勉強でも作文でも、うまく行っていないときは、本人でもわかります。うまく行ったときに比べて手応えがないのです。または、明らかにうまく行かなかったという感覚があります。
そのときに、周囲にいる人、特に身近なお母さんなどに、そのうまく行っていないところを指摘されると、わかってはいても、やはりがっかりするのです。
それは表面に出る注意だけではありません。お母さんが、渋い顔をして心の中で思っているだけでも、子供にはそういう感じが伝わります。
何も言われなくても、子供は自信をなくしていくのです。
だから、うまく行かなかったときや、失敗したときほど、お母さんはそのうまく行かなかった中でのよかったところを褒めてあげることです。
そして、子供が明るい気持ちになったところで、毎日の読書と音読とそのほかの自習を気長に続けていくのです。
そういう日常を何度も繰り返しているうちに、ある日ふと気がつくと、いつの間にか、こんなにできるようになっていた、と思うときが来るのです。
こういうお母さんの気長な忍耐力を支えるものは、お母さん自身の心の安定です。
そのお母さんの心の安定には、お父さんの協力と感謝が必要です。
しかし、たとえそういう協力的なお父さんがいなくても(笑)、お母さんは自分の力で自分の心を安定させ、子供にはいつも明るく褒めて接することです。
その方法は、そう決心することです。
「自分は、この子のいいところだけを見ていつも褒めていくようにしよう」と決心すれば、それが次第に自分の天性のようになっていくのです。
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まず、作文というものは、なかなか上達しないものです。それは、作文力というものが、国語力の集大成だからです。
同じ国語でも、漢字の勉強などは、やればすぐに成果が出ます。読解の勉強も、やや時間がかかりますが、それでも比較的早く成果が出ます。
ところが、作文の勉強というものは、いくらがんばっても、そのがんばりに比例して上達するという実感がないものなのです。
しかし、そこで、お母さんが、「なかなか上手にならない」と思っていると、その感覚は、子供にも必ず伝わります。
作文というものは、精神的なエネルギーをかなり使う勉強ですから、書き終えたときは誰でもほっとします。そのほっとしたときに、お母さんが冷ややかな目で、「なかなか上手にならないわねえ」と子供を見ていると、子供は急速にやる気を失うのです。
注意することと褒めることの区別は、注意してすぐ直るものだけを注意し、すぐに直りそうもないものは注意せずに褒めるということです。
しかし、ただ褒めているだけでは上達に時間がかかります。褒める一方で、実力のつく自習を毎日させることが大事なのです。
その自習が、音読と読書です。そして、できれば、その音読をもとにして家族で対話をする時間を作っていくことです。
言葉は、目から入るだけでなく、耳からも入ります。難しい文章を読むのが苦手な子でも、お母さんやお父さんと難しい話をすることは苦になりません。
難しい長文を音読するだけでなく、その音読をもとに家族で話をすると長文の理解が深まります。そして、聞いたり話したりする形で使った言葉は、そのまま作文を書くときにも使えるようになります。こういう積み重ねで、作文は上達していきます。
この気長な自習を子供に続けさせるエネルギーは、褒めることによって出てきます。
「作文が下手だから、毎日の音読をしなさい」と言われて喜んでする子はいません。作文も褒め、音読も褒め、褒めながら毎日の自習の音読と読書を続けさせていると、気がついたらいつの間にか前よりもずっと上手に書けるようになっていたということになるのです。
「作文がなかなか上達しないときこそ褒める」
https://www.mori7.com/index.php?e=2319
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うまくいかない時こそ、親として追い打ちをかけるのではなく、自信を持たせてあげたいですね。
よく、「褒めるところがない」とか、「褒めるのが難しい」とか言う人がいます。
最初は真似事でもいいのです。
何度も真似事をしていくうちに、いつか子供が本当に褒められるような子に育っていくのです。
ときどき、「褒めるだけではだめ」という人がいます。
しかし、小言だけをいつも言い続けている人の言うことを子供は聞きません。
いつも褒めているからこそ、たまの静かな注意のひとことが子供の心にすっと入っていくのです。
作文の勉強は焦らないことが大事ですね。だからこそ、受験間際などではなく、早いうちに始める方が余裕を持って取り組めそうです(笑)。
うまくいっていないことを指摘されてもただ嫌な気持ちになるだけなのは、大人も子供も同じですね。
一番身近な親なのだから、よいところを一番たくさん知っているはずですね。
親が「子供のよいところだけを見てそだてよう」と決心すること、それは見つけたら褒める、でなくどんな状況でも褒めると決心することですね。
※これも覚書として
娘が小3の頃、なんだか色々なことがうまくいかないときに、負のスパイラルに陥ってしまったことがありました。そのときに、友達から「あなたはいい子だよ、間違ってないよ」と言い続けていくことが大事と言われたことがあります。それから一年。一年前が嘘のように落ち着いて生き生きしている我が子がいます。うまくいかないときほど、褒める。本当に効果があります。
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教育は、個人のためだけにあるのではありません。
個人の立身出世の手段としての教育という考え方は、福沢諭吉の時代なら意味がありました。
しかし、今はそうではありません。
よりよい世の中を作るために個人が成長するという、社会と個人の利益の両立が、これからの教育の目標です。
例えば、カンニングをしてでもいい点を取るというのは、社会全体の利益に反する個人の利益です。
それに対して、誰も見ていないところで、そっと人助けをするというのは、個人の利益にはならない社会の利益のための行動です。
この個人の利益にならない社会の利益のために行う行為を育てるのが、文化の教育です。
文化の教育は、点数には現れません。
だからこそ、この教育が最も大切なものです。
そして、こういう文化の教育を育てる場所は、まず第一に家庭なのです。
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教育とは、受験に合格するためにあるのではなく、人間として成長するためにあるものです。
だから、成績さえよければ、ほかのことをどうでもいいというのではなく、ほかのことをまずきちんと育てていく必要があります。
それが、身の回りの整頓だったり、弱い人への思いやりだったり、いざというときの勇気だったりするのです。
日本の社会のよさは、そういう教育が文化の中で自然に培われてきたことにあります。
これを更に意識的なものにしていく必要があると思います。
「受験の教育から、文化の教育へ」
https://www.mori7.com/index.php?e=2083
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教育の目的が、社会をよりよくするために個人の成長を図ることというのと同じように、企業の目的も、社会をよりよくするために利益を上げることです。
利益を上げる仕組みのないボランティアがあれば、それはボランティア個人の損失ではなく、社会全体の損失です。
もちろん、今の社会の仕組みの中ではすぐには利益の上がらない行動もあります。例えば、街をきれいにするためにゴミを拾うことなど。
しかし、そういうことであっても、常に利益化する仕組みを考えることが本当のボランティアです。
勉強のできない子に大学生などが無償で勉強を教えてあげるというボランティアがあります。そのこと自体は尊いことですが、本当は勉強のできない子を作らない仕組みを作り、それをコストのかからない方法で回すことが大事なのです。
教育の目的は、単に子供たちを育てることではなく、明日の日本を支える子供たちを育てることです。
「選択問題のテストで時間が足りなくなったら、どこでもいいから○をつけてこい」と言うのは教育ではありません。
「時間が足りなくなったら、潔くそこであきらめろ」というのが本当の教育です。
ちなみに、「潔い」という言葉でぴったり英語に該当する言葉はないようです。日下公人さんが著者でそう書いていました。渡部昇一さんは、「manlyがそれに近いが」と答えたそうです。日本文化は語彙の点からも奥が深いのです。
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