暗唱力のある子は、理科も社会も得意になります。
教科書を何度か読んでいるうちに、内容が自然に自分のものになるからです。
特に社会の勉強は、教科書を読んでそれが頭の中に入ればいいだけですから、わざわざ勉強して覚えようとしなくても、教科書を読んでいるだけで自然に成績がよくなるのです。
この暗唱力は、作文にも生きてきます。文章を暗唱していると、作文の課題によって使えそうな文章や表現や単語が自然に頭の中に浮かんできます。それをそのまま生かして作文を書いていけばいいのです。
しかし、小学校二年生のころまでよく暗唱できていた生徒が、学年が上がるにつれて、だんだん暗唱できなくなってくることがあります。それは、暗唱を覚えるための勉強と考えていたからです。
覚えればいいということで暗唱をしていると、低学年のころはすぐに覚えられるので、繰り返し音読するということをしなくなります。子供から「もう覚えたからいいでしょう」と言われると、親の方もそれでいいことにしてしまうのです。
すると、学年が上がり、覚えるのに時間がかかるようになると、「難しいから覚えられない」と簡単に諦めるようになります。
これは、大人も同じで、なかなか覚えられないと、大人はすぐに、「もう年だから」などと言います。
それらはすべて、暗唱を覚えるための勉強と考えているからです。暗唱は、繰り返し音読するという勉強で、文章を覚えるというのはその結果にすぎません。覚えるのが目的なのではなく、繰り返し音読することが目的なのです。
これは、九九の覚え方を振り返ってみるとわかります。
小学二年生で九九を覚えるとき、子供は九九を決められた言い方で音読して覚えます。この方法でどの子もすぐに九九を言えるようになります。
これが、もし、九九の一覧表を見てその表を覚えるとか、掛け算の理屈を理解して覚えるとか、決められた順番でなくランダムに出される問題として覚えるとか、決められた言い方ではなく自分の好きな言い方で覚えるとか、声に出さないで目で見るだけで覚えるとかいう形にすると、短期間で覚えられる生徒はぐんと少なくなるはずです。そして、覚えられないという子も出てくるのです。
日本ではほとんどすべての子が九九を間違いなく言えるのは、決められた言い方で、決められた順番で、しかも音読する形で九九を覚えるという方法があるからなのです。
同じやり方で音読を繰り返すというのが、暗唱の基本的な方法です。だから、暗唱に使う教材も一種類に限定した方がいいのです。
最初に1枚のプリントで暗唱を始めたとしたら、そのプリント以外のものは使わないようにします。そのプリントを分割してカード式にして覚えようとしたり、プリントを拡大コピーして覚えようとしたり、難しい漢字にルビをふったり、あるいはひらがなに書き直したり、そのプリントに書いてある文章を手書きで書き直したりなどということは、一切しない方がいいのです。
同じものを同じ順番で音読するというのは、暗唱の勉強では最も大事な原則なのです。
このような形で暗唱していると、その暗唱した文章が、単なる知識の記憶ではなく、自分の身体に血肉化された形で定着するようになります。
暗唱した文章が、自分の手足の一部であるかのように、特に意識しなくても必要なときに自由に使えるようになるのです。
ここで出てくる暗唱の効果が、文化の教育としての暗唱です。
暗唱は、単に記憶力を高めたり、数学や英語や理科や社会の成績を上げたり、作文を上手に書けるようにしたりするためだけでなく、もっと重要な効果として、文化力を高めるという要素があるのです。(つづく)
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暗唱は、一応覚えたというぐらいでは効果はよくわかりません。
無意識のうちに自然に口をついて出るくらいまでになると、その暗唱した文章が自分の手足のように自由に使えるものになります。
すると、その暗唱力を勉強にも生かすことができるようになります。
しかし、もっと大事なのは、その暗唱を自分の文化力に生かしていくことです。
ちょっと間隔が空いてしまいましたが、暗唱の話の第五弾。
暗唱の持つ文化力形成の一面です。
例えば、思いやり、勇気、正直さ、忍耐などの人間的な徳性は、理屈では教えられません。
道徳教育が不毛なのは、徳目を知識として教えようとするからです。
道徳は、文化として伝えていくものです。その方法の一つが体験、もう一つが暗唱です。
ドリルで勉強することが多々ありますが、教科書一冊暗唱できれば、最大の学習効果が期待できそうですね。
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言葉の森の未来教育の構想です。
(1)これからの子供たちに必要な勉強は、知識の詰め込みではなく、創造性を育てる作文や発表である。
(2)勉強は、自学自習で家庭学習中心にやるのが最も能率がよい。
(3)日常の勉強は、オンエアのネットワークを利用して、先生や友達と一緒に自宅で行えるようにするのがよい。
(4)ときどきは、遠足や合宿などのリアルな交流を行うことが日常の勉強の励みになる。
(5)教育は本来、誰でも参加できる価格で提供されるべきである。
(6)子供たちのトータルな成長を支えるものは、家庭での親子の対話と交流である。
(7)先生の仕事は知識を教えることではなく、子供たちが自ら知識や技能を修得するのを支援することである。
これらの教育観のもとで、言葉の森では今、作文の通信指導のほかに、オンエアの学習指導をいくつか行っています。
それらは、次のようなものです。
・寺子屋オンエア(小1~中3/1404円)、
・オンエア講座の「読書実験クラブ」(小1~3/1728円)、
同じく「思考国算講座」(小4~6/1728円)、
同じく「作文と勉強」(小3~6/モニター無料)、
・オンエア作文(全学年/無料)。
また、これらの通信指導やオンエア指導の一方、春や夏の遠足や合宿の企画を行っています。
そして、もともとの作文指導では、プレゼン作文発表会、作文検定、森リン大賞などの企画を行っています。
また、このほかに、暗唱検定、自習検定などの企画も行っています。
将来これらを有機的に組み合わせて、森の学校オンエアというシステムを作ることを考えています。
個々の企画は、もう既に見通しがつきました。
あと残っているのは、常時合宿ができる場所探しです。気が早い(笑)。
その合宿の場所では、馬や犬や鳥が放し飼いになっていて、合宿に参加した子供たちは自由にそれらの動物たちと遊べるようになっています。
また、川や池や海などの水で遊べる場があり、いつでも泳げるようになっています。子供たちは水遊びが好きだからです。
なぜ合宿という形にするかというと、こういう広い合宿所は、都市部から少し離れた場所になるので、合宿して勉強や遊びをする方が時間が有効に使えるからです。
また、一緒に寝泊まりすることによって、子供たちは友達との交流を通していろいろなことを学べるからです。
中には、その合宿所で毎日の勉強をし、土日だけ家庭に帰るという子も出てくるかもしれません。そういう場合は、その合宿所が学校になります。
普段の勉強は、自学自習とネットワークを利用した授業で先生や友達と交流しながらできるので、人里離れた合宿所を学校として毎日の勉強をしても全く差し支えないのです。
そして、こういう形で勉強できれば、この森の学校オンエアは、一箇所だけでなくどこでも作れるようになります。
将来は、森の学校の設立を希望する人には、これらのノウハウを教えることもしていく予定です。
この森の学校オンエアは、日本の教育にとどまりません。
東南アジアの子供たちの教育は、今はまだ旧来の教育形態で行われていますが、この森の学校オンエアというシステムを利用すれば、もっと能率のよい創造的な教育が行われるようになります。
すると、日本やアジアの各地に広がるさまざまな森の学校の合宿所の間で、子供たちどうしの交流もできるようになると思います。
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未来の学校は、もっと楽しい場になると思います。
勉強は自学自習中心に能率よく済ませ、遊ぶ時間がたっぷりあり、家族の対話があり、友達との交流があり、知識の詰め込みではなく創造性を育てる教育が行われ、それが日本だけでなくアジアや世界に広がっていくのです。
想像するだけでもワクワクしてきますね。
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先日のワークショップの際に、構想図を書く練習をしました。
これは、言葉の森の作文指導で、「構成図」と呼んでいるものと同じです。「構成図」という言葉だと、学校の作文指導などでよく行われている構成メモのような感じに受け止めて、自分が作文に書こうと思うことをメモするだけに書くものと考えてしまう人が多かったようなので、今後「構想図」という呼び方も使うようにしました。内容は同じです。
構想図がなぜ構成メモのようなものと違うかというと、作文を書く準備という点では同じですが、書くよりも、考える過程を重視しているからです。
だから、考える途中の過程で、作文に書かないようなことも出てきます。脱線する話も出てきます。そして、構想図に書いたもののうち、作文に書かないものもたくさん出てきます。
書く直前の準備というよりも、書くずっと前のウォーミングアップのような準備が構想図なのです。
したがって、作文に書くことが既にすっかりわかっている場合は、構想図を書く必要はあまりありません。
小学生の作文、特に低中学年の作文はこのような書くことがすっかりわかっているものが多いと思います。何を書くかわかっているのに、わざわざウォーミングアップをするようなことは必要ありません。
学校などで行われる、構成メモを書いてから作文を書くという指導でも、ほとんどの子は、構成メモを書くのがいちばん難しく、それよりも作文を直接書いた方がずっと楽だと感じると思います。
書くことがわかっているときに、わざわざ構成メモを書くのは、まっすぐ行けばすぐに行けるところを遠回りして、しかも通りにくい道を通って行くようなものだからです。
構想図を書くのが必要なのは、書くことが漠然としている場合や、何を書いていいかわからないという課題の場合です。
そのときに、自分の頭に浮かんだことを次々に思いついたままに書き出していくと、書く内容がだんだんと輪郭を持ってくるのです。
だから、作文は「書く」過程で、構想図は「考える」過程で、両者は別のものと考えておくといいのです。
考える過程ですから、話がところどころ脱線する場合もあります。作文に書かないような話をついでに考えるということもあります。
むしろ、そういう自由度を持っておかないと、考えはなかなか進みません。
10月に横浜で行ったワークショップでは、二人の組で、取材される子供役と取材する親又は先生役と役割を分担して、作文の題材を構想図に書き出す練習をしました。
10分間の時間でしたが、A4用紙1枚にびっしり書いた人もいましたし、中には裏まで書いた人もいました。
構想図を書くのに慣れてくると、どういうテーマのときも、10分でA4用紙がほぼ1枚埋まるようになります。
すると、ここ構想図で書いたことがそのまま作文の材料になります。
作文を書くのが苦手な子や、課題が難しくてどう書いていいかわからない子にアドバイスするときに、この二人で書く構想図を使うと、10分で子供に的確な指導ができるようになります。
二人で書いた構想図を子供に見せれば、その子はすぐにその構想図をもとに作文を書き出すことができるのです。
普通は、この構想図は一人で書きます。
課題が難しいとき、又は、何を書いていいかわからないとき、まず自分の頭に浮かんだことを一文でいいので書き出してみます。
そして、その文から矢印を出すと、その書き出した一文に関連して、次の一文が出てきます。そこからまた矢印を出すと、また新たな一文が出てきます。
思いついたことを自由に書くことが大事ですから、書いたことが作文の中身につながらないようなことでもいいのです。
何しろまず書いてみるということが大事です。
これは、算数や数学の文章題の問題を解くとき、まず手で書いてみるということに似ています。
図形の問題や、難しい計算の問題のときも同じです。
問題をただ眺めて頭の中で考えるよりも、手で書き出して考えてみる方が問題の焦点が絞られてくるのです。
ところが、このまず手で書いてみるということをなかなかしようとしない子がいます。それは、「まず手で書いてみる」ということに慣れていないからです。
作文を書くときも同じです。書くのが苦手な子は、作文用紙を前にしてずっと何もせずに考えていることがよくあります。
手を動かさないで考えると、考えはなかなか進みません。
作文の中身にあまり関係がないように思われることでもいいから、何しろまず自分の頭に浮かんだことを手で書いてみるという動作が必要なのです。それが構想図です。
作文用紙に書くよりも、構想図に書くから、自由に書き出せるのです。
だから、小学校低中学年の構想図は、この何しろまず手で書いてみるということの練習としてやっています。
構想図を書くことに慣れる練習としてやっているのです。
お母さん方の中には、構成メモのような感覚で構想図を考える人が多いので、構想図と作文をしっかり結びつけなければいけないと思いがちですが、そういう前提があると、構想図はかえって書き出せなくなります。
思いついたことを何しろ自由に書き出してみて、そこから自分の考えをふくらませていくことが大事です。
そして、考えがふくらんだら、その構想図とはある程度独立して作文を書いていくのです。
構想図を作文にしっかり使うという方法もあります。
構想図の中で作文の材料に使えそうなことを見つけて丸などで囲み、書く順番に番号をつけて作文に書くという方法です。
しかし、いつもそういうことをやっていると、構想図を書き、作文を書くという作業がわずらわしくなってくると思います。
構想図は考えるためのもの、作文は書くためのもの、両者は結びつかなくていいと考えておく方が続けやすいと思います。
ところで、構想図は、作文の課題をあとでほかの人に取材するときに役立ちます。
小学校高学年になると、作文の課題が抽象的になってくるので、子供自身の体験だけでは話題が広がらなくなってきます。
そのときに、作文の課題に関連した話を両親に取材することが大事になってきます。
特に、普段あまりそういう話をすることのない父親に取材することが、子供の語彙力や題材力や思考力を育てます。
そのときに、その子があらかじめ書いた構想図を使うのです。
例えば、日曜日などの時間があるときに、父親に、子供が自分の書いた構想図を見ながら、作文の課題について説明します。
構想図を見て説明するので、説明は自然にくわしくなりますし、その子供が課題をどう受け止めているかが聞いている父親にもわかります。
課題を直接説明するよりも、子供が自分で書いた構想図をもとにしながら説明する方が、聞いている方も、どういうことが課題になっているかよくわかるのです。
そして、父親、又は母親に取材したことを、その構想図の空いているところに、追加してメモとして書き込んでおきます。
このようにすれば、作文を書く前の準備はしっかりできあがります。
この取材の際に、親は必ず具体的な自分の体験に基づいた話をしてあげる必要があります。
たまに、「そんなのはない」とか「わからない」とか言って、子供の取材にきちんと答えない親がいますが、それは親の努力不足です(笑)。
どういうことを聞かれても、子供の取材に、親は自分なりに具体的に答えてあげなければいけないのです。
子供の学力は家庭で決まります。学校や塾で教えてもらって学力が伸びるのではありません。家庭での読書生活と、家庭での親の対応の仕方がほとんどすべてなのです。
参考までに、この文章を書くときに書いた構想図を末尾に載せます。
初めは何を書くか決まっていませんでした。
構想図の話でも書こうと思い、約10分その構想図を書いてみると、書きたい内容がほぼ決まってきました。
その構想図をもとに、それを約1時間で文章として書き上げたということです。
普通、子供たちが作文を書くのには、1時間から1時間半かかります。
構想図を書かずに、作文を直接書くと、その1時間なら1時間が経ってみないと、自分がどういうことを書こうとしたかということがわかりません。
書いている途中に考えが深まることがありますから、作文の結末は1時間後でなければわからないのです。
それが、構想図であれば、10分で最後まで行きつけます。これが構想図の効用です。
短い時間で全体の結末までがわかるので、あとは時間をかけてその結末になるように文章を書いていけばいいのです。
作文を書く時間がないときは、構想図だけ書いておけばそれで作文を書く勉強のいちばんの中心である考える過程は済んだことになります。
構想図は、このように考えるためのものと考えておくといいのです。
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作文を書く前に構成メモを書かせると、子供はたいてい嫌がります。
そんな面倒なことをするよりも、作文を直接書いた方がずっと楽だからです。
構想図は、そういう構成メモとは違います。
書く準備という点では似ていますが、作文を書くずっと手前の考える過程の練習だからです。
だから、あまり勉強的にならないように、思ったことを自由に書いていくといいのです。
構想図は、最初のころは、誰でも縦か横にまっすぐに書くことが多いようです。
書きやすいのは、用紙のやや上の方から、渦巻状に書くか枝分かれをしたように書く書き方です。しかし、そのあたりの書き方は自由です。
よくマインドマップと間違えられますが、マインドマップとは全然関係ありません。たまたま外見が似たようなものになっているだけです。
楽しくやってみることが大事だということを、ついつい忘れてしまいます。真面目なお母さんほど、「構想図の書き方が下手で……。」と悩んでしまうようです。
何を書いたらいいのか行き詰ったときは、構成図を書くとよさそうですね。
構成図でなく構想図と呼び方を変えるだけで、書く側は少し自由になる気がします。
構成図でなく構想図ですね。
詳しくありがとうございます!息子にも読ませてみます。
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