勉強のスタイルの違いとして、発表型の勉強と聴講型の勉強とがあります。
これまでの学校における勉強は、ほとんどが椅子に座って先生の話を聞くという聴講型の勉強でした。
聴講型の勉強は、居眠りをする人も出てくるし上の空で聞く人も出てくるので、一般に取り組みの意欲が低いのが特徴です。
この意欲の低さをカバーするために、試験で評価し競争を行うということが行われてきました。
これに対して発表型の勉強は、参加する人が自然に自分の頭脳を活性化させて取り組みます。
しかし問題は、基礎的な学力や勉強に対する意欲が伴わない中で発表型の学習を行うと、焦点の定まらないゆとり教育のような形になってしまうことがあります。
思考発表クラブに参加している子供たちを見ていると、ほとんどの子が積極的に自分の作品を発表し、他の人の発表に対して質問したり感想述べたりしています。
発表している作品の内容を見てみると、どれもかなり長い時間をかけたことがうかがえます。
昔の勉強スタイルになれている人が、この子供たちの時間をかけた準備や発表を見ると、もっと能率よくやることが大事だと考えることもあると思います。
しかし、勉強における能率は、受験のときだけで十分なのです。
受験期でない時期に能率よく勉強をやろうとすると、それはかえって厚みのない学力を育てることになります。
子供の本当の学力を育てるためには、厚み、つまり伸びしろのある勉強をしていくことが大切なのです。
そのために大事なことは三つあります。
第一は、時間の余裕です。
今の子供たちはいろいろな習い事に追われています。
しかし、義務感でやるような時間はなるべく制限して、本人が好きなことに熱中できる時間を確保しておくことが大切です。
第二は、保護者が自主的に主体的に取り組む勉強の大切さを理解していることです。
詰め込み型の勉強に比べると、主体的に取り組む勉強は時間をかなり取られます。
しかしその遠回りの時間が、その子の本当の実力を育てているのです。
第三は、子供の勉強に親が協力的に関わることです。
教育は、子供と保護者が協力して取り組んでいくものです。
こういう協力は、親にとっては負担に感じる場面もあると思います。
しかし、この負担は実のある負担です。あとになれば、必ずこれが価値ある負担だったということが分かるはずです。
だから、小学校時代は親ができるだけ子供の勉強に関わるような形でやっていくことです。
そのときの親の関心は、成績ではなく、勉強の中身に向けていくことなのです。
これからの勉強の理想は、このような高度なゆとり教育になっていくと思います。
こういう発表型の勉強をする一方で、その発表を支える基礎学力を育てるために、家庭で自学自習の勉強スタイルを身につけていくといいのです。
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子供たちが、作文の構想図を書いたり、算数の似た問題を作ったりするときに、そこにカットを描いたり、色を塗り分けたり、俳句を添えたりという余分な工夫をしていることがよくあります。
勉強の能率から考えれば、そういう飾りのようなものは不要だということになります。
しかし、実はそういう余分に思われるものこそ、その子が勉強を楽しんで取り組んでいる証拠なのです。
勉強をノルマのように考える子と、主体的に取り組む遊びと同じように考える子との差は、学年が上がるほど大きくなってきます。
低学年のときに勉強がよくできているのに、学年が上がるとだんだん伸び悩んでくる子がいます。
そういう子に共通しているのは、ノルマ型の勉強をしていることです。
勉強を楽しむのではなく、与えられたことを次々とこなしているだけなのです。
ノルマ型の勉強は、受験のときに割り切ってするものです。
小学校低中学年の間は、勉強に主体的に取り組むという姿勢が大切なのです。
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△那須野が原公園。那須キャンプの下見に行った子供たち
モンテッソーリ教育を特徴づけているものは、教材という方法ではなく、その取り組み方という姿勢の方です。
モンテッソーリ教育は、個性と意欲と集中力をを育てると言われています。
それは、そこで行われている学習方法が、単なる知識の学習ではなく、作業的、主体的な学習として行われるためです。
主体的な学習は、子供たちが、自分の関心のままに集中して取り組みやすいものなので、長時間その学習に熱中することができます。
その意欲の持続という取り組み方が、その子の個性と集中力を育てる教育になっています。
しかし、だからといって原始人がモンテッソーリ教育で優れた能力を育てるようになるかというと、そういうことはありません。
意欲は高いに越したことありませんが、能力や業績として現れるのは、意欲を高さとする三角形の面積だからです。
その三角形の底辺は知識なのです。
ところで、シュタイナーは、この知識を、言葉の上だけで覚えたり理解したりする知識ではなく、本人の実態と世界の実態に直接触れる形での生きた知識として習得することを強調しました。
モンテッソーリ教育も、シュタイナー教育も、教育が人為的な方法で外側の枠組みとして与えられることに対する批判として登場しました。
意欲も知識も、内部から育つものでなければ、その人の人生にとって生きた意欲や知識にならないということをこの二つの教育は示しています。
さて、知識は広がりを持つだけではなく、濃淡を持っています。
その濃淡は、単に個性に委ねられるだけではなく、ある程度共通性のある社会的に重要な知識と軽易な知識とに濃淡を分けることができます。
その重要な知識を反復して身につける教育が寺子屋教育でした。
反復教育を、意欲や実感の教育と反対のものだと考える人がいますが、そうではありません。
知識を底辺とし、上向きの高さである意欲と、同じ知識を上辺とし、下向きの深さである反復の三つの変数が形成する四角形の面積が、人間の能力であり将来の業績になるものです。
業績とは、自己実現と創造と社会貢献のことです。
教育には、この意欲の高さ、知識の実感的広がり、そして重要な知識の血肉化という三つの要素が必要なのです。
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これまでの教育は、受験に合格することに単純化されてきました。
それは、社会が工業生産の拡大という流れに単純化されていたからです。
しかし、教育の本来の目的は学校に入ることではなく仕事をすることです。
将来どういう仕事をして生きていくかという準備と土台作りとして教育があります。
ところが、大人自身がそういうライフプランを描けていないので、とりあえずの合格が教育の目標になっています。
しかし、目標が単純化されればされるほど、教育はノルマのようになっていくのです。
子供たちは、学校で勉強する時間が与えられているので、どの子も同じように勉強しているように見えます。
しかし、義務感で取り組んでいる子と、学ぶ喜びとして取り組んでいる子の差は、実はかなり大きいのです。
時間をかければ、誰でも成績は上がります。大事なのは、成績という結果ではなく取り組み方の姿勢の方です。
しかし、その姿勢は本来、外からの評価にはそぐわないものです。
だから、家庭での勉強観が大事になるのです。
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