言葉の森では、これまで何回かプレゼン作文発表会というものを行ってきました。
これは、googleハングアウトを使って、ウェブ上で生徒の作文発表会を行うというものです。パソコンの設定や操作が必要だったので、参加のハードルはかなり高いものでしたが、それでも多くの方が参加してくれました。
また、司会をする講師の方も、まだgoogleハングアウトの操作に慣れていない人も多かったので運営がなかなか大変でした。
実際に、当日は、音声が聞こえないとか画面が見えないとかいろいろスリル満点の進行で(笑)、てんやわんやの状態でしたが、それでも全体にとてもいい発表会ができました。
しかし、その後、googleハングアウトの機能が突然削減され、これまでのような形でプレゼン作文発表会ができなくなってしまいました。
具体的には、youtubeとの連携がうまくできないようになってしまったのです。
しかし、機能が削減された分、操作がシンプルになったので、考えようによってはかえって参加しやすくなったかもしれないと思いました。
youtubeとの連携ができない分は、参加者がそれぞれパソコンやスマホで見てもらえばそれで対応できます。
そこで、今、新たにgoogleハングアウトとyoutubeを使ったプレゼン作文発表会の企画を再開することを考えています。
やり方は、6~7人の少人数のグループで、自分がこれまでに書いた作文の中で傑作だと思うものを、絵や写真などを組み合わせてプレゼンテーションするのです。
そして、各人のプレゼンテーションが終わったら、参加者から質問や感想を受け付けます。
プレゼンテーション用のyoutube動画は、限定公開であらかじめアップロードしておくようにすれば、それぞれの家庭でじっくり準備ができます。
このプレゼン作文発表会を今後、3ヶ月に1回ぐらいの割合で定期的に行っていく予定です。
プレゼン作文発表会の定例化と同様に、作文検定も3ヶ月に1回ぐらいの割合で、これもgoogleハングアウトを利用して定期的に行っていく予定です。
なお、暗証検定は、現在、時期の指定はなく、随時参加できるようになっています。これもgoogleハングアウトで行っています。
インターネットを使った子供たちの勉強と交流の場を、これからいろいろ広げていきたいと思っています。
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子供たちが成長して大人になったときに、自分の子供時代の作文を見ることができるのは楽しいことですが、プレゼン作文発表会の記録があれば、更に楽しさが倍加すると思います。
プレゼン作文発表会のいいところは、子供たちが参加したり発表したりするだけでなく、その準備の段階で親子のさまざまな対話があることです。
しかも、インターネットですから、国境を超えた交流ができます。
ただ、時差があるので、海外の方は時間的に参加しにくい場合も多く、今のところは県境を超えたぐらいの交流になっていますが。
プレゼン発表会、作文検定、暗唱検定、今年も楽しみがたくさんです。
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今回の話は、一般論として参考になる話ではありません。
そもそも、いじめのような理不尽なことに対しては、模範的な対応というものはありません。個人の生き方として対応していくことが基本です。
ですから、自分が親だったらどうするか、どうしたかということを中心にした話になります。
ところで、私がいつも疑問に思うのは、いじめにあった子供の親が、ただ我慢をするだけだったり、いじめる相手の善意に期待したり、時間が解決してくれると思ったり、誰かが助けてくれると思ったりすることが多いということです。
確かに、昔は、子供どうしで助け合ったり、上級生が助けてくれたりということもありました。そして、いずれそういう助け合いのできる社会は再び来るでしょうが、今は誰かの助けを期待できるような時代ではないと考えておくことが基本です。
私が大学生のときに読んで感銘を受けた本に、「葉隠」があります。この本の内容は、引退した元武士の老人への聞き書きですから、人生に対する奥深い洞察のある言葉が随所に見られます。
この本の中に、「我が身にかかわる重大事は、しゃにむにやってのけなければ解決しない」というような言葉がありました。
自分が当事者になったことは、うまいやり方を工夫しようなどというようなことを考えてはならないということです。そういう一歩遅れる気持ちが、最も武士道に合わないものだというのです。
いじめに対しても同様です。自分が少しでもいじめられたら、そのときの対応は、戦うことです。
この戦うことの中には、話し合うことも含みます。つまり、口で戦うということです。
これは、その子が将来大人になったときも同じです。社会に出ても理不尽なことに遭遇することは多いでしょう。そのときの原則は戦うことです。
これは、個人と個人の問題だけでなく、国と国との問題でも同じです。
勝てるかどうかとか、うまく行くかどうかという配慮は、二の次、三の次で、いじめられたら何しろ立ち向かうことが原則なのです。
こういう人間の生き方の根本に関わるようなことを、子供が自分で考え出すことはできません。
学校の先生が教えてくれるわけではありません。
本に書いてあるわけでもありません。
ただ親だけが教えられることなのです。
そして、もし、戦うことが無理だと判断した場合は、いつかの捲土重来を期して逃げることです。
いじめのような卑劣なことをする人間は、数を頼んだり、武器を持ったりすることもあるからです。
逃げるというのは、学校の場合は、学校に行かないこと、転校することなどです。
こういう判断も、もちろん、子供が自分の力ですることはできません。親が即座に判断して実行していかなければなりません。
私の子供も、小学校低学年のとき、体の大きい子や上級生に、いじめられたりいじめられそうになったりしたことがありました。
それを知ったとき、私は即座にその子と戦わせたり、その子の自宅に直接話に行かせたりしました。
そして、そのあと、そのいじめた子たちとは、普通の友達のような関係になったのです。
しかし、これがもしそのようにうまい結果にならなかったとしてもいいのです。
いざというときに戦うということは、人間の生き方として当然のことだからです。
普通の日本人は、争い事は好きではありません。自分の周囲を見ても、ほとんどが心優しい人です。
しかし、世の中には、そうでない人もいます。
だから、不正なことがあり、自分がその当事者であった場合は、即座に戦うことです。
そして、もし相手が悪いことをしなくなれば、そのときは許してやればいいのです。
以上が、いじめに対する個人的な対応の仕方です。
いじめに対する社会的な対応は、もっと根本的に考える必要ががあります。
それは、弱い者いじめをするような人間を育てないということです。そして、それは、教育の力で十分に可能なことだと思います。
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ドキッとするタイトルでしたが、どんなことに対しても、親身に対応できるのは、親ですね。
人間の生き方の基本は、強さと優しさを同居させることです。
争いはなければないにこしたことはありませんが、巻き込まれたら元気に戦うだけです。
元気にって(笑)。
あまり楽しそうな話ではありませんが、世の中には困っている人もいると思うので書きました。
しかし、いじめのような問題は、基本的には社会全体で対応するものです。
その参考になるのは、会津藩の「什(じゅう)の掟」のように、「弱い者をいぢめてはなりませぬ」という基本を子供のころから教えておくことです。
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夏休み1ヶ月の猛特訓で秋から成績が急上昇、ということはあり得ます。
しかし、同じ夏休み1ヶ月の猛特訓で、秋から作文が見違えるほど上手に、ということはありません。
勉強の成績は知識として身につけるものなので短期間で上がりますが、作文のような学力に属するものは考える力を必要とするので上達に長い時間がかかるのです。
勉強にももちろん考える要素があります。しかし、成績を上げるコツは、その考えて解く解き方を知識として覚えることです。だから、短期間で成績は上がります。
一方、作文も、短期間で上手になることはあります。しかし、それは作文力が上達したからではなく、本人の作文を書く意欲が増したからです。
だから、意欲的に書く回数が増やすことは大事ですが、作文力をつけることはそれとはまた別の長い時間が必要なのです。
では、長い時間を必要とするその学力は、どこで育つのかと言えば、それは家庭での生活によってです。
学校で国語の勉強を毎日1時間やっているとしたら、1年間でずいぶんたくさん勉強をしたように思えます。しかし、国語力は実際には、家庭での読書によって育ちます。
読書好きな子が家で毎日1時間本を読み、読書嫌いな子が家ではほとんど本を読まないとしたら、1年間でついたその差を学校や塾の勉強だけで補うのはほぼ不可能です。こういう生活の差が学力の差になっているのです。
「学力の経済学」という本では、就学前教育の大切さが書かれています。
4歳の子に、毎日2.5時間読み書きを教え、週に1回90分の家庭訪問をしたところ、その子たちが社会人になったときに、そういう教育を受けなかった子供たちに比べて、仕事や収入の面で大きな差があったというのです。
著者は、それを具体的な数字で、4歳のころの100円の投資が、65歳には6千円から3万円になっていたと書いています。
この教育による影響力を、著者は、先生の教育力として述べていますが、私は、毎日の2.5時間の先生が教えた勉強よりも、週に1回90分の家庭訪問による家庭の変化の方が大きかったのではないかと思います。
私立の小中高一貫校で、大学入試の結果を出すのは主に高校から入学した生徒だというのは、よく聞く話です。学校の教育力はもちろんありますが、その土台となっているのは家庭での生活の中における教育力です。
そして、その家庭での教育力は、成績よりもむしろその子が成長したあとの社会生活の中に現れてくるものなのです。
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ときどき、「偏差値が○○も上がった」などという話を聞きますが、それは成績が上がったのであって、学力が上がったのではありません。
成績は主に知識によるものですから、短期間で上がることは十分にあります。
受験期の勉強は、成績を上げることを重点にしていく必要があります。
しかし、普段の勉強は成績よりも学力をつけることを重点にしていく方がいいのです。
勉強の成績は、次の学期からすぐに上がるということはありますが、作文はそういうことはありません。
作文は、忘れたころに上がるのです。天災みたいですが。
生活面はもちろんですが、学習面も、基盤となるのは家庭ですね。
作文が急にうまくならないのは、それだけ奥の深い勉強だからなのでしょう。本当の実力が表れるのが作文とも言えそうですね。
親の立場で考えると、どうしても「成績」イコール「学力」と考えがち
まずはそこから改めないと……
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プログラミング教育がブームになっています。
新しいものごとは、情報が不十分なので、よい面だけ、悪い面だけがひとり歩きすることがあります。
そのときに必要なのは、教育の原則です。
プログラミング教育のプラス面と、マイナスとは言いませんがその注意する面の両方を書いておきたいと思います。
まずプラス面としては、次のようなものがあります。
第一に、プログラミング教育は、これまでの日本では遅れた分野だったということです。だから、プログラミング教育を進めるのは、日本の社会にとっても必要なことです。
第二に、他の教科と違って、結果がわかりやすく出るプログラミング教育は、子供の学習意欲を引き出し、勉強を楽しいものにする可能性があるということです。
第三に、プログラミング教育は、将来社会人になったときも役立つ一般教養になるということです。ちょうど自動車運転の技術が役に立つような感じで、その技術を持っていれば便利なことが多いのです。
だから、子供が小さいころからプログラミング教育を受け、その分野に得意意識を持っていくことはよいことです。
しかし、この早期のプログラミング教育には、次のような注意する面もあります。
第一は、プログラミング教育を優先するあまり、学力の本道を後回しにするようなことがあってはならないということです。
第二は、早めにプログラミング教育に得意になったのはいいが、後が続かないこともあり得るということです。
これは、英語、読書、算数、スポーツなどの分野の早期教育にも言えます。
子供のときに、それらの分野に得意になったとしても、肝心の学力の育成を後回しにしてしまったり、子供時代だけの得意で終わらせてしまったりすることがあるということです。
では、どうしたらよいかというと、対策は二つあります。
第一は、学力の本道である日本語力や経験力の習得を優先することを忘れないということです。プログラミング教育は、教育の広い分野から見れば、枝葉の教育なのだという軽重のバランス感覚を忘れないことです。
第二は、プログラミング教育のような個性を伸ばす枝葉の教育においても、広く楽しそうな入口があることよりも、高い出口があることを教室選びの選択の基準にするということです。
現在の社会では、子育てに関する情報は、いいことも悪いこともふんだんに流れてきます。
だからこそ、保護者が原則をしっかり持って子供の教育を考えていくことが大事なのです。
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酉年にちなんで、スズメの鈴なりの写真です。
でも、本文は写真とは関係なく、プログラミング教育についてです。
ブームになっているものほど、原則を考えておく必要があります。
ちなみに、私は、プログラミング教育については大賛成です。これは、子供たちにとって勉強の中でいちばん面白いものになると思います。
写真と本文は関係ありませんが、プログラミング教育のような新しいものほど、親は中身を判断することが必要です。
いちばんの原則は、普通の学力さえしっかりつけておけば、プログラミングの学習はいつになってもできるということです。
だから、焦らないことです。
もう一つは、導入部分の楽しさよりも、先に進んだときの高さを基準にするということです。
プログラミング教育も、早期教育には英語教育と同じように良い面、悪い面がありそうですね。
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言葉の森では、今、オンラインで行う、作文、勉強、家庭学習の指導を行っています。それぞれ、オンエア講座、オンエア作文、寺子屋オンエアという名称です。
また、保護者とのオンエア懇談会も行っています。
パソコンやスマホやタブレットを使って、オンラインで勉強をしたり懇談をしたりするというのは、まだ多くの人にとって敷居が高いので、参加している生徒は、言葉の森の生徒のわずか5パーセント程度です。
しかし、このオンラインで行う企画は、いったん始めてみると、なかなか効果があるのだとわかります。
いちばんの効果は、子供たちが意欲的に勉強に取り組むようになるということです。
特に、オンエア講座の場合は、6、7人のグループで互いの読書の紹介や勉強の発表などができるので、通学の教室で勉強しているのと同じ雰囲気があります。
電話指導だけの場合でも、先生と生徒とのつながりが深くなるのですから、互いに顔が見える生徒どうしの交流があれば、勉強を通してのつながりは更に深くなります。
このオンエア講座の特徴は、勉強を教えるのではなく、勉強のきっかけを作ることです。
約45分間のオンエア講座のあと、子供たちがお母さんやお父さんと相談しながら勉強をしていくのが、勉強の中身になります。
このオンエア講座のスタイルの勉強が広がれば、自宅でいながらにして、同じ興味や関心を持つ仲間たちと、密度の濃い勉強ができるようになると思います。
今後、このオンラインの勉強を、もっと参加しやすいものにしていきたいと思っています。
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オンライン教育の便利なところは、場所の制約がないところです。
将来は、田舎の山奥にいる先生が、何十キロも離れた離島に住む子供の勉強を見るというようなことが出てくると思います。
そういえば、先日のオンエア講座には、フランスの小2の女の子が、「今日は風邪で学校を休んだから」ということで、日本の平日の夕方のオンエア講座に参加してくれました。
オンラインで毎回顔を合わせて話をしていると、実際に会ったことは一度もなくても、いつも会っているような気持ちになります。
だから、オンラインでの交流を土台にすれば、リアルな夏合宿なども自然に行えるようになると思います。
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教育の役割は、基礎学力をつけることと、集団活動の中で子供たちの意欲を伸ばすことの大きく二つに分けられます。
基礎学力は、学校の授業で行われるとともに、定着力を高めるための家庭での宿題として行われてきました。
しかし、今、学力の低下が問題となっているのは、家庭で行われる自学自習形式の学習に十分に対応できない家庭があったからです。
そこで、今考えられているのは、家庭での自学自習を支援するためのネットワークの利用です。
教育にネットワークが利用できるような技術革新が、ここ数年の間に急速に発達してきました。
これが、これからの教育が大きく変わる第一の条件です。
教育の変化の第二の条件は、副業が原則容認となる社会になりつつあることです。
これまでのインフレの時代には、需要が供給を上回っていたので、どこでも長時間の労働が必要でした。
しかし、これからの時代には、供給力が常に需要を上回る傾向にあるので、ワークシェアリング、派遣労働の普及と同じように、副業が原則として容認される社会になります。
すると、会社員でも土日や早朝に子供たちの教育に関与することができるようになります。早朝の教育は特に、時差のある海外で暮らす日本の子供たちの教育に活用できます。
また、平日でも、定年後の高齢者や、子育て中の主婦は、家庭にいながらにしてできる教育の仕事というものが可能になります。
一斉授業の場合の先生の役割には、エンターテイナーの要素が必要でした。
しかし、家庭学習の場合の先生の役割は、ティーチングの力よりもコーチングの力、つまり、子供たちの自学自習をうまく軌道に載せる力が必要になります。
だから、子育ての終わった人で、あまり苦労せずに子育てを行い、子供たちがいずれもいい子に育ったというような家庭の主婦が、教える先生役としては、もっとも適役なのです。
教育の変化の第三の条件は、これから教育の自由化が進むということです。
これまで、国や自治体の教育予算は、学校におろされてきました。それを学校におろすのではなく、保護者におろすバウチャー制度という仕組みがこれから検討されるようになります。そして、保護者が自由に学校や先生を選べるようになるのです。
教育の自由化には、ある程度の基準が必要ですが、その基準をもとにした学力試験や資格試験があれば基礎学力の担保は十分に可能です。
以上の三つの条件のもとで進む教育の大きな変化に対応できるオンライン教育がこれから求められてきます。
そのオンライン教育は、これまで行われてきたMOOCのようなビデオ授業型のオンライン教育でも、マンツーマンの個別指導型のオンライン教育でもなく、少人数のグループ学習を行えるようなオンライン教育です。
そういうオンライン教育を広げるものは、コミュニティです。
インフレ時代には、何かを社会に広げるためには、メディアの力や宣伝の力が必要でした。それは言い換えれば資金力が必要だったということです。
しかし、デフレ時代には、コミュニティの力が社会に広がる原動力になります。コミュニティの中で、よりよいものを提供し、相手の助けになることをするというコミュニティ貢献力がこれからの重要になってくるのです。
そして、このオンライン教育の普及のあとには、リアルな体験型の教育の場もまた必要になってきます。
言葉の森が今考えているのは、自然寺子屋合宿教室をオンライン教育と組み合わせて行っていくことです。
これから、そのための講師募集と講師のコミュニティ作りを進めていきたいと思っています。
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これまでの一斉授業型の教育では、教える先生にエンターテイナーとしての力や、子供たちの集団をコントロールする力が必要でした。
しかし、家庭学習をカバーするような基礎学力の教育には、子供たちの自学自習をうまく軌道に載せる力が必要になります。
そういう先生の適役は、自分が子育てを済ませ、子供たちの教育にあまり苦労をせず、子供たちがいずれもいい子に育ったというような経験を持つお父さん、お母さんです。
これから、そのように誰もが子供の教育に関われるという社会がやってくると思います。
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車の運転では、視線の目標を遠くに持っておくと、運転がぶれません。視線が近くにあると、微調整が必要な気がして細かいハンドルさばきをするようになり、乗り心地が悪くなります。
子育ても、遠くに目標を持っていれば滑らかな運転ができますが、そういう目標がないと、細かいことにいちいち注意をしたくなります。すると、子供はその運転を乗り心地悪く感じるようになるのです。
経済が発展するインフレの時代には、目標は、物を広げることでした。その時代には、自分個人の利益を追求することが、そのまま社会全体の利益につながるという資本主義の論理が成り立っていました。
物を売るマーケットをできるだけ広くしていくことが、個人にとっても、社会にとってもいいことだったのです。
魚釣りの例で言うと、いい場所を見つけたら、その場所を誰にも教えず、特許などで参入障壁を作り、自分だけが大量の魚をとるというのが資本主義の精神でした。
ところが、これからの社会はデフレの社会になります。それは、物を広げるよりも事を高める時代です。
事を高める時代のマーケットは、単なる消費者のマーケットではなく、その事に関心を持つ人の小さなコミュニティになります。
すると、そのコミュニティで、みんなに貢献し、みんなの手助けをしてあげる人が、このコミュニティを広げられるようになります。
魚釣りの例で言うと、いい場所を見つけたら、みんなにそれを教えてあげような生き方です。
そして、自分は、みんなのフィードバックを参考にしながら、更にいい場所を見つけるために自分を高めていくのです。
これまでの子育ては、勝てる子を育てることが中心でした。
しかし、これからは勝てるだけでなく、みんなを勝たせることのできる人が求められるようになります。
これからは、こういう大きな目標のもとに子育てをしていくことが大事になるのです。
▽youtubeの動画
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これからの世の中の変化というのは、ただ変化するだけでなく、これまでよかったことが悪くなり、悪かったことが逆によくなるような質的な変化です。
その変化の影響を最も受けるのは、未来の社会に生きる子供たちです。
だから、子育てもそういう変化の先を見ていく必要があるのです。
自分の利益追求よりも、コミュニティの利益追求という日本的な発想が、これからの社会では大事になります。
それは、子育てだけでなく、ビジネスもまたそうです。
更に言えば、それは日本の国全体がそうなっていくのです。
相手に気を配れることは大切ですね。
今、子どもがどうあることかより、どんな大人になって欲しいか、に焦点を当てて子育てを考える。。。今と違ったものが見えてきそうです。
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アクティブ・ラーニングという言葉が流行っています。
私は、こういう横文字を見ると、どうしてもっとわかりやすい日本語を使わないのかといつも思います。
同じようなものに、ダイバシティ教育とか、インクルーシブ教育とかいう言葉もあります。
こういう、初めて見たのでは何だかよくわからない言葉を使いたがるのは、自分の言っていることに自信がないからです。
アクティブ・ラーニングという言葉は、参加型学習とか発表学習という日本語で十分に内容をカバーできます。
ダイバシティなどは、そのまま多様性と言えば十分です。
と話が脱線したところで(笑)、アクティブ・ラーニングの効果と限界と今後の展望について書きたいと思います。
アクティブ・ラーニングに効果があるのは、その勉強スタイルが、子供たちの意欲を引き出すからです。
しかも、その教育を行っている学校は、生徒の学力もそれなりに確立しているところが多いので、意欲を引き出すだけで効果が上がってくるのです。
また、勉強の内容が義務教育レベルの基礎的なものであるというのも、意欲が効果に結びつく条件となっています。
もし、勉強の内容が受験勉強のレベルであれば、アクティブ・ラーニングで意欲を引き出すだけでは、効果を上げるには不十分です。
義務教育のレベルは、誰でもわかる基礎知識が前提になっています。
受験勉強のレベルは、わからない人をできるだけ多くして差をつけることが目的なので、意欲だけで効果を上げることはできません。
受験勉強に必要なのは、意欲ではなく、教材と方法です。
教材とは、難しい問題の解法を理解させる教材であり、方法とは、その解法を詰め込むという方法です。
アクティブ・ラーニングが、今うまく行っているのは、それが進んだ学校で行われているからです。
もし、これが全国の小中学校で行われるようになるとしたら、かつてのゆとり教育と同じような問題点が出てきます。
つまり、基礎知識の習得が不十分な生徒は、基礎知識を習得させることが大事なのであって、参加型の学習で意欲を持たせることではないからです。
アクティブ・ラーニングは、ある意味で簡単な工夫でできます。
生徒の意欲を引き出すというのは、それほど難しいことではありません。
難しいのは、退屈な基礎知識を習得させることです。
その基礎知識を習得させる場は、学校ではなく家庭です。
家庭で子供たちが自学自習をする仕組みを作ることに、最も難しい問題があるのです。
言葉の森では、この家庭での自学自習を寺子屋オンエアで行っています。
また、アクティブ・ラーニングという少人数の参加型の学習を、オンエア講座で行っています。
これから必要になるのは、この家庭での自学自習と、学校での発表学習を連携させる仕組み作りです。
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アクティブ・ラーニングが、今、効果があるように言われているのは、それが学力の備わった子供たちを対象にしているからです。
十分な基礎学力があるから、授業を参加型にするだけで効果が出てくるのです。
だから、授業をアクティブにする工夫以上に、家庭での自学自習を継続させる仕組みを作ることが大切です。
それがなければ、かつてのゆとり教育と同じような問題が出てくると思います。
アクティブ・ラーニングなんて言葉使っても、おじいさんやおばあさんはわからないだろう、と思います。
もっとひどいのは、インクルーシブ教育。
横文字をそのままカタカナにするのはやめろと言いたい。
という話じゃなかった(笑)。
日々の積み重ねが大切ですね。
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