作文がとてもよく書ける子のに、なかなか新聞に入選しないという子がいます。
逆に、作文は字の間違いがあったり表記ミスがあったりして、必ずしもうまくはないのに面白い作文を書いて入選するという子がいます。
入選する作文と合格する作文は、性質が違うのです。
そして、もちろん両方できる子もいます。
では、その違いとは何でしょう。
まず、合格する作文からです。
合格する作文というのは、項目がしっかり入れられている作文のことです。
面白いかどうかはほとんど関係がありません。
内容に個性や感動があれば、印象点はよくなりますが、それは合格の決定的な要素ではありません。
構成がしっかりしていて、語彙が豊富で、論旨が一貫していて、実例の幅の広がりがあり、そして時間内に必要な字数まで書く力があれば、それが合格する作文を書く力です。
森リンの評価は、この合格する作文を基準にしていますから、語彙の多様性、思考の深さ、知識の豊富さなどを総合して評価しています。
作文検定の評価も、合格する作文が基準です。
評価の対象は、字数、時間、構成、題材、表現、主題、表記の各項目なのです。
これに対して入選する作文は、誤字や表記ミスがあればもちろんマイナスにはなります。 しかし、そういう表記の評価よりももっと重要なのは、内容の面白さに対する評価です。
内容の面白さとは、個性があること、挑戦があること、感動があること、共感があることです。
この個性・挑戦・感動・共感の評価を、言葉の森では内容点の評価として行なっています。
ですから、項目で全部◎がつくということも、作文の勉強の一つの目標になりますが、それと同時に内容でよい作文を書くこということも、もう一つの目標になります。
そして、入選を目指して新聞に投稿するのは、もちろんこの内容のよい作文の方です。
決して項目や字数がきちんと書けている作文ということではありません。
では、この内容のよい作文を書くにはどうしたらよいでしょうか。
実は、内容のよさの基本は偶然なのです。
だから、誰でも年に何回かは傑作を書く機会があるのです。
項目の合格は努力次第でできますが、内容のよさは、偶然に本人がいい内容の出来事に遭遇していなければできません。
しかし、小さな出来事であっても、表現の力でよりよい内容に書き上げることはできます。
その力とは、自分の経験や考えを感動を持って書く力のことです。
人間の感動は、持って生まれたものだけではありません。
その人がそれまでに読んだ文章の表現や映像の表現に沿って感動したり共感したりする面があります。
子供時代に感動や共感のある本を読みその表現が身についていれば、自分の経験を文章に書くときにも、自然に感動や共感のある表現をすることができます
内容の面白さを表現する力は、それまでに読んだ本の面白さを感じた度合いに比例しているのです。
ときどき、勉強のよくできる子の中に、真面目な、誰からも薦められる名作と言われるような本を、薬を飲むように毎日十数ページずつ読んでいる子がいます。
タイトルに、「○年生で読む名作の本」などと書いてあるような本です。
そういう本は、もちろんそれなりにいい話が載っていますが、子供が熱中して止まらなくなるような読み方をする本ではありません。
そのような本の読み方では、本を読んで感動するという経験はなかなかできません。
読み始めたら途中で止められずに一気に読みたくなるような本を読むことが、読書の感動を育てる道です。
本を読んで感動した子は、感動や共感を表現する書き方を自然に身につけます。
だから、作文を書くときも、内容のよさは偶然に左右されるのが基本とはいっても、読む人に感動や共感を与えるような書き方で書くことができるようになるのです。
読書には二つの面が必要です。
第一は、難しい説明的な文章を繰り返し読むことです。
第二は、面白い楽しい本をたくさん読むことです。
学力はあるのに、入選するような作文がなかなか書けないという人は、これから感動のできる熱中して読める本をたくさん読んでいくことをお勧めしたいと思います。
もうひとつ付け加えると、文章表現は、その子の全人間的なところから出てきますから、読書以外の環境、家庭や学校や地域の文化環境も大切です。
家庭で、ものごとの明るい面、前向きな面を見る雰囲気があれば、それは文章にも自然に反映してきます。
こういう文化環境は、すぐにはできませんから、長い目で育てていく必要があります。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
入選する作文と合格する作文は性格が違います。
しかし、書く人の多くはこのことを知りません。
時には、評価する人もこのことをよく知らずに評価していることがあります。
合格する作文は、中身が味気なくても項目がしっかりできていればいいのです。
入選する作文は、項目などできていなくてもいいから、何しろ感動できる内容が入っていることが大事なのです。
「○分で読める名作」とか、「親子で読む○○」とか、「○年生で読みたいお話」などの本がありますが、こういう本は、読書習慣をつける導入にはならないと思います。
「10分で読める」などといっても、10分で読み終えるほどの短い話だったら、感動したり余韻を味わったりする暇はありません。
子供に読書習慣をつける熱中できる本は、こういう本ではないのです。
もちろん、「10分で読める○○」という本も、知識として内容を整理するのには役立ちます。
だから、こういう本を読んでももちろんいいのですが、読書の中心はあくまでも本人が熱中できる本です。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文の書き方(108)
保護者懇談会で保護者の方から、メモを取るのに使いやすい筆記用具があるでしょうかという質問を受けました。
速記者などは0.9mmの太い芯のシャーペンを使っているので、そういう軟らかい軽い筆記具がいいとは思うのですが、私の答えは、「自分の好みのものならどれでもいいです」でした。
同じように、よく参考書や問題集や辞書で、どういものがいいでしょうかと聞かれることがあります。
これに対しては、いろいろな考えがあると思いますが、私の場合は、「手触りや見た感じで自分の気に入ったものがいちばんよい」という単純なものです。
その理由は第一に、出版されて何度か改訂されているものは、その価値が大体同じだからです。
第二に、参考書や問題集や辞書の目的は、日常的に繰り返し使うことだからです。
だから、持ち運びしやすい、軽い、薄い、手頃な大きさ、見た目がいいなどということが大事になってくるのです。
つまり、デザインが自分の好みに合っているということが最も重要な基準なのです。
これは、車選び、スマホ選び、衣服選びなどと同じです。
大事なことは、使いたくなるものを使うということです。
話は少しはずれますが、これに関連して、高価な食器などを購入した場合、それを大事にしまっておくのはもったいないと思います。
普段いつでも目に触れるように、日常の中で使うことがその価値を生かすことになります。
豊かかな生活とは、たくさん持っていることではなく、少しのものをたくさん使うことなのです。
※しかし、消しゴムだけは見た目ではなく機能性で選ぶ方がいいです(笑)。
見た目のかわいい消しゴムで、全然消せないものが多いからです。
それから、もうひとつ、問題集選びは解答ができるだけ詳しいものがを基準にするといいと思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
高校3年生で、「合格した先輩から参考書と問題集を譲ってもらった」と言っていた子がいました。
それも、いいとは思いますが、やはり1年間使う参考書や問題集は、自分の好みのものを選ぶ方がいいです。
高2の終わりの春休みに、丸一日使って、書店かアマゾンで参考書と問題集選びをするのです。
その日の出費は大事な投資ですから、いいと思うものはすべて購入し、その後実際に使ってみてからその中の1種類に絞り1年間繰り返し5回以上使うのです。
この場合も大事なのは、人の意見ではなく自分の好みです。
消しゴムは、軽く消せて、消しカスが散らばらない「ぺんてる アイン消しゴム まとまるタイプ」がおすすめです。
教室で作文を書いている子で、作文を書いたあとの消しゴムのカスを集めてティッシュに包みゴミ箱に捨てて帰る子がいます。
一方、机を消しゴムのカスだらけにして、イスもしまわずに帰ろうとして、あとで机の中を見ると忘れ物があったという子もいます。
子供たちは、みんなそれぞれ個性があります。(個性か。)
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。勉強の仕方(119)
思考発表クラブでは、授業の初めに読書紹介をしています。
最初は、勉強に入る前のウォーミングアップのつもりではじめました。
しかし、みんなが次々と自分の読んでる本を紹介するので、それだけでかなり時間を取るようになりました。
これがなかなか面白いのです。
本好きな子が多く、その子たちがそれぞれ自分の読んでいる本を紹介します。
すると、それを聞いていた子が、その本に関心を持ち自分でも読んでみたくなります。
よく、「先週、○○君が読んでいた本を、私も図書館で借りて読みました」などという話が出てきます。
そういう良い循環が生まれています。
子供は、親や先生の奨めた本よりも、友達の読んでいる本に関心を持ちます。
特に、中学年、高学年はそうです。
読書好きな子は、どの学校にもいます。
しかし、学校生活の中で本好きな子供どうしが、読んだ方を紹介するというような機会はまずありません。
本の好きな子供たちにとって、思考発表クラブは、読書の幅を広げるよい刺激になっているようです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
読書に熱中できるというのは、大人にとっても子供にとっても生活に余裕があるからです。
仕事や勉強に追われる生活からは、創造的なことは生まれません。
特に子供時代は、読書に没頭できる時間があることが何よりも大切だと思います。
子供たちの話し合いの中で驚くのは、どの子もほかの人たちへの思いやりを持って話していることです。
小さな子に配慮して話すようなことが自然に行われています。
何か、自分たちが子供のころと随分違うなあと思います。
昔の子供は、道端で猫を見つけると必ず石をぶつけていましたが(笑)、今の子供はそういうことはまずしません。
たぶん、人間性が進歩しているのだと思います。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。発表学習クラス(0) 読書(95)
勉強のスタイルの違いとして、発表型の勉強と聴講型の勉強とがあります。
これまでの学校における勉強は、ほとんどが椅子に座って先生の話を聞くという聴講型の勉強でした。
聴講型の勉強は、居眠りをする人も出てくるし上の空で聞く人も出てくるので、一般に取り組みの意欲が低いのが特徴です。
この意欲の低さをカバーするために、試験で評価し競争を行うということが行われてきました。
これに対して発表型の勉強は、参加する人が自然に自分の頭脳を活性化させて取り組みます。
しかし問題は、基礎的な学力や勉強に対する意欲が伴わない中で発表型の学習を行うと、焦点の定まらないゆとり教育のような形になってしまうことがあります。
思考発表クラブに参加している子供たちを見ていると、ほとんどの子が積極的に自分の作品を発表し、他の人の発表に対して質問したり感想述べたりしています。
発表している作品の内容を見てみると、どれもかなり長い時間をかけたことがうかがえます。
昔の勉強スタイルになれている人が、この子供たちの時間をかけた準備や発表を見ると、もっと能率よくやることが大事だと考えることもあると思います。
しかし、勉強における能率は、受験のときだけで十分なのです。
受験期でない時期に能率よく勉強をやろうとすると、それはかえって厚みのない学力を育てることになります。
子供の本当の学力を育てるためには、厚み、つまり伸びしろのある勉強をしていくことが大切なのです。
そのために大事なことは三つあります。
第一は、時間の余裕です。
今の子供たちはいろいろな習い事に追われています。
しかし、義務感でやるような時間はなるべく制限して、本人が好きなことに熱中できる時間を確保しておくことが大切です。
第二は、保護者が自主的に主体的に取り組む勉強の大切さを理解していることです。
詰め込み型の勉強に比べると、主体的に取り組む勉強は時間をかなり取られます。
しかしその遠回りの時間が、その子の本当の実力を育てているのです。
第三は、子供の勉強に親が協力的に関わることです。
教育は、子供と保護者が協力して取り組んでいくものです。
こういう協力は、親にとっては負担に感じる場面もあると思います。
しかし、この負担は実のある負担です。あとになれば、必ずこれが価値ある負担だったということが分かるはずです。
だから、小学校時代は親ができるだけ子供の勉強に関わるような形でやっていくことです。
そのときの親の関心は、成績ではなく、勉強の中身に向けていくことなのです。
これからの勉強の理想は、このような高度なゆとり教育になっていくと思います。
こういう発表型の勉強をする一方で、その発表を支える基礎学力を育てるために、家庭で自学自習の勉強スタイルを身につけていくといいのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
子供たちが、作文の構想図を書いたり、算数の似た問題を作ったりするときに、そこにカットを描いたり、色を塗り分けたり、俳句を添えたりという余分な工夫をしていることがよくあります。
勉強の能率から考えれば、そういう飾りのようなものは不要だということになります。
しかし、実はそういう余分に思われるものこそ、その子が勉強を楽しんで取り組んでいる証拠なのです。
勉強をノルマのように考える子と、主体的に取り組む遊びと同じように考える子との差は、学年が上がるほど大きくなってきます。
低学年のときに勉強がよくできているのに、学年が上がるとだんだん伸び悩んでくる子がいます。
そういう子に共通しているのは、ノルマ型の勉強をしていることです。
勉強を楽しむのではなく、与えられたことを次々とこなしているだけなのです。
ノルマ型の勉強は、受験のときに割り切ってするものです。
小学校低中学年の間は、勉強に主体的に取り組むという姿勢が大切なのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。発表学習クラス(0)
△那須野が原公園。那須キャンプの下見に行った子供たち
モンテッソーリ教育を特徴づけているものは、教材という方法ではなく、その取り組み方という姿勢の方です。
モンテッソーリ教育は、個性と意欲と集中力をを育てると言われています。
それは、そこで行われている学習方法が、単なる知識の学習ではなく、作業的、主体的な学習として行われるためです。
主体的な学習は、子供たちが、自分の関心のままに集中して取り組みやすいものなので、長時間その学習に熱中することができます。
その意欲の持続という取り組み方が、その子の個性と集中力を育てる教育になっています。
しかし、だからといって原始人がモンテッソーリ教育で優れた能力を育てるようになるかというと、そういうことはありません。
意欲は高いに越したことありませんが、能力や業績として現れるのは、意欲を高さとする三角形の面積だからです。
その三角形の底辺は知識なのです。
ところで、シュタイナーは、この知識を、言葉の上だけで覚えたり理解したりする知識ではなく、本人の実態と世界の実態に直接触れる形での生きた知識として習得することを強調しました。
モンテッソーリ教育も、シュタイナー教育も、教育が人為的な方法で外側の枠組みとして与えられることに対する批判として登場しました。
意欲も知識も、内部から育つものでなければ、その人の人生にとって生きた意欲や知識にならないということをこの二つの教育は示しています。
さて、知識は広がりを持つだけではなく、濃淡を持っています。
その濃淡は、単に個性に委ねられるだけではなく、ある程度共通性のある社会的に重要な知識と軽易な知識とに濃淡を分けることができます。
その重要な知識を反復して身につける教育が寺子屋教育でした。
反復教育を、意欲や実感の教育と反対のものだと考える人がいますが、そうではありません。
知識を底辺とし、上向きの高さである意欲と、同じ知識を上辺とし、下向きの深さである反復の三つの変数が形成する四角形の面積が、人間の能力であり将来の業績になるものです。
業績とは、自己実現と創造と社会貢献のことです。
教育には、この意欲の高さ、知識の実感的広がり、そして重要な知識の血肉化という三つの要素が必要なのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
これまでの教育は、受験に合格することに単純化されてきました。
それは、社会が工業生産の拡大という流れに単純化されていたからです。
しかし、教育の本来の目的は学校に入ることではなく仕事をすることです。
将来どういう仕事をして生きていくかという準備と土台作りとして教育があります。
ところが、大人自身がそういうライフプランを描けていないので、とりあえずの合格が教育の目標になっています。
しかし、目標が単純化されればされるほど、教育はノルマのようになっていくのです。
子供たちは、学校で勉強する時間が与えられているので、どの子も同じように勉強しているように見えます。
しかし、義務感で取り組んでいる子と、学ぶ喜びとして取り組んでいる子の差は、実はかなり大きいのです。
時間をかければ、誰でも成績は上がります。大事なのは、成績という結果ではなく取り組み方の姿勢の方です。
しかし、その姿勢は本来、外からの評価にはそぐわないものです。
だから、家庭での勉強観が大事になるのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
これまでは社会全体が上げ潮の時代でした。
それは、高度経済成長時代に見られるように必需品の生産が不足していた時代だったからです。
しかし現在、必需品は、先進国ではほぼ満たされるようになっています。
すると、これからの消費は、より文化的な消費になると考えられます。
文化的な消費とは、自分らしく生きたいという気持ちから生まれる消費です。
すると、今後大事になるのは、上げ潮の時代の価値観ではなく引き潮の時代の価値観に対応することです。
上げ潮の時代は、シェアを拡大できる大きな組織に入ることが人生設計の重要な目標になっていました。
「入ること」、つまり入試が、人生の大きな目的になっていたのです。
そのため、入試の限定された能力評価に特化した教育が行われてきました。
これが受験教育です。
例えば、個性的に考える力よりも、マニュアルを覚えて使う力が重視されました。
この記憶力中心の教育が、現在末期状態に陥っていると考えられます。
さて、引き潮の時代は、自分らしい個性を活かして、自分で仕事をすることが中心になる時代です。
引き潮の時代の社会における消費者は、必ずしも一般大衆ではありません。
だから、マーケットの規模は、次第に問題ではなくなってきます。
引き潮の文化の時代の消費者は、不特定多数の人間ではなく、同じような志向を持つ生産者でありかつ消費者であるような人間です。
そこでは、生産と消費のコミュニティが生まれる中で、経済が回って行くと考えられます。
教え合い学び合う関係の中で、生産と消費が循環していくのです。
このような、多くの人が自立する仕事に従事する時代に対応する教育はどういうものでしょうか。
これが、これから必要とされる全面的な教育です。
受験的な知識の勉強は、もちろんある程度は残ります。
しかし、それとともに個性、情熱、勇気、思いやりなどを目標とした教育が行われるようになるのです。
この教育の一つの基本的な形態が読書です。
そして、人間どうしの対話です。
さらに、自分の考えや感情を表現する力です。
このようなトータルな学力を育てていくことが、これからの子育ての目標になっていくのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
昔は、本を読んでいる暇があったら勉強しろ、というような価値観が残っていました。
これからは、勉強する暇があったら本を読め、という価値観になっていきます。
それは、入試が目的ではなく、自立が目的になる社会になっていくからです。
子供を見るときには、その子が将来どういう学校に合格できるかという受験的な尺度ではなく、その子が将来どういうふうに社会で活躍するかという仕事的な尺度で見る必要があります。
すると、教育の範囲も自ずから広がっていくのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。子育て(117) 教育論文化論(255)
小学校4年生から始めて現在中学3年生になっている生徒のお母さんから相談がありました。
「作文力がついたし、考える力もついている。とてもよく頑張っていると思うし、言葉の森の先生にもいつも褒められる。しかし、その割に国語の成績がいまひとつのように思う。」
ということでした。
こういう相談は、実はよくあります。そして、それは全然心配ないのです。
あるやり方を説明すれば、文字どおりあっという間に国語の成績は上がるからです。
では、なぜそういう勉強を普段からしないかというと、国語の成績を上げるような勉強は、すぐにできるし、勉強自体がつまらないものだからです。
だから、入試を目前にして、真剣に国語の成績を上げたいと本人が思ったときに、そのやり方を教えるようにしているのです。
そうでないと、ただ説明を聞くだけで、なるほどと納得したような気がして、結局何もしない子がほとんどだからです。
大事なのは国語の実力で行って、成績はその最後の仕上げにすぎません。
では、国語の実力があるはずだと思われるのになぜ国語の成績がそれほど良くないのかと言うと、その原因は国語の問題を理詰めで解くのではなく感覚で解いているからです。
理詰めの解き方を身につける方法は、国語のテストで100点を取ることを目指すことです。
ほとんどの生徒は、国語のテストが返却されたときに、「80点だったからまあいいや」などという考え方をします。
そうではなく、必ず100点満点を取るという気持ちで、間違えた問題を徹底して見直すようにすれば、そこから国語の成績は上昇していくのです。
国語のテストというのは、単なる国語の問題ではありません。
つまり、ちゃんと読めているかどうか確かめる問題なのではなく、普通に読めている子をいかに間違わせて差をつけるかという目的の問題なのです(笑)。
そのために、読みにくい文章を読ませ、素直な読み手の裏をかくような問題を作るのです。
だから、国語の成績を上げるためには、裏をかかれないようにすればいいだけです。
ところが、こういう勉強は面白くも何ともありません。
だから、普段の勉強はもっと面白い勉強、つまり、本を読んで、よく考えて、自分なりに書くという中身のある勉強をしていくのがいいのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
国語の入試問題というのは、大体いじわるにできています。
だから、入試問題の勉強をしていると、だんだん作文が下手になります(笑)。
例えば、「前者は……で、後者は……である」というような文です。
口頭での会話で、「前者は……」などという言い方をする人はまずいません。
いい文章というのは、わかりやすい文章のことです。
だから、国語の成績を上げるための勉強は、入試直前にやればよく、それで十分に間に合うのです。
受験直前でもなければ、国語の成績を上げる必要など全くありません。
読む力さえつけておけば、国語の成績はすぐに上がるからです。
では、読む力とは何かと言えば、それは、難しい本でも易しい本でも同じように楽しく読める力なのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。国語問題(15) 国語力読解力(155)
成績は目に見えるものなので、ついそこに関心が向きがちです。
成績の根底にある学力は、目に見えないので後回しにされがちです。
しかし、成績はその気になって取り組めばすぐに上がります。
私の実感では、高校入試で3か月、大学入試でも6ヶ月あれば見違えるほど成績は上がるのです。
では、その学力のもとになるものは何かと言うと、第一は理解力です。第二は、その理解を定着させる記憶力です。
理解力は、難しい文章を読んだり聞いたりすることによって育ちます。
記憶力は、長い文章を音読や暗唱で覚えることによって育ちます。
だから、読書と対話と音読と暗唱と、それらを統合する勉強としての作文が学力を育てる基本なのです。
理解力と記憶力は、成績には直接表れませんが、身近に接していると自ずからわかります。
もし子供が、読むことも、覚えることも、書くこともさして苦にならないというのであれば、その子の学力は十分に育っています。
そして、これらの勉強のほとんどは、家庭での自学自習でカバーできるのです。
▽参考記事
「家庭での自習のコツ」
https://www.mori7.com/index.php?e=2104
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
低学年ですごく成績がいい子というのは、実はあまり伸びないことが多いのです。
それは、目に見える勉強に時間をかけているために、読書や対話や作文や遊びがほどほどになっているからです。
小学生のうちは、むしろ勉強の方をほどほどにして、ほかに熱中するものをさせておく方が、本当の学力が育つのです。
勉強しすぎると頭が悪くなる、というのは本当です。
では、勉強しないと頭がよくなるかというと、もちろんそうではありません(笑)。
勉強の目的が大学入試ぐらいまでであれば、成績がいいだけでもある程度通用しますが、その後の仕事の生活のことまで考えれば、大事なのは成績ではなく本当の学力の方なのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。家庭学習(92)