英語学習を始める最適の時期は、小学4年生からです。この時期になると、日本語の基盤はもうできているので、外国語の勉強をしても、日本語が混乱することはありません。
しかし、わずか1年の違いですが、小学3年生では、英語教育は早すぎます。それは、小学1年生から3年生にかけては、ちょうど日本語脳が形成される時期にあたるからです。
早期の英語教育をすすめている人は、こういう科学的な裏付けを知らないのだと思います。
「日本語人の脳: 理性・感性・情動、時間と大地の科学」
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「英語の早期教育・社内公用語は百害あって一利なし」
http://amzn.asia/fON88WZ
今、幼児期からの英語教育に携わっている方は、英語の前提になる日本語教育にまず力を入れていただきたいと思います。
そのことによって、かえってその後の英語教育が確実に進むのです。
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小さい子供を持つお母さん方の中には、「日本語など自然に身につくものだ」と考えている人も多いようです。
そして、そのかわり、「自分は英語が苦手だったから、英語は子供のうちから早めに身につけていた方がよい」と考えてしまう人も多いようです。
その結果、幼児期から英語教室に通わせ、更には、親子の会話にもときどき片言の英語を混ぜて話すような人も出てきます。
そういうふうにして育った子供の中に、日本語が十分に発達しなくなる子がときどきいるのです。
そういう子は、日本語が不十分になった分、英語が得意になっているかというと、そんなことはまずありません。
小さいころは、同学年の子が知らないような英単語を知っているかもしれませんが、そういう差は中学生になり、高校生になれば、全くなくなってしまいます。
特に、大学入試の英語は、英語力が半分、国語力が半分という問題です。国語で考える力がなければ、英語がいくら達者でも、考える英語は理解できないのです。
英語教育を、小学4年生あたりからやらせるのは、決して早すぎはしません。むしろ、よいことだと思います。そのころは、中学生のころよりも、柔軟に英語の音を身につけることができるからです。
しかし、英語教育を小学3年生以下でやらせるのは、早すぎます。まして、幼児期から英語の勉強をさせるというのは、子供の思考力の正常な発達を妨げるものになると言ってもよいと思います。
渡部昇一さんは、「英語の早期教育・社内公用語は百害あって一利なし」という本を出しています。単刀直入のわかりやすいタイトルの本ですが、中身はしっかりした英語教育論です。
日本人は、日本語でものを考えます。日本語は、単に国語の教科だけで使われるのではなく、数学も理科も社会も美術も音楽も体育も、すべて日本語で把握して身につけているのです。
だから、幼児期から小学校低中学年にかけての教育は、日本語力を育てることを第一に考えていく必要があります。
日本語力を育てるためには、まず、早期の英語教育をしないこと、テレビなどの機械的な音声にできるかぎり触れさせないこと、そして、親子の対話と読書の機会を増やしていくことです。
つまり、家庭での普通の日本語による生活を大事にしていくことなのです。
「大事なのは日本語力――早期の英語教育よりも、まず家庭での普通の日本語生活を」
https://www.mori7.com/index.php?e=2327
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幼児期からの英語教育をすすめるような勘違いしている人が周囲にあまりに多いので、敢えて記事を書きました。
英語教育は、単なる英語の教育と考えるのではなく、幅広く言語の教育と考え、小3までは日本語教育に力を入れ、小4からの英語教育に結びつけるというように考えていくといいと思います。
だから、英語教室を、日本語を大切にする英語教室というようにしていくといいのです。
小学生からの英語教育に長年携わり優れた指導をしてきた鵜沢戸久子さんも、低学年の英語CDを聞く時間は1日15分までとしています。
英語を勉強することはいいのですが、やりすぎに問題があるのです。
「日本人の小学生に100%英語をマスターさせる法」
http://amzn.asia/6LLSfl3
英語で挨拶ができる以上に、日本語で自分の意見をしっかりいえることが大切ですね。
英語教育の理想は、新渡戸稲造や内村鑑三や鈴木大拙を育てるような英語だと思います。
3年生になると英語が学校で始める事に少し本人も不安になっているようです。 親もどうしてあげたら安心するのか分からないので、ひとまず中根先生お勧めの鵜沢戸久子さんの本を読んでみます。
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かつての日本には、音読と暗唱の文化がありました。
音読と暗唱は、早い遅いの違いはあっても、やれば誰でもできるものです。
これが、日本の子供たちの学力の基礎を形成していました。
その名残りが、今の掛け算の九九です。
この音読暗唱文化が、戦後の理解中心の教育の中で否定されてきました。
音読と暗唱の代わりに行われた理解とテストによる教育が、できる子とできない子の差を生み出してきました。
理解は、説明によって行われるものだけではなく、反復と慣れによっても行われるということが忘れられてきたのです。
私の父母の世代は、音読暗唱文化の中で育ちました。
だから、ほとんどの人が今の中卒ぐらいのレベルで、文章もしっかり書けたのです。
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子供たちのその年齢に必要な勉強と、学校で教わる勉強とのギャップを感じることがあります。
その一つは、小学校1、2年生で感想文の宿題などを出すことです。この時期は、本の感想を書ける時期ではありません。
無理に書かせても、ただあらすじを書いていくだけが精一杯です。
しかし、学校で夏休みの宿題などとして出されると、家庭では、そういうことが本来できる年齢なのだと思って無理をしてしまうのです。
感想文コンクールで選ばれる作文で、親や先生の手の入っていないものはまずありません。それでは、何のための宿題かわかりません。
そういうことが何十年も続いているのです。
もう一つは、それと反対のことですが、高学年や中学生になって考える力がついていく時期に、考える練習としての作文の授業がなくなってしまうことです。
その理由は、一人ひとりの作文を見て指導する時間と方法が、今の学校にはないからです。
その結果、作文の勉強というものがなくなると、子供たちは、学校でやらないのだから必要ないのだと思ってしまうのです。
本当は、この時期にこそ、いろいろなテーマについて書いたり考えたり発表したりすることが必要なのにもかかわらずです。
こういうギャップを解消するために、家庭の教育方針というものが大事になります。
学校で感想文の宿題が出されても、それが子供にとってあまり意味のあるものに思えなければやる必要はありません。お母さんが代わりにやってあげればいいのです。
また、学校で作文の勉強がなくなっても、その勉強が大事だと思えば、家庭では続けていけばいいのです。
これから、世の中は大きく変化します。
10年後には、どういう職業が生まれ、どういう職業がなくなっているかわかりません。
こういう大きな変化の時期こそ、親の教育方針というものが大事になってくるのです。
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作文力、読解力のうち、意見文を書く力と論説文を読みとる力は、中学生以降に本格的にのびる分野です。小学生の間に既に意見文を書いたり読んだりする段階にまで進んでいる生徒もいますが、全体的にみて、構成の形式を身につけたり文章を要約をしたりすることが精一杯で、内容のある意見文を書ける生徒は限られています。これは、表現力、読解力に、まだ、本人の内面的な成長がともなっていないためです。
小学6年生までに学習する生活文中心の作文と物語文中心の読書は、作文力、読解力の半分にすぎず、もう半分は、中学生以降の意見文、論説文の練習によって完成します。
しかし、実際には、中学、高校では、作文、読書の学習はほとんどなく、あるとしても、その多くは、小学校の延長のようなかたちでおこなわれています。また、中学生の時期は、作文の学習がいちばん続けにくい時期でもあります。その理由は、(1)中学生の時期が、無邪気に出来事を書くわけにもいかず、かといって、自由に意見文を書くほどには語彙が充分ではないという過渡的な時期にあたること、(2)宿題や定期テストなど、外から拘束される勉強の時間が比較的多くなり、自主的な勉強の時間がとりにくくなること、(3)中学校自体も、作文や読書の指導をほとんどしなくなるので、学習の意義やきっかけを見つけにくくなること、などという事情があるからです。
現在の受験体制のなかで行なわれる勉強は、人生にとって価値のある分野というよりも、点数の差がつきやすい分野に重点が置かれがちです。基礎的な知識を身につけるという点で、点数で測られるような勉強も大切ですが、生涯にわたって役立つのは、考える力、読書する力、発表する力など、点数の差のつけにくい、したがって現在の受験体制の中では、重点の置かれにくい分野です。
しかし、最近では、大学入試でも小論文や面接が重視されてくるなど、単なる知識の量よりも、それらの知識を活用する力を評価するようになってきました。中学生での作文、読書の学習は、小学生の学習の延長としてではなく、高校生以降の小論文学習や論説文読書の先取りであるという前向きの姿勢をもって取り組んでいくことが大切です。
中学生が、作文、読書の学習を継続していけるように、言葉の森では、学習の時間に弾力性をもたせています。具体的には、(1)曜日や時間の変更や振替は、いつでもできるようにしています。(2)テスト期間中の欠席は、その前後にふりかえることができるようにしています。(3)ホームページの動画によるヒントなどを充実させ、先生の説明を受けられないときでも作文を書けるようにしています。
3月から4月にかけては、決まった時間に授業を受けることがむずかしいことも多いと思いますので、出席できるときに出席するというかたちにして、新しい生活のペースを早く作っていってください。
「中学生の作文学習は小論文の前段階」
https://www.mori7.com/index.php?e=2098
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学校の試験に必要な勉強と、自分の人生に役立つ勉強とは少し違います。
世の中の変化が激しいときほど、その違いは大きくなります。
だから、必要な勉強は必要悪と割り切って勉強する一方、自分にとって大事だと思うことは、それとは別にやっておく必要があるのです。
今の受験勉強は、昔の科挙に似ています。
ネットで調べればわかるようなことをわざわざ知識として覚える必要はなく、それよりも、頭はもっと考えることに使っていくべきです。
そのかわり、知識として覚えることは、基本的に必要なものだけに絞ればいいのです。
そうなっていないのは、ただ、考える勉強は採点が難しいというそれだけの理由からです。
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子供たちの勉強の様子を見ていると、無駄の多い勉強の仕方をしている子によく気がつきます。
無駄の多い勉強に共通するのは、人に見せるための勉強になっていることです。
小学校低中学年のうちは、無駄の多い勉強をしていても、マイナス面はほとんど見えません。
勉強する時間自体が短いし、勉強の内容も簡単だからです。
しかし、その無駄の多い勉強法のまま学年が上がると、勉強する時間が次第に長くなってきます。そして、そのわりには力がつかなくなるのです。
だから、勉強法などまだあまり関係のない小学1年生のうちから、勉強法を意識して勉強をしていくといいのです。
その勉強法のポイントは、(1)わからなくなったらすぐに答えを見ること、(2)1冊の問題集を繰り返しやって100パーセント自分のものにすること、(3)できるだけ自分のペースでやること、です。
この反対に、わからない問題をいつまでも考えていたり、1冊の問題集が大体できたら次に移ってしまったり、人に指示されてやったりするような子が多いのです。
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リクルートが3月から小4以上の小中学生を対象にした「スタディサプリ」の提供を開始しました。月額980円で授業動画が閲覧でき、勉強のデータを生かして苦手箇所だけ復習する仕組みも作られているそうです。
教育へのネットの利用はこれからも加速します。ネットの利点は、自宅でできること、低料金でできること、個別対応ができることです。子供たちの勉強の環境は、これからも更に充実していくでしょう。
しかし、ここで問題になるのは、そういう勉強環境がどれだけ豊かで便利になっても、その勉強をするかどうかは本人の意志次第であり、低中学年の場合は、本人の意志に加えて家庭の環境次第であるということです。
家庭での勉強の習慣ができている子は、豊かな勉強環境を十分に生かしていくことができるでしょう。しかし、勉強の習慣ができていない子は、どんなにゲーム的な要素があるとか、ビジュアルでわかりやすいとか言っても、その勉強を続けさせるのは難しいのです。
そのことは、逆に言うと、勉強の習慣が確立している子は、ネットの勉強環境を利用することもあるでしょうが、勉強の中心はこれまでの紙ベースのものでこなしていくということです。
なぜかというと、勉強の本質は、知識を自分のものとして身につけることですから、問題集や参考書のような実際の形のあるものを何度も繰り返し利用する方がずっと定着度が高くなるからです。
これまでの寺子屋オンエアの経験から考えると、多くの子は、自覚なく無駄の多い勉強法をしています。例えば、できる問題を何問も解いてみたり、できない問題を1回しかやらなかったり、きれいに書くことに時間をかけたり、その一方で何度も読むという勉強をしていなかったり、というようなことです。
だから、勉強が進まない原因は、教材という「物」にあるのではなく、勉強法という「事」の方にあるのです。逆に言えば、勉強の仕方というソフトさえしっかりしていれば、教材は既にある便利なものを自由に使えばよいということです。そういう便利な教材のひとつとして、ネットの教材も利用できるということです。
ところで、この勉強の習慣を家庭で作れる時期は、小学校1年生になります。
1年生は、学校の勉強も簡単なので、家庭学習などをわざわざする必要のない時期のように思われますが、この時期にこそ家庭で毎日一定の時間を勉強する習慣をつけておくのです。
「スタディサプリ」のような教材をうまく利用できるのも、この1年生からの勉強の習慣が確立している子なのです。
(この記事を書いた時点では、「勉強サプリ」という名前でしたが、その後、「スタディサプリ」という名前に変わったので、表記を改めました。)
「スタディサプリの時代の先にあるもの」
https://www.mori7.com/index.php?e=2325
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不思議なことですが、学校や塾では、勉強を教えたりテストをしたりはしますが、勉強の仕方を教えることはほとんどありません。勉強の仕方は、本人に任されているのです。
その理由は、勉強の仕方を教えても、それをすぐに実行する生徒がいないからです。
勉強の仕方は、これまでの習慣ですから、なかなか直りません。
だから、家庭の役割が重要になるのです。
勉強は、ただ時間をかけてやりさえすればいいというものではありません。
勉強の仕方を日々工夫していくことが必要です。
しかし、小学校低学年のうちは、そういうことがピンときません。どんなやり方でも成果が上がるからです。
そのために、無駄な勉強の仕方が習慣になってしまう子が多いのだと思います。
現在、ネット教育を始め、自分で勉強しようと思えばいかようにもできる環境は羨ましいです。
※これも覚書として。
勉強法のポイントをアドバイスする際に。
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親子の対話とは、親から子への知識の伝達ではありません。
親が知っている知識を教えるだけなら、それは親子でなくても本でもインターネットでもテレビでもできます。
特に子供が小さい場合は、知識は圧倒的に不足していますから、親の話はつい知識を教えることになりがちです。
しかし、そういう状態で対話を続けているだけでは、子供が高学年になりある程度知識を持つようになると、対話をすることがなくなるのです。
知識は、自然に増えていけばいいものです。それよりも大事なのは、考える力です。子供が小さければ、その子の知っている知識の範囲で考える話をしていくのです。
そのためには、親自身がいつも、なぜだろう、どうしてだろう、もっといいやり方はないか、と考えていることが必要になります。
そして、その親の考えたことを、子供相手に対等の立場で話していくのです。
こういう話の仕方であれば、子供が大きくなるほど、対話の中身が充実してきます。
だから、子供との対話は、子供に話すような内容ではなく、親しい友だちに話すような内容でできるだけ知的に話していくことです。
そのために、もうひとつ大事なことは、親がいつも本を読んで新しい知識を身につけていくことです。
言葉の森では、子供たちによく、「読書は毎日」と話しています。実は、これは大人も同じなのです。
毎日本を読んでいれば、自然に子供との対話も中身のあるものになります。
子供の考える力を育てるのは、単なる勉強ではなく、こういう親子の対話なのです。
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子供に勉強力をつける上で最も大事なものは、考える力です。考える力と言うと抽象的ですが、もっとわかりやすく言うと、考えることを苦にしない力です。更には、考えることを楽しむ力と言ってもよいでしょう。
計算の練習や漢字の書き取りやいろいろな知識の習得は、時間をかけさえすれば誰でもできます。小学校低中学年のころの勉強は、このような、やりさえすれば誰でもできるようになる勉強です。
しかし、小学校高学年になると、次第に考える問題が出てきます。国語では、環境や言語や文化や人生などという分野の文章が多くなります。算数では、計算のルールをあてはめるだけでは解けない問題、自分なりに図を書いてみないとわからない問題が出てきます。理科でも社会でも同様です。
そのときに、考える力のある子は、そういう問題を面白いと思い、考える力のない子は、そういう問題を面倒と思います。ここで、面白いと思える子は、その後の勉強がどんどん進んでいきます。
だから、小学校低学年のころは、考える力の土台を作ることが大事です。
しかし、その考える力は、勉強をすることではつきません。低中学年の時期に、国語や算数の問題集をいくら解いても、考える力は育たないのです。
考える力は、親子の対話の中で育ちます。
親と子の間の話というと、多くの場合、親が一方的に注意をしたり、説教をしたり、説明をしたり、理解させたり、わからせたりするような形が多いと思います。親が中心で、子供はそれに従うものという形になりやすいと思います。
しかし、これでは考える力は育ちません。
親子の対話では、親と子が対等の人間としてお喋りを楽しむというような話し方が大事です。ちょうど、親が同年代の友達と話すような姿勢で、相手とのやりとりを楽しむような雰囲気で話を進めていくのです。
そして、その対話の中で、親ができるだけ自分の子供のころの体験談を話してあげます。
また、小さい子供が相手のときは、ダジャレやギャグや冗談や笑いを入れて、できるだけ面白い話をしていきます。そのためには、親が自分の言った冗談を楽しむような気持ちも必要です。
しかし、そういう楽しい話でありながら、話の内容は、大人相手に話すような真面目な内容や難しい語彙も取り入れて、子供を一人前の話相手として扱っていくのです。
子供を子供として扱うのではなく、一人前の話相手として扱い、親自身が子供との話を楽しみ、子供の言うことを大人の話を聞くように尊重して扱っていると、子供の思考力は育ちます。
言葉の森の作文・感想文の勉強をしていると、毎週の長文の音読がこういう対話のきっかけとして活用できるようになります。
「考える力と親子の対話――そのきっかけとしての長文の音読」
https://www.mori7.com/index.php?e=2324
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子供は、日々向上しています。
親子の対話を楽しむためには、子供の成長に見合った面白い話を親も常に考えていくことです。
話の中身がないと、人は他人を批評するようになります。
大人どうしの場合は、それでもいいのですが(よくないか)、子供相手に話すときは、単なる批評ではなく、子供が楽しめるような建設的な話をしていく必要があります。
だから、子供相手の対話の方が、大人との対話よりもずっと工夫が必要なのです。
高学年になって力を発揮するために必要なのは「考える力」の土台作り。機械的に詰め込む勉強ではなく、親子で会話を楽しむことで力が自然についてくるのですね。
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「やり抜く力 GRIT(グリット)」という本に、成果をもたらすものは、才能ではなく、「やりぬく力」だと書かれています。
これは、実証的な調査研究なので、説得力があります。
日本には、「石の上にも三年」という言葉があります。
結果が見えないようなものについても、やり続けていると、そこから自ずから開けてくるものがあるということです。
こういう人生観は、その人の生活すべてにわたっていると思います。
これまで見てきた子供たちについても、やりぬく力のある子は、そのときは特に優れているように見えなくても、長い年月の間に必ず力をつけ、最初から才能があるように見えた子を追い越していきます。
このように考えると、子供に何か習い事をさせるときも、長く続けられるものを選ぶことがいいのだと思います。
小1から始めて高3まで続けられるようなものがあれば、それを中心にして子育てをしていくのです。
ただし、それは子供が好きなものであることが前提になります。
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言葉の森の生徒には、小学校低学年から始めて高3まで続ける子がよくいます。
もちろん一本調子に続けられたわけではなく、そのときどきに小さなスランプがあったのだろうと思います。しかし、文章を書く生活が、習慣のようになり、書くことが苦にならないばかりか書くことが好きになって、大学生になり社会人になっていったのです。
その子たちが小学生のころ言葉の森の作文を始めたときは、大学入試のことなどは考えていなかったと思います。しかし、勉強をしているうちにいつの間にか中学生になり、高校生になり、大学入試でたまたたま小論文があったという人も多かったのです。
長く続ける生徒の中には、小学生から高校生までずっと同じひとりの先生に教わっていたという人もいます。毎週1回作文を書き、その作文をもとに先生と話をしていると、半ば家族のような感じで互いの考えていることがよくわかるようになってきます。
こういう人間どうしのつながりを更に進めるために、今、大学生や社会人になった言葉の森の生徒を対象に「学問コース」を始めようと思っています。
これは、大学生のころに読んでほしい本をもとに、ネット上で話し合いをするような形のコースです。
言葉の森を卒業した人に、そのうち連絡が行くと思いますから、楽しみに待っていてください。
「小1から始めて高3まで作文の勉強を続ける子」
https://www.mori7.com/index.php?e=2323
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大事なのは、才能よりも継続です。
一つのことをやり遂げることのできる人は、それが積み重なっていつか大きな成果を上げるようになるのだと思います。
私の母は、いつも、「がんばらなくていいよ」「大変だったら休みなさい」「のんびりやりなさい」ということばかり言っていたので、私は「やりぬく力」とは正反対の生き方をしてきました。
皆勤賞のようなものは一度も取ったことがないし、そういう発想自体と無縁でした。
しかし、考えてみると、仕事を始めてからもう数十年、一度も休んだことがないなあと思いました。インフルエンザのときも授業をしていたし(笑)。
納得です。続けるからこそじわじわと実力がついてきますよね。あれもこれもではなく、じっくり続けられる習い事を選んでいきたいです。
まさに継続は力なり。
私も一時の集中力は強かったけれど、継続力は有りませんでした。その時は気づかないのですが、やめた後に、当時、自分よりずっと下手だった子が長く続けることですごく上手になっているのを目の当たりにし、継続は本当に力になるのを実感しましたが、時すでに遅し。若い人たちに、私のような思いをしないでほしいなぁと切に願います。
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勉強でも作文でも、うまく行っていないときは、本人でもわかります。うまく行ったときに比べて手応えがないのです。または、明らかにうまく行かなかったという感覚があります。
そのときに、周囲にいる人、特に身近なお母さんなどに、そのうまく行っていないところを指摘されると、わかってはいても、やはりがっかりするのです。
それは表面に出る注意だけではありません。お母さんが、渋い顔をして心の中で思っているだけでも、子供にはそういう感じが伝わります。
何も言われなくても、子供は自信をなくしていくのです。
だから、うまく行かなかったときや、失敗したときほど、お母さんはそのうまく行かなかった中でのよかったところを褒めてあげることです。
そして、子供が明るい気持ちになったところで、毎日の読書と音読とそのほかの自習を気長に続けていくのです。
そういう日常を何度も繰り返しているうちに、ある日ふと気がつくと、いつの間にか、こんなにできるようになっていた、と思うときが来るのです。
こういうお母さんの気長な忍耐力を支えるものは、お母さん自身の心の安定です。
そのお母さんの心の安定には、お父さんの協力と感謝が必要です。
しかし、たとえそういう協力的なお父さんがいなくても(笑)、お母さんは自分の力で自分の心を安定させ、子供にはいつも明るく褒めて接することです。
その方法は、そう決心することです。
「自分は、この子のいいところだけを見ていつも褒めていくようにしよう」と決心すれば、それが次第に自分の天性のようになっていくのです。
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まず、作文というものは、なかなか上達しないものです。それは、作文力というものが、国語力の集大成だからです。
同じ国語でも、漢字の勉強などは、やればすぐに成果が出ます。読解の勉強も、やや時間がかかりますが、それでも比較的早く成果が出ます。
ところが、作文の勉強というものは、いくらがんばっても、そのがんばりに比例して上達するという実感がないものなのです。
しかし、そこで、お母さんが、「なかなか上手にならない」と思っていると、その感覚は、子供にも必ず伝わります。
作文というものは、精神的なエネルギーをかなり使う勉強ですから、書き終えたときは誰でもほっとします。そのほっとしたときに、お母さんが冷ややかな目で、「なかなか上手にならないわねえ」と子供を見ていると、子供は急速にやる気を失うのです。
注意することと褒めることの区別は、注意してすぐ直るものだけを注意し、すぐに直りそうもないものは注意せずに褒めるということです。
しかし、ただ褒めているだけでは上達に時間がかかります。褒める一方で、実力のつく自習を毎日させることが大事なのです。
その自習が、音読と読書です。そして、できれば、その音読をもとにして家族で対話をする時間を作っていくことです。
言葉は、目から入るだけでなく、耳からも入ります。難しい文章を読むのが苦手な子でも、お母さんやお父さんと難しい話をすることは苦になりません。
難しい長文を音読するだけでなく、その音読をもとに家族で話をすると長文の理解が深まります。そして、聞いたり話したりする形で使った言葉は、そのまま作文を書くときにも使えるようになります。こういう積み重ねで、作文は上達していきます。
この気長な自習を子供に続けさせるエネルギーは、褒めることによって出てきます。
「作文が下手だから、毎日の音読をしなさい」と言われて喜んでする子はいません。作文も褒め、音読も褒め、褒めながら毎日の自習の音読と読書を続けさせていると、気がついたらいつの間にか前よりもずっと上手に書けるようになっていたということになるのです。
「作文がなかなか上達しないときこそ褒める」
https://www.mori7.com/index.php?e=2319
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うまくいかない時こそ、親として追い打ちをかけるのではなく、自信を持たせてあげたいですね。
よく、「褒めるところがない」とか、「褒めるのが難しい」とか言う人がいます。
最初は真似事でもいいのです。
何度も真似事をしていくうちに、いつか子供が本当に褒められるような子に育っていくのです。
ときどき、「褒めるだけではだめ」という人がいます。
しかし、小言だけをいつも言い続けている人の言うことを子供は聞きません。
いつも褒めているからこそ、たまの静かな注意のひとことが子供の心にすっと入っていくのです。
作文の勉強は焦らないことが大事ですね。だからこそ、受験間際などではなく、早いうちに始める方が余裕を持って取り組めそうです(笑)。
うまくいっていないことを指摘されてもただ嫌な気持ちになるだけなのは、大人も子供も同じですね。
一番身近な親なのだから、よいところを一番たくさん知っているはずですね。
親が「子供のよいところだけを見てそだてよう」と決心すること、それは見つけたら褒める、でなくどんな状況でも褒めると決心することですね。
※これも覚書として
娘が小3の頃、なんだか色々なことがうまくいかないときに、負のスパイラルに陥ってしまったことがありました。そのときに、友達から「あなたはいい子だよ、間違ってないよ」と言い続けていくことが大事と言われたことがあります。それから一年。一年前が嘘のように落ち着いて生き生きしている我が子がいます。うまくいかないときほど、褒める。本当に効果があります。
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教育は、個人のためだけにあるのではありません。
個人の立身出世の手段としての教育という考え方は、福沢諭吉の時代なら意味がありました。
しかし、今はそうではありません。
よりよい世の中を作るために個人が成長するという、社会と個人の利益の両立が、これからの教育の目標です。
例えば、カンニングをしてでもいい点を取るというのは、社会全体の利益に反する個人の利益です。
それに対して、誰も見ていないところで、そっと人助けをするというのは、個人の利益にはならない社会の利益のための行動です。
この個人の利益にならない社会の利益のために行う行為を育てるのが、文化の教育です。
文化の教育は、点数には現れません。
だからこそ、この教育が最も大切なものです。
そして、こういう文化の教育を育てる場所は、まず第一に家庭なのです。
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教育とは、受験に合格するためにあるのではなく、人間として成長するためにあるものです。
だから、成績さえよければ、ほかのことをどうでもいいというのではなく、ほかのことをまずきちんと育てていく必要があります。
それが、身の回りの整頓だったり、弱い人への思いやりだったり、いざというときの勇気だったりするのです。
日本の社会のよさは、そういう教育が文化の中で自然に培われてきたことにあります。
これを更に意識的なものにしていく必要があると思います。
「受験の教育から、文化の教育へ」
https://www.mori7.com/index.php?e=2083
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教育の目的が、社会をよりよくするために個人の成長を図ることというのと同じように、企業の目的も、社会をよりよくするために利益を上げることです。
利益を上げる仕組みのないボランティアがあれば、それはボランティア個人の損失ではなく、社会全体の損失です。
もちろん、今の社会の仕組みの中ではすぐには利益の上がらない行動もあります。例えば、街をきれいにするためにゴミを拾うことなど。
しかし、そういうことであっても、常に利益化する仕組みを考えることが本当のボランティアです。
勉強のできない子に大学生などが無償で勉強を教えてあげるというボランティアがあります。そのこと自体は尊いことですが、本当は勉強のできない子を作らない仕組みを作り、それをコストのかからない方法で回すことが大事なのです。
教育の目的は、単に子供たちを育てることではなく、明日の日本を支える子供たちを育てることです。
「選択問題のテストで時間が足りなくなったら、どこでもいいから○をつけてこい」と言うのは教育ではありません。
「時間が足りなくなったら、潔くそこであきらめろ」というのが本当の教育です。
ちなみに、「潔い」という言葉でぴったり英語に該当する言葉はないようです。日下公人さんが著者でそう書いていました。渡部昇一さんは、「manlyがそれに近いが」と答えたそうです。日本文化は語彙の点からも奥が深いのです。
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