今回の話は、一般論として参考になる話ではありません。
そもそも、いじめのような理不尽なことに対しては、模範的な対応というものはありません。個人の生き方として対応していくことが基本です。
ですから、自分が親だったらどうするか、どうしたかということを中心にした話になります。
ところで、私がいつも疑問に思うのは、いじめにあった子供の親が、ただ我慢をするだけだったり、いじめる相手の善意に期待したり、時間が解決してくれると思ったり、誰かが助けてくれると思ったりすることが多いということです。
確かに、昔は、子供どうしで助け合ったり、上級生が助けてくれたりということもありました。そして、いずれそういう助け合いのできる社会は再び来るでしょうが、今は誰かの助けを期待できるような時代ではないと考えておくことが基本です。
私が大学生のときに読んで感銘を受けた本に、「葉隠」があります。この本の内容は、引退した元武士の老人への聞き書きですから、人生に対する奥深い洞察のある言葉が随所に見られます。
この本の中に、「我が身にかかわる重大事は、しゃにむにやってのけなければ解決しない」というような言葉がありました。
自分が当事者になったことは、うまいやり方を工夫しようなどというようなことを考えてはならないということです。そういう一歩遅れる気持ちが、最も武士道に合わないものだというのです。
いじめに対しても同様です。自分が少しでもいじめられたら、そのときの対応は、戦うことです。
この戦うことの中には、話し合うことも含みます。つまり、口で戦うということです。
これは、その子が将来大人になったときも同じです。社会に出ても理不尽なことに遭遇することは多いでしょう。そのときの原則は戦うことです。
これは、個人と個人の問題だけでなく、国と国との問題でも同じです。
勝てるかどうかとか、うまく行くかどうかという配慮は、二の次、三の次で、いじめられたら何しろ立ち向かうことが原則なのです。
こういう人間の生き方の根本に関わるようなことを、子供が自分で考え出すことはできません。
学校の先生が教えてくれるわけではありません。
本に書いてあるわけでもありません。
ただ親だけが教えられることなのです。
そして、もし、戦うことが無理だと判断した場合は、いつかの捲土重来を期して逃げることです。
いじめのような卑劣なことをする人間は、数を頼んだり、武器を持ったりすることもあるからです。
逃げるというのは、学校の場合は、学校に行かないこと、転校することなどです。
こういう判断も、もちろん、子供が自分の力ですることはできません。親が即座に判断して実行していかなければなりません。
私の子供も、小学校低学年のとき、体の大きい子や上級生に、いじめられたりいじめられそうになったりしたことがありました。
それを知ったとき、私は即座にその子と戦わせたり、その子の自宅に直接話に行かせたりしました。
そして、そのあと、そのいじめた子たちとは、普通の友達のような関係になったのです。
しかし、これがもしそのようにうまい結果にならなかったとしてもいいのです。
いざというときに戦うということは、人間の生き方として当然のことだからです。
普通の日本人は、争い事は好きではありません。自分の周囲を見ても、ほとんどが心優しい人です。
しかし、世の中には、そうでない人もいます。
だから、不正なことがあり、自分がその当事者であった場合は、即座に戦うことです。
そして、もし相手が悪いことをしなくなれば、そのときは許してやればいいのです。
以上が、いじめに対する個人的な対応の仕方です。
いじめに対する社会的な対応は、もっと根本的に考える必要ががあります。
それは、弱い者いじめをするような人間を育てないということです。そして、それは、教育の力で十分に可能なことだと思います。
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ドキッとするタイトルでしたが、どんなことに対しても、親身に対応できるのは、親ですね。
人間の生き方の基本は、強さと優しさを同居させることです。
争いはなければないにこしたことはありませんが、巻き込まれたら元気に戦うだけです。
元気にって(笑)。
あまり楽しそうな話ではありませんが、世の中には困っている人もいると思うので書きました。
しかし、いじめのような問題は、基本的には社会全体で対応するものです。
その参考になるのは、会津藩の「什(じゅう)の掟」のように、「弱い者をいぢめてはなりませぬ」という基本を子供のころから教えておくことです。
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夏休み1ヶ月の猛特訓で秋から成績が急上昇、ということはあり得ます。
しかし、同じ夏休み1ヶ月の猛特訓で、秋から作文が見違えるほど上手に、ということはありません。
勉強の成績は知識として身につけるものなので短期間で上がりますが、作文のような学力に属するものは考える力を必要とするので上達に長い時間がかかるのです。
勉強にももちろん考える要素があります。しかし、成績を上げるコツは、その考えて解く解き方を知識として覚えることです。だから、短期間で成績は上がります。
一方、作文も、短期間で上手になることはあります。しかし、それは作文力が上達したからではなく、本人の作文を書く意欲が増したからです。
だから、意欲的に書く回数が増やすことは大事ですが、作文力をつけることはそれとはまた別の長い時間が必要なのです。
では、長い時間を必要とするその学力は、どこで育つのかと言えば、それは家庭での生活によってです。
学校で国語の勉強を毎日1時間やっているとしたら、1年間でずいぶんたくさん勉強をしたように思えます。しかし、国語力は実際には、家庭での読書によって育ちます。
読書好きな子が家で毎日1時間本を読み、読書嫌いな子が家ではほとんど本を読まないとしたら、1年間でついたその差を学校や塾の勉強だけで補うのはほぼ不可能です。こういう生活の差が学力の差になっているのです。
「学力の経済学」という本では、就学前教育の大切さが書かれています。
4歳の子に、毎日2.5時間読み書きを教え、週に1回90分の家庭訪問をしたところ、その子たちが社会人になったときに、そういう教育を受けなかった子供たちに比べて、仕事や収入の面で大きな差があったというのです。
著者は、それを具体的な数字で、4歳のころの100円の投資が、65歳には6千円から3万円になっていたと書いています。
この教育による影響力を、著者は、先生の教育力として述べていますが、私は、毎日の2.5時間の先生が教えた勉強よりも、週に1回90分の家庭訪問による家庭の変化の方が大きかったのではないかと思います。
私立の小中高一貫校で、大学入試の結果を出すのは主に高校から入学した生徒だというのは、よく聞く話です。学校の教育力はもちろんありますが、その土台となっているのは家庭での生活の中における教育力です。
そして、その家庭での教育力は、成績よりもむしろその子が成長したあとの社会生活の中に現れてくるものなのです。
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ときどき、「偏差値が○○も上がった」などという話を聞きますが、それは成績が上がったのであって、学力が上がったのではありません。
成績は主に知識によるものですから、短期間で上がることは十分にあります。
受験期の勉強は、成績を上げることを重点にしていく必要があります。
しかし、普段の勉強は成績よりも学力をつけることを重点にしていく方がいいのです。
勉強の成績は、次の学期からすぐに上がるということはありますが、作文はそういうことはありません。
作文は、忘れたころに上がるのです。天災みたいですが。
生活面はもちろんですが、学習面も、基盤となるのは家庭ですね。
作文が急にうまくならないのは、それだけ奥の深い勉強だからなのでしょう。本当の実力が表れるのが作文とも言えそうですね。
親の立場で考えると、どうしても「成績」イコール「学力」と考えがち
まずはそこから改めないと……
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