小学校低学年から作文の勉強を始めようという子は、一般的にかなりよく勉強のできる子です。
学校の普通の勉強は、もうすっかりできるので、それ以外の面白い習い事をしたいということで作文教室に来ることが多いのです。
もちろん、反対に超がつくほど苦手という子も来ます。しかし、そういう子供たちは特に問題がありません。
毎日の読書と長文音読の習慣をつけて、毎週書く作文のいいところを褒めていけば、必ず上達していくからです。
問題は、よくできる子の方にあります。
小学校低学年でよくできるのですから、学校のテストなどは常に百点です。
何をやってもよくできるので、家庭で学年よりも先に進んだことをしています。そして、その先の学年のこともすっかりできるのです。
勉強ができるだけでなく、態度もしっかりしているので、学校のクラスでも自然にリーダーのような役割を果たしています。
そういう模範的なよくできる子のどこが問題になるかというと、そのよくできすぎるところなのです。
第一は、知的な理解が進んでいるので、実際の行動よりも理解が先になりがちなところです。
世の中には実際に体験してみなければわからないことがあり、その体験の中で予想とは違ったトラブルや失敗に遭遇するのが普通です。そして、その予想とは違った失敗の経験から、知的な理解以上に多くのものを学んでいくのです。
しかし、理屈による理解が先行している子は、やらなくてもわかったつもりになるので、実際の行動を省略しがちです。
小学生のころは、知的な理解が早い子の方が進んでいるように見えるのですが、学年が上がるにつれて、そして将来社会で活躍するようになる時期になると更に、理解よりも行動を優先する人の方が成長が早くなってくる傾向があるのです。
だから、勉強のよくできる子は、特に、勉強以外の実際の行動の時間を確保してあげる必要があります。
本をよく読む子の場合は、本に書かれていることの理解で終わらせずに、その本に書かれていることを実際にやってみるような経験を用意してあげるといいのです。
第二の問題は、勉強が同じ学年の子供たちよりも先に進んでいる子は、クラスの中で浮いてしまう場合があることです。
そういう子は、子供どうしで遊ぶよりも、大人と話している方が楽しいということがあります。
しかし、大人は節度を持った話し方をしますから、子供どうしでよくありがちないざこざというものがありません。
子供は、周囲との時には理不尽なやりとりの中で成長していきます。子供どうしで遊ばない子は、そういうやりとりの機会が少ないまま、大人の中でいい子のまま成長してしまうことがあるのです。
しかし、もちろんこれは、成長とともに友達どうしの交流は必ず増えてきますから、次第にその子なりに人間関係のバランスが取れるようになります。
それでも、そこまでの苦労は、本人にとってはかなりあるのです。
第三の問題は、よくできる子は、傍目にはそう見えなくてもやはり無理をしてよくできる子になっていることが多いことです。
子供は、本当はくだらない漫画などをだらだら読むような生活もしたいのです。しかし、いい子でいるためには、親が喜ぶようないい本を読まなければなりません。いい本はもちろん面白いのですが、本当はそういう本ばかり読むとか、そういう本しか読まないということは不自然なことなのです。
今は少子化が進んでいるので、子供は親の目を離れて自由な時間を持つということがなかなかありません。その自由に脱線する時間がないということが、あとで無理として出てくるのです。
その無理は、軽い場合は、親への反発として出てきます。小学校低学年でいい子であった子ほど、小学4、5年生の自立意識が目覚めるころになると、親の言うことを聞かなくなるのです。
しかし、親への反発は成長とともに、自然に元に戻ってくるので、それほど大きな問題ではありません。
無理な生活を続けたもっと大きな問題は、学年が上がるにつれて次第に無気力になってくることです。
この無気力も軽い場合は、勉強に対する無気力で済みます。小学校低学年のころ勉強のよくできた子が、中学生、高校生となるにつれて次第に勉強に対する関心を失っていくのですから、問題と言えば問題ですが、それは生活に差し支えるほどではありません。しかし、重い場合は、生活そのものが無気力になってしまうことがあるのです。
今の家庭は、親子だけの核家族で過ごす時間が多いので、祖父母や近所の家族との交流があまりありません。
そうすると、どうしても親の価値観だけで子育てが進んでしまいがちです。
だから、親はいつも全体のバランスを考えて子育てをしていく必要があります。
そのひとつのポイントは、いいことも悪いことも度を過ぎない程度にやることです。
そして、子供が親の価値観から離れて自由に生活できる時間や場所を必ず確保してあげることです。
世界的な数学者でも、計算ミスをすることがあります。
文章を仕事としている人でも、漢字をど忘れすることがあります。
計算と漢字の力は、人並みにあった方がいいものですが、それ以上のものではありません。
人工知能のロボットが、センター試験で偏差値57.8まで取れるようになりました。
これまで人間の学力と思われてきたかなりの部分が、機械でも代替できる学力だということがわかってきました。
すると、人間に残された真の学力とは何なのでしょうか。
それは、生きる希望や、未来へのビジョンや、新しいものを作り出す力、つまりまだ答えのないものを創造する力です。
その創造力の土台として、これまでの勉強と思われていたものがあるのです。
決してこれまでの勉強がゴールなのではありません。
これからの子育ては、この新しい価値観で子供を見ていくことから始まります。
しかし、その新しい価値観の教育は、まだ多くの人が模索中です。
私は、この新しい価値観の子育ては、作文を中心とした読書と対話と経験に結びついていると思っています。
「人工知能のロボットが、センター試験で偏差値57.8まで取れるようになり」「これまで人間の学力と思われてきたかなりの部分が、機械でも代替できる学力だということがわかってき」た今、「人間に残された真の学力とは」また、人間とは何なのかという問いを根本的に問う必要がありそうですね。