小学校低学年の子供は、親が熱心に関われば、その熱心さに応じて必ず成長します。
「主人の足跡は畑のこやし」というように、親の関わりの度合いに応じて子供は成長していくのです。
しかし、それが行き過ぎるときがあります。
それは、熱心さを出しすぎてしまうときです。
例えば、勉強を教えるときに、親が工夫したり準備したりすることは大事ですが、その工夫や準備が生かされないときに、子供を叱ってしまうことがあります。
もし、親が熱心に関わっていなければ、もともと叱る必要はありません。
熱心だからこそ叱るのですが、子供はその叱られた方を強く覚えてしまうのです。
小学校低学年のころは、それでもうまく行きます。
しかし、それが積み重なって小学校4年生ぐらいになると、子供は自立心が出てくるので、次第に親に反発するようになります。
本当は、小学校高学年から中学生にかけての勉強が次第に難しくなる時期にこそ、親が子供の勉強の内容を把握している必要があります。
しかし、子供がだんだん手に負えなくなると、学習塾に行かせるかたちで勉強を丸投げしてしまう家庭が多いのです。
学習塾に勉強を見てもらうようにすると、親はますます子供の勉強の様子がわからなくなります。
わかるのは、塾からもらってくる点数だけになるので、点数が上がった下がったということでしか子供の勉強を見ることができなくなります。
中学生で、塾に行って熱心に勉強しているが、成績が今ひとつぱっとしないという場合の多くはこういうケースです。
勉強の仕方の根本が違っていることが多いのですが、親が勉強を見ていないのでそれがわかりません。塾の先生は個別指導をしているわけではないので、やはりわかりません。
子供はそれなりに一生懸命勉強しているのですが、その勉強が、わかる問題を難問も解いていたり、わからない問題はわからないまま飛ばしたりというような、成果の出ない勉強になっていることが多いのです。
これは、親が少しでも勉強に関わればすぐにわかることですが、いったん子供の勉強から離れてしまうと、親が改めて関わることはかなり難しくなります。
塾に行くのは、別にいいのです。友達と一緒に勉強した方が張り合いがあるというなら、それはそれで全くかまいません。
しかし、その塾の勉強の内容と、その宿題の内容と、その宿題の勉強の仕方を親が一応見ておく必要があります。
では、中学生になっても親が勉強の内容を把握できるようにするためには、どうしたらいいかというと、小学校低学年のころから、いい親子関係を作っておくことです。
そのために、親の接し方は、熱心であるがその熱心さを表面に出さないということです。
そして、子供が親の熱心な準備や工夫に対して、同じように熱心に応えなくても、笑って認めるような度量をもって接していくことなのです。
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小学校1、2年生の子はみんな素直です。
だから、その素直さに甘えて、やりすぎないようにすることです。
何でも言うことを聞く時期だからこそ、本人の自主性を伸ばしていくことが大事です。
自主性の中には、親の希望する方向と違うものもあります。
それも笑って認めてあげるのです。
過ぎたるは及ばざるが如しという言葉のとおり、熱心さが行き過ぎると、肥料をやりすぎて植物を腐らせてしまうというようなことがよくあります。
食事と同じように、子育ての熱心さも、八分目までで抑えておくという配慮が親には必要です。
例えば、新しい面白い問題集などを与えると、子供は一日目から何ページもやってしまおうとすることがあります。
そのときに、子供が自分でやろうとしているのだからと、そのままやらせてしまうと、数日ですぐに飽きてしまいます。
初日に、やりすぎを抑えておくからこそ、長く飽きずに勉強を続けることができるのです。
中学生になっても親が勉強の内容を把握し、塾に任せっきりにしないようにしていきたいですね。
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低学年のときの作文指導は、実は簡単です。
書き方の間違いもまだかなり多いので、それを直して、直ったことを褒めていれば作文が上達するような感じがします。
だから、学校でも塾でも通信教育でも、低学年の作文指導に力を入れていることが多いのです。
しかし、この低学年のうちに、高学年の作文につながるような指導がないと、課題がだんだん難しくなるにつれて作文が書けなくなります。
そして、たぶんほとんどの作文教室がそういう結果になっているのではないかと思います。
作文の勉強を家庭で続けていると、だんだん親子喧嘩になる場面が増えてきます。
それは、子供が、難しい課題になってくると、だんだん作文が書けなくなってくるからです。
作文を書くというのは、高学年や中学生以上の生徒にとってはかなり負担の大きい勉強です。
まず1200字の作文を1本仕上げるには、時間は1時間から1時間半かかります。しかも、その間休みをとるようなことはできません。
学校の宿題などをいろいろ片付けなければならない中で、毎週作文の時間を確保して、難しい文章を読んで考えて書くということにはかなり強い意志力が必要です。
しかし、そういう苦しい勉強を続けてきた子は、大学生になるころには、必要に応じて楽に文章が書けるようになるのです。
低学年の作文の勉強で大事なのは、作文の土台となる読書と対話にも力を入れていくことです。
そのために、言葉の森では、長文音読、暗唱検定、自主学習クラス、思考発表クラブなどのオプションの勉強に力を入れています。
そして、勉強の中で続けるのは最も難しいと言われる作文の勉強を中心にして、あらゆる教科の勉強の力をつける指導を目指しているのです。
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卒業生からのメッセージ「言葉の森の思い出」
https://www.mori7.com/index.php?e=2108
今年、慶應義塾大学文学部に合格したKMさんが、「言葉の森の思い出」という話を書いてくれました。
KMさんは、小1から言葉の森で勉強し、森リン大賞にも何度も選ばれていました。
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私が言葉の森で作文の勉強を始めたのは、小学1年生の8月でした。
やっと、電話で知らない人と、なんとか話すことができるようになったのが、そのころだったのです。
初めは、本当に、聞かれたことに「はい」と返事をするのがやっとでした。「いいえ」すらも言いにくかったので、沈黙してしまったり。そうすると、先生が「じゃあこうだったのかな?」と逆の質問をしてくれて、やっと「はい」が言えるときに口を開くというような状態でした(笑)。
それでも、先生の質問に答えるかたちで、書くことを決め、電話の後に、今度は母が同じような質問をするので、その答えを作文用紙に書いていったというような記憶があります。
できあがった、確か100字程度の作文は、作文と言えるようなものでもありませんでしたが、返却された作文を見ると、先生が、作文用紙いっぱいに花丸をつけてくれていて、たくさんの「上手!」「うまい!」「すごい!」という文字が踊っているのを見て、大変満足し、「これからも続ける!」と宣言したのでした。
低学年の間は、基本的に毎週そのような調子で気分よく書いていたのですが、字数ランキングに燃えて、ひたすら長く(内容の薄い作文を)書いていたこともありました。かなり時間もかかりましたが、「すごく長くかけたねえ!」と、先生に褒めてもらえるのが嬉しくて、とにかく長く、1000字、2000字と書いていたのです。今思うと、先生にご迷惑だったような。思い出してみると、母もいつも先生に謝っていたような記憶が蘇りました(笑)。
中学年になると、題名が決まっていたので、最初は書きにくく感じましたが、このころは、課題について、父や母や祖母に取材をするのを楽しんでいた時期でもありました。感想文課題は、内容も難しいし、書くのが大変でしたが、先生もいつもヒントを与えてくれたし、両親も、協力してくれました。
5年生になると、長文の内容はさらに難易度が上がり、そのときの私にとって、「難しい」というより「分からない」文章になってしまいました。しかし、たとえ長文全体をよく理解できなくても、感想文を書くことができるように説明してもらえたし(実際、それでなんとか形になっていたと思います)、また、何度も音読をしているうちに、最初は全く分からなかった文章が何となく理解できるようになる、という経験もできました。おかげで、難しい文章に取り組むのが怖くなくなったというか、落ち着いてくり返し読めば分かる、と信じて読めるようになりました。この経験は、その後の中学受験でも、大学受験でも役に立ったと思います。
また、私は、低学年のころから自分でパソコンで作文を書いていたのですが、「今読んでいる本」の欄を利用して、担当の先生と雑談をしたこともいい思い出です。例えば、当時流行っていたドラマの原作小説を読み、それを読書欄に書くついでに、お気に入りの主演俳優の話を書くと、先生も講評の中で返事をくれて、翌週の電話でまた好きなアイドルの話をしたり……といった具合に盛り上がったのも、とても嬉しかったです。言葉の森では、学校の先生よりも長く一人の先生に習うこともあるので、そのような交流が深まるのも楽しいことだと思います。
中学受験を挟み、言葉の森をお休みした時期がありましたが、再開後に取り組んだ勉強は、より具体的に受験小論文に役立ちました。小論文の構成を教えてもらって、どんな形で、どんな順番で書いていけばいいのか、という枠を決められるようになり、中学3年間で勉強した書き方で、ほぼどんなテーマにも対応できる自信がつきました。
実際の第一志望校の小論文課題は、制限字数が短かったのですが、基本的には、言葉の森で教わった「構成」「題材」「表現」「主題」を意識することで、対応できました。そのおかげで、他の教科の勉強に多くの時間を割くことができ、また、例えば、英語の長文を読む際にも、言葉の森の勉強で身につけた日本語読解力に助けられたと思うので、やはり、作文の勉強は、多くのアドバンテージを与えてくれたと思います。
本当に感謝しています。ありがとうございました。
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昨日、小学生のころから言葉の森を始めて高3になる生徒が、最後の作文を書いていました。
難しい課題の作文でしたが、説明を聞いて、いつものようにさらさらと1000字近く書いて、
「4月からもう来ないと思うと、なんか寂しい」
などと言って帰っていました(笑)。
簡単なように見えますが、与えられた課題で人に読ませる文章を書くというのは、大人でもなかなかできません。
作文の勉強というのは、続けていれば必ず上達するということを改めて感じた日でした。
作文は、教えてすぐに上達する子と、なかなか上達しない子がいます。
しかし、どんな子でも、続けていれば最終的には必ず上達します。
言葉の森の通学教室で高3まで作文の勉強を続けていた子供たちの中には、最初から得意な子もいましたが、最初はかなり苦手だという子もいました。
それぞれみんなそれなりに途中のスランプなどもありましたが、最終的にみんな楽に上手に書けるようになっていきました。
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言葉の森の通学教室の生徒で、プログラミングをやるようになった人はかなり多いです。
小学生のころから、パソコン入力をしていたので、自然にそういうことに親しんだからだと思います。
しかし、このプログラミングは、システムエンジニアなどの仕事としてやる場合は、かなり大変です。
私自身(森川林)、言葉の森の仕事に使うプログラミングをやっていたとき、「これが、もし人に頼まれた仕事だったら絶対にやらないだろう」と何度も思いました。
それぐらい、ストレスの多い、ある意味で不毛な時間の多い仕事なのです。
では、なぜプログラミングの勉強が必要かというと、それはプログラミングを仕事にするのではなく、何か別に自分のやりたいことがあった場合、その仕事にプログラミングが使えるからなのです。
このことは、ほかの勉強についても言えると思います。
英語が得意なので、英語を仕事にする人がいます。それは、やはり大変な仕事だと思います。
英語が得意なら、それを自分のやりたい仕事に生かす英語として使っていくのです。
数学でも、国語でも、何でも同じです。
昔、ゴルフの得意な若者が、ゴルフの道に進むか、ビジネスの道に進むか迷っていたとき、ある人がアドバイスをしました。
「ゴルフのプロもいいが、ゴルフもプロ並みの社長の方がいいぞ」
勉強は、何でもできた方がいいのです。
しかし、目的は勉強ができることではなく、自分の本当にしたいことのために、その勉強を使うことなのです。
……と、この一週間、サーバーの文字化けを直していてふと思いました。
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サーバーがやっと直ったので、今日は宴会だ。
違うだろ。
得意な勉強を仕事にするのではなく、自分のしたいことに得意な勉強を生かすという考え方が大事です。
今システムを勉強している若い人は、それをそのまま仕事にしてもいいのですが、その技術を生かして、自分の本当にしたいことに使うという展望を持っていくといいと思います。
自分の夢実現のために、勉強をし続けたいですね。
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成績を上げるためには、解法をどんどん覚えてしまうのが最善です。
一つの問題を解くために何時間もかけるというのは、最も能率の悪い勉強法です。
しかし、それで成績を上げることが、その子の実力を育てることにはなりません。
答えのある問題は、答えを早く見つけることが大事ですが、世の中に出てからの大半の問題は答えのない問題です。
その答えのない問題に遭遇したとき、遠回りの勉強が生きてくるのです。
遠回りの勉強とは、自分で試行錯誤して、様々な失敗や回り道を経て到達する答えを見つける勉強です。
その遠回りの勉強の感覚を身につけた子は、大きな問題が出ても自分で考えようとします。
そういう自分で考えることの好きな人たちが、世の中の歴史を進ませてきたのです。
小中学校時代の義務教育の勉強は、基本的に難しいものは何もありません。
誰でも当然できるようになるべきものが教えられています。
しかし、それでは試験で差をつけることができないので、入試用のパズルのような問題が作られています。
その入試用のパズルの問題を解くことが実力をつけることではありません。
そういう問題は、どんどん解法を覚えておけばいいのです。
そして、本当に大切にするのは、答えのないことを、自分なりに、ああでもないこうでもないと考えることです。
そのためには、特に、小学生時代は、遠回りの勉強をしていくといいのです。
そういう勉強が、実験や経験や読書や遊びや親子の対話です。
問題集を解くような勉強は、一応はやっておいて実力と成績のバランスはとります。
しかし、成績の方にだけ目を向けてしまうと、肝心の実力が育ちません。
子供自身は、そういう大局的なことはわかりませんから、親がそのバランスを考えていくことが大切なのです。
【話は変わってサーバーの移転に伴うトラブルについて】
3月16日にサーバーの移転を行いました。
久しぶりの移転のため、対応できないソフトなどが多く、今でも文字化けの現象が出ています。
そのため、いろいろなページを今作り変えているところです。
当面、最も重要なのは、作文を送信する「作文の丘」と、評価を見ることのできる「山のたより」のページなので、この二つのページを改良しているところです。
もうしばらくお待ちください。
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「勉強は、すぐわからないところが面白い」
https://www.mori7.com/index.php?e=2353
キャノンの社長だった賀来龍三郎さんは、高校生のとき、尊敬する数学の先生に、「数学は公式から自分で考えて解け」と教わったそうです。
大学入試でも、その教えを忠実に守って公式から自分で考えて解こうとしたために、時間不足で不合格になりました。そのときは、その数学の先生を恨んだようです。
しかし、その後、社会人になって、根本的に考えることの大切さを何度か経験するうちに、その先生の偉大さを改めて感じるようになったということでした。
今の世の中は、どの分野も複雑化しているので、能率を上げるために、根本から考えるよりもまず操作できればよいという考え方が主流になりつつあります。
家電製品などでも、故障すると、昔は電気屋さんが中を分解して故障を箇所を見つけたのですが、今は、ブラックボックス化したICチップをまるごと取り替えるような修理の仕方になっています。
能率は大幅に向上したのですが、このまるごと交換という対応の仕方からは、工夫も発見も生まれません。
算数数学の問題でわからない問題があったとき、まず大事なのは、自分で考えてみることです。しかし、それではあまりに時間がかかるというときは、解答を見てその解法を理解します。
学校で勉強するような数学の問題は解けることが前提に作られているので、解法を見れば誰でもわかるようになっています。
しかし、それでも理解できないとき、つい人に聞きたくなります。しかし、そこで人に聞いてわかりやすく教えてもらうと、それはICチップをまるごと交換するような勉強になってしまうのです。
すぐわかったつもりになることは、かえって自分の力として定着しません。能率よく理解する度合いが強ければ強いほど、実力はつきにくくなるのです。
世の中の価値ある仕事の多くは、無駄な遠回りを積み重ねて作られています。
今の世の中の風潮は、能率を重視し、最小のコストで最大の効果を上げることに向かいがちです。
しかし、本当の楽しみは、苦労して自分なりにつかむという経験の中にあるのです。
自由な時間のある子供時代にこそ、そういう無駄な遠回りをする楽しさを味わうことが大切だと思います。
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久しぶりの記事になりました。
15日は全館休館で、16日はサーバー移転。
その後、移転に伴うトラブル続出で(笑)大忙しでした。
こちらが対応できない分を、いろいろカバーしていただいたみなさん、ありがとうございました。
今日の記事は、「教育の本質は遠回り」ですが、これを仕事にあてはめてみると、開発の本質は遠回り、仕事の本質は近回りと言えそうです。
サーバーのトラブル対応、引き続きがんばりたいと思います。
「数学は暗記だ」という和田秀樹さんと渡部由輝さんの本を読んで、数学が急に得意になったという人は多いと思います。
これを批判していたのが数学者の森毅さんでした。森さんの考えは、数学は考える勉強だというものでした。
しかし、実は両方とも正しいのです。
勉強はすべて、成績を上げるためのものと、実力を高めるためのものと分けて考え、両方をバランスよくやっていくことが大事なのです。
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