音声入力は、既にスマホ検索のレベルでは十分に実用化され活用されています。
近い将来、文章を書く場合にも、この音声入力が使われるようになります。
音声のスピードは、1分間に400字程度です。
手書きのスピードは、1時間に1000~1200字ですから、その差は約20倍あります。
音声で書けば、今よりも20倍の量の文章が書けるようになるということです。
しかし、ここで問題が二つ出てきます。
一つは、書く側の問題で、音声入力は、しまりのない文章になりがちだということです。
もう一つは、読む側の問題で、大量に生産される文章を読み切れなくなる可能性があるということです。
この解決策として考えられるのは、人工知能による要約です。
現在、ブラウザに、ウェブ上の記事を翻訳する機能があるように、将来はウェブ上の記事を要約する機能がつくようになるでしょう。
この人工知能の要約を利用すれば、今話題になっている入試の記述力の評価方法もまた違った対応が考えられます。
人間が文章を評価するのであれば長い文章の採点は負担がありますが、人工知能を使った評価であれば、時間はほとんどかからないので、むしろ長い文章の方が妥当な評価に近づきます。
したがって、しばらくは人工知能が要約したものを人間が評価するという形も考えられます。
ところが、この人工知能要約は、読む側にとっては便利ですが、書く側にとっては抵抗がある場合があるのです。
それは、文章を書く人は、自分の書く文章の作品性を意識しているからです。
推敲という言葉は、門を推(お)すにするか、敲(たた)くにするかという選択から生まれましたが、人工知能によって、「どっちも同じ」という結論が出ても、文章にこだわる人は納得できないでしょう。
そこで、音声入力を、手書き入力と同じように、しまりのある文章にするという工夫が必要になってきます。
その方法が、構想図を先に書き、その構想図をもとに音声入力をするというやり方です。
構想図を書くのが、そのテーマを考える段階で、音声入力をするのが、それを文章化する段階です。
手書きの場合は、書きながら考えるという形が一般的でしたが、これからは考えることと書くことをそれぞれ独立させて進めるようになると思います。
これからの時代に必要な創造力には、底辺となる知識も、高さとなる創造性もどちらも必要です。どちらが少なくても、創造力の面積は広くなりません。底辺の知識も、高さの創造性もともに大きくなることによって、全体の面積も大きくなっていくのです。
だから、子供たちの教育を考える場合、この知識と創造性の問題をそれぞれ個別に考える必要があります。
まず、知識についての問題は、二つあります。
■知識の分野にもさまざま個性がある
一つは、国数英理社のような限られた分野についての知識だけが、学校教育の中で評価されているために、自分の知識に応じた多様な知識を身につける動機が失われがちだということです。
子供時代に、ある個性的な分野に興味を持った子が、周囲の影響でその個性を伸ばすことを自粛してしまうことがあります。
私(森川林)は、小学校高学年から中学生のころにかけて、鳥が好きになり、小学校高学年のときジュウシマツを買ってもらったことをきっかけに、手乗りのジュウシマツを育てることに熱中しました。
しかし、中学3年生になるころ、ある人から、「鳥が好きなのはいいけど、もう受験だから勉強もしないとね」と言われたことが心に引っかかったことがありました。
その人は、気軽に冗談として言ったのでしょうし、自分自身もそれで鳥の飼育をやめて勉強に専念したわけでもないので、その言葉で何も変わったわけではありません。しかし、その言葉を今でも覚えているということは、「鳥よりも勉強」という価値観は、それなりに自分に影響を与える可能性を持った新しい価値観だったのです。
今の日本の子供たちは、こういう狭い分野に限られた価値観、つまり主要な教科の成績がよいことが価値あることだという考えに、日々影響を受けています。
すると、本来持っていた興味の分野を伸ばすことを、自然にあきらめてしまうこともあると思います。
だから、最も身近な大人である親が、子供に対して多様な価値観を認める姿勢を持つことが大事になるのです。
ここで思い出すのは、日本のロケット開発の生みの親である糸川英夫氏の子供時代の話です。
糸川氏は昔の中学5年生で志望校を選ぶ際に、上野の音楽学校(今の芸大)の作曲科にするか、東京高校(今の東大)の理科にするか、入学願書を出すまぎわまで決心がつかずに悩み、母親に相談したそうです。
すると、母親は一瞬顔色をかえたものの、即座に次のように返答しました。
「自分のやりたいものを選べ。ただし入試の難易によって決めるな」
現代なら、音楽の道というのも十分にあり得る選択肢です。しかし、当時の日本中がまだ貧しかった時代に、音楽の道を選ぶという選択を肯定できる親はほとんどいなかったでしょう。
そういう家庭で育ったからこそ、糸川氏はその後、日本のさまざまな分野で創造力を発揮したのだと思います。
■共通の基盤となる義務教育レベルの知識を身につける自学自習の方法
知識についてのもう一つの問題は、国数英理社などの義務教育レベルの知識は、社会生活を送る共通の基盤として、誰もが身につけておく必要があるにもかかわらず、その習得がうまく行っていないということです。
特に、近年では、学校教育の中では救えないレベルの低学力の子供たちが増えているという現状があります。
小学校の低中学年のころであれば、まだ学ぶ知識の量が少ないので、子供たちの学力に多少の差があっても、学校の中でそれらを補うことはできます。
しかし、その差が拡大して、子供が、小学校高学年になり、中学生になり、高校生になると、学年が上がるにつれて、子供どうしの間にある学力の差を学校教育の中で埋めることは困難になります。
なぜこういう事態が生まれてきたかというと、一つは、学校以外の生活の差が大きくなってきたためです。
ある子は、早い時期から塾で先取りの勉強をし、ある子は、家庭で読書も勉強もする習慣がないまま成長し、それらの子供たちが共通の場で教育を受けるような状態になっているのです。
そして、もう一つは、それらの差のある子供たちを教える学校が、一斉授業というスタイルの昔からの教育方法で教育を行っていることです。
このような学校教育の行き詰まりを打開するために、民間のレベルで、善意の人たちによる低学力の子供たちの教育を補う動きが生まれています。
しかし、その多くは、一斉授業のスタイルを、少人数の一斉授業にしたり、あるいは個別授業にしたりするような発想で行われているのです。
勉強のよくわからない子供に、つきっきりで一人の先生が懇切丁寧に教えれば、その子の学力は確かに上がります。義務教育レベルの勉強はもともと難しいものはないので、その子の理解度に応じで丁寧に教えれば誰でもできるようにはなるのです。
しかし、ここで考えなければならないのは、そのためのコストです。
コストを度外視して、参加する人の善意に頼るような運動は、普遍性がないので広がりません。
義務教育レベルの教育は、教える授業という形ではなく、子供が自ら学ぶ形で進めていく必要があります。
その最もうまく行った例が、江戸時代の寺子屋教育です。
寺子屋教育では、先生は教える役割よりも、子供たちをただ見ているという役割でした。今の言葉で言えば、ティーチングではなくコーチングが先生の主な仕事だったのです。
その寺子屋教育を可能にしたのは、精選された教材、反復という学習形式、それらの教材と反復を受け入れる文化でした。
この寺子屋教育を、現代の教育にも生かしていく必要があります。
知識の問題は、以上の二つです。つまり、知識の分野を広げることと、基本的な知識は自学自習で身につけることです。
次は、創造性の話です。
■創造性を育てる遊びは自然の中で
創造性を育てるものは、勉強のような知識的なものではなく、むしろ非勉強的な遊びです。
なぜかというと、遊びには、まず、自分の好きなものや、やりたいことがあります。この動機がまず重要です。
次に、そのやりたいことを、自分ができること知っていることを生かして、できないこと知らないことを手に入れるという形で行うことができます。
遊びの持つ創造性とは、自分の好きなことをするために、自分で工夫することができるということです。場合によっては、自分の手持ちの能力ではできないから、目標をできそうなものに変更するということもできます。
これが、答えという目標があらかじめ与えられている勉強との違いです。
勉強の場合は、決まった手順を守ることによって、正しい答えに行きつくことができます。
だから、努力することは、決まった手順を身につけることであって、手順を工夫することではありません。
手順を工夫するための考える勉強という試みは行われていますが、それらはすぐに受験対策として、知識の勉強に還元されます。
なぜなら、手順を工夫するよりも、工夫された模範的な手順を覚える方が、受験には有利だからです。
遊びには、勉強と違って決まった手順はありません。だから、子供は遊びに何時間も熱中できるのです。
しかし、現代は、遊びの世界も手順が押し寄せてきています。
この自由な遊びに似ていて、しかし、答えの決まっている遊びがゲームです。
昔の演算能力の低いころのゲームの世界は、答えが決まっていることがわかりやすいものでした。
しかし、情報技術が発達するにつれて、ゲームの複雑性が増し、あたかも答えがないかのような広がりを持つようになると、一日中ゲームに熱中するような子も生まれるようになりました。
そして、答えに到達することがゲームの目標のようになると、ゲームは、人より速く答えに行くことに価値があるという、創造性を伸ばす必要のない遊びに変質していったのです。
昔、ゲームソフトのレベルがまだ低い水準のころ、バグ探しというものが流行ったことがありました。
例えば、このキーを押しながら、そこをクリックすると、ソフトにバグが生じ、予想していない状態になるというようなことです。
このバグ探しは、ゲームの進展と同じように子供たちの興味を引きました。それは、ゲームの進展が答えのある世界であるのに対して、バグ探しは答えのない本来的な遊びの世界だったからです。
バグ探しが、遊びの本質に近いということを考えると、このバグの豊富な場所は、機械の中ではなく、実は自然の中にあるのです。
自然には、まだ人間の手によっては見つかっていないさまざまなバグが眠っています。
このバグの発見や発明こそ、創造性を発揮する楽しみです。
だから、子供たちの遊びの分野は、人工的なバグの少ない場所ではなく、どんなバグがあるかわからない自然の中で行っていく必要があります。
遊びをできるだけ自然の中で行うというのは、ここに意義があるのです。