思考力や創造性の評価で最も役立つのは小論文だと思います。
しかし、小論文は採点に手間がかかることと、客観性が必ずしも保証されないことから、本格的に利用しているところはありません。
小論文の本格的な利用とは、複数のテーマで1200字以上の小論文を何本か書くような形の利用です。
字数が短い小論文であったり、1つのテーマで1本だけ書くような形では、誤差の方が大きくなります。特に、傾向が予測されるような小論文の場合は、準備の有無がその小論文の出来を左右するので、小論文試験と言っても本当の実力がどれぐらい正しく評価されるかは疑問です。
この小論文試験の評価に活用できるのが、深層学習です。
まず、同じテーマで複数の人が小論文を書いた場合、そのテーマに関連性の深い文章というものが評価されます。
つまり、みんなが同じような形で論じている傾向に近いものほど、テーマに深く関連していると考えられるのです。
しかし、みんなと同じ傾向だということは、それだけ平凡だということです。最も平凡で最もありきたりのものが高い評価を受けることになってしまいます。
そこでもう一つの評価は、みんなと異なっている度合いを評価するということです。
大きな論旨は、みんなが論じているものと同じだが、その中身がユニークで幅が広いという小論文が、論理性と創造性を兼ね備えた文章だと考えられるからです。
これは、人間が文章を読むときの感覚と似ています。
上手な文章というものは、書き出しと結びは一つの輪のように収斂していて、テーマと結びついていますが、その途中の展開がユニークで幅広く独創的なのです。
ただし、以上のような評価を、自然に書かれた文章だけで評価するのは、深層学習には若干荷が重いと思います。
そこで、小論文試験の場合は、書く文章にある方向性を持たせるようにするのです。
こうすれば、人間が評価するのとかなり近い評価を機械採点でできるようになると思います。
ここでよく誤解されるのは、機械が価値を評価しているのではないということです。
価値を評価できるのは人間だけです。それは、生きた人間は、希望や願望や欲望といった未来に目指すものを持っているからです。
機械がそのような価値観を持つようになるかもしれないという人がいますが、それは単に言葉の遊びです。生きているものは希望を持ち、生きていないものは希望というものがそもそもないから生きていないのです。
機械による評価が容易にできるようになれば、学校教育の中で文章を書く機会をもっと増えます。
知識を詰め込む勉強だけでなく、その知識を生かす勉強をすれば、勉強はもっと楽しくなってくると思います。
参考までに、森リンという自動採点ソフトが評価した森リン大賞のリストです。(この森リンは、まだ深層学習を使っていません)
https://www.mori7.net/oka/moririn_seisyo.php
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音声入力は、既に実用化されています。
自然言語処理を利用して、生徒自身が作文の自己評価ができるようになれば、作文の勉強はゲームのように楽しいものになると思います。
https://www.mori7.com/index.php?e=2674
知識は、inputするだけでなく、outputして初めて意味のあるものになるのですね。
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勉強は、自分で考えたり、作ったり、発表したりするところが面白いのです。
正解に到達するだけなら機械でもできます。
機械ではできない自分らしい創造をするのが人間らしい勉強です。
社会に出て活躍する人も、そういう自分なりの工夫ができる人で、その傾向はこれからますます強まってくると思います。
下記は、思考国算講座の中で、みんなの作品を紹介している場面の一部です。
こういう自分らしい発表が、これからもっと広がっていくといいと思います。
コンクールなどでは、脚光を浴びるのはごく一部の入賞者だけです。
しかし、家庭で親子だけでやっていたのでは、ちょっと張り合いがありません。
だから、6、7人の少人数のグループで全員が発表できるような場があるといいと思っているのです。
https://www.youtube.com/watch?v=KqwScBzJprQ
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昔の学校は60人学級ぐらいでしたが、それでもみんなそれが普通だと思って勉強していました。
しかし、それはみんなの生活環境が同じようなものだったから成り立っていたのだと思います。
今の社会では、日常的な勉強の場は6、7人がちょうどいいのではないかと思います。
そして、必要に応じていろいろな人数で集団活動が組めるようにするといいのです。
オンラインの勉強というと、個人でできるとか、マンツーマンでできるとかいうものが多いのですが、子供たちが喜ぶのは、少人数のグループでやるものです。
人口密度の高いところでは、近所の子供たちが集まって家庭学習の延長でやっていくような勉強です。
それをオンラインで高度な勉強としてやっていきたいと思っています。
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勉強というと、何かいろいろなことを教えられて、それをしっかり覚えておき、聞かれたら正しく答えられるようになることが目標のように考えられがちですが、本来はそういうものではありません。
既に答えのわかっていることを、その答え方を身につけるために学ぶことは、教育の準備であって、それが教育の目標なのではありません。
目標は、それらのいろいろな知識の土台の上に、自分なりの創造、発明や発見や発表をすることで、それこそが人間がもともと持っている喜びに根ざした教育になります。
勉強ができるようになることは、そういう喜びのための準備であって、本当の喜びはその先の創造にあるのです。
2020年から小学生のプログラミング教育が必修になりますが、これも、子供たちが自分で創意工夫して自分で何かを作ることを早めの目標にする必要があります。
プログラミングを覚えること自体が勉強のようになり、その知識を覚えたかどうかで○×をつけられるようになると、ここでもまたできない子をどうするかという不毛な問題が出てきます。
子供たちの遊びで、その遊びができない子をできるようにするという問題はほとんどありません。できない子も参加できるように、遊びの方を柔軟に工夫できるからです。
教育だけは、そういう柔軟性がなく、かたくなに正解というゴールの一本道に子供を追い込もうとしているように見えます。
本当は、正解はたくさんあって、誰でもその正解に行けるように工夫していくことできるのです。
遠い正解も、近い正解もあり、誰もが自分の興味と関心に応じて、自分なりの正解に行けるようにするのが教育の工夫するところなのです。
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中学生たちの夏休み明けのテストの結果を聞いて、中学の教育が何かおかしいような気がしました。
もしかしたら、先生たちは、生徒に点数の差をつけることを目的にしてテストをしているのではないかと思ったのです。
勉強ができる子とできない子に分かれるのは、評価そのものが目的になっているからです。
本当は、誰もが自分の興味と関心と適性に応じて自分なりにできるようになり、それを生活や遊びや創造に生かしていくものなのです。
教育は、点数の差をつけることを目的にするのではなく、誰もができるようになることを目的にすべきだと思います。
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公立中高一貫校の入試は、作文試験が定番になっていますが、高校入試でも作文試験を課すところが増えています。
作文試験というものは、採点する側の負担が大きいので、どこの学校でも行われるようになるわけではありません。通常の学力試験で間に合うところは、学力試験だけでこれからもやっていくと思います。
しかし、学力試験以上の学力を求めるところでは、これからも作文や小論文の試験が増えてくると思います。
作文の評価というものは意外と難しく、論旨が合っていてなおかつ独創であるものを優れた作文と評価するという理屈は成り立ちますが、それを人間が読んで判断するのはなかなか大変です。
だから、採点する側の気持ちとしては、誤字があったり、字数が短かったりするものは、内容を読んで評価する以前に、誤字や字数だけで低い評価を下してしまいたくなるのです。
ところが、この誤字や字数や書くスピートというものは、意外と作文の実力と相関が高いのです。
特に、字数についてはそういうことが言えます。
もちろん、簡潔で密度の濃い文章を書く人もいます。長いだけで密度の薄い文章を書く人もいます。だから、字数だけで評価することはもちろんできませんが、一般に文章力のある人は、必要に応じて長く書くことができるのです。
この字数を長く書く力は、すぐにはつきません。また、短い時間で早く書き上げることも、すぐにはできるようにはなりません。
長く早く書くという意識的な努力をして、少しずつついてくるものです。
また、誤字をなくすということも、予想以上に時間がかかります。
800字の作文で1箇所でも誤字がある場合、その生徒はいつ書いても800字で新しい1箇所の誤字があるという確率があります。
その誤字は、小学校中高学年で習う漢字を勘違いして覚えているということが多いので、他人から指摘されなければ気がつきません。
たまたま昨日、思考国算講座で生徒の書いた文章を紹介したときに、そのよくある誤字がありました。内容の優れた文章ですから、よけいに誤字が目立ってしまうのです。
ひとつは、「かたずける」です。これは、昔は一時この書き方が正しいとされたことがあります。ですから年配の人の中には、こちらの方が正しいと思っている人も多いのですが、現代の表記では「かたづける」が正解になっています。
同じように、「読解」の読み方を、「どっかい」ではなく「どくかい」と読むように学校で教えられた時期もありました。だから、いまでも「どくかい」と読む人がいます。間違いではありませんが、今は普通は「どっかい」です。
もうひとつの誤字は、「展開」などの「展」の字の下に左のはらいを書いていることでした。これも勘違いして覚えていると、人から指摘されるまで気が付きません。
同じようによくあるのは、「友達」などの「達」の中を「幸」と書いてしまうことです。これも、正しい字と外見が似ているので、他の人から指摘されなければ気が付きません。
こういう誤字が完璧になくなるのは、私の経験で約1年間かかります。というのは、私自身も誤字が多かったからです。
それをどうやって直したかというと、自分の書いた文章で使った漢字を、易しい漢字も含めて逐一辞書で調べ直したのです。
誤字がない作文を、必要に応じた長さで、指定された時間内に書き上げるというのは、それなりの努力が必要です。
しかし、作文を書く練習というものは、ひとりではなかなかできません。
その第一の理由は、作文を書く勉強というのは、ほかの勉強に比べて負担が大きいからです。
第二の理由は、他人から評価されなければ自分で自分の作文は評価できないからです。
作文の内容的な評価は、誤字や字数やスピードとは別のものです。しかし、相関が高いのも事実です。
だから、作文の評価では、内容以前に誤字や字数で評価されてしまうこともあるのです。
字が上手かどうかということも、読む人の第一印象には影響します。しかし、文章の内容と字の上手さは相関がないと多くの人が感じているので、よほど読みにくい字でなければマイナスになることはありません。
それよりも、正しい表記で長く早く書くことが、内容以前の勉強で最も大事なことなのです。
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誤字は、一般的な漢字の練習をしても直りません。
自分の書く文章の中の漢字を、自分なりに勘違いして覚えているということが大半だからです。
だから、ほとんどの誤字は本人が正しいと思って書いている誤字です。
自分がそうだったから(笑)よくわかります。
ある都立高校の過去の作文試験の問題です。
「生きるということは徐々に生まれることである。(サンテグジュペリ)」
「海のほかは何も見えないときに、陸地がないと考えるのは、けっして優れた探険家ではないない。(ベーコン)」
「自然は曲線を創り、人間は直線を創る(湯川秀樹)」
これで50分600字で書くのです。
面白いと言えば面白いですが、途方に暮れると言えば途方に暮れると思います。
誤字は、内容が良ければよいほど、目立つ…本当ですね。
やはり作文力は、読書と継続が大切ですね。
かなり現実的な話題です。
中学入試から大学入試・就職試験まで作文を課すところが増えています。
もちろん論理的で内容のあるものを時間内に書くことが求められているのですが、現実には同じくらい大切なのが誤字脱字のない文章であること。
誤字脱字があると内容を見てもらえないという現実があるのですね。
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小学1年生から3年生が対象の読書実験クラブでは、主に説明文の本の読み聞かせをしています。
説明文ですから、それを実際の生活にあてはめて実験したり観察したりすることができます。
物語文の世界も、想像をふくらませる楽しみがありますが、説明文は実際に確かめてみるというまた別の楽しさがあります。
しかも、実際にやってみることですから、お父さんやお母さんとの対話も生まれます。
また、その実験や観察の結果を発表し合い、みんなで共有することもできます。
こういう実際の物や人との関わりが、子供たちにとって本当に役立つ学力につながっていくと思います。
勉強という意識なく、遊びのような感覚で、実は深い勉強ができているというのが読書実験クラブのめざしているものです。
今後、この講座を広げて、読み聞かせをしてくれる人も多数募集したいと思っています。
https://youtu.be/iF5mMrKGLBs
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読み聞かせは、家庭でお父さんお母さんがよく行っていると思いますが、それをオンラインで共有して行うのが読書実験クラブです。
読み聞かせの本は、物語文もありますが、どちらかといえば説明文が中心です。
それは、説明文の本はそのあと実際にいろいろ確かめたり実験してみたりすることができるからです。
勉強は、ひとりでやっていてもあまり面白くありません。
しかし、何十人もいるクラスでやっていると、今度は個人的なコミュニケーションがとれなくなります。
6、7人のグループでひとつの話題を共有しながらやっていくところが、能率と交流のバランスのよいところだと思います。
読み聞かせのあとに、探してみよう、観察しよう、食べてみようがあると、親子の対話がふくらみますね。
おもしろいですね。ミジンコ浮草知りませんでした。
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言葉の森が作文と国語の指導を始めたころ、そういうことを教えているところはどこにもありませんでした。
こちらの知らないところでそういう教室があったのかもしれませんが、少なくとも、ネットで検索するかぎりでは、作文教室とか作文講座とかいう言葉自体が、言葉の森以外はどこにもありませんでした。
だから、言葉の森の作文と国語の指導は、すべてオリジナルで始めたのです。
その作文と国語の指導法を言葉の森のをホームページなどに公開していたので、その後、それを見て、作文や国語の指導を始めたところも多かったようです。
実際に、名前を出せば誰でも知っているような大手の学習塾や大手の通信教育の人が、言葉の森の作文指導をわざわざ聞きにきたぐらいです。
それまでの学習塾は、一応全教科教えるが、成績を上げることができるのは、算数数学とか、理科、社会、英語などの教科で、国語は名前こそあるがそこで成績を上げることは期待されていないという状況でした。
これは私が思ったことではなく、学習塾を経営している何人もの人が言っていたことです。
今でも、国語の授業は、それを聞いたからといって国語の力がつくわけではないと多くの人が思っているようです。
その端的な例は、高校の国語の授業です。
大学入試に向けての国語の力をつけるために、高校の国語の授業を真面目に聞くという高校生はたぶんいないと思います。
国語の授業は、入試に対応するものではなく、もっと別の勉強なのです。だから、意味があるとも言えるのですが。
国語の指導がそのような感じですから、作文の指導法などはどこにもありませんでした。
日本には、生活綴り方運動などに見られるように、先人たちの優れた作文教育の伝統がありました、それは国語の勉強というよりも、作文を書くことを通して人間の生き方を深めるというような文学的な運動でした。
だから、生活綴方運動の中で優れた作文を書く子供たちは生まれましたが、作文が上手に書けない子供たちをどう指導するかということはあまり考えられず、また、生活作文から意見文に移行する流れなども十分に研究されていませんでした。
それを言葉の森が一歩ずつ、小論文を書くことに結びつく低学年からの作文指導という形で開発し、その作文指導に対応する読解力をつける指導という仕組みを作っていったのです。
ですから、今は、作文が苦手な子でも、得意な子でも、どういう子が来ても対応することができます。
また、受検の作文の課題についても、小学校の編入試験から、中学、高校、大学入試までどんな課題を聞かれても対応できます。
また、国語の勉強についても、ほかのところでは国語力をつける方法などを教えるところはないと思いますが、言葉の森では家庭でどういう取り組みをするかということまで教えられます。
ただし、国語力のない子の場合は、それまでの家庭の国語的生活に問題があったことが多いので、家庭学習を続けるには保護者の忍耐力も必要になります。
このように、作文と国語の指導については、言葉の森はたぶんいちばん豊富な実績を持っています。
ですから、作文や国語の勉強をする教室を探している方は、ほかの教室の体験学習と並行してもかまいませんので、まず言葉の森の体験学習を受けてみることをおすすめします。
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今日は、朝から静かな雨です。
つい先日までの夏の延長のような暑さとはうってかわって、急に秋が深まったようです。
――そういえば、セミの声も聞かなくなったなあ。
そんなことを思いながら雨雲の空を見上げていると、ふと昨日暗唱検定を受けた小学2年生の子の言葉が浮かんできました。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル……」
――なるほど。そういう人ばかりになったら、社会はもっと穏やかで住みよいものになるだろうなあ。
――そして、そこにお祭り好きな人が加われば、穏やかでしかも楽しい社会になるだろうなあ。
そんなことをふと思ったのです。
――雨ニモマケズ 風ニモマケズ……。
日本語は、昔から言霊と言われるように、ただ意味を表すだけでなく、人の心を動かします。
それは、日本語の側ではなく、日本語を受け取る日本人の側に言葉によって心を動かされる要素があるからのようです。(「日本語人の脳」より)
小学校低学年のころから、こういう日本の文化を反映した詩や文章を音読し暗唱している子は、自然にそういう日本の感性が身についていくと思います。
そして、日本語は感性を豊かに表すだけでなく、論理の言葉も十分に表を力を持っています。
だから、世界中の書物が日本語に翻訳されているのです。
暗唱という教育方法は、昭和の初期まではかなり広く行われていたようです。
明治維新を担った若者の多くは下層武士階級でしたが、その人たちの教養のもとになっていたものも古典の暗唱文化でした。
この日本語の暗唱文化をもう一度復活させたいと思い、暗唱検定の仕組みを作りました。
そして、日本の古典にいろいろ触れてみると、日本には本当に豊かな文化資産があるのだということに改めて気付きました。
漢詩、論語、古事記、万葉集、古今集、百人一首、枕草子、源氏物語、平家物語、方丈記、歎異抄、花伝書、徒然草、奥の細道、五輪書、葉隠、和俗童子訓、言志四録……。
いつか、誰もが自分の好きな古典の一節を暗唱するような、そういう雰囲気の教室を作っていきたいと思っています。
――――
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
――――
「雨ニモマケズ」
宮澤賢治
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小1の時にお祖父ちゃんのお墓の前で暗唱した「雨ニモマケズ」。その時は
意味も分からず暗唱していたその詩が、今になって「あ、こういうことだったんだ」とわかる瞬間があります。これも暗唱の面白さだと思います。
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国語力をつけるということについて、途方に暮れてしまうお父さんお母さんが多いと思います。
国語と言っても、普段使っている日本語です。わざわざ勉強しなければできないなんておかしい思うのが普通です。
漢字が読めないとか書けないとかいうのであれば、知識の問題ですから原因がわかります。しかし、読解の問題ができないとか、記述が書けないとかいうことになると、普段読み書きしている日本語なのになぜできないのか、ということになるのです。
実は、子供は、読めないのでも書けないのでもありません。
正解になるような読み方、書き方ができないのです。
それは、国語の問題の正解というものが、その文章を深く読み、深く書くことを要求しているからです。
ということは、国語は、浅く読むことも深く読むこともできるということです。
日常生活では、日本語は浅く読み取っても十分に間に合うことがほとんどです。
浅い読み方と深い読み方にそれほど大きな差はないからです。
しかし、国語の問題にされるような国語の文章は、浅く読んだら×になり、深く読むときに初めて○になるようにできています。
もちろん、普通の学校の国語のテストでは、そのようにややこしい問題は出ません。
入試問題レベルになると、そういう問題が出てくるので、塾で勉強していると、国語ができないということが出てくるのです。
では、どうしたらよいかというと、いちばんの対策は深く読める難しい文章を読むことに慣れることです。
普段、子供が読む文章、本とか教科書とか雑誌とかいうものは浅く読めるようにできています。こういう文章をいくら読んでも、深い読み方はできません。
そうではなく、直接、入試問題に出てくるような文章を読むようにするのです。
難しい文章でも、全く読み取れないわけではありません。国語の読み取りは、何パーセント読めるかという濃度の問題ですから、グレーの範囲が人によって違います。
これが、算数数学などほかの教科の勉強と違うところです。
算数数学であれば、できるとできないはある程度はっきりしています。途中の計算式によって点数が加算されることはありますが、本質的にできたかできないかの問題になっています。
国語はそうではありません。読み取れる割合によって、易しいからわかる、難しいけどわかる、難しいからわからないという差が出てきます。この「難しいけどわかる」から「難しいからわからない」の間にもさまざまな中間域があります。
このわかる度合いは、難しい文章を繰り返し読むことによって次第に増えてくるのです。
場合によっては、個々の文を取り上げて、その意味を先生に聞くということもあります。しかし、基本はあくまでも自分で読み慣れるということです。
そのための練習法が、問題集読書です。
小学3年生までは、そういう無理をする必要はまだないので、ただ読書をしっかりしていればよいのですが、小学5年生ぐらいになると、入試問題集のような難しい文章を読む勉強が必要になってきます。
ここで、国語の勉強の有利さが出てきます。日本語の文章は、繰り返し読んでいれば、自然に少しずつわかるようになってくるのです。
では、国語が得意になっている人は、もう国語の勉強をしなくてよいのでしょうか。
入試に関して言えば、そうです。国語は、いったん読む力がつき問題を解くコツがわかれば、もう勉強をしなくても必ず一定の点数は取れるようになります。
だから、受験勉強は、入試で差がつくような、そしてあとからの追い込みで間に合うような教科を中心に対策をしていけばいいのです。
しかし、入試という目標を離れて考えると、国語の難しい文章は、入試問題よりももっと先のものがあります。
それは、大学生になってから読むような、日本や世界の古典です。
話は、個人的なことになりますが、私が大学生のときに読んで、難しいので読むのをあきらめた本は、ハイデッガーの「存在と時間」でした。それは、特に、それを読み切ろうという決心がなかったからですが、もしそういう決心があったとしても読んで理解するまでにはかなり時間がかかったと思います。
もうひとつ苦労して読んで、うっすらとしかわからなかったのが、ヘーゲルの「精神現象学」でした。全部読んだので、全体像は頭に入ったのですが、意味が取れないところがあまりにも多かったのです。
しかし、その後、フランスの哲学者イポリットの「ヘーゲル精神現象学の生成と構造」という本を読んで、初めて大体がわかるようになりました。大体と言っても、半分ぐらいだと思いますが。
このときに思ったのが、入門書が概論書というものは、原典とは全く違うものだということです。
「ヘーゲル入門」などという本はありますが、こういう本を読んでも教科書的な外側の知識がわかるだけで、ヘーゲルが考えた過程がわかるようなことはまずありません。だから、大学生の読書は、まず原典を(翻訳で)読んでみることです。
そして、私は、数年間このように難しい文章を続けて読んでいるうちに、普通の難しい文章が楽に読めるようになったのです。
つまり、難しい文章を読むことによって、普通の難しい文章が簡単に読めるようになったということです。
こういう経験があるから、国語力の本質は思考力にあるということがわかってきたのです。
日本では、国語の勉強は、文化的な情緒の面があまりにも強調されすぎています。
それは、もちろん国語のひとつの面ですが、国語の本質とは少し違います。
世界のそれぞれの国に共通するその国の国語の本質は、その国語で考える思考力なのです。
だから、国語の勉強は、国語的なものにとらわらず、幅広く難しい文章を読み取る力ということで考えていくとよいと思います。
そのためのいちばん手に入れやすい教材が、実際の入試問題です。
その入試問題を読む勉強法でいちばんやりやすいものが問題集読書です。
そして、その問題集読書を楽に続けられるのが、寺子屋オンエアでの毎日の音読になると思います。
ただし、家庭で確実に音読の習慣ができれば、それでも十分です。
言葉の森の作文課題集には、毎週の長文が載っています。それを、感想文課題でない週も含めて、毎日1編音読していくのです。
1200字から1600字の文章ですから、3分ぐらいで読み終える分量です。
これを毎日読んでいると、1週間同じ文章を読むことになりますから、途中で文章の一部は暗記するぐらいになります。それぐらい繰り返し読んでいると、そこに書かれている難しい語彙が自然に自分のものとなり、読み取る力がついてきます。
この長文音読が最も重要になるのが小学5年生以降です。それは、考える力がついてくるのが小学5年生からであり、課題の文章がこの時期から難しくからです。
小学4年生までは、そのウォーミングアップとして、毎日音読する習慣をつける時期と考えておくとよいと思います。
しかし、学校の勉強が忙しくなるのも、この小学5年生あたりからです。
そのため、夜に音読の時間をすることにしていると、いろいろな用事が重なって毎日読むことが難しくなります。
だから、小学校低学年のうちから、朝ご飯前に音読をするという習慣をつけておき、小学5年生以降の多忙な時期も音読の習慣だけは崩さないようにしていくといいのです。
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問題集読書を真面目に続けている生徒は、作文に使う語彙も変わってくるようです。
問題集読書をつづけることで、難しい文章にも慣れます。
自分で時間を決めて、毎日問題集読書を行う習慣をつけたいですね。
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