作文を書いたあと、1週間後に先生から講評と評価が返却されてきます。
それをどう見たらいいのかということについて説明します。
まず、ほとんどすべての子は、先生の評価や講評をざっとしか見ません。ほとんど見ないと言っていいと思います。
それでいいのです。
講評は、生徒向け、又は、保護者向けに書かれていますが、その講評だけを読んでもらうために書かれているのではなく、翌週先生が生徒や保護者に話をするための先生のメモのような役割として書かれています。
生徒は、書かれた評価や講評を読まなくても、先生の話を聞いて入れば、先生が大事なことを言ってくれるのです。
ほかの通信教育では、詳しい赤ペン添削が返却されることが多いので、その赤ペン添削が勉強の中心のように思われがちですが、作文の勉強で大事なのは、書いたあとの話よりもむしろ書く前の話なのです。
書く前の話というのは、書く前の準備のことです。
作文の課題に合わせて、できるだけ自分の個性的な体験を書くようにする、似た話をお父さんやお母さんに取材する、というような準備が作文の内容を決めていきます。
そして、その準備のあとに、実際に書いている過程が、子供が実力をつけている場面です。そこで、どういう表現を使うか、どういう構成で書いていくかということが作文の勉強なのです。
どういう表現を使うかということは、その場の努力だけでできるものではありません。読書や音読によって、自分がこれまで使ってこなかったようなよりよい表現を吸収し、それらを使っていくことが表現の練習です。
ですから、作文を書く前の準備には、毎日の音読や読書も含まれます。
こういう準備をして、作文を書いて提出したら、それで勉強の勉強はできたということです。
その作文は翌週に返却されてきますが、次の勉強は、その返却された作文を見直すことではなく、新しい作文を書くことです。
新しい作文を書くときに、「前の作文はこうだったから、今度はこう書こう」というような話になります。
例えば、「今度は段落に気をつけてね」とか、「また面白いたとえを見つけてね」とか、「今度はお父さんにも似た話を聞いてみるといいよ」とかいうようなアドバイスです。
この積み重ねでだんだんとよりよい書き方ができるようになっていきます。
作文は、最初に書いたものがほとんどすべてで、それをいくら直しても、最初に書いたものよりもよくなることはありません。
だから、書いたあとの勉強は、する必要がないのです。
さて、以上が原則ですが、ただし、次の場合だけは、書いたあとの対応が必要になります。
第一は、誤字の書き出しです。
添削された作文には、褒め言葉が中心に書かれているはずですが、誤字についてはすべてチェックが入っています。
この誤字は、一度注意されただけでは直りません。漢字の書き間違いなどは、間違って覚えていることが多いので、同じ間違いを何度もする子がよくいます。
この誤字だけを、誤字ノートのようなものを作って書き出しておくといいのです。そして、できればその場で正しい漢字を40回書いてみます。40回というのは、400字詰めの原稿用紙の2行分です。
誤字は、これまでのその誤字を何度も使って書いていたはずなので、これまで書いた回数以上に正しい漢字を書かないと、記憶に残らないのです。
第二は、受験作文コースの生徒の場合です。
受験作文は、合格することが目的です。作文の実力をつけるための勉強と、合格するための勉強は、少し性格が違います。
返却された作文をよりよい作文に書き直していくことが大事な事後の勉強になります。
では、どう書き直すかというと、作文に書かれている実例をより感動のある実例に直し、表現をより高度な表現に直し、意見をより深い意見に直していくことです。
これは、子供だけの力ではできません。そして、先生はそこまでは教えられません。そういう話をするには30分も1時間もかかるからです。
ここで、お父さんやお母さんの役割が大事になります。お父さんやお母さんが子供と一緒に考え、一緒によりよい作文に直していくのです。
そして、その作文をファイルして、毎日読むようにするのです。
しかし、こういう親子で書き直すという勉強は、受験前でなければできません。受験前は、子供も勉強の目的がわかっているので、こういう親子での書き直しということも受け入れますが、普段の勉強でこういうことを喜んでする子はまずいません。
だから、受験前の作文は、密度の濃い親子の話し合いをするいいチャンスだとも言えるのです。
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海外の作家の誰だかが、「書き上げたあとの原稿は、倒したあとのライオンに似ている」というようなことを書いていました。
ライオンがちょっとかわいそうですが、それは置いといて。
子供が書いた作文も同じです。
書いたあとの作文の赤ペン添削見て、その作文を書き直そうという子はまずいません。
そんなことをさせれば、すぐに作文が嫌いになります。
ただし、例外もあります。それは受験作文のときです。しかし、それは本当に例外なのです。
https://www.mori7.com/index.php?e=2728
書き上げた作文を少しずつ直して上手にするということはできません。
できるとしても、ほんのわずかです。
それよりも、新しい作文を書いた方がいいのです。
それに、何よりも、書いたあとの作文を直すというのは、全然面白くありません。
そういうことに耐えられるのは、受験作文のときだけです。
作文の勉強は他の教科とアプローチが違うことを理解し、正しい方法で気長に育つのを待つことが大切ですね。大人は子どもが書き上げた作文をどうしても直したくなりますが、以下の理由から直すことの意味はあまり無さそうです。
・作文は書く前の準備のあとに、実際に書いている過程が、子供が実力をつけている場面です。
・書く段階でどういう表現を使うか、どういう構成で書いていくかということが作文の勉強なのです。
・どういう表現を使うかということは、その場の努力だけでできるものではありません。読書や音読によって、自分がこれまで使ってこなかったようなよりよい表現を吸収し、それらを使っていくことが表現の練習です。
しかし、誤字だけはきちんと正してゆく必要があるようですね。
書き終えた作文に赤ペンを入れても、実は、それを熱心に読み返す生徒はいません。子供にとっては、作文を書くという行為自体が大きな勉強なので、それで十分なのだと思います。また、後ろを振り返るより、新しい課題に取り組み続ける方が楽しく力をつけていくことができると思います。
もちろん、受験コースの場合は、自分の書いたものをより良く仕上げ、何度も読み返しておく必要があります。
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今朝の新聞に、NPO法人が、来日間もない外国人の子供に日本語教育を支援する日本語教室を始めたという記事が載っていました。
こういう草の根の運動で、公教育の隙間からこぼれてしまった子供たちを救うというのは価値あることだと思います。
しかし同時に、私はこういう良心的なボランティアの試みを聞くたびに、そのボランティアの運動に限界を感じるのです。
それは、もしボランティアの人たちの努力でよりよい教育ができるのであれば、それはもうとっくにこれまでの学校体制の中でできているはずだと思うからです。
学校教育でついていけなくなった子を救うという志は尊いと思います。しかし、もしそういう志で本当に子供たちを救えるなら、学校の中にも志を持った先生は数多いはずですから、どうして学校から落ちこぼれてしまったのかという疑問がわくのです。
私が思うのは、今の社会に根付いている教育方法自体に問題があるのではないかということです。
今の教育は、先生が生徒に教えることが前提になっています。これが、大きな障害になっているのです。
先生が生徒に教えることを前提に教科書が作られているために、教科書を読んだだけでは子供は独学ができません。先生の説明がないと理解できないような教科書が作られているのです。
これは学習塾でも同じです。塾によっては、解答をはずした問題集を渡して、その問題集を解いてくることを宿題にしているところもあります。
子供は、家庭で問題だけ解いて、答えを照合することができないまま、それを塾や学校に持っていき、みんなと一緒に答え合わせをするというのです。
先生が教えることを前提に授業が成り立っているので、その先生のペースについていけない子は落ちこぼれということになります。また、その先生のペースが遅いと感じる子は、授業に退屈を感じます。
先生という仕事は、よくできる生徒が興味を持つような方向に授業を持っていきがちですから、進度の早い子にも退屈しないような難問をときどき出すことがあります。すると、落ちこぼれの子は更に増えていくのです。
これは、特に算数数学の教科でよくある話です。そのために、必要以上に算数数学を苦手に感じる生徒が量産されているのです。
これを克服する方法は、二つあります。
一つは、先生に教えてもらわなくても、その教材を読めば独学で理解できるような教材が提供されることです。本当は、それこそが教科書の役割なのです。
もう一つの方法は、親が子供の勉強面をカバーするのが当然だという文化を作ることです。そのためには、もちろん独学で進めやすい教材があることが前提です。教科書と違って、市販の教材の中には、そういう優れたものがかなりかあります。
今の親の中には、すぐに塾に頼ろうとする人が大勢います。
そして、中には、ある塾でいい成績を取るために、別の塾に通うという漫画のような話もあるのです。
先日も、言葉の森生徒の保護者から、塾の作文コンクールでいい作文を書かせるために、作文のアドバイスをしてほしいという依頼がありました。もちろん断りましたが。
しかし、依頼しているお父さんは真剣で、自分の言っていることがおかしいというような疑問は全くないようでした。
これは、家庭が教育の場になっていないからです。家庭が塾の出先機関のようになっているからです。
家庭は、子供の教育について全面的に責任を負う場です。学校では教えられないようなことも、すべて家庭で教えられます。
その教えることの一つに勉強があります。ただし、勉強は範囲が広いので、学校や塾に分業として手伝ってもらうことはあります。しかし、その勉強も含めて子供の教育はすべて家庭の管轄の中で行われていく必要があるのです。
この点で、私は日本の教育の現状について、少し危機感を持っています。
例えば、読書などは当然家庭の文化として行われていくもののはずですが、保護者の中には、「先生、子供に本を読むように言ってください。親の言うことは聞かないので」というようなことを当然のように言う人もいるのです。
また、家庭学習の予定と、学校の宿題とが時間的にぶつかった場合、宿題を優先する人が多いと思いますが、私は本当は家庭で決めたことを優先するべきだと思います。
宿題を出さないとみんなに迷惑がかかるというようなことであれば、親がその宿題をやってやればいいのです。
独学で勉強できる教材がもっと普及すること、教育の中心は家庭だという考え方が広がること、これだけで日本の子供たちの教育は大きく改善されると思います。
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勉強の基本は家庭での自学自習です。
わからないところだけ、誰かに教えてもらえばいいのです。
そうではなく、全部先生に教えてもらおうと思うから、授業についていけない子が続々と出てくるのです。
小学生でも毎日習い事に追われる時代ですが、家庭でひとりで学べる環境が整えば、もう少し余裕を持った生活をすることができそうです。
独学用の教材があれば勉強は家庭でできるし、その方がずっと効率がいいと思います。あとは、勉強のペースを客観的にチェックするようなシステム(言葉の森の寺オンのような)があれば、さぼったり、逆にやりすぎたりすることもなくなりそうですね。
子どもの学習は家庭が中心と考えると、いろいろ無理をしていたことがわかってきました。
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