△那須野が原公園。那須キャンプの下見に行った子供たち
モンテッソーリ教育を特徴づけているものは、教材という方法ではなく、その取り組み方という姿勢の方です。
モンテッソーリ教育は、個性と意欲と集中力をを育てると言われています。
それは、そこで行われている学習方法が、単なる知識の学習ではなく、作業的、主体的な学習として行われるためです。
主体的な学習は、子供たちが、自分の関心のままに集中して取り組みやすいものなので、長時間その学習に熱中することができます。
その意欲の持続という取り組み方が、その子の個性と集中力を育てる教育になっています。
しかし、だからといって原始人がモンテッソーリ教育で優れた能力を育てるようになるかというと、そういうことはありません。
意欲は高いに越したことありませんが、能力や業績として現れるのは、意欲を高さとする三角形の面積だからです。
その三角形の底辺は知識なのです。
ところで、シュタイナーは、この知識を、言葉の上だけで覚えたり理解したりする知識ではなく、本人の実態と世界の実態に直接触れる形での生きた知識として習得することを強調しました。
モンテッソーリ教育も、シュタイナー教育も、教育が人為的な方法で外側の枠組みとして与えられることに対する批判として登場しました。
意欲も知識も、内部から育つものでなければ、その人の人生にとって生きた意欲や知識にならないということをこの二つの教育は示しています。
さて、知識は広がりを持つだけではなく、濃淡を持っています。
その濃淡は、単に個性に委ねられるだけではなく、ある程度共通性のある社会的に重要な知識と軽易な知識とに濃淡を分けることができます。
その重要な知識を反復して身につける教育が寺子屋教育でした。
反復教育を、意欲や実感の教育と反対のものだと考える人がいますが、そうではありません。
知識を底辺とし、上向きの高さである意欲と、同じ知識を上辺とし、下向きの深さである反復の三つの変数が形成する四角形の面積が、人間の能力であり将来の業績になるものです。
業績とは、自己実現と創造と社会貢献のことです。
教育には、この意欲の高さ、知識の実感的広がり、そして重要な知識の血肉化という三つの要素が必要なのです。
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これまでの教育は、受験に合格することに単純化されてきました。
それは、社会が工業生産の拡大という流れに単純化されていたからです。
しかし、教育の本来の目的は学校に入ることではなく仕事をすることです。
将来どういう仕事をして生きていくかという準備と土台作りとして教育があります。
ところが、大人自身がそういうライフプランを描けていないので、とりあえずの合格が教育の目標になっています。
しかし、目標が単純化されればされるほど、教育はノルマのようになっていくのです。
子供たちは、学校で勉強する時間が与えられているので、どの子も同じように勉強しているように見えます。
しかし、義務感で取り組んでいる子と、学ぶ喜びとして取り組んでいる子の差は、実はかなり大きいのです。
時間をかければ、誰でも成績は上がります。大事なのは、成績という結果ではなく取り組み方の姿勢の方です。
しかし、その姿勢は本来、外からの評価にはそぐわないものです。
だから、家庭での勉強観が大事になるのです。
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これまでは社会全体が上げ潮の時代でした。
それは、高度経済成長時代に見られるように必需品の生産が不足していた時代だったからです。
しかし現在、必需品は、先進国ではほぼ満たされるようになっています。
すると、これからの消費は、より文化的な消費になると考えられます。
文化的な消費とは、自分らしく生きたいという気持ちから生まれる消費です。
すると、今後大事になるのは、上げ潮の時代の価値観ではなく引き潮の時代の価値観に対応することです。
上げ潮の時代は、シェアを拡大できる大きな組織に入ることが人生設計の重要な目標になっていました。
「入ること」、つまり入試が、人生の大きな目的になっていたのです。
そのため、入試の限定された能力評価に特化した教育が行われてきました。
これが受験教育です。
例えば、個性的に考える力よりも、マニュアルを覚えて使う力が重視されました。
この記憶力中心の教育が、現在末期状態に陥っていると考えられます。
さて、引き潮の時代は、自分らしい個性を活かして、自分で仕事をすることが中心になる時代です。
引き潮の時代の社会における消費者は、必ずしも一般大衆ではありません。
だから、マーケットの規模は、次第に問題ではなくなってきます。
引き潮の文化の時代の消費者は、不特定多数の人間ではなく、同じような志向を持つ生産者でありかつ消費者であるような人間です。
そこでは、生産と消費のコミュニティが生まれる中で、経済が回って行くと考えられます。
教え合い学び合う関係の中で、生産と消費が循環していくのです。
このような、多くの人が自立する仕事に従事する時代に対応する教育はどういうものでしょうか。
これが、これから必要とされる全面的な教育です。
受験的な知識の勉強は、もちろんある程度は残ります。
しかし、それとともに個性、情熱、勇気、思いやりなどを目標とした教育が行われるようになるのです。
この教育の一つの基本的な形態が読書です。
そして、人間どうしの対話です。
さらに、自分の考えや感情を表現する力です。
このようなトータルな学力を育てていくことが、これからの子育ての目標になっていくのです。
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昔は、本を読んでいる暇があったら勉強しろ、というような価値観が残っていました。
これからは、勉強する暇があったら本を読め、という価値観になっていきます。
それは、入試が目的ではなく、自立が目的になる社会になっていくからです。
子供を見るときには、その子が将来どういう学校に合格できるかという受験的な尺度ではなく、その子が将来どういうふうに社会で活躍するかという仕事的な尺度で見る必要があります。
すると、教育の範囲も自ずから広がっていくのです。
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