちょうど、自動車の運転と同じです。ちょっと近くに出かけるときに、自分に運転の技術があれば気軽に行くことができます。
運転は、タクシーでも、バスでも、他の人に頼む形でもできないことはないのですが、自分でできれば便利なことがかなり増えるのです。
作文も、数学も、英語も、プログラミングも、自動車の運転も、それが人よりも得意になってそのことを仕事の中心にするためにやるのではありません。そういう人ももちろんいるでしょうが。
得意になるというよりも、自分が何かやるときに、そういう技能を苦もなく使えることが、自分の可能性を広げるからその勉強をするのです。
そして、この「苦にならなくなる」という最低限の基準を満たした上で、更に高い目標を考えるときに出てくるのが、作文の場合は、「頭をよくする」ことなのです。
しかし、その「頭をよくする」話の前に、もう少し「苦にならなくなる」の話をすると、その「苦にならなくなる」ためにまず第一に重要なのは、続けるということです。
ここを多くのお母さんや、先生が誤解してしまうところです。
大人が、子供の作文を見るときに、その作文の評価だけなら誰でもできます。特に、小学校低学年の生徒の作文であれば、直すところは山のようにあるのが普通です。
そこで、すぐ直す指導をしてしまう人が多いのです。
これは、通信教育で作文の指導を受ける場合は、更にその度合いが大きくなると思います。通信教育の場合は、作文を書き上げたあとに、評価をするからです。
欠点のある作文を見れば、事後的な評価であれば、それを直さざるを得ません。すると、作文を苦手だと思っている子ほど、直される注意されることが多くなるのです。
作文の評価は、大人であれば簡単にできます。直すことも簡単にできます。
しかし、間違いを直すことは、教育というものとは少し違います。
ただ間違いを直して注意するだけであれば、受験を前にした切実な向上心を持っているような子でないかぎり、その直されることで作文に対する苦手意識が更に強くなっていきます。
そして、その結果、作文が苦手な子ほど、作文の勉強を長く続けることができなくなるのです。
だから、直すことは、直す人の自己満足に過ぎず、直される子の立場に立った教育というものではないと言えるのです。
ところが、言葉の森はこういう直す指導をしません。直すことはもちろん直しますが、直す以外の指導を重点にしているから、苦手な子でも長く続けることができ、その結果書くことが苦でなくなるという目的まで達成することができるのです。
そして、言葉の森では、更に、「苦でなくなる」より先の段階である、「書くことが好きになる」や「頭がよくなる」までの指導をしているのです。
その話は次回に。(つづく)
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今回の先生のお話は、なるほどー!と納得させられました。全くその通りですよね。勉強することとは、その勉強する内容を苦にならなくなること―なるほど。その道に進まなくても苦にならない程度にまでは自分でわかるようにしておくこと。本当に大事なことだと思います。ちなみに私は英語が学生時代から苦手で、苦手意識があるから、無意識に英文を読むことを避けていて、だから英文を読むことが苦になって・・・と、今に至るまで英語への苦手意識が抜けません。数学しかり作文しかりだと思います。
いつも中根先生のお話には納得させられることが多いのですが、今回も分かりやすいお話で役にたちました。ありがとうございます。
さとむさん、ありがとうございます。
「苦にならなくなる」というのは、習慣づくりのようなものだと思います。
私の場合は、仕事をすぐにやるという習慣がなくて(笑)、いつもためてから取り組むので、すぐやることが苦にならなくなるようにするのが課題です。
こういうことは、たぶん子供時代の家事手伝いの経験などでついていくのだと思います。
そういう子供時代の子育てのコツのようなものをこれからみんなで共有していけるといいと思っています。
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