昨日、子供の勉強のさせ方についての面白い動画を見つけました。(家庭学習のFacebookグループでも紹介しましたが)
▽「勉強って楽しい」と思える子に育つ、とっておきの方法を教えます
https://www.youtube.com/watch?v=PHTU6M3Ut34
ここに描かれていることは、本当によくあります。
お母さん方が、よい勉強のさせ方だと思ってやっていることが、実は正反対の勘違いだったというケースが実に多いのです。
作文の勉強に関して言えば、その一つの極めてよくある勘違いが、子供に自分だけの力で書かせようとすることです。
例えば、わからない漢字があったら、子供に自分で辞書で調べさせるというようなやり方です。
親がその場で優しく教えてやれば済むことを、わざわざ面倒なやり方で子供に負担をかけるような勉強のさせ方をしてしまうのです。
この結果どうなるかというと、子供に実力がつくどころか、次第にに面倒なことは親に聞かずに黙って済ませるというふうになってしまうのです。
ちなみに、自分で辞書を引くというのは、作文の勉強の中でやらずに、辞書を引く練習そのものとしてやって慣れておくことです。
もし、作文の中でやるとしたら、子供に辞書を引かせるよりも、親が自分が興味を持って辞書を引くという姿を見せることです。
親のそういう姿を見ていると、子供は自然に辞書を引こうと思うようになります。
勉強は、子供の力だけでやらせようと思わずに、少しでも困っているところが見えたら、親はすぐ手助けをしてあげることです。
しかし、こういうことは文章で書かれているだけでは実感としてわからないので、なかなか習慣を変えることは難しいようです。
そこで、今考えているのは、やはりオンラインの懇談会や面談を通して話をしていくということです。
勘違いの勉強のさせ方をしないためにも、親と先生のコミュニケーションをもっととっていくようにしたいと思っています。
なお、この動画を見つけたのは、小4の9月の作文課題「好きな勉強」の構想図を思考発表クラブ書いてもらうのに、参考になるものをyoutubeで探していたからです。
こういう動画を親子で見て話し合うと、家族でいろいろ面白い対話ができると思います。
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よく、「親に教えてもらっていたら、いつまでたっても自分でできるようにならない」と言う人がいますが、そういうことはありません。
なぜなら、子供は、というか人間は、人に教えてもらうより自分でやってみたいと思っているからです。
自分でやるのは、自信がついてからです。
だから、子供が自信を持てるようになるまで、何度でも優しく教えてあげればいいのです。
実は、上の子には、親は結構厳しくなりがちです。
しかし、下の子には、どうでもよくなるせいか(笑)、かなり甘くなります。
勉強面では、厳しく育てた子の方ができるようになることが多いのですが、先に行って社会人になるころには、そういう勉強面での差というのはどうでもよくなって、その子のトータルな実力が出てくるようになります。
だから、小さいころからそんなに厳しくやる必要はないのです。
ということを、年をとってからみんな気がつくのです(笑)。
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子供の勉強のスタイルは、小学校1、2年生のころに作られます。
そのころは、どういう勉強法でも差は出ませんから誰も何も問題に感じません。
しかし、学年が上がるにつれて、小学校低学年のときに作られた勉強スタイルが響いてきます。
真面目なお母さんによくある勉強のさせ方で、細かい間違いをすぐに注意してしまうということがあります。
子供が作文を書いているときに、まちがった書き方をするとすぐに注意してしまうのです。
その結果、子供はしっかりした正しい書き方を身につけるかというと、そうではありません。
すぐに親に便り、親に聞くような子になっていくのです。
自分の力で書いて間違いを注意されるよりも、親に聞いてそのとおりに書いておけば心配は要りません。
親がつきっきりで作文を見てやらないと書けないという子は、意外とそういうところに原因があります。
そういう子は、学年が上がるとどうなるかというと、今度は逆にわからないことがあっても親に聞かない子になっていきます。
そして、音読の宿題なども、親から離れてやるようになります。
その結果、間違いがいつまでも残るような勉強をする子になってしまうのです。
では、間違いがあったらどうしたらいいかというと、それはその場では注意しないのです。
その代わり、次回に作文を書くときに、書く前の事前のアドバイスとして気をつけて書くところを話します。
それも、いくつも言わずにたったひとつだけに絞っておきます。
そうすれば、子供はそれを守って書くことができます。
そして、作文がそのとおりに書けたら、今度はたっぷり褒めてあげればいいのです。
間違いは注意して直すのではなく、褒めて直すものなのです。
◆◆褒めて育てる作文指導で作文も国語も好きになる――言葉の森◆◆
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いい勉強のさせ方の基本は、実は単純です。自分が子供だったらどう思うかということを想像してやっていけばいいのです。
朝から晩まで難しい問題集でたっぷり勉強したいなどという子はひとりもいません。
子供は、勉強でも遊びでも、何しろ楽しくやっていきたいのです。
あと、勘違いの勉強のさせ方でよくあるのが、「自分で調べなさい」「自分で考えなさい」と、自分の力でやらせようとすることです。
勉強は、親がどんどん手助けをして楽にやらせるのがいいのです。
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小学校低学年のうちにお母さんの言うことを聞いて、しっかり勉強するとてもよい子だった子供が、小学4年生になるとお母さんの言うことに次第に反発するようになります。
同時に、小学4年生から算数の問題がほんの少し難しくなります。
本格的に算数が難しくなるのは小学5年生からですが、小学4年生のうちも、少し分かりにくい単元があるのです。
そこでお母さんがそれまでの小学校低学年のうちの勉強の教え方と同じように教えようとすると、子供がなぜかなかなか言うことを聞かなくなるという場面に遭遇することがあります。
それは実は、子供の自立心の表れなのです。
もしこの時期にそれまでと同じように素直にお母さんの言うことを聞いているような子は、その後かえって成長のバランスが崩れる可能性があります。
人間はロボットではないので、必ず自分自身の力で判断し、自分の力で成功したり失敗したりしたいと思うものなのです。
この時期の親の対応は、親子の関係だけでなく友達との関係を生かしながら子の勉強を見ていくことにあります。
言葉の森の思考発表クラブなどを見ていても、小学校4年生あたりから友達との関係が学ぶ意欲の源泉になっている印象を受けます。
子供は親の言うことが聞かなくなっても、友達の言葉には素直に反応するのです。
子供は、それまでの狭い親子関係から、親も含めたより大きな人間関係に移ることによって自分の自立する空間を広げていきます。
反抗期ということで考えると親は焦ることもありますが、自立実の時期だと考えればもっと大きな目で見ることができます。
それまでの、親のとってのいい子から、自立したひとりの人間としていい子になっていくのです。
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反抗期自体は誰にもあるので何も問題はないのですが、反抗期が激しいのは、子育てに熱心なお母さんの、それまでの素直だったいい子に特にあるので、それで大きな問題のように感じてしまうのです。
しかし、親に反抗するパワーがなければ、あるいは親のパワーの方が強すぎれば、その方が子供にとてあとでもっと大きな問題になっていきます。
親が発想を切り換えさえすれば、反抗期は、お赤飯でお祝いしてもいいぐらいのことなのです。
動物の世界では、いつまでも甘えようとする子供を、親が突き放す時期があります。
人間の場合は、親がいつまでも保護しようとするのを、子供が反発する時期があります。
それだけ、人間は人工的な環境で暮らしています。
だから、反抗期は、子供が自然の環境に戻ろうとする意欲の現れなのです。
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映像技術の発達によって、学習内容を画像や映像や図解でわかりやすく説明することが多くなってきました。
タブレットを使った授業などでも、主に映像を見て複雑な事象を理解するというような使われ方がよくされているようです。
わかりにくいことをわかりやすく理解するという点で、図解や映像による説明は効果的です。
言葉で説明すると複雑になることでも、図や絵で示せば一目でわかるという例は身の回りにも数多くあります。
しかし、ここに映像による理解の弱点もまたあるのです。
それはなぜかというと、映像というものは完全な形として現れるので、それをそのまま事実として受け入れるというような理解の仕方になるからです。
映像ではなく文章で同じことを説明しようとすると、その結論に至るまでの理由や背景や原因を述べなければなりません。
比喩的に言えば、映像が身体の表面の皮膚の様子を映し出すのに対して、文章はその表面を形作る内部の筋肉や骨格も合わせて説明する必要があるというようなことです。
例えば、夕焼けがなぜ赤く見えるのかということを映像で説明しようとすれば、太陽の光の中で波長の長い赤い光が途中の空気中の微粒子との衝突をくぐり抜けて遠くにいる人の目まで届くというような映像になるでしょう。
すると、あたかもその映像で一目瞭然のように、夕焼けが赤く見える現象が理解できるような気がするのです。
そこには、ほとんどの場合、何の疑問もわきません。
ところが、文章で、「光の波長の長さが」というような説明すれば、その「波長」という言葉自体が新たな説明を要する多様な広がりを持ってくるので、現象を理解をするために様々な言葉の理解をする必要が出てきます。
すると、例えば「波長」という言葉で表していたものが、実は別の言葉でも表せるのではないかというような疑問や発見が生まれることがあるのです。
文章を読むということは、この多様な言葉の組み合わせを目で読みなぞりながら自分なりに理解することです。
これが、思考するということです。
ですから、ある勉強を完成されたものとして理解させるために映像を使うのであれば、それは効果的なことです。
しかし、子供に自分自身で考える力をつけるためには、分かりやすい映像の理解ではなく文章を通しての理解をさせる必要があります。
説明文の読書が考える力を育てるというのは、こういう事情があるからなのです。
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映像型の学習のわかりやすさは、考えなくてもいいという意味のわかりやすさです。
だから、理解のための学習か、思考のための学習かを使い分けていく必要があります。
そして、子供時代はできるだけ思考力を育てることを優先させていくといいのです。
それが、難しい文章を苦労して読むということです。
知識の理解というのは材料で、その材料を結びつけるのが思考です。
今は、知識はどこからでも手に入るので、「辞書のような人間になるのではなく、辞書を使える人間になれ」という方向の学力がこれからますます必要になるのだと思います。
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小学校の低学年のころは、学校で日記の宿題が出されることがあります。
これは、文章を書くことに慣れるという意味で効果のある宿題です。
しかし、家庭ではこの日記の宿題に悩むことも多いのです。
その理由は、第一に、書くことが見つからないときは、子供が日記を書くのに苦労するということがあります。
第二に、正しい書き方ができないので、子供が書くことを嫌がるという場合もあります。
第三に、毎日日記を書くということに張り合いがもてないので、いい加減なやっつけ仕事になってしまうことがあるということもあります。
日記の宿題は、書き慣れるというよい面もありますが、ただ書くだけでは国語力をつけるのにはあまり役立ちません。
これを次のように使うとよいのです。
まず日記を書くことを、親子の対話のひとつとして行うということです。
お父さんでもお母さんでもよいのですが、子供とその日にあったことや思ったことを話すときに、親が構想図をメモしながら聞いてあげるのです。
そして、余裕があれば、そこに作文の表現項目である「たとえ」を入れたり「声顔動作の様子」を入れたり、「どうしてかというと」という理由を入れたり、「自分なりに考えたこと」を入れたり、「□○□○」という擬声語擬態語を入れたり、「ダジャレ」を入れたりして、その出来事の内容を深めていきます。
この対話によって、子どもの語彙力と思考力が育ちます。
そして、親の書いた構造図を参考に子供が日記を書けば、正しい表記の仕方も自然に身につけることができます。
親子で構造図を書きながら対話する時間は、大体10分程度です。
10分も話していると、A4サイズ1枚の紙が構想図のメモで埋まります。
このような対話を、日記の宿題をきっかけに毎日行うことができれば、親も子供も楽しく宿題をこなし、しかも子供の国語力は向上するのです。
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宿題を、やらなければならない義務のように考えると負担を感じます。
そうではなくて、親子の楽しい対話のきっかけとして使っていくのです。
特に、日記の宿題などは、親子の言葉遊びとして活用できると思います。
小学生の国語力は、勉強として行うものではありません。
だから、国語のドリルなどをやっても、国語力はつきません。
国語力は、勉強としてではなく、家庭における言葉の生活として育てていくのです。
もし勉強的にやるとしても、それは読書や暗唱のような毎日気軽にできる習慣として行っていくものです。
日記の宿題も、親子の対話のきっかけとして活用していけばいいのです。
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小学生のころにたくさん本を読んでいた生徒が、中学生になるとパタリと本を読まなくなることがあります。
これには、いろいろな理由が考えられます。
一つは、学校で読書指導というものをしなくなるからということがあります。
もう一つは、中学生は部活や定期テストでそれなりに忙しくなるからということもあります。
また、ネットの情報で文章を読むことが多くなるので、その分読書から遠ざかるということもあるでしょう。
しかし、いちばん大きい原因は、中学生になっても読み続けたくなるような魅力的な本があることを知らないからだということがあると思います。
小学生のころに、本をよく読む子の多くは、物語の本を読んでいます。
その物語の本も、古典的な名作から現代的な学校生活を描いたものまで幅広くあります。
親は、子供が本をよく読んでいるからいいと思い、子供も自分は本をよく読んでいると思っていても、その本の内容が軽い物語文の本に限定されている場合も多いのです。
すると、中学生になって学校の勉強などが忙しくなると、子供心にも、軽い物語の本を読んでいる暇があったら勉強をしたいと思うような場面も出てきます。
中学生になっても本を読み続ける子は、もちろん物語文の本も読みます。
しかし、それとともに、理科や社会や人生などの説明文的な本も読むようになっていることが多いのです。
この説明文の本の面白さを知ると、勉強が忙しいときでも読書を続けたいと思うようになります。
今、高校生の読書率が低下しています。
小学生の読書率が上がっているのに対して、高校生の読書率が下がっているのは、小学校時代の読書が中学生、高校生の読書に結びつくようなものになっていないからではないかと思います。
小学校高学年から中学生高校生にかけて子供の心を引きつけるような説明文の本は実はあまり多くありません。
図書館などを利用して、その子が興味が持てるような説明文の本を小学校高学年から探していけるとよいと思います。
【参考資料】第62回学校読書調査
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不読率、高校生で深刻
書籍の不読率(1カ月間に本を1冊も読まなかった割合)は小学生4%、中学生15%、高校生57%だった。小中学生が2015年の前回調査からほぼ横ばいだったのに対し、高校生は前回比5ポイント増。小学生では02年から1桁台が続いており、多くの小学校で導入されている朝の読書運動が奏功しているようだ。しかし、進学するにつれ「読書離れ」が深刻になっている。
1カ月の平均読書量は小中学校で1990年代後半から増加傾向にある。今回調査では小学生11・4冊、中学生4・2冊に上り、過去の調査と並び最多だった。高校生の平均読書量は1・4冊にとどまり、68年以降、2冊未満が続いている。
(毎日新聞2016年10月27日より)
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読書というのは習慣的なものなので、何日か読まない日が続くと、そのまま読書から離れてしまうことがあります。
また、物語文の本を一気に読めますが、説明文の本は途中で読むのをやめると、新たに読み出すのが億劫になることがあります。
子供の読書習慣を続けさせるには、原則として毎日読む、付箋読書という方法を利用する、読書以外の問題集読書も組み合わせる、というようなことをしていくといいと思います。
この読書力が、そのまま作文力の土台になってくるのです。
今、タブレットなどを使い、映像でわかりやすく理解させる学習方法がありますが、映像というのは理解を助ける代わりに、考える力を必要としなくさせる働きがあるのです。
なぜそうなのかということを、明日書く予定です。
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今年の4月から森林プロジェクトにお問い合わせいただいた方に、「読書感想文の書き方」の小冊子をお送りしましたが、その中に多数の誤字と文字化けがあったようです。
これは、もともとのテキスト原稿を変換する過程でそうなったものです。
誠に申し訳ありませんでした。
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昔は塩といえば、NaClという塩化ナトリウムで間に合わせればよいという考えがありました。
塩というものの要素を抽象化して、単純な元素の組み合わせとして管理すれば利用しやすいと考えたのです。
ところが、実際の海水に含まれている塩にはNaCl以外のさまざま4な元素が含まれています。
そして、実はその微妙な元素の方に重要な働きがあるということが分かってきたのです。
子供の成長についても、似たようなことが言えます。
昔の子供の環境は、両親や先生だけでなく、兄弟や、祖父母や、近所のおじさんおばさんや、友達や、友達の中でも年齢の上の子、下の子、自分が特に好きな子、嫌いな子などが多様な人間関係の環境を形成していました。
そこで子供たちは、バランスよく成長していたのです。
現在は、少子化と核家族化の中で、子供はかなり単純な人間関係の中で暮らしているように見えます。
このような単純化された、ある意味で人工的な環境の中で教育が行われると、子供の内発的な動機が正しく成長しないことがあるのです。
例えば、子供は何かを学んだり遊んだりしているときに、自分なりにさまざまな工夫をして失敗や成功を経験します。
その試行錯誤の経験の中で、困難を乗り越えてうまくできたというのが、子供の創造の喜びになり向上の喜びになります。
そういう内側からの喜びを成長の糧として、子供は大きくなっていくのです。
しかし、もしここに親や先生から評価されるという要素が加わると、本来の喜びが評価される喜びに切り替わってしまうことがあります。
勉強で何かを成し遂げたときに本当は成し遂げたこと自体が喜びであるのに、親や先生に褒められると、それが褒められた喜びに還元されてしまうということが起きてくるのです。
もちろんこれが子供の多様な環境の中で行われるのでしたら、褒められる喜びというものは一つの価値ある喜びになります。
しかし、人工的な単純化された環境で、評価がある一つの方向から繰り返し行われると、子供の喜び自体が評価される喜びに単純化されていってしまうのです。
大人になって自分の本当にしたいことがよく分からないというようなケースは、この評価の喜びが単純化された環境の中で与えられすぎたからという面があるのではないかと思います。
ではどうしたらよいかというと、子供が何かに熱中しているときは、それを褒めもせず止めもせず、その子のありのままの姿として温かく見守ってあげることなのです。
その熱中したことが全く無駄で無意味なことのように見えても、熱中すること自体が子供の成長にとって価値あることだと考えることです。
また逆に、その熱中していることが親や先生の望むことであっても、それを特に褒めるようなことはむしろ抑えて、その熱中そのものをただ見守ることが重要なのです。
昔の子供は、親や先生の目の届かない自然な環境の中で過ごす時間が豊富にありました。
今は、こういう自然の環境になるべく近い子育てをしていくことが必要になってきているのだと思います。
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やり遂げた喜びの裏側には、失敗した悔しさがあり、その両方が子供の内発的な動機を成長させます。
無駄な失敗の遠回りはしないようにうまく教えて、それができたら褒めるということをし過ぎると、それはかえって子供の内側の喜びを評価される喜びに切り換えてしまいます。
昔、こういうことをわざわざ考えなくてもよかったのは、子供を取り巻く環境は自然で多様性に富んでいたからです。
これからの子育ては、できるだけこの自然環境に近い状態を作っていくことになると思います。
子供をていねいに育てることは大事ですが、最近はそれと同時にたくましく育てることも大事だと思うようになりました。
しかし、この両立はなかなか難しいのです。
それは、子供をいい子に育てるとともに、少し悪い子にも育てるということだからです(笑)。
それを自然に行うのが、多様な人間関係の中で過ごす時間を作ることだと思います。
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