この図(やじろべえの図)は、最近の都立桜修館中の入試問題です。
こういう作文課題は、書き方の方向が決められていないので、書きやすいとも書きにくいとも言えます。誰でも、何とか書こうと思えば書けるが、誰もがどう書いていいかわからないまま書き出すという課題なのです。
図ではなく文章で書かれた課題も、多くは書く方向性を決めにくい多様な考え方のできるものです。
作文の課題が、その他の知識的な課題に比べるとどれぐらい得点できるか予測できないのは、こういう捉えにくさがあるからです。
ところが、言葉の森の作文指導は、こういう課題に対しても、そのほかの文章の課題に対しても、同じように対策を立てられます。その方法が言葉の森独自の構成作文という書き方です。
与えられたテーマについて、それをどういう方向で書くかということについて、構成、題材、表現、主題を先に考え、それから書き出すようにするのです。
この図の場合は、ヤジロベエですから、ヤジロベエが表している抽象的な主題をまず考えます。
与えられた課題に、あらかじめはっきりした意見が求められている場合は、その意見が主題になります。しかし、与えられた課題が象徴的なものである場合、意見はどのようにも考えられます。そこで、その象徴的なテーマを人間の生き方や社会のあり方に結びつけてみるのです。
場合によっては、範囲をもっと狭めて、文章の書き方や、勉強の仕方などに結びつけることもできます。つまり、方向性のわからない課題を、自分なりの方向性を持った主題に転換していくというのが最初の作業になります。
このヤジロベエの場合は、バランスという抽象的なテーマが考えられますから、主題を「バランスのとれた生き方」などと考えてもいいでしょう。
主題が決まったら、次は構成を考えます。
言葉の森の作文構成法にはいくつかの種類があります。どの構成が正解かということはありませんから、書きやすい構成で書けばいいのですが、大事なことはまず全体の構成を考えるということです。
構成は、自分の実力に応じて書きやすいものを選びます。この場合は、例えば、複数の意見+総合化というかたちで考えてみます。
第一の段落は、この図が表していることを自分なりにどうとらえたか説明し自分なりの意見を書きます。
第二の段落は、バランスのとれた生き方のよい面を考えるとします。
第三の段落は、バランスのとれた生き方の今度はマイナス面を考えてみます。
第四の段落は、二つの意見を総合化して、折衷案にはならない形でより高い次元でまとめるようにします。この場合だったら、大事なことは、バランスがとれているかどうかという外見的なことではなく、何を目標としているかということで、その目標との関連でバランスが大事なこともバランスを崩すことが大事なこともあるというような考え方です。
例えば、バランスとは一般によいものと考えられていますが、走り出すときはバランスを崩さなければなりません。バランスを崩すことは行動力があるということにもつながるのです。
主題と構成の枠組みが決まれば、次は、その中に盛り込む題材を考えます。題材とは、作文の中身を作る材料です。
材料には、鮮度のよいものが必要です。鮮度とは、個性、挑戦、共感、感動などのある体験談です。
鮮度の悪い材料とは、ただ人から聞いただけの話、自分が積極的に行動しているわけではない話、誰でもよくある平凡な話、後ろむきの話などです。
後ろ向きの話とは、例えば、読書がテーマになっている課題なのに、体験談として自分があまり本を読んでいないのでよく母に本を読めと言われるなどという体験を書くことです。
もちろん材料にはウソを書いていいのではありません。それは作文の練習というよりも人間として当然のことだからです。
この材料集めは、その場ですぐに思いつくことはなかなかできません。そこで普段からの練習が必要になります。
作文の練習をするときに、事前に親子で対話をするのが役立つのはそのためです。人生経験の長い親の話を聞くことによって、子供は自分の中にも似た経験を見つけ出しやすくなるのです。
材料の中には、体験実例以外に社会実例もあります。社会実例は、データの裏付けがあればかなり強力な材料になります。しかし、小学生ではそこまでの材料を求めることは無理があるので、体験実例がしっかり書ければそれで十分です。
主題も、構成も、題材も決まれば、次は表現です。
小学校低中学年のうちの生活作文では、表現の要は「たとえ」です。的確な比喩があると、その作文は光ります。しかし、高学年以上の意見文や説明文では、たとえよりも、主題に関連した光る表現が必要になります。
この光る表現も、その場で考えつくことはなかなかできません。普段の練習の中で、いろいろなテーマについて、自分が思いついた光る表現をためておくのです。
入試の本番では、自分のそのストックの中から使えそうな表現をあてはめてくるようにします。光る表現がひとつでも入れば十分です。二つ以上入ればほぼ完全に合格です。
以上の主題、構成、題材、表現を、作文課題が出された最初の5分から10分で考えて、作文用紙の余白にメモし、そのメモをもとに一気に書き上げます。
最初に全体像を考えているので、途中でどう書くか迷うようなことはありません。また、途中で消しゴムを使って書き直すようなこともありません。消しゴムはもし使うとしても、うっかり書き間違えた文字を消すだけです。
時間配分は、全体の時間の半分ぐらいで作文の4分の3ぐらいまで書き進め、最後の4分の1はある程度じっくり考えて書きます。
何をじっくり考えるかというと、書き出しと結びの対応を考えるのです。作文の中身が個性的に広がっているのを、書き出しと結びの対応でひとつの輪のようにまとめていきます。
こういう工程が身につけば、作文試験という予測のつかないものでも、自分の実力を常に一定の力で出すことができるようになるのです。
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作文を感覚的に教えられると、褒められても注意されても、子供は何をどうしたらいいか理解できずに途方に暮れます。
理詰めに教えることで、子供たちは安心して書く練習ができるのです。
(「受験作文小論文の岸」というFacebookグループを公開しています。)
通常の作文指導は、内容的なことから教えはじめると思います。すると、それは教える側の主観になるので、同じように考えられる子と、同じようには考えられない子が出てきます。
言葉の森の作文指導は、構成的なことを説明するので、中身は子供たちが自由に考えることができます。
そして、枠組みがあるから、かえって自由に考えやすくなるのです。
ちょうど、五七五という枠組みがあるから俳句の中身を考えやすくなるようなものだと思います。
図解説明で書くと、

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やみくもに書き出してしまうと、最後字数が足りなかったり、書き直したくなったり大変です。やはり最初にしっかり考えてから一気に書き出すのがいいですね。
初めに構成を考えて書くことの大切さ。受験コースの子たちにもしっかり伝えていかなければ。
桜修館の問題はとらえどころのないテーマが多いですね。
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思考力や創造性の評価で最も役立つのは小論文だと思います。
しかし、小論文は採点に手間がかかることと、客観性が必ずしも保証されないことから、本格的に利用しているところはありません。
小論文の本格的な利用とは、複数のテーマで1200字以上の小論文を何本か書くような形の利用です。
字数が短い小論文であったり、1つのテーマで1本だけ書くような形では、誤差の方が大きくなります。特に、傾向が予測されるような小論文の場合は、準備の有無がその小論文の出来を左右するので、小論文試験と言っても本当の実力がどれぐらい正しく評価されるかは疑問です。
この小論文試験の評価に活用できるのが、深層学習です。
まず、同じテーマで複数の人が小論文を書いた場合、そのテーマに関連性の深い文章というものが評価されます。
つまり、みんなが同じような形で論じている傾向に近いものほど、テーマに深く関連していると考えられるのです。
しかし、みんなと同じ傾向だということは、それだけ平凡だということです。最も平凡で最もありきたりのものが高い評価を受けることになってしまいます。
そこでもう一つの評価は、みんなと異なっている度合いを評価するということです。
大きな論旨は、みんなが論じているものと同じだが、その中身がユニークで幅が広いという小論文が、論理性と創造性を兼ね備えた文章だと考えられるからです。
これは、人間が文章を読むときの感覚と似ています。
上手な文章というものは、書き出しと結びは一つの輪のように収斂していて、テーマと結びついていますが、その途中の展開がユニークで幅広く独創的なのです。
ただし、以上のような評価を、自然に書かれた文章だけで評価するのは、深層学習には若干荷が重いと思います。
そこで、小論文試験の場合は、書く文章にある方向性を持たせるようにするのです。
こうすれば、人間が評価するのとかなり近い評価を機械採点でできるようになると思います。
ここでよく誤解されるのは、機械が価値を評価しているのではないということです。
価値を評価できるのは人間だけです。それは、生きた人間は、希望や願望や欲望といった未来に目指すものを持っているからです。
機械がそのような価値観を持つようになるかもしれないという人がいますが、それは単に言葉の遊びです。生きているものは希望を持ち、生きていないものは希望というものがそもそもないから生きていないのです。
機械による評価が容易にできるようになれば、学校教育の中で文章を書く機会をもっと増えます。
知識を詰め込む勉強だけでなく、その知識を生かす勉強をすれば、勉強はもっと楽しくなってくると思います。
参考までに、森リンという自動採点ソフトが評価した森リン大賞のリストです。(この森リンは、まだ深層学習を使っていません)
https://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php
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知識は、inputするだけでなく、outputして初めて意味のあるものになるのですね。
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勉強は、自分で考えたり、作ったり、発表したりするところが面白いのです。
正解に到達するだけなら機械でもできます。
機械ではできない自分らしい創造をするのが人間らしい勉強です。
社会に出て活躍する人も、そういう自分なりの工夫ができる人で、その傾向はこれからますます強まってくると思います。
下記は、思考国算講座の中で、みんなの作品を紹介している場面の一部です。
こういう自分らしい発表が、これからもっと広がっていくといいと思います。
コンクールなどでは、脚光を浴びるのはごく一部の入賞者だけです。
しかし、家庭で親子だけでやっていたのでは、ちょっと張り合いがありません。
だから、6、7人の少人数のグループで全員が発表できるような場があるといいと思っているのです。
https://www.youtube.com/watch?v=KqwScBzJprQ
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昔の学校は60人学級ぐらいでしたが、それでもみんなそれが普通だと思って勉強していました。
しかし、それはみんなの生活環境が同じようなものだったから成り立っていたのだと思います。
今の社会では、日常的な勉強の場は6、7人がちょうどいいのではないかと思います。
そして、必要に応じていろいろな人数で集団活動が組めるようにするといいのです。
オンラインの勉強というと、個人でできるとか、マンツーマンでできるとかいうものが多いのですが、子供たちが喜ぶのは、少人数のグループでやるものです。
人口密度の高いところでは、近所の子供たちが集まって家庭学習の延長でやっていくような勉強です。
それをオンラインで高度な勉強としてやっていきたいと思っています。
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勉強というと、何かいろいろなことを教えられて、それをしっかり覚えておき、聞かれたら正しく答えられるようになることが目標のように考えられがちですが、本来はそういうものではありません。
既に答えのわかっていることを、その答え方を身につけるために学ぶことは、教育の準備であって、それが教育の目標なのではありません。
目標は、それらのいろいろな知識の土台の上に、自分なりの創造、発明や発見や発表をすることで、それこそが人間がもともと持っている喜びに根ざした教育になります。
勉強ができるようになることは、そういう喜びのための準備であって、本当の喜びはその先の創造にあるのです。
2020年から小学生のプログラミング教育が必修になりますが、これも、子供たちが自分で創意工夫して自分で何かを作ることを早めの目標にする必要があります。
プログラミングを覚えること自体が勉強のようになり、その知識を覚えたかどうかで○×をつけられるようになると、ここでもまたできない子をどうするかという不毛な問題が出てきます。
子供たちの遊びで、その遊びができない子をできるようにするという問題はほとんどありません。できない子も参加できるように、遊びの方を柔軟に工夫できるからです。
教育だけは、そういう柔軟性がなく、かたくなに正解というゴールの一本道に子供を追い込もうとしているように見えます。
本当は、正解はたくさんあって、誰でもその正解に行けるように工夫していくことできるのです。
遠い正解も、近い正解もあり、誰もが自分の興味と関心に応じて、自分なりの正解に行けるようにするのが教育の工夫するところなのです。
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中学生たちの夏休み明けのテストの結果を聞いて、中学の教育が何かおかしいような気がしました。
もしかしたら、先生たちは、生徒に点数の差をつけることを目的にしてテストをしているのではないかと思ったのです。
勉強ができる子とできない子に分かれるのは、評価そのものが目的になっているからです。
本当は、誰もが自分の興味と関心と適性に応じて自分なりにできるようになり、それを生活や遊びや創造に生かしていくものなのです。
教育は、点数の差をつけることを目的にするのではなく、誰もができるようになることを目的にすべきだと思います。
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