最近、音読や暗唱という勉強法を取り入れるところが増えてきました。
言葉の森の音読・暗唱という自習方法は、貝原益軒の和俗童子訓の現代的解釈に基づいて、言葉の森が独自に考案したものです。
その特徴は、現代語の文章を暗唱できるぐらい反復して音読するという方法です。よく寿限無(じゅげむ)でも何でもいいから何しろ音読することが頭をよくするという人がいます。それはそれでかまいませんが、言葉の森の考えている音読は、自分が文章を書く際に生かせるような文章の音読です。
また、教科書の音読を宿題にする学校も増えていますが、ただ音読するだけでなく、暗唱できるぐらい反復して音読することが大切です。
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[:音符:] 受験のための勉強から、勉強そのものの面白さへ [:音符:]
今後、長期的に見ると、受験戦争は次第に緩和され、子供たちの勉強時間は年々少なくなることが予想されています。既に、高校入試では全入の体制が作られており、その入試も公立高受験の場合は内申点でほぼ決まるので、中学生は熱心に勉強をする動機を持ちにくくなっています。また私立の中高一貫校でも、中高一貫の中だるみ現象がマイナス面として出ています。
高校入試の緩和と同じことが今、大学入試でも起きつつあります。大学も既に、希望者全入に近い状態になっているので、受験生の学力は年々低下しています。これは、将来、日本文化の危機と言われるほどのものになると思われます。分数計算のできない経済学部の学生がいま問題になっていますが、これと同じようなことが例えば、社説も読めない大学生などというかたちで生まれてくると思います。既に、新聞の少し硬い文化欄になると、もう読みきれないという大学生は多数いるはずです。
日本の子供たちの勉強時間は、他のアジア諸国の子供たちの勉強時間に比べてどんどん減っています。日本で受験勉強が過熱のように見えるのは、受験期間の間だけです。
日本の社会全体に勉強を軽視する風潮が生まれつつあります。この中で、子供たちに、受験のためだけでない自分自身の向上のための全面的で創造的な勉強を提供していくことがこれからの大人の役割になってくると思われます。
この全面的で創造的な勉強を、作文を書くというかたちでまとめていくことが言葉の森の作文指導の目標です。そして、この作文の勉強を、小中高の間だけの勉強にとどまらず生涯続けられる勉強として位置づけていきたいと思っています。
子供たちが作文の勉強に熱心に取り組むようになるためには、作文の勉強全体がひとつのストーリーを持っていて、子供たちがゲームをするような喜びを持って主体的に勉強を進めていけるような仕組みを作っていくことが必要です。
勉強でもスポーツでもゲームでも、おもしろさの本質は共通です。いろいろな知識や技術を自分の創意工夫で組み合わせて困難な課題を克服して前進する、というのがおもしろさの中身です。ゲームでは、この前進のストーリーが既にプログラムされているので、創意工夫の余地は限定されています。しかし、勉強については、この創意工夫の余地が幅広くあります。更に作文の勉強は、文章を創造するという点で、ストーリーそのものを新たに作る自由度もあります。
日本には、万葉集などに見られるように、短歌や俳句が大衆的な文化として普及しているという伝統がありました。この伝統の上に、600〜1200字の作文の文化を新たに作っていくというのが、作文の生涯学習のイメージです。その生涯学習にいたる前の小中高時代は、作文の勉強がゲームのようにおもしろく、しかも読解力や国語力も身につく、というかたちの教室を作っていきたいと思います。
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自動車の免許を取るために教習所に通った人にはだれでも経験があると思いますが、教習所の先生の多くはよく怒ります。これはなぜかと言うと、自分が簡単にできることを、懇切丁寧に説明するのはストレスのたまることだからです。
同じことが、家庭で子供の勉強を見る際にも言えます。親が子供の勉強を見るときに、よくしてしまいがちなあまりよくないやり方が二つあります。
第一は、説明しすぎることです。勉強の本質は、本人が自分で考えて理解して蓄積することです。しかし、大人はつい、教えることによって勉強をさせているような気持ちになってしまいます。くわしい説明自体は悪いことではありませんが、くわしい説明をしているとその反動でまず親がくたびれます。次に聞いている子供がくたびれてきます。勉強は、簡単に説明して早めに切り上げて、翌日また反復するというやり方で、何度も軽く反復することが理解を定着させるために必要なのですが、一般にどの親も、その日のうちにたっぷり説明をして一回で定着させようと重すぎる説明をしてしまうのです。
第二の、弱点は、第一の「説明しすぎる」とセットになっていますが、すぐ叱ってしまうことです。自分が自動車教習所で教わったときを思い出してみるといいと思いますが、カーブでは溝に落ちる、縦列駐車はうまく入らない、ブレーキを踏めばガクンと止まるなど、今では無意識にじょうずにできることが当時は全然できなかったはずです。どうしてできるようになったかと言うと、何度も繰り返し練習したからです。子供の勉強も同じです。一を教えて十を知るような子供はどこにもいません。すべての子は、十を教えて一を知るようなのんびりとした歩みで勉強を身につけていきます。
このように書いている私も、自分の子供の場合、何度か教えてもうすっかりわかったと思っていることを聞かれると、つい怒りたくなってきます(笑)。ただ、私はそのあたりの事情がわかるので、意志の力で、心を神様にして(鬼にして、の反対ね)、「うん? なになに。これは昨日教えたばかりだけど、難しいからなあ。さて、じゃあ、もう一回説明するよ」と、昨日と同じことを同じように説明します。そして、できるだけくどく説明しないようにして切り上げます。
不思議なことに、同じことを五回も六回も繰り返すと、子供は教えられているという意識なしに自然に理解をしていきます。これをもし一回で五、六倍の時間をかけて教えようとすると、同じ理解をするのに、親も苛立ち子供も嫌がり互いに大きな摩擦を味わわなければなりません。そして、その摩擦の原因を、親は「子供が本気で理解しようとしないからだ」と思い、子供は「親の教え方が悪いからだ」と思いますから、やがて親子で勉強することはだんだん難しくなってきます。
しかも問題は、こういうやり方がよくないということに、子供が低学年のときは、親も子供も気がつかないことです。子供が素直に言うことを聞く低中学年の場合、親はつい無理に教えたり、できないとすぐに叱ったりしてしまいます。低中学年のうちはそれでも通用していますが、高学年になると次第に親から勉強を教わることを嫌がるようになってきます。子どもが低学年のうちから、優しく軽く反復するような勉強法を心がけていってください。
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さて、今考えている国語の新しい勉強法は、名づけて「読解マラソン」です。何か、アルクでもやっていそうな名前ですが。(笑)
国語力のある子は、よく本を読んでいます。しかし、国語力のない子に、今から本を読んで国語力をつけようというのは、話が悠長すぎます。国語力は生活の中から出てくるものなので、今まで本をあまり読まない生活をしていた子が本を読むような生活になるのは、遅起きの子が早起きに変身するのと同じぐらい不可能です。
この遅寝遅起きを早寝早起きに、自分の意志で変えることのできる人はまずいません。たいてい、学校や職場が遠くなったのでやむを得ず早起きになったという程度です。それぐらい、生活パターンというものは変えるのが難しいのです。
私自身、自分がもっと早起きになりたいと思い、あるとき思い切って新聞配達をすることにしました。仕事ですから、寒くても雨が降っても決まった時間に起きなければなりません。さすがに冬の朝3時に起きて自転車で新聞販売店まで行くのは苦痛でした。途中、自販機で熱い缶コーヒーを買って飲むと、ちょっと元気が出ました。そのときに見上げた冬の空に月と星がこうこうと光っていました。私はそのとき、国旗によく月や星がデザインされている理由がよくわかりました。あの月や星は、人間の決意の象徴なのだと思います。
さて、最初は苦痛だった新聞配達もやがて慣れてくると全く平気になり、ほぼ半年で早起きの習慣ができました。その後、今でも早起きです。今日は夜中の12時半ごろ起きました。(笑)
さて、脱線を元に戻して。(^^ゞ生活習慣を変えるのは、これぐらい難しいという話でした。つまり、これまで本を読まなかった子が何かのきっかけで本をよく読むようになるというケースは、きわめて稀だということです。よほど強力なきっかけか、3ヶ月から6ヶ月にわたる継続的な働きかけがなければ、本を読むようにはなりません。私の実感として、何かが身につくのはやはり半年ぐらいの期間が必要だと思います。
読解マラソンには、市販の国語問題集を用意します。普通の本でもいいのですが、よく売れている本は、物語文のジャンルが多く、中には面白いことは面白いが密度が薄いというものもあります。そういう本は、短い会話と短い文で話が展開していくことが多いので、文章の質としてはマンガと同じです。同様の理由で、学習マンガも、文章の質としては物足りないものが多いと思います。
国語問題集であれば、物語文と説明文が比較的バランスよく配置されています。そして、これは私の経験からですが、問題集は読み物としても意外と面白いのです。
勉強で大事なのは反復ですから、問題集をまず毎日何ページ以上と決めて読んでいきます。そして、最後まで読み終えたら、また最初から読み始めます。目標は1冊の問題集を4〜5回繰り返して読むことです。こう書くと簡単そうですが、これはなかなか実行できません。人間は、同じことには飽きるようにできているからです。特に小さい子供は同じことを繰り返すということにはすぐ飽きます。それでマラソンと言うのです。
昔、ランニングマシーンというものがありました(今でもあるか)。雨の日でも室内で走れるので便利なようですが、周りの景色が変わるわけではないので、すぐに飽きてしまいます。勉強も同じです。周りの景色が変化したり、友達も一緒に走ったりしていることがわかれば、続けにくいものも何とか続けられるようになります。
周りの景色に相当するものが、この場合はやはり国語の成績です。読解マラソンを始める前に、その問題集のあるページを時間内に解きます。そして、その問題集を何回か繰り返して読むたびに、別のページの問題も解きます。何人もで取り組むので、自然に平均正解率というものができますから、自分がどれだけ読む力が進歩しているかわかります。このときに大事なのは、最初から無理していい成績を取らないということです。(笑)
今、言葉の森でも、速読の問題をやっていますが、最初に無理して高得点を取った子は、グラフがなかなか上向きになりません。普通に読んでいれば、自然にグラフは右肩上がりになるものです。
単調な勉強であっても、それが実際に成果と結び付いているということがわかれば、やる気が出てきます。そして、もっと大事なことは、読書には、もともと人をひきつける力がありますから、この問題集読書は、実は途中から楽しい勉強になる可能性があるということです。
これも、私のうちの子供の話ですが、子供のころは、勉強らしい勉強はほとんどしませんでしたが、読書だけはよくしました。我が家ではゲームの時間は1日15分と決まっていましたが、休みの日で雨が降っていて遊びに行けないときなどは、子供はゲームをしたがります。そういうときは、「よし、それじゃあ、読書を50ページしたらゲームをしていいよ」とか「読書を50ページしたら、どこかに遊びに行こう」などとよく言っていました。
子供は、勉強をするというのは嫌いですが、読書というのは半分遊びのようなものですから、気軽にします。そして、読書は力がついてくればくるほど、好きになってくるものです。問題集読書は、最初は難しく感じるかもしれませんが、途中からはエッセイ集でも読むような気軽な感覚で読めるようになってくると思います。しかも、読むたびに、次のテストで点数が上がるだろうという見込みがあるので、更にやる気が出てきます。
そして、このように問題集読書である程度力のついた生徒は、いつまでも勉強と読書の中間にあるような問題集読書に留まらせずに、積極的に本を読むような働きかけをしていきます。やはり1冊通して読む本の方が感動は深いからです。
以上が、新しい国語勉強法の概略です。
実は、この勉強法は、将来の作文検定と長文教材の関係として考えていたものです。つまり、教材をしっかり読んで力がつけば、それに応じて作文の力も自然につくという勉強の仕方です。作文検定は、まだこれから普及するものなので、とりあえず、言葉の森で読解プラス作文という形の勉強法に取り組んでいきたいと思っています。
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国語力は、勉強によって身につくものではなく、生活によって身につくものだというのが私の考えです。特に、小学生の国語力は、その子の家庭環境が大きく物を言います。国語の得意な子に共通しているのは、小さいころに読み聞かせをよくしてもらった、本をよく読んでいる、家族の中での対話が豊富、などです。
私が自信を持ってこう言えるのは、私自身国語が得意で、私の子供も国語が得意だったからです。厳密に言うと、国語「だけ」が得意だったのです。(笑)
私は、勉強というものは、やる気になればいつからでもできるものだという考えを持っていました。私自身がそうで、本気で勉強をしたのは大学を卒業してからです。それまでは、大学入試のときも、今考えるとかなり適当な勉強の仕方をしていました。高3の夏休みなどは、野島海岸という近くの海で日光浴をしながら参考書を読み、熱くなると海に入って泳いでまた勉強をするという優雅な受験生活でした。当時、一日の勉強時間の目標を5時間と決めてグラフをつけながら勉強していましたが、平均すると4時間ぐらいがやっとでした。もちろん当時は予備校などないので、自宅か海岸での勉強です。
そんな私が、25歳ごろ猛勉強をしました。勉強というか読書です。サルトル、ヘーゲル、マルクス、ケインズなど、世界史や日本史の教科書に出てくるような名前の人の本を片っ端から読みました。文字どおり、朝起きてから夜寝るまで読書をするような生活でした。
その経験から、人間はやる気になればやるのだから、やる気がまだ出ないときは楽しく暮らすのがいいいう考えを持つようになりました。
そこで、自分の子供にも、遊びと読書と対話を最優先、勉強はその次という考えをしました。それで、小学生のころの子供の成績は、国語ダントツ、算数平均以下という不思議な成績でした。中学生になると、国語はやはりダントツ、英語はよい方、数学は平均よりややよい程度になりました。
さすがに、中学3年生の受験期には、数学の弱さが気になり、夏休み中に数学の問題集3冊(中1・中2・中3用)を徹底して、できないところがなくなるまでやりました。1日6〜7時間勉強をしたと思います。私が高3のときにもできなかった時間です。(^^ゞすると、9月からは数学も一挙に得意科目に。(笑)やる気になればいつからでも追いつくということを実証しました。もちろん塾には行きませんでした。
これも私の持論ですが、勉強は基本的には自力でするもので、塾や予備校などに頼る必要はないと思っています。では、なぜ作文教室をやっているのかと言うと、作文というものは、音楽やスポーツに似ていて、自分で客観的な評価ができないからです。だから、言葉の森は、作文の苦手な子を指導するというよりも、作文の得意な子に更にレベルの高い文章を書かせるということを主な目標にしています。うち私の子供も、小1から高3までしっかり生徒でした。
さて、私の子供は高校のときも国語は超得意科目で、大学入試の過去問などもほぼ最高点の成績でしたから、国語だけは安心という状態で入試に臨みました。大学入試の英語は、かなりの割合で国語力に支えられているので、英語ももちろん得意です。
しかし、私は、大学入試までの国語力というのは、実は大したレベルではないと思っています。本当の国語力はやはり大学に入ってからどれだけ難しい本を読むかによって決まってきます。ですから、大学入試まで国語が得意だったというのは、自慢でも何でもありません。
さて、以上のような経験から、私は国語力というものは、勉強ではなく生活だということを確信しましたが、それをそのままほかの生徒にあてはめるわけきにはいきません。実際に、国語が苦手で言葉の森に来ている生徒もいるからです。そこで、今、長文音読、短文暗唱などの自習のほかに、新しい国語の勉強法というものを考えています。(つづく)]
[:ねこ:]
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[:にわとり:] 差のつきやすい数学
現在の受験勉強では、算数数学の得点力が合否に大きく影響します。これまで何人もの受験生を見てきた経験からの実感で、中学受験でも高校受験でも、数学の得意な生徒は実力以上の学校に進学する傾向があるようです。
これは、受験というものの特質から説明できます。受験の目的は、受験生の努力や能力の差ができるだけ大きく現われるようなかたちで受験生を評価することです。
数学は、他の教科と異なり、一つの問題を複数の知識の要素の組み合わせとして作ることができます。このために、一夜漬けや偶然のヤマなどに左右されずに、本人の実力を反映した成績になりやすいのです。また、複数の知識を組み合わせる問題を作れることから、成績は実力の累乗に比例するような曲線になります。社会などの単純な知識問題は実力と成績が比例するだけですが、数学の問題は実力の累乗に比例します。このことが、数学の学力は努力よりも能力によるものだという誤解を生む原因になっています。
数学の成績は努力の差を拡大して反映するので、受験の主要教科になっているのです。
[:ひよこ:] 社会に出てから本当に必要なのは国語力
しかし、実際の社会生活で数学の必要な場面は限られています。もちろん数学の基盤が必要な職業はありますが、それはそれほど多くはありません。普通の社会人にとって数学が必要なのは、数学的な発想ができるという程度までだと思います。数学的な発想とは、例えば、「宝くじは、はずれる確率の方が高いから買わない」というような発想です。これに対して、「もしかしたら当たるかもしれないという夢を買う」というのは、文学的発想です。どちらの発想もそれなりにいいところがあるとは思いますが。
国語の成績は、数学ほど大きな差にはなりません。中学受験や高校受験では、国語が苦手だという生徒もそれなりに得点を取れるからです。しかし、社会に出るころになると、国語の実力が次第に大きな差になってきます。国語も、数学と同じように、複数の要素を組み合わせて問題を作れる面があります。ただ、中学受験や高校受験の国語では、要素を組み合わせるほどレベルが高くないだけなのです。
社会に出てから必要なのは、情勢を読み取り、方針を立てる力です。これは、読解力と表現力そのものです。わかりやすい例で言えば、部下から複数の相反する提案があったときに、それらを理解し調整し、それぞれの部下に納得できる説明をするというような場面です。このときに、生きてくるのが言葉の広い意味での国語力なのです。
以前、会社での役職の高さと国語の成績が比例するという新聞社の調査結果がありました。こういう分野の調査は差しさわりが多いせいかあまりオープンになりませんが、実感としてうなずけるものがあります。
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漢字の学習について、時どき相談を受けます。「漢字が苦手なのですが、どうしたらいいのでしょうか」というものです。
漢字の「読み」の力は読書量に比例しています。「書き」の力は漢字書き取りの練習量に比例しています。ですから、身も蓋もない言い方ですが、漢字の書き取りが苦手なのは、書き取りの練習量が不足しているからです。^^;もちろん、部首の意味を理解するというようなコツで覚えやすくすることはできますが、書き取りの練習で大事なのは、やはり練習の量です。
「作文をパソコンで打つと漢字を覚えないのでは」という質問もよく受けます。これも、パソコンを使うか使わないかは、漢字の書き取り力にほとんど何も関係もありません。漢字の書き取り力に関係があるのは、漢字の書き取りの勉強をしているかどうかだけです。ただし、パソコンで書いていると、誤字をチェックできないというマイナスはあります。そこで、言葉の森では、小論文の受験をする生徒の場合、1〜3ヶ月前から手書きで書く練習に切り替えています。
漢字の書き取りで最も目立つ間違いは、小学4〜6年生で習う漢字を誤字のまま覚えているということです。本人が正しいと思って間違っている漢字ですから、実際に手書きで書いたものをほかの人に見てもらうまで気づかないということがよくあります。
例としては、
「捨てる」と「拾う」を間違える・「展」の字の左をはらう・「迎える」と「柳」を混同する・「達」の中を(幸)と書く・「返す」を(返えす)と書く・「費やす」を(費す)と書く・「複」を(しめすへん)で書く・「福」を(ころもへん)で書く・「絶対に」と「絶体絶命」を混同する・「暖」を(目へん)で書く・「暖かい」と「温かい」を間違える・「瞬」を(日へん)で書く・「幼」と「幻」を間違える・「熟」と「塾」を間違える・「勝」「難」の横棒を三本書く・「勝」の中を「刀」と書く・「倹」「剣」「検」「険」を混同する・「講義」を(講議)と書く
などです。
小学4〜6年生は、まだ勉強の自覚ができていない時期なので、書き方をしっかり覚えていないまま過ごしてしまうことも多いと思います。しかし、そのまま中学生・高校生になると、わざわざ小学生のときの漢字を勉強し直すという機会がないので、間違えた漢字を覚えたまま大学生・社会人になってしまうのです。
「学力再生」の陰山先生は、漢字の覚え方に新しい工夫をしています。それは、小学生がその学年の1年間で学ぶ漢字を全部4月中に習ってしまうというやり方です。教科書に新出漢字として出てくるつど教えていたのでは、学年の後半に教える漢字になるほど練習量が少なくなるというのがその理由です。
これをヒントに、家庭学習でも、その学年で習う漢字をすべて学年の最初に勉強してしまうということにすると、漢字学習の能率が上がると思います。
[:コーヒー:]
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>>「作文をパソコンで打つと漢字を覚えないのでは」と
>>いう質問もよく受けます。
質問です。 ことばの森の提出はパソコンでキーボードで(本人が)打ったものをメールで送信しても良いのでしょうか?
早速のお返事ありがとうございます。 3ついただいたのにお礼はまとめてひとつですみません。
もうひとつ質問しても良いでしょうか。
テキスト文書のコピペで送信し、
森リンが自動採点は面白いですね。
自動採点以外に、人間の先生による
コメントや電話アドバイスもいただけるのでしょうか。
人間の先生の方がメインです。(笑)
先生が毎週電話で説明して、講評を入れます。
しかし、子供は、人間の先生による評価とは別の意味で、森リンの評価に強い関心を持っています。
中には何十回も推敲して文章を書く子もいます。人間のアドバイスだけでは、なかなかこういうことは自分から進んではしないと思います。
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中学生の勉強は、内容的には難しくありませんが、それだけに勉強するコツのようなものが大事になってきます。
(1)家庭での勉強が基本
塾に行っている場合でも、成績の上がる子は宿題などの家庭学習をきちんとしている子です。中学生の勉強は、難しいものではありませんから、子供が自学自習で勉強をして、わからないところだけお母さんやお父さんに聞くやり方でも十分に勉強ができます。英語や数学などは学年が上がると確かに難問も出てきますが、お母さんが一緒に解答を見て考えればほとんどの問題は理解できるものです。また、お母さんが一緒に考えてもわからないような問題は、できなくてもいいと割り切って考えるといいと思います。
(2)模擬試験の活用
家庭で勉強ができるとは言っても、高校入試がある場合は、他の生徒と比較してどの程度の偏差値かということは把握しておく必要があります。公立学校の場合、建前上そういう模擬試験はできませんから、民間の模擬試験を探してときどき受けることになります。市販の公立高入試問題集などに、模擬試験の募集が載っています。
(3)過去問の活用
中3になったら、早めに過去問に取り組んでおく必要があります。塾でも過去問の勉強をしますが、スタートは大体遅すぎます。あまり早めに過去問の勉強をすると、塾での一斉指導がしにくくなるという事情があるためです。ですから、塾に通っている場合でも、家庭で過去問を先取りして勉強しておく必要があります。
(4)夏期講習や冬期講習に参加する
ふだんの勉強は自宅でもできますが、夏休みや冬休みなどの長い休みに自宅で長時間の勉強をするためには強い意志力が必要です。塾に入ると、みんなも一緒に勉強をしているので、長時間の勉強も苦になりません。自宅で長時間勉強する自信がない人は、夏休みや冬休みだけは塾の講習に参加しておくといいと思います。
(5)勉強の中心は教科書と教科書準拠教材
公立高校の場合、出題範囲は教科書からです。数学以外のどの教科も、教科書をしっかりマスターしていれば充分です。問題集も参考書も教科書に準拠したものを選んでおくのが能率のよい勉強をするコツです。
(6)参考書や問題集はじっくり選ぶ
参考書や問題集の種類を途中で変更すると、能率が落ちます。同じ参考書や問題集を3年間使うようにするのが理想です。そのためには、最初の参考書・問題集選びにじっくり時間をかける必要があります。
(7)毎日の勉強は英語と数学と読書
ふだんの勉強は、英語の教科書を暗唱することと数学の問題集を解くことと読書になります。読書は直接、受験勉強に役立つものではありませんが、中学生時代に読書の習慣が途絶えてしまう生徒が多いので、教科の勉強と同じ重要さで家庭での学習に位置づけておく必要があります。理科、社会、国語などの教科の勉強は、ふだんの授業をしっかり聞いて、あとは定期試験前に集中して取り組めば十分です。
(8)数学だけは教科書よりも難問の問題集で
数学だけは、教科書準拠で勉強していると力がつきません。教科書レベルの問題は基礎的な事柄ばかりですから、だれでもできますし、入試には不十分です。また、数学という教科のおもしろさは、難問を解くことにあります。教科書準拠とは別に、国私立高の入試問題が一部に載っているような問題集を準備して勉強する必要があります。
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