言葉の森では、小学校2、3年生から勉強を始める子が多いです。
本当は、小学1年生から始めた方がいいのですが(それは、作文に合わせた音読や対話という家庭学習の習慣ができるからです)、小学3年生ぐらいまでに始めると、作文を書くという勉強が毎週の習慣のようになってきます。
そして、いったん毎週作文を書くことが習慣になると、学校の勉強や部活などが多忙になっても、作文を続けていこうとするようになるのです。
作文教室というものは、言葉の森以外にもあると思いますが、ほかの教室では、小学校低学年から始めて高校生まで続けるようなことはまずありません。そこまでの指導カリキュラムがないということもありますが、もしあったとしてもそのように長期間勉強を続ける生徒はまずないのです。
この継続率は、作文の提出率などにも表れてきます。
ある作文講座では、月2回ぐらいのペースで、作文の課題もカラフルでわかりやすいものになっていますが、提出率は80パーセントということです。
言葉の森では、月4回の課題で(うち1回は清書)、作文の課題は感想文も含めたかなり難しいものもありますが、小学1年生から中学3年生までの合計の提出率が94パーセントです。
この提出率の違いは、そのまま継続率の違いになっていると思います。
言葉の森で小学校低学年から作文の勉強を始めた生徒も、中学受験があったり、中学で部活が忙しくなったり、高校受験があったりすると、途中でやめることがあります。
しかし、やめたあとも、また作文や国語の勉強が必要になると、数年間のブランクのあと再開するという生徒がとても多いのです。
大学入試に向けた小論文の勉強では、予備校などでも講座が用意されていると思いますが、そういう予備校の小論文講座ではなく、言葉の森の作文の勉強を思い出して、「小学生のときに教わった○○先生に、また習いたいのですが」というような問合せがよくあります。
なぜ、このように長く続ける生徒が多く、またいったんやめても、必要があると再開する生徒が多いかというと、いちばんの理由は、担任の先生の毎週の電話指導があるからだと思います。そして、もうひとつの理由は、言葉の森独自の褒める指導を中心にしているからだと思います。
もちろん、中には、言葉の森の勉強をしても、あまり軌道に乗らず途中でやめてしまうという人もいるかもしれません。しかし、その理由の中には、家庭のフォローの不足もあるのです。
というのは、作文の勉強というものは、勉強の中でいちばん心理的負担の大きいものだからです。これは、大人の人が実際にやってみるとわかりますが、ほかの勉強に比べると作文の勉強は始めるときに一大決心のようなものが要るのです。
こういう負担の大きい作文の勉強を続けるためには、先生の電話指導だけでは不十分です。
課題に合わせて親子で対話してくるという事前の準備や、子供の書いた作文には直すところに目を向けるのではなくよいところを認めて褒めてあげるような配慮や、毎日の音読と読書を気長に続けるような家庭学習の習慣というものが必要になってくるのです。
こういう家庭での対話や読書や褒め言葉があれば、毎週の指導でどの子も必ず上達していきます。
ただし、作文の勉強は、国語力という大きな土台が下に隠れている氷山のようなものですから、勉強してすぐに成果が出る子もいますが、なかなか成果の出ない子もいます。しかし、長い目で見れば、どの子も必ず上達します。
だから、作文の勉強はまず長く続けられることが大事なのです。
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幼稚園から小学校、大学に進学するまで、ずっと担当する生徒さんもいます。自然に、作文が成長します。
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川田薫さんの本を読みました。「たましいよろこびっぱなしの生き方」という変わっった題名の本です。
(最初に入れた記事で、「よろこっびぱなし」と書いていました。失礼しました。)
川田さんは、世界で初めて(だと思いますが)、生命あるいは生命的なものの創造に成功した科学者です。ほかにも、さまざまな世界初の発明や発見があります。現在82歳。
川田さんのような新しい考えを生み出す人に共通していることは、自分が単独で存在しているのではなく他のものを同じひとつのものとして存在しているのだという確信です。
昔は、「人類はみな兄弟」などと言うと、気持ちはわかるが一種の冗談のように受け取られるところがありました。今でも、個体の境界ははっきりしているので、基本は個人的な存在として人間は生きています。
しかし、同時に、人は個人として終わるものではなく、過去や未来も含めて全体の世界の一部として生きているのだという感覚が、だんだんと多くの人に共感されるようになってきたように思います。
これは、子供の教育については更に重要になってきます。
今の受験勉強は、友達と競争して、その競争に勝つことが目標のようになる勉強です。
競争は確かに人間の活力の動機にもなりますが、それは子供たちのゲームのような遊び的なものであるときはマイナス面はありませんが、真剣に利害が絡むようなものになると、しかも大人的な利害がからむようになると、弊害が大きいのではないかと思いました。
子供たちの教育の出発点は、自分は他人と同じだということを教えることであって、他人との競争に勝つことで自分があると教えることではないと思います。
世の中の意識が進んでいるのに、教育の方がまだ一歩遅れているような現状があるのではないかとこの本を読んで思ったのです。
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先日、岐阜県の位山というところに行ってきました。ちょうど熱帯低気圧が来ているときで、山頂まで歩いて数時間で往復してきましたが、その間誰ひとり会わないぐらいの大雨と大風でした。(そんなときに行くなって)
それはそれでいいのですが、その位山までに行く道路を運転しているときに、ただ長時間運転しているだけで暇なので、いろいろ考えました。
まず左右に広がる田んぼや畑とまばらに点在する人家です。
私は、普段あまり外出することはしませんが、横浜のはずれの港南台周辺を歩いていると、人も家も隙間なく並んでいます。混雑しているということはありませんが、どこに行っても人がいて、家があり、お店があるという感じです。
そういう環境から比べると、この田舎の(岐阜県の中津川市は私の父の実家で、時どき行ったことがあるので親しみを感じる街です)風景は、いかにも人口密度が少ないように感じられたのです。
今住んでいる港南台は、飲食店が結構あり、それぞれ活発な競争をしているようですが、それはそこに需要があるからです。しかし、人口密度の少ないところでは、顧客を獲得する競争以前に、顧客がたぶん一定数しかいないので、店と顧客が親しい間柄で共存しているのだと思います。
こういうところで、若い人が何か新しいベンチャー的な仕事を始めようと思っても無理があります。それは、今の仕事が工業的なものからサービス的なものに移り変わっているために、人口密度が低いとサービスそのものが成り立たないからです。
港南台には、ヒーリングとか健康とかマッサージとかを提供する店があり、いろいろな人が利用しているようですが、これも人口密度がある程度あるから成り立っているサービスであり、田舎では単独では成り立たないのではないかと思います。
昔は、こういう田舎でも仕事を作ることができました。それは、工業生産が主流だった時代です。工業製品という物は、運ぶことができますから、田舎で立地して生産をしても成り立ったのです。
しかし、工業生産は、人件費の低い新興国に移ってしまったので、日本ではもう新しい雇用を生み出すことはできなくなっています。日本の工業生産は、今後人に頼らずロボット化されていくので、生産が成り立っても雇用を生み出すような生産ではなくなっていくのです。
工業は新興国に奪われ、サービス業は人口密度が低いために成り立たないとなると、田舎では基盤になる産業が生み出せないことになります。
だから、いったん過疎化が進行すると、その過疎化は更なる過疎化を生み、中には人が住まなくなるような田舎も出てきます。
日本の少子化は、平均的に進むのではなく、人口密度の低いところでは更に加速して進んでいるのだと思います。
しかし、田んぼが広がり、人家が点在する田舎の光景は、日本人の田舎の原風景です。
この田舎でも成り立つような新しい仕事があるかどうかと考えて、ネットを利用したサービス業の可能性ということを考えました。
ここからが本題です。
言葉の森では、現在、オンエア講座や寺子屋オンエアやオンエア作文というネットを使ったオンラインの教育を行っています。
ネットを利用した教育というと、MOOCやスタディサプリに見られるように、良質の授業を無料又は低価格で広範に提供するサービスが脚光を浴びていますが、その教育サービスは、マスメディア的なものです。
低価格で大量に良質なものをというと、昔のダイエーの「よりよい品をより安く」というキャッチフレーズを思い浮かべます。また、昔の製造業も、便利な家電製品を水道のように低価格で豊富に使えることを目標にしていました。
この低価格で大量にというのは、生活のインフラ作りという点では、最初に必要とされるものです。
しかし、消費者は、やがてそういう大量生産に飽きてきます。
人間の喜びは、豊かな生活ができることだけでは満足できず、そこに更に、自分なりの個性的な関わりを求めるようになるのです。
今、街の書店は、ネットの書店に押されて、年々縮小されています。確かに、便利さだけから考えれば、ネット書店を利用した方が、本も見つけやすいし、自宅でいながらにして購入できるので便利です。
しかし、人間には、ふらっと近所の書店に立ち寄って、新しい本との出会いを経験したり、本屋を待ち合わせの場所に指定したり、人を待っている間に立ち読みをしたり知人に出会ったリというような、ほっとする感覚を求める気持ちもあります。
だから、街に書店があるということは、そこがひとつの明るい開かれた空間となっているような感覚があるのです。
こういう人間の関わりが、これからのサービス業には必要とされるようになります。
教育の分野についても、ただ優れた教材が低価格で利用できるだけでなく、そこに友達や先生との個人的な関わりが必要とされるようになってくるのです。
しかし、今skypeで行われているようなマンツーマンの授業では、深い関わりの対価として高額な受講料が必要となります。
英会話のオンライン授業では、その価格を抑えるために、人件費の低いところの先生が教えるような工夫がされていますが、それは英語だからできることであって、そのほかの教科では、マンツーマン指導は高額にならざるを得ません。
ネット利用の低価格なマスサービスと、同じくネット利用の高額なマンツーマンサービスとの中間にあるのは、これまでは地域の教室でした。少人数の教室に生徒が実際に通うことによって成り立つようなリアルな教室や、あるいは学校が、教育の中核部分を担っていたのです。
ところが、リアルな教室は、今行き詰っています。
それは、生徒の多様化と一斉指導という方式が結びつかなくなってきたからです。
そのリアルな数人から十数人の生徒を、多様性を生かしながら個別に指導し、しかも生徒どうしの交流や先生との人間的な関わりを実現するのが、言葉の森の考えているオンエア講座などのネット利用の教育です。
ネットを利用して数人から十数人の生徒を一人の先生が教えるという授業形態であれば、この教育は、田舎のような人口密度の低いところでも成り立ちます。
例えば、過疎化の進んでいる村で、小学1年生の子供が一人しかいないような場合でも、その子はネットの授業で、全国の同じ小学1年生の子と机を並べて、というかパソコンの画面を並べて、一緒に勉強することができます。担任の先生がいる固定したクラス制なので、席替えやクラス替えはありますが、長期間同じ友達や先生と一緒に勉強ができるので、人間的な関わりも持てるようになります。
しかも、そのネット授業を行う教室が田舎の場合、そこには自然が豊富にありますから、年に数回、生徒の合宿を行い、リアルな交流を深めるということもできます。
年に数回というのは、距離がかなり遠い場合ですが、もしこれが電車やバスで30分から1時間程度の距離にある教室であれば、週に1回合宿教室に参加するという形もとれます。こういう実際の交流があれば、それはそのままネットでの交流にもつながるので、ネット上の教育も自然に活性化します。
日常的には、自宅でネットを利用した能率のよい教育を受け、週に1回は合宿のようなリアルな深い交流を豊かな自然のある場所で行うということができれば、こういうサービスは田舎でも十分に成り立つとともに、日本中の子供たちが利用できるものになるのです。
以上のようなことを、車で数時間運転している間に考え、それを実現するために今いろいろ工夫をしているところです。
言葉の森では、既に森林プロジェクトという、作文指導の講師を養成する講座があります。この作文指導というのは、実はかなり奥が深いので、言葉の森のように30年以上の指導の実績がなければできないものだと思います。
その作文指導の資格講座に加えて、今後は寺子屋オンエアやオンエア講座の講師養成講座も行っていきたいと思います。
現在行っているオンエア講座の中でも、小学1年生から3年生対象の読書実験クラブは、教わる生徒も教える先生もすぐに楽しくできるという見通しがあります。
小学4年生から6年生対象の思考国算講座は、指導内容が高度で、まだ教える側の負担が大きいため、今後これを改善していく予定です。
同じく中学1年生から3年生対象の先行国数講座も、指導内容が高度で教える側の負担がまだ大きいので、これも今後改善していく予定です。
いずれにしても、将来は、全国の志ある先生が自宅でネット教育を行い、全国の子供たちがネットとリアルの両方でその教育に参加できるという仕組みを作っていきたいと思っています。
このやり方ができれば、海外にいる邦人子弟も、このネット教育に参加できます。海外の生徒の教育が、日本国内の生徒の教育と違うのは、時差の問題だけですから、教える先生が例えば日本で早朝に教えるような体制を作れれば、日本の先生がヨーロッパにいる生徒の授業を行うなどということも十分にできるのです。
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高木善之さんの本に、「反抗期は先進国にしか起こらない」と書いてあるのを見て、確かにそうかもしれないと思いました。
もちろん動物にも、自立期というものはあります。しかし、それは子供の側から反発して自立するというよりも、親が子供を追い出すような形で自立させるのが多いようです。
人間は逆です。親がなかなか子離れせずに、子供をいつまでも自分のコントロール下に置いておきたいと思ってしまうのです。それに反発するのが子供の反抗期です。
では、なぜ先進国で反抗期が起こるかというと、それは先進国の生活が不自然だからです。
特に不自然なのは教育ではないかと思います。
その中でも、更に不自然なのが入試問題ではないかと思います。
不自然な入試問題に対応できる力を身につけるため不自然なことをさせられている子供たちが、そういう不自然なことを要求する社会に対して反発するのが反抗期だと言ってもよいでしょう。
では、入試問題のどこが不自然なのかというと、問題作成の目的が、その子の人生や社会にとって有益なことが身についているかどうかを見るのではなく、受験する子供たちに点数で差をつけて選抜することに置かれているからです。
差をつけることを目的とした試験は、必ずその差を埋める努力で対策を立てられます。すると、差をつけることと、その差を埋める努力のいたちごっこによって、試験の内容は、本当に必要な学力をつけることからどんどん遠ざかっていってしまうのです。
これは、学校の入学者に定員がある以上、仕方がないことと思われてきました。
しかし、将来、この定員制というものはなくなっていくと思います。
それは、現在MOOCなどに見られるように、その勉強を希望する生徒は、世界中のどこからでも定員に関係なく、その勉強の優れた授業を受けることができるようになっているからです。
このネット型の勉強方法が広がれば、今の入りにくくて出やすい学校から、入りやすくて出にくい学校というものに変化していくと思います。
そして、「出にくい」というのではなく、自分の希望する出口から自由に出られるようになるのです。これを裏口卒業と言うかどうかはわかりませんが、本人が自分なりの目標を持って授業を受けるのであれば、その目標を達成することが卒業ということで全くかまわないのです。
未来の社会は、今よりももっと自然に近いものになっていくと思います。
しかし、当面、不自然な状況がある以上、親にできることは、子供の自由は意思決定を尊重する姿勢を身につけることです。
昔は15歳で元服でした。これは、年齢的にも妥当な時期だったと思います。今の学年で言えば、中学3年生あたりが子供の自立の始まりです。
親は、中学3年生を子供の自立の目標の時期として、その前から徐々に子供が自分の判断で行動することを認めてあげるようにしていくといいのだと思います。
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知識も大切ですが、今しかできないことを、思いっきり体験し、失敗しながら学んでいく経験こそ、将来役に立つのかもしれませんね。
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入試で、記述式の問題を出すところが増えています。
理由はいろいろありますが、選択式の問題では、ある程度考えて読む力を身につけた生徒は、ほぼ全部正解になってしまうからです。言葉の森のセンター試験満点講座を受ければ、それがすぐわかります(もう募集はしていませんが)。
だから、選択式の問題で難しい良問を作るのはかなり大変です。センター試験の問題作成者は、よくがんばっていると思います。問題を解くことに比べたら、選択式の問題を作ることは何倍も(かかる時間でいったらたぶん十倍以上)難しいのです。
それに比べると、記述式は問題作成が簡単です。そのかわり、採点が難しくなります。
そして、記述式の字数が長くなると、採点はその字数の自乗に比例する形で難しくなってきます。
小論文の試験になると、採点者は読むだけで大変です。
高校入試の作文試験というものの中には、かなり短いものもあります。200字ぐらいのものでは、作文というよりも長めの記述試験と言った方がよいと思います。
これも、長い文章を書かせる形にすると、採点が難しいからとい事情があるからだと思います。
しかし、生徒の実力が最もわかるのは、この小論文なのです。
それも、1本だけでなく、複数の小論文をそれぞれ1200字以上書くような試験であれば、実力はかなりはっきり出てきます。だから、森リンで採点しても、人間の評価と同じような結果になってくると思います。
昔の東京大学の小論文が、一時そうなったことがあります。かなり長い小論文課題を複数書かせるよな問題でした。
しかし、やはり採点の負担が大きかったのでしょう。その方式は、長続きしませんでした。
記述式の問題が増えてきた背景には、以上の、(1)選択式では問題作成が大変なわりに、実力のある生徒はほとんどできてしまう、(2)小論文では生徒の実力はよくわかるが、多数の生徒を短期間で採点するのはほぼ不可能、ということがあると思います。
さて、この記述試験(大体が50字から150字程度)にどう対処するかです。
毎年、今ごろの時期になると、言葉の森の受験作文コースに、記述式の対策をしてほしいという要望が寄せられます。又は、ごく短い作文試験(という名前の実際は記述試験)を見てほしいという要望が寄せられます。
以前は、その対策をしたこともあるのですが、あまりにも簡単で、わざわざ1時間近く時間をかけて教える内容でもないので、記述式の対策は家庭でやってもらうことにしました。
教室で教える形であれば、週に1回だけになってしまいますが、家庭でやれば毎日でもできます。
記述式の試験は、やり方がわかっているだけでなく、書くことに慣れていることも大事なので、家庭で毎日できればその方がずっといいのです。
そのやり方は、こういう形です。
まず、教材は昨年度の国語入試問題集です。
その問題集の中の記述の問題を選んでももちろんいいのですが、ランダムにどの問題文でもよいから、その文章を読んで感想又は論旨を書く、というやり方の方が簡単だと思います。
文章を読むだけなら5分もかかりません。その上で、その文章に対する感想又は論旨を字数を決めて書くのです。その字数は、自分が受けようとする志望校の過去問の傾向に合わせておくとよいと思います。
この場合、大事なことは、
(1)読んで、考えて、一気に書くということです。書いている途中で考えたり、書いたあと消しゴムで消して直したりということはしません。頭の中で書くことを考えたら、一息で書くように練習するのです。
(2)一文の字数は、50字を平均としておきます。ですから、150字の記述であれば、3文でまとめるということになります。
(3)できるだけ字数ぴったりに書くようにします。50字の記述であれば、50字目の最後のマスに句点が来るぐらいに書きます。マス目がなく全体の枠があるだけならば、その枠に普通の字数でいっぱいまで書くようにします。
(4)説明文の場合は文章の輪郭がはっきりするように、物事を対比させる形で書いていきます。「AではなくBである」という形です。物語文の場合は文章の深みが出るように、物事の二重の面を浮き彫りにさせる形で書いていきます。「AでありながらBであった」という形です。しかし、これは難しければパスしてもかまいません。
さて、このように書いたあと、お父さんやお母さんはどう評価したらいいかというと、書かれた文章がスムーズに読めるように書いてあればいいということで見ておけばいいのです。
お父さんやお母さんも問題文を読んで、その記述が問題文に対応したものになっているかどうかを見られればその方がもちろんよいのですが、そういう評価の仕方を決めてしまうと、親の方が億劫になってきます。
大事なことは、毎日練習して書き慣れるということですから、苦労するのは子供だけでよく、親はその外側だけ見て、きちんと読めるように書いてあればそのことを褒めてあげるだけでいいのです。
このように毎日練習をしていると、書くスピードも上がり、読む力もつき、字数ぴったりにまとめる力もついてきます。
ですから、こういう勉強は普段から行えればいちばんいいのですが、実は記述の勉強や作文の勉強は、生徒の心理的な負担が大きいので、受験という目標がなければなかなかできません。
だから、受験をきっかけにして、家庭で記述式の勉強ができるというのはとてもよいことなのだと思います。
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つめこみ式の教育から脱出できそうですね。
記述式が増えているのは、選択式と小論文の間をとっているからなのですね。
それにはそれなりの対策を。
4つのポイント、とてもわかりやすく、続けられそうです。
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作文のすごく苦手な子がいたとします。
「何でもいいから、自由に思ったことを書いてごらん」
と言われても、もちろん一文字も書けません。原稿用紙を前に、じっと動かないままです。
こういうとき、お母さんやお父さんが、なだめてもすかしても、もちろんおどしても、子供に作文を書かせることはできません。
それどころか、時間がたてばたつほど、ますます書けなくなるのです。
そして、書けない時間を長引かせれば長引かせるほど、子供の苦手意識は強化されていきます。
では、こういうときは、どうしたらよいのでしょうか。
言葉の森の通学教室では(通信教室の指導も基本は同じですが)、書き方の流れと、その作文に盛り込む表現項目を先に言ってあげるのです。
「最初に、こう書いて、次にこう書いて、そのあとはこう書いて、最後にこう書くんだよ。そして、この2番めの段落にもし会話が思い出せたら入れて、最後は自分の思ったことを書いていく。途中でお母さんやお父さんに聞いた話があれば入れていこう。」(たとえを入れる指導をする場合もありますが、その子の苦手度を判断して、何を教えるかは柔軟に決めていきます)
という感じです。
苦手意識の強い子には、具体的な文まで言ってあげるので、そのとおりに書き出すことができます。
そして、いったん書く手が動き始めると、あとは自分なりに書いていけるようになるのです。
この最初に手を動かすということが大事で、苦手意識の強い子は、最初の手が動き出さないのです。
ところが、もっと苦手な子もいます。
それは、小学校の低学年で、まだ書くことに全然慣れていないようなときです。
このときは、書き方の流れを具体的に言っても、まだ書き出せないことがあります。
大人から見れば、文章を書くということは、文章を口で言うことと同じように思うのですが、書くことと言うことは、全く別のことです。
口で話すことは、誰に教わる必要もなく、自然にできるようになります。ちょうど、鳥が自然に空を飛べるようになるのと同じです。聞くことと話すことは、本能のようなもので、人間には誰でもできるようになるのです。
しかし、読むことと書くことは、自然に任せていたのではできるようにはなりません。読む練習と、書く練習がなければできるようにはならないのです。
その中でも、特に書くことは、人間が人類の歴史のかなり後半になってから獲得した能力ですから、低学年の子にとってはかなり難しいことなのです。
ここで、よくある指導上のミスは、子供から書くことを引き出そうとすることです。
大人はつい、書く内容がわかれば書けると思ってしまうのですが、実は、内容よりも書くという動作自体がまだうまくできないという段階であることが多いのです。
そういうときの教え方のコツは、子供には口で言わせて、お母さんやお父さんがそれを文として書いてあげることです。
これが、親子で書く構想図という勉強法です。
親「今日は、何があったのかな」(と、さらさらと、「今日は何があったかな」と書く)
子「えーと、サッカーをした」
親「そう。どこでサッカーしたのかな」(と、さららさらと、「ぼくはサッカーをした」と書く)
子「公園で、けんちゃんたちと」
親「けんちゃん、サッカー好きだもんね」(と、さらさらと、「いっしょにやったのは、けんちゃんです」「けんちゃんはサッカーが好きです」と書く)
子「うん、でも、今日はぼくがシュートをいれたんだよ」
親「へえ、すごい。靴ぬげなかった」(と、さらさらと、「今日はぼくがシュートをしました」「このあいだみたいに、くつだけ飛んでいくことはありませんでした」と書く)
こういう調子で、親子で対話をしながら、子供が口で言ったことを、お母さんやお父さんがどんどん文章化して書いていくのです。
すると、子供はそれを見て、作文を書くという全体的なイメージを身につけます。
この全体像がわかるということがまず大事で、全体の流れがつかめると、だんだん自分でもできる気がしてきます。
そして、人間はもともと、人がやっているのを見るだけよりも、自分がやってみる方が好きですから、何も言わなくても、できそうな自信がついてくれば自分でするようになるのです。
この自分でやる気になるまで待つ、そのためにどういう感じでやるのかを何度も見本として見せる、というのが作文指導のコツです。
これは、作文に限らず、あらゆる習い事に共通することだと思います。
作文の勉強は、他の教科の勉強に比べると敷居が高いので、とくにこういう見本を見せるという準備が必要になることが多いのです。
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作文が苦手な子を見ると、どう指導していいか途方に暮れることがあると思いますが、そういうときの教え方は実は簡単です。
大人が書いて見せてあげればいいのです。
見本を見せて、全体のイメージがつかめるようになると、子供はだんだん自分でもできるような気がしてきます。
自分でもできるという気持ちが持てるようになって初めて書かせる指導を開始すればいいのです。
見本を見せるというやり方は、生徒も先生もストレスが溜まらないところがいい点だと思います。どんなに苦手な生徒でも、安心して勉強できるので、暗い雰囲気になりません(笑)。
「して見せて 言って聞かせて させてみて できたところをホメてやらせる」
ですね(笑)
中学生の子が、全く書けない場合はどうすればよいでしょうか?
体験文、意見文、感想文、どれをとっても全くといっていいほど書けません。対話、型を決めることも試みてみましたが、うまくいきませんでした。
書いても、話のすじが通っておらず、矛盾点や、テーマからずれてしまうことが多いです。
春夏秋冬さん、こんにちは。
それは、実はほぼ99%、全く心配要りません。
対話をするとか、型を決めるというレベルでは、まだ難しすぎるのです。
親子で構想図を書いて、それをもとに作文を書くようにすれば、10分ほどですぐに書けるようになります。
しかし、当面の作文や感想文はそれでよいとしても、今後のことを考えると、やはり本格的に作文の勉強をしておくといいと思います。
中学生は、本人が自覚しているので、上達は早いです。
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勉強は、ひとりでやるものです。
自分がやると決めたことを自分のペースで進めていくのが最も能率がいいからです。
だから、小学生でも、中学生でも、もちろん高校生以上は当然ですが、家庭で勉強する時間を長く確保している子ほど学力が高いのです。
逆に言えば、学校や塾や予備校に通って先生の講義を聴いている時間は、自分の勉強の前段階の時間、つまり勉強の準備の時間で、そのあと家庭でその授業を復習したり次の予習をしたりする時間が本当に勉強の内容が身につく時間です。
しかし、能率だけを考えていたのでは、人間というよりも機械に近い存在になってしまいます。
夜遅くまで学習塾で勉強している子供たちに、何が楽しいかと聞くと、塾の帰りの時間に友達とお喋りができることという言葉がよく返ってきます。勉強が楽しいから夜遅くまでがんばるのではなく、友達と一緒に帰れるからがんばっているのです。
人間はひとりで生きているのではありません。ひとりで勉強していても、その勉強を共有できる誰かほかの人がいなければ、ふと虚しさを感じることがあります。
通信教育という形態は、自分のペースで勉強できるので一見能率がよいように見えますが、長続きしない面があるのは、そのひとりでやるというマイナス面が出てくるからです。
しかし、同じ通信教育でも、言葉の森の作文通信教育は、ほかの通信教育と比べると提出率や継続率が高いと言われています。
それは、毎週、勉強を始める時間に先生からの電話説明があるからです。
これがもし、教材が送られてくるだけで、自分ひとりで勉強しその作文や答案を送り、赤ペンで添削が返ってくるというだけでは、だんだん張り合いがなくなってきます。
担任の先生とのコミュニケーションが電話という形で毎週あることが、勉強開始の励みになっているのです。
しかし、私は、実はこれでもまだ不十分だと思っています。
それは、中学生以上になり、勉強にも生活にも自分なりの融通がきく年齢になると、先生から電話があったあともすぐに勉強を始めるのではなく、「ちょっと一休みしてからやろう」とか、「今日は忙しいから明日やろう」とか、自分なりに理由をつけて後回しにしてしまう生徒が出てくるからです。
もちろん、本人はちゃんとやろうとは思っているのですが、後回しにしてしまうと、自然に開始することが億劫になります。勉強開始には、電話説明に加えてもう少し強制力があった方がいいということになるのです。
そこで、今行っているのが、オンエア作文です。
これは、自分が勉強している間の1時間、ずっと先生が一緒にいるという形の勉強です。もちろん、その間、先生はほかの生徒の指導をしていますから、その生徒につきっきりでアドバイスをするわけではありません。
しかし、電話説明のあとも先生が一緒にいるということと、その時間に勉強しているほかの生徒がいる(画面上でほかの生徒がいることも見られる)ということが、勉強を始める強い動機になっているのです。(言葉の森で勉強している生徒は、オンエア作文のオプションは無料)
このオンエア作文と同じ仕組でやっているのが、オンエア講座です。
例えば、小4~小6対象の思考国算講座では、公立中高一貫校の入試問題の主に算数と国語の勉強をします。
内容はかなり難しいのですが、更にその上、ただ問題に答えるだけではなく、自分で似た問題を作ったり、自分なりにオリジナルの感想を考えたりする勉強をします。
ところが、この自分なりに考える勉強を、もし家庭でひとりでやるとしたら、まず長続きしません。それは、作文を書く勉強と同じように、精神的エネルギーをかなり必要とする勉強なので、何か励みになるものがないと続けられないからです。
その励みになるものが、その勉強の時間を共有できる先生や友達がいることです。
下の動画は、オンエアの思考国算講座の一部です。勉強の時間の合間に、みんなが作った勉強の結果を紹介したり、それぞれの生徒が今読んでいる本を紹介してもらったりしています。
まだ生徒どうしは、互いに知り合いになっているわけではないので遠慮しているところがありますが、これが小1のころからずっとオンエア講座で一緒に勉強していて、夏合宿などでたまに会って遊ぶような機会があれば、もっと自由に交流する雰囲気が出てくると思います。
https://youtu.be/hjIuHnH1OdA
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答えのわかっている勉強で人よりいい点数を取っても、面白くも何ともありません。
自分らしい答えを見つけたり、問題を作ったりするから、勉強が面白くなるのです。
そして、それを共有できる仲間がいれば、勉強は更に楽しくなると思います。
これからの勉強は、答えを見つける勉強ではなく、答えを作る勉強になります。
それは、問題を作る勉強とも言えます。
そして、これからの勉強は、誰でも先生になれる勉強になります。
先生に必要なのは、教える知識ではなく、生徒を励ませる人柄なのです。
共に学ぶ仲間を意識しながら、集中できる環境は、ますますやる気につながりそうですね。
家にいながら、図書館で勉強しているような感覚ですね。
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なぜ小学校低中学年のときは、勉強よりも遊びが大切かというと、このころの遊びは、勉強よりもずっと頭を使うことが多いからです。
この時期に、学校の勉強に熱中する子がいたら、それはかえって将来が心配です。
勉強は、習慣がつけばよいだけで、そこでより難しいことまでできるようにする必要はないのです。
このころの勉強は、頭を使っているとはいっても、頭の一部を条件反射的に使っているものがほとんどで、創意工夫ということはほとんどありません。
だから、小学校低中学年のころは、勉強をさせる工夫をするよりも、遊びを創造的にする工夫をした方がよいのです。
創造的な遊びとは、現実と結びついた遊びです。空想的な面があってよいのですが、その空想を現実にあてはめられることが大事で、バーチャルな世界での経験というのは、ほとんどの場合、創意工夫の余地はありません。
多様な世界が提供されているので、創意工夫があるような気がするだけです。
現実と結びついた創意工夫のある、しかし、お金や時間のかからない遊びを考えていく必要があると思います。
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子供が小学校低中学年のころは、勉強させる工夫をするよりも、遊びを創造的にする工夫をする時期です。
勉強は、毎日の習慣がつけばいいだけですから、分量を少なくして、やることを決めれば、親が言わなくても自分で毎日勉強するようになります。
無理にたくさんやらせたり、難しいことをやらせようとしたりするから、なかなか習慣がつかないだけなのです。
遊びの工夫というのは、意外とおざなりにされています。
本当は、子供をいかに楽しく創造的に遊ばせるかということがもっと研究されていいのだと思います。
ただし、それは、お金をかけたり、手間をかけたり、特殊な技術を必要としたりするものである必要はありません。
この点で、おじいちゃんやおばあちゃんの知恵がこれから生きてくるのではないかと思います。
勉強の成果は目に見える形で表れるので、つい勉強の方を優先しがちですが、子供が遊びから得られるものは、目に見えないだけで、実は、子供の成長になくてはならない貴重なものなのでしょうね。
「勉強をさせる工夫をするよりも、遊びを創造的にする工夫」。
そういえば、娘が熱中していたデザイナーごっこ。裏紙などを使って、お洋服や靴を絵でかいて、それを組み合わせる遊びなのですが、飽きずに、色々なパターンを作っていたものです。もちろん既成のおもちゃでも同じようなものがあるのでしょうし、逆にそういうものを参考に作りだした遊びなのでしょうが、与えられたものでなく、自分で作りだすことの喜びがそこにあるのだろうなあと思っていました。
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