結論から言うと、どちらも大切です。
と、それで終わってはあまりにもあっけないので、以下その説明です。
人間がその人生で遭遇するさまざまな問題の多くは、先人も同じように遭遇した問題です。
だから、既にいろいろな形で答えが出されています。
「車輪を新しく発明し直す必要はない」という言葉があるように、自分の問題だからといって、自分が独自に答えを考える必要はないのです。
既に用意されているよりよいものをすばやく見つけそれを利用する力が、答えを見つける力です。
この力を育てるために、学校教育では、答えのある問題を用意しているのです。
しかし、世の中にあるさまざまな問題は、歴史の進展によって新たに生まれた問題であることが多いものです。
例えば、イエス・キリストや、釈迦や、聖徳太子の時代には、現在の人類が直面している核兵器や環境汚染の問題はありませんでした。
だから、これらの問題は、現代人が過去の文献から答えを見つけようとしても見つかりません。
それどころか、その問題が問題と意識されるまでは、問題自体も見つかっていないのです。
こういうことが、個人の人生にもあてはまります。
例えば、政治家、経営者、最先端の科学者などは、自分の人生と社会の現実が結びついています。自分が社会に働きかけ、社会の変化が自分の生活に反映するという生活を送っています。
こういうときは、答えを見つけるよりも、答えを自分で作り出すか、あるいは問題そのものを自分で作り出すかしなければならないのです。
答えを見つける勉強に慣れていると、問題を見つけることを忘れてしまいます。
今の受験を目的とした教育は、答えを見つける勉強に過度に適応させるようにできています。
過去の事例を見つけることは得意だが、新しい問題を提起することは苦手だという人は、時代の変革期にはかえって社会の進歩を遅らせることもあります。
「学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」という言葉は、答えを見つける力と、問題を見つける力の両方が大事だということを表しています。
これを現代の言葉で言い換えると、基礎の学力は自学自習で確実に身につけ、思考力、表現力、創造力はそれとは別に他者との関わりの中でじっくりと育てていくということになるのです。
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「これからの勉強は、答えを見つける勉強ではなく、問題を見つける勉強になる」というのは、基礎学力がある人が言えばそのとおりです。
しかし、基礎学力がないまま、そういう方向に進むと、かつてのゆとり教育のマイナス面が出てしまうのだと思います。
答えを見つける力と問題を見つける力は、右足と左足のようなもので、これまでは答えを見つける足の方ばかり鍛えてきたということなのです。
自分で何かを新しく作るのは苦手だが、既にあるものを的確に評価するのは得意だという人がいます。
その反対に、評価は苦手だが、新しいものを作るのは得意だという人がいます。
紺屋の白袴というのは、どちらというと後者。
だから、優れた生産者がいればいいというのではなく、優れた消費者がいることもまた大切なのです。
ということが、最近わかってきました。
問題を作る人も、答えを見つける人も、どちらも必要なのです。
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先日、人生百年時代に関する記事を書きました。
人間が普通に100歳まで生きるような社会になると、既に破綻しかけている年金制度は確実に破綻します(笑)。(笑い事ではありませんが)
定年は、今の60歳や65歳ではなく、80歳や90歳にしなければなりません。
そのときに、その人の行っている仕事がITの分野だったらどうなるでしょう。
IT技術の進歩に応じて、新しい知識や技能を毎年のように身につけなければなりません。
若いときに苦労して身につけた技術が陳腐化して、全く役に立たなくなるという場合もあるでしょう。
技術進歩の早い分野の仕事は、若い人が担うもので、ある程度の年齢になったら、技術の進歩に影響される仕事からは少しずつ手を引いていくのがいいのです。
では、技術の進歩が遅い仕事、あるいはない仕事というのはあるのでしょうか。
それがあるのです。
その典型的な分野が教育や芸術や宗教です。
しかも、それらの分野は、技術の進歩に無理してついていく必要がないばかりでなく、その仕事に携わる年数に応じて日々習熟していくのです。
特に教育の分野については、経験年数の効果は大きくなります。
子育ては、一人目が最も苦労しますが、二人目はかなり楽になります。三人目、四人目、五人目、六人目となれば(おそ松くんの一家のようですが)、最後の六人目の子供は目をつぶっていてもうまく子育てができるようになるでしょう。
そして、この経験年数の効果とともに大きいのが、教育の仕事は自分をふりかえることで進歩するという面があることです。
人が20代のころに、「小さいとき、もっとああいうことをしていればよかった」と思うことと、その人が40代のころに思うことと、60代のころに思うことは、かなり違ってきます。
貝原益軒は、「和俗童子訓」という教育論を80代で書きました。
ルソーは、「エミール」を40代で書きました。
どちらの教育論があてになるかといえば、80代の知恵で裏打ちされたものの方だと思う人が多いでしょう。(ルソーファンのみなさん、ごめんなさい(笑))
教育の仕事の進歩は、タブレット授業の仕方やデジタル黒板の使い方を身につけるようなところでなされるのではありません。
自分の過去をふりかえり、それを今いる子供たちに重ね合わせることによってなされるのです。
年をとって、経験年数を重ねるほど技術が進歩していくというのが、教育の仕事の特徴です。
それは、芸術や宗教にもあてはまりますが、世の中に新しい価値を創造する力は主に教育が担っています。
これからの長寿社会の進展を考えた場合、教育の仕事というのは、最も可能性のある仕事の分野になるのです。
しかし、それはもちろん、今の受験教育のような教育ではありません。
受験教育と少子化の進展という面から見れば、教育は先行きの展望のない仕事のように見えます。
しかし、創造教育という面から見れば、少子化はむしろ充実した教育の土台であり、新しい未来の仕事の可能性を最も持っている分野だと言えるのです。
言葉の森では、今、森林プロジェクトによる作文講師資格講座を開いています。
これは、作文教育を中心に、自主学習教育、思考発表教育、自然合宿教育などをオンラインネットワークを利用しながら進めていくものです。
オンラインを利用した教育と言っても、特に難しい技術的な習得が必要なわけではありません。
スマホやSNSに慣れるように、オンラインに慣れることで身につくものです。
人生百年時代の長寿社会に向けて、未来の仕事を、新しい教育の分野で作っていきましょう。
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人生百年時代に最も有望な仕事は、教育の分野の仕事です。
少子化が問題になるのは、子供を量の面からしか見ていないからです。
創造教育の面から考えれば、大事なのは量ではなく質なのです。
芸術家、宗教家、教育者の中には、百歳近くになってもいい仕事をしている人がいます。
これが、プロレスラーや、百メートル走者や、IT技術者などと違うところです。
これからの時代は、若いときにできる仕事と、年をとってからこそできる仕事の二つのわらじを履いていく必要があるのです。(宗教家は仕事ではないかもしれませんが(笑))
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