小中学校の勉強は、子供にとってもともとそれほど面白いものでありません。
その理由は、勉強の内容が教えられるものだからです。
つまり、答えが合っていたら褒められるという勉強なので、やることが誰でも同じになります。
ある意味で自分を鋳型に合わせるような勉強なのです。
人間は子供であっても自分らしく生きたいと思っています。
みんなと同じ正解になって褒められて嬉しいというのは、人間の本来の嬉しさとは少し違うものです。
むしろ、みんなと違って自分らしいことが面白い、それが上手くいけば更に嬉しいというのが、もともとの人間の性質なのだと思います。
では、そういう自分らしい勉強をするためにどうしたらいいかというと、第一は、独学で学びやすい教材があることです。
第二は、自分の勉強を発表する場があることです。
そして、第三は、その発表を互いに交流できる場があることです。
やる気のないときの半日よりも、やる気が出た時の1時間の方がずっと多くのものが身につくという実感は多くの人が持っています。
○や×をつけてもらうことを動機にするのではなく、自分の興味を動機として勉強していくことが、これからの教育に求められてくると思います。
思考発表クラブも、そういう自分らしい勉強を動機として学ぶ力をつけていく場にしていきたいと思っています。
そして、作文教育も、作文が受験に必要だからとか、苦手だからとかいうことことではなく、作文の勉強がワクワクして面白いからという動機で始められるようなものにしていきたいと思っています。
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ワクワクした勉強をした子は、将来ワクワクした仕事をするようになると思います。
必要や不安や競争を動機にした勉強ではなく、喜びや創造や共感を動機にした新しい価値観の勉強を作っていきたいと思っています。
昔、自分の子供が言葉の森で作文の勉強をしていたころは、いかに面白い勉強にするかということを考えていました。
役に立つとか、成績が上がるとかいう以上に、この面白さが大事なのだと思います。
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人間が何かを得意になるきっかけは単純です。
自分のやったことが褒められたり感心されたりしたことがあったからです。
それをきっかけにして、そのことに時間をさくようになって、だんだんと得意になっていったのです。
能力というものの多くは、持って生まれた才能によってではなく、どれぐらい長く続けたかという時間によって形成されます。
苦手に見えることであっても、いつも褒めて、練習をさせ続けていれば、必ず上達していきます。
例えば、音読が下手な子であっても、何も直さずに、ただ、「読むのがだんだん上手になってきたね」と言っていれば、自然にその褒め方に合うように上手になっていきます。
大事なことは、褒めた結果がすぐに出るとは思わないことです。
▽参考記事
「作文の苦手は作られる」
https://www.mori7.com/index.php?e=2611
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よくプロの優れた技術を持っている人に、上達の秘訣を聞くと、「ただ長い時間やっていたからです」という返事を聞くことがあります。
これは決して謙遜で言っているのではなく、たぶん本当にそうなのです。
持って生まれた才能は、かけた時間に比べれば二義的なものなのです。
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△木の俣渓谷(今度のサマーキャンプで遊びに行くところです)
小学生のお母さんから、よく、「理科や社会はどういう勉強をしたらよいか」と聞かれます。
私の返事は、「理科や社会は学校でやっていれば十分」です。
学習塾や通信教育などで勉強すると、国語や算数だけでなく、理科や社会もついてきます。
どうせ勉強をするならバランスよく全教科やる方がいいという考えもあります。しかし、小学生のうちに時間の余裕があるからと言って、与えられたメニューを全部やっていると、学年が上がるにつれて勉強の時間に追われるようになってきます。
理科や社会は、広い意味で読書の一種ですから、本を読む力さえつけておけば、わざわざ学校の授業以外に勉強する時間を設ける必要はないのです。
そのかわり、重点を置くのは、国語の読む力です。読む力とは、ある程度難しい文章も楽しく読めるという力です。
極端に言えば、この読む力さえついていれば、あとは本人がやる気になったときにどうにでもなるのです。
もう一つは、算数が苦手にならないくらいに、つまり普通か普通以上にできるようにしておくことです。
というのは、算数はいったん苦手になると、どこから手を付けていいかわからなくなることがあるからです。
しかし、これも普通に勉強していれば特に問題はありません。
この国語と算数を重点にした勉強で、生活に余裕を持たせるようにし、その余裕の時間で、読書や対話やさまざまな経験をしていくのです。
小学4年生までは、勉強面で難しいことは何もありません。
だから、親が勉強をさせれば、誰でも成績が上がります。
しかし、ここで必要以上に成績を上げても、それはその後の学年の成績には結びつきません。小4までは普通にほどほどにできていれば十分です。
高学年になって成績が伸びる子は、低中学年で勉強をしていた子ではなく、読書や対話をしっかりしていた子なのです。
▽参考記事
「幼児期の勉強の要は、親子の対話と作文」
https://www.mori7.com/index.php?e=2166
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今の日本の勉強環境は至れり尽くせりなので、その分無駄なこともかなり多いのです。
子供時代に必要なのは、同じ無駄でも、無駄な勉強ではなく無駄な遊びの方です。
無駄な勉強はあとに何も残りませんが、無駄な遊びは子供に多くのものをもたらすからです。
江戸時代の寺子屋教育の理論面を支えた貝原益軒は、「学問は本、技芸は枝」と言いました。
世の中には、いろいろな習い事がありますが、いちばんの中心は学問です。
そして、その学問の中心は読む力なのです。
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昨日の小6の思考発表クラブで、子供がyoutubeなどインターネットを長く見るようになって、その分読書量が減っている気がする、という相談がありました。
昔、テレビが普及し始めたころ、評論家の大宅壮一氏は、一億総白痴化という言葉で、テレビが人間の思考力や想像力を低下させていると警鐘を鳴らしました。
このテレビよりも誘惑度の高いのが、インターネットの世界です。
テレビや漫画は、つい惰性で見るので無駄な時間を過ごしがちです。
インターネットは、それ以上に惰性で見てしまうことが多いのです。
数年前、イギリスの中学生がSNSに時間を取られ、読書をしなくなったという記事が載っていました。
これは、日本でも同じ事情になりつつあると思います。
では、どうしたらいいかというと、これはやはり自己コントロールによる、生活とインターネットの共存しかないのです。
禁止というのは、小学校低学年のころはあり得ますが、高学年や中学生の子に禁止というのは、問題を先送りするだけになります。
誘惑に負けるというのは、子供だけの問題ではなく、大人も含めた人間の本質的な問題です。
それを克服するのが、広義の教育です。
私の考えの基本は、「よく遊び、よく学べ」です。
youtubeも楽しむ、SNSも楽しむ、そして読書も、勉強もたくましくやり遂げる、しかし、そういうことができない人とも仲よく接する、という人間像の目標を立てて、そこに近づくように親子で努力していくということな のです。
▽参考記事
「国語の成績は、氷山の水より上の部分。下の部分は、親の価値観と生活習慣」
https://www.mori7.com/index.php?e=2184
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子供がyoutubeやSNSに夢中になっていたら、親はどうしようかと悩むと思います。
しかし、そういう無駄な回り道に見える時間も、将来子供が自立するためには必要です。
放置するのでも、禁止するのでもなく、共存するという仕組みを作っていくことがこれからの子育てには必要になってくるのです。
子供が小さいころに、命令や禁止を中心に子育てをしていると、その子が成長したときに、本人の自主性に訴えるということができなくなります。
だから、親の言うことを何でも聞くような子供時代にこそ、その子の自主性を尊重して接していく必要があります。
人間にはもともと、よりよく生きたいという本質があるので、その本質を引き出すことが子育ての基本方針になると思います。
親がまともで躾もきちんとしている場合、情報の取捨選択が正しく行われるので問題はないのかも知れません。しかし良識のない親、躾もいい加減な親の場合、ネットにはテレビと違って放送倫理などはありませんから子供が誤った情報を信じてしまったり過激な思想に染まってしまったりなどの危険性が高まると思います。今はゆとり世代が親であり、政府の教育方針も歪んでいますので、近い将来、偏った知識を持つ倫理観に欠ける大人が量産されるというような事態が生じるかもしれませんが、政治に無関心で教育よりも学歴を重視する現代社会ではそれも仕方ないことなのでしょうね。
匿名さん、ありがとうございます。
今の教育の問題点のひとつは、家庭での教育が後退していることです。
いちばんの格差はそこにあるのではないかと思っています。
TVの問題は、その受動性にありました。
時間とともに音声と映像は強制的にながれるもので、
読書のように自主的に速度をコントロールできるものではありません。
また、放映されるチャンネルはせいぜい10であり、
その中において各番組の意図は限られています。
その多くはCMスポンサーの意図であり、
否応なしに視聴者は資本主義に組み込まれるものでした。
この2点において、先見の明があった大宅壮一氏は、
文明破壊装置という定義をしたのでしょう。
その聡明さは特筆たるものがあります。
YouTubeがTVにとってかわるのは間違いないと思いますが、
大きな違いはマウスクリックを挟むという能動性です。
ここにどんな影響度が生まれるか、注目しています。
くまモンさん、ありがとうございます。
YouTubeの特徴は、発信する手段にもなるということです。
今は、ユーチューバーが再生回数を競い合っているところがありますが、それはまだYouTubeが成熟していないからです。
将来は、不特定多数の再生回数よりも、ある特定の仲間と価値ある情報を共有するという形に進化していくと思います。
テレビ等の営利が絡んだ扇情的・短絡的な報道内容に自らが操作されていることに気づくのは、上記の匿名コメントがそうであるように、大人の我々でも個人の努力のみでは難しいことです。
それに加え、Youtubeなどに代表されるインターネットの広告やコンテンツが、人々から収益を得るための仕掛けは、試行錯誤を繰り返し、年々多様化・巧妙化しています。
ですので、これらの誘惑とうまく付き合っていくには、各家庭ごとの対応では足りないのではないか、と危惧しております。
同じ志を持った家庭同士が連携し、情報交換を密に行い、インターネットと共存できる具体的方法を共有することが肝要だと思います。
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作文の勉強をする意義として、入試に作文が増えてきたからという考えがあります。
しかし、それは作文を勉強する意義としては表面的なことです。
入試に作文が出てきたのは、作文力読書力というものが真の学力を表していると考えられてきたためです。
だから、作文力をつけるには、読書力、対話力、思考力を総合的につけていく必要があります。
その点で、作文は勉強の集大成とも言えるものです。
しかし、言葉の森は作文の意義をそれ以上に創造的な学力を育てる勉強として考えてきました。
そのための方法は、構成、題材、表現、主題の4つの分野にわたって自分らしい書き方を心がけていくことです。
よく、「書くことが好きになる」と言いますが、作文の何が楽しいのかといえば、この創造するという面が楽しいのです。
作文によって創造の楽しさを感じた子供たちは、将来社会に出て仕事や研究をするようになったとき、やはり自分の持ち場で創造的なものを作り出していくと思います。
▽「創造性教育試案」
https://www.mori7.com/index.php?e=2768
今年の読書作文キャンプも、子供たちができるだけ自由に創造性を発揮できるように企画していきたいと思います。
遊びでも、勉強でも、大人がお膳立てしたものを受け身で楽しむようなものではなく、自分で自由に工夫してやるようなものにしていきたいと思っています。
https://www.mori7.net/stg/
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創造性が大事だということは誰でもよく言いますが、その定義は実はあまりはっきりしていません。
だから、創造性という言葉は、内容のないただの飾りのようなものとして使われていることが多いのです。
その創造性教育を内容のあるものとするのが、作文教育です。
今、森リンを修理しているため森リン大賞を発表していませんが、早くこれを直して、今度は、森リン大賞以外に、創造作文大賞のようなものも作っていきたいと思っています。
ここには、例えば、小学校低学年の子でも、ユニークなたとえや実例や感想を書けば、その創造性を評価するという仕組みです。
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小学生の子は、誰でも普通に本を読みます。
それは小学生の間は、学校が読書に力を入れているからです。
しかし中に、「読書は学校でやっているから家では読まなくてもいい」と言う子がいるのです。
こういう子は、高校生の読書ゼロ冊の予備軍になります。
読書は人に言われて一応読むというのでは不十分です。
読書が大好きで、本がなければ夜も日も明けないぐらいになっておく必要があるのです。
そういう読書大好きの子を育てる最初の一歩が毎日10ページ読書です。
読書が苦手な子は、最初はぎりぎり10ページ読み終えて、「ああ、やれやれ」という読み方でもいいのです。
本には、読み手を引き付ける力があります。
いつかおもしろい本に巡り会い、1日で思わず1冊読み終えてしまったという日が来るのです。
大事なことは、子供に対する「読書10ページ」の目標を、親の目標にしないことです。
親の目標は、読書大好きの子供を育てることです。
小学校時代の学力とは、算数の計算力でも国語の漢字力でももちろん英語力でもなく、読書力に尽きるからです。
読書は薬を飲むように読むのではなく、美味しいものを味わうように読む
https://www.mori7.com/index.php?e=2289
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子供の今の成績でわかるのは、勉強しているかどうかだけです。
その子がどう伸びるかは、今の成績ではわかりません。
子供の将来の伸びがわかるのは、どういう読書をしているかによってです。
しかし、この読書の差は、目につく機会はほとんどありません。
だから、子育ての基本は、気長に読書好きの子を育てることに尽きると言ってもいいのです。
昔の子供は、よく本屋さんで立ち読みをしました。
それで、はたきで追い払われたり(笑)。
しかし、今はそういう身近な本屋さんがあまりありません。
だから、アマゾンなどを立ち読みできるようにしておくといいのです。
1ヶ月いくらまでは本を買ってよいというようにしておけば、子供はだんだん本を選ぶことが上手になります。
しかも、kindleは6台の端末で共有できるので、同じ本を、兄弟も、両親も、田舎の祖父母も読むことができます。
読書を中心とした生活は、やり方によっては、昔よりもずっと容易になっているのです。
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低学年のころの勉強は、ただしっかりとやっていればいいだけです。
勉強をする習慣をつけることが目標ですから、短時間でいいのです。
決まったことを決まったとおりにやって早く片付けて早く遊びに行くということが大事です。
しかし、高学年や更に受検生になってからの勉強は、ただしっかりやっていればいいのではありません。
勉強をする方向を考えて、勉強の作戦を立てることが大事です。
小さなところでがんばるのではなく、大きな方針を立てることにまずがんばる必要があるのです。
ところが、小学校から人に言われて勉強をしてきた子は、この方針を立てるということが苦手です。
だから、自然に中学生になっても、人に言われた勉強しかしなくなります。
それは、もちろん恥ずかしいことでも何でもありません。
やっていないことはできないのが普通です。
そのときに役立つのが受験勉強の方法に関するさまざまな本です。
夏休み前は、この勉強法の本を10冊ぐらい読んで、勉強の方向のつかんでいくといいと思います。
▽参考記事
「受験生の夏休みの勉強法」
https://www.mori7.com/index.php?e=2377
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小3の6.2週の作文課題は、「カタツムリを見つけたこと」です。
とは言っても、そうそうカタツムリは都合のいいときに見つかるわけではありません。
そこで、カタツムリの生態を知ることが必要になります。
カタツムリは、朝のまだ早いうち、古い建物のコンクリートや板の上を歩いていることが多いのです。
よくアジサイの葉っぱにカタツムリがとまっていることがありますが、アジサイは有毒なので、カタツムリは葉っぱを食べているわけではありません。
カタツムリは、苔やコンクリートのカルシウムを食べているのです。
昔、團伊玖磨さんがエスカルゴを飼っている話を読みました。
それを見た人に、「食べるんですか」と聞かれて、團さんは怒っていました。
飼っているものを食べるなんて、ちょっとできないですよね。
カタツムリも、飼ってみると結構かわいいです。
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